トガ茶
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トガヒミコが出所する。
喉の奥に何か重たいものを飲んだように、どこか苦しい感覚がじわりと満ちた。
トガヒミコ。私と同世代だったら知らない人はいないであろう、ヴィラン連合の中核を占めていた当時少女と報道されていたトガは私と同い年であれば二十五歳になっている。トガの家庭は何年も前に崩壊していると聞いているが、引き取り手はいるのだろうかと聞いてみた人皆が口々に言う。やめとけと。
「だめよ、お茶子ちゃん。トガを引き取ろうとしているんでしょう」
彼女の名前を冠す、梅雨のような雨続きだった。
梅雨ちゃんはその黒々としたひとみで私を見つめた後、でもお茶子ちゃんが選んだことなら私も助けになるわと呟いた。
「ありがとう梅雨ちゃん」
「緑谷ちゃんが亡くなってからお茶子ちゃんほんとうに元気がないもの。お茶子ちゃんが少しでも興味があるならやってみるといいわ」
でも、と梅雨ちゃんは続ける。
「トガを立ち直らせようだなんて思わないほうがいいわ」
梅雨ちゃんは、あなたが心配なのお茶子ちゃんと言って震える手で私の手を取った。他の人の手より大きな手で私の手をくるんで祈るように額に当てた。
「トガのことを立ち直らせるのは無理かもしれん。けども、私とトガにしか共有できない気持ちがあって」
「そう」
梅雨ちゃんは私を説得できないと悟ると深追いはせず、また会いましょうと言って伝票をさらっていった。前はおごってくれたからといって財布を開く梅雨ちゃんはもうすっかり大人の様子でいる。
誰が死んでもおかしくなかった、そしてたくさんの人が死んでいった戦いを終え、奇跡的に私たちは大人になり、こうして平和と呼ぶに程近い世界でゆっくりお茶する機会に恵まれている。ヒーロー業は以前より格段に暇になり、こうしてまるで年頃の女性のようなこともすることができている。
トガがいる女子刑務所の最寄り駅の改札で梅雨ちゃんと別れた。毎度別れる時はお互いに口には出さずとも胸に抱える気持ちがある。次会う時、冷たくなっていないだろうかと。
しとしとと雨が降る中、肩の線が合ってない白シャツとゆるい黒ズボン、そして最低限の荷物であろうものをまとめたナップサックだけの姿でトガは檻の外へと歩みを進めた。そこに久しぶりの外界に降り立ったことへの感動はなく、ただ地獄の延長線上にいると言った様子の表情だった。
長かった金髪は短く切り、頬はやつれてはいるが当時の眼光は健在だった。私は無意識のうちに震えていることに気づいた。
トガに私が身柄を引き取ることを打診したら特段考えることなく了承したというが、その真意もわからないままでいる。個性は薬で消してしまっているので以前のような活動はできないが、寝首をかかれてしまえばかつての同級生と冷たい私が対面することになってしまう。
トガにビニール傘を渡すと無言で受け取り、差した。呼んであったタクシーに乗り込み、スマホと家の鍵、当面のお小遣いを入れたピンク色の財布を渡した。
「私が刑務所にいる間、デクくんと結婚してたりして、なんて思っていたんですよ」
トガは茶化すように笑い、まずはお風呂に入りたいですと言った。
「トガは知らなかったね。明日一緒に行きたいところがあるんだ」
いぶかしげに私を覗きこんだトガは、数秒で興味を失ったらしく窓の外の雨粒を見ていた。
「ついたよ、スマホにうちの住所入れといたから」
「わ、お茶子ちゃんいい家住んでる」
逆にいうと家以外にお金を使う道がない、と言った方が正しいだろう。親に楽させようと走り続けた十年だったが、蓋を開けてみれば両親は子供の世話にはならないと突っぱねてしまった。私は誰のためにヒーローをやればいいのかわからなくなっていた。求めれば助けたが、求める絶対数がなくなれば、助けもいらなくなるのだった。
そうなると、急に死ぬのが怖くなった。
誰かのために死ぬ、世界のために戦うという行為にはアドレナリンがジャバジャバ出るんだと、今更ながら思い至った。なら、大人である先生たちが戦わない選択肢を提示して欲しかったような気がするけど、先生も雄英のヒーロー科。他人の人生のために生きていると先生自身も献身に身を浸しているために鈍感になるので示しようがないのだと思う。自分が歩んできていない道を示すことはできないんだ。
先生のせいにするのはよくない、自分で選んだ道だ、未成年に命をかけさせる選択をさせないでほしかった。他人のために死んでいたら満足だったろうか。
私には、葛藤だけが残され、気軽に相談できる仲間は全国に散り忙しくしている。私自身、ヒーローウラビティとしての仮面が自分で被ったはずなのに、外せないでいる。
