狛恋
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▼蜘蛛の巣
狛治さんがこの家に来てから見なくなった蜘蛛の巣ができていたから、払おうとしただけなのに。
「今度からは言ってください」
「でも、そのくらいできるかなって思ったの」
「……でしたら、僕がいる時に一緒にやりましょう。そうしたら急にめまいがしても、受け止められるから」
「ごめんなさい、そんなことすらできなくて」
「……恋雪さんが、ふせたままだったのに、起き上がれる時間が長くなって来ているんです。だから大丈夫。ゆっくりで」
「少しくらい無理しないと、私、何もできないままおばあさんになってしまう」
「できないことより、できたことを見ていきませんか? 先日は一人で風呂に入れましたよ」
「そうだけど……そんなこと、みんな当たり前にできるわ」
「みんなが当たり前にできることの範囲はそれぞれ違うと思うんです。どうです。俺は恋雪さんほど気が長くないけど、俺は少し身体が強い。師範は色々と強いけど、ちょっと大雑把」
私のことを傷つけないように、言葉を選んで懸命に伝えようとしてくれる。そのいじらしい気遣いがどれほどうれしいか。
このまま床に伏せって、ろくに幸せを味わうことなく、なんのために生まれてきたのかわからないと泣きながら死に逝くのだとばかり思っていたから、このあたたかさに涙が滲んでくる。
「狛治さんは、優しいわ」
「なんです、急に」
「狛治さんができることは私はよく見えるけど、私ができることは全然見えない。狛治さんに言われてやっとわかったわ。そういうものなのかもしれない。自分ができることって、他人からはよく見えるのかも」
「そうですよ。恋雪さんは気が強い相手を怒らせずにお話しできます。隣の剣術道場の女将さんと和やかにお話できるの、恋雪さんだけですよ」
「おばさまは……おばさま自身がお優しいのよ」
「俺は恋雪さんが優しいと思う」
「みんながみんな、他の人の優しさに気づいてて、すてきね」
「そうですね」
お母さんが入水してしまった時、私も連れて逝って欲しかったと願った。けれど、こうして生きていたことでこんなに幸せだ。
生きていればいいこともある、なんて苦しい時は全く賛成できなかったけど、今はどういうことだか理解できる。
生きていれば、いいことがあった。この、いことがあった、という実感が生きる希望を奮い立たせる。生まれてからずっと辛いと、いつか幸せになる、なんて信じられなかったから、近いうちにお父さんに謝らないと。私でもこんなに幸せになれるって知らなかった時には、当たってしまうことがあったから。
▼おめかし
鈍い緑色の紅の表面を薬指で撫で、薄く唇にのせた。それだけで血色がよく見えて、顔がぱっと明るく見える。健康そうに見える。
鏡の前で口の端を吊り上げてみた。なんだか明るくて元気そうだ。
自分の顔は、青白いか土色かで、ちっとも好きじゃなかった。顔立ち以前に、不健康なのが目に見えていた。
「狛治さん」
「はいはい、どうしたんです?」
「紅をのせてみたの」
「素敵ですよ」
「えへへ。祝言の日につけようと思って」
「楽しみです」
「私もよ」
そう言ってどちらからとも手を寄せあい、そっと握った。顔から火が出そうに熱いが、狛治さんも顔色からして同じ気持ちだ。
「は、狛治さん。顔真っ赤」
「恋雪さんこそ。出会った頃は青を通り越して土色だったのに」
「私にも色々あったのよ」
「そ、そうなんですか」
「そうなんだじゃないわ。狛治さんが……」
照れが抑えきれずに駆け出した。けれど情けないことにすぐに息が切れてかまどの前でへたり込んだ。
「恋雪さん、頭隠して尻隠さずですよ」
「隠れてるんじゃなくて……息が切れて……」
「横になります?」
「大丈夫……」
ひとしきりぜいぜいと荒れた息を整え、心配そうに覗き込む狛治さんを見上げた。
「幸せすぎて、ドキドキしちゃったわ」
「恋雪さんもですか」
まぶしい。
これからゆく先が、幸せとか充足とか、そう言ったもの意外になりようがないという確信がある。物心着く頃からずっと横になって空を眺めるか元気に産んであげられなくてごめんねと泣く母と、対照的に底抜けに明るい父の顔しか見てこなかったこともあって、楽しかったことは片手に収まるくらいだった。その分、今から始まるんだという予感に胸が震える。それをこのひとと迎えることができて本当にうれしい。