アドレナリンが抜けた頭で、私は日々恐怖に震えている。こんなことになるなら、アドレナリンが効いているうちに死んでいたなら幸せだったかもしれない、という思考が頭をよぎるくらいには。
そんなギトギトした負の感情まみれの私がトガをなぜ引き取ったか。
ひとえに、新しい救う人を探していたのかもしれない。この人のために生きているという実感が欲しかったのかもしれない。そんな疑念渦巻く我が家に、トガは能天気な声をあげて家探ししている。こら、備蓄のカップラーメンを漁るな。トガ。
トガに与える予定だった部屋に通したら、刑務所並みに殺風景ですねと抜かした。
「これからトガがお金を貯めてステキな部屋にしてくんだよ」
落ち着いた柔らかいオレンジ色のカーテンをひらひらさせながら、トガは私があげたお小遣いを数えている。
「なるほど。そういうことですか」
トガはふむふむ、なんて言いながら毛足の短いラグを撫でている。お値段以上のお店でセットになっていた家具をそのまま買っただけだが、それだけはお気に召したようだ。
「トガは何か嫌いな食べ物ある?」
「ありましたけど、刑務所行ってからなくなりました」
「じゃあおうどんとサラダでいっか」
「わ、おうどん好きです」
「ならよかった。トガはビール飲む?」
「トガは未成年で入所して二十五で出所なので飲んだことありません。お茶子ちゃんのちょっとちょうだい」
「いいよ。夕食まで自由にしてていいから」
「はあい。お風呂借りたいです」
「ほんじゃお風呂洗っておいで」
「りょーかいです」
とたとたと足音をたてて風呂場に消えていったトガを見送り、ほっと一息ついた。怒りにまかせて暴れまわるということもなさそうだ。念のため、近隣に住むヒーローや事務所を構えるヒーローには連絡しておいたが、杞憂に終わりそうだ。
「お茶子ちゃん、わたしパジャマないです」
風呂場から顔を出してトガはいうと、おパンツもないです、靴下も、と細々とした要るものを数えて指を折って数えている。一応最低限は用意したつもりだったが、足りなかったようだ。ブラのサイズだってわからないし。
「と、思って……パンツとパジャマはユニクロで買っておきました。モコモコの靴下はトガの部屋のタンスに入ってるよ」
「……お茶子ちゃん、本当にわたしのことまっててくれたんですね」
もじもじとしているトガにパジャマを渡すとそんなことを言うので、そうだよと返した。
「わたしのこと待っていてくれた人、大切にしてくれた人、仁くんのほかにいないと思ってた」
「トガの人生長いからね。いろんな人がいるよ」
「……そうですか」
トガの表情は窺い知れなかったものの、声音は優しいものだった。ほどなくしてシャワーが床をたたく音が聞こえてきた。
「にがい」
ビールをひとなめ、トガは顔をしかめて舌を突き出して言った。
「味わうもんじゃないよ。喉越しだよ」
「これお茶子ちゃんが頑張って働いたお金を出すほど美味しいですか……?」
「そこまで言われると自信無くなっちゃうな」
トガは野菜も嫌いらしく、苦々しい顔をしながらどうにか胃に押し込んでいる様子だった。トガから私と同じにおいがするというのも不思議なもので、トガが短くなった髪を乾かしているところをぼんやり眺めた。髪を伸ばして結べるようになりたいという。話を聞くと、髪を切ったのは刑務所でのルールがあったので仕方なく切ったという。
「明日はどこに行くんですか?」
「内緒」
「えー、ケチ」
「ケチとかいうんじゃなくてさあ……」
「何着ていきます? 私あの刑務所出る時に着てた服しかなくて」
「あー、そうか……私のワンピなら入るかな」
「お茶子ちゃんのじゃ、お胸がちょっときついかも」
「あ゛?!!」
「わーい、怒ったあ」
トガの罠にしっかりハマってしまった。トガはうれしそうに飾りっけのないパジャマを着てくるくる回って踊っている。
冬の気配が日に日に強まっており、気が滅入る。だが、トガが熱心にスマホに向かっていたり、偽名でできるバイトを探そうとしているのを見るとなんとなくやる気になってくる。当面はコイツのぶんまで稼がないとという気持ちが湧いてくる。
「トガ。偽名って何にしてんの?」
「麗日日向です」
「……へー」
「トガはずっと日陰者でした。みんなに馬鹿にされて、ちがうって言われて。でもわたしだって日向を歩けます、歩きます。私は間違ってないもん……ってことで」
「そっか。まあ、いいや。トガはまだ目立つからマスクと帽子してくれる?」
「いいよ」
黒いバケットハットと黒いマスク。これでもう十分あやしいが、そうも言ってられない。
「どこに行くんですか」
「まず、花屋」
仏花を二束買って、一つをトガに持たせてもう一つは私が持った。ここでトガは何かを察したようで、ニヤリと笑みをたたえた。
「お茶子ちゃん、お墓