20251023
狛治さんがこの家に来てから見なくなった蜘蛛の巣ができていたから、払おうとしただけなのに。
「今度からは言ってください」
「でも、そのくらいできるかなって思ったの」
「……でしたら、僕がいる時に一緒にやりましょう。そうしたら急にめまいがしても、受け止められるから」
「ごめんなさい、そんなことすらできなくて」
「……恋雪さんが、ふせたままだったのに、起き上がれる時間が長くなって来ているんです。だから大丈夫。ゆっくりで」
「少しくらい無理しないと、私、何もできないままおばあさんになってしまう」
「できないことより、できたことを見ていきませんか? 先日は一人で風呂に入れましたよ」
「そうだけど……そんなこと、みんな当たり前にできるわ」
「みんなが当たり前にできることの範囲はそれぞれ違うと思うんです。どうです。俺は恋雪さんほど気が長くないけど、俺は少し身体が強い。師範は色々と強いけど、ちょっと大雑把」
私のことを傷つけないように、言葉を選んで懸命に伝えようとしてくれる。そのいじらしい気遣いがどれほどうれしいか。
このまま床に伏せって、ろくに幸せを味わうことなく、なんのために生まれてきたのかわからないと泣きながら死に逝くのだとばかり思っていたから、このあたたかさに涙が滲んでくる。
「狛治さんは、優しいわ」
「なんです、急に」
「狛治さんができることは私はよく見えるけど、私ができることは全然見えない。狛治さんに言われてやっとわかったわ。そういうものなのかもしれない。自分ができることって、他人からはよく見えるのかも」
「そうですよ。恋雪さんは気が強い相手を怒らせずにお話しできます。隣の剣術道場の女将さんと和やかにお話できるの、恋雪さんだけですよ」
「おばさまは……おばさま自身がお優しいのよ」
「俺は恋雪さんが優しいと思う」
「みんながみんな、他の人の優しさに気づいてて、すてきね」
「そうですね」
お母さんが入水してしまった時、私も連れて逝って欲しかったと願った。けれど、こうして生きていたことでこんなに幸せだ。
生きていればいいこともある、なんて苦しい時は全く賛成できなかったけど、今はどういうことだか理解できる。
生きていれば、いいことがあった。この、いことがあった、という実感が生きる希望を奮い立たせる。生まれてからずっと辛いと、いつか幸せになる、なんて信じられなかったから、近いうちにお父さんに謝らないと。私でもこんなに幸せになれるって知らなかった時には、当たってしまうことがあったから。
▼おめかし
鈍い緑色の紅の表面を薬指で撫で、薄く唇にのせた。それだけで血色がよく見えて、顔がぱっと明るく見える。健康そうに見える。
鏡の前で口の端を吊り上げてみた。なんだか明るくて元気そうだ。
自分の顔は、青白いか土色かで、ちっとも好きじゃなかった。顔立ち以前に、不健康なのが目に見えていた。
「狛治さん」
「はいはい、どうしたんです?」
「紅をのせてみたの」
「素敵ですよ」
「えへへ。祝言の日につけようと思って」
「楽しみです」
「私もよ」
そう言ってどちらからとも手を寄せあい、そっと握った。顔から火が出そうに熱いが、狛治さんも顔色からして同じ気持ちだ。
「は、狛治さん。顔真っ赤」
「恋雪さんこそ。出会った頃は青を通り越して土色だったのに」
「私にも色々あったのよ」
「そ、そうなんですか」
「そうなんだじゃないわ。狛治さんが……」
照れが抑えきれずに駆け出した。けれど情けないことにすぐに息が切れてかまどの前でへたり込んだ。
「恋雪さん、頭隠して尻隠さずですよ」
「隠れてるんじゃなくて……息が切れて……」
「横になります?」
「大丈夫……」
ひとしきりぜいぜいと荒れた息を整え、心配そうに覗き込む狛治さんを見上げた。
「幸せすぎて、ドキドキしちゃったわ」
「恋雪さんもですか」
まぶしい。
これからゆく先が、幸せとか充足とか、そう言ったもの意外になりようがないという確信がある。物心着く頃からずっと横になって空を眺めるか元気に産んであげられなくてごめんねと泣く母と、対照的に底抜けに明るい父の顔しか見てこなかったこともあって、楽しかったことは片手に収まるくらいだった。その分、今から始まるんだという予感に胸が震える。それをこのひとと迎えることができて本当にうれしい。
20251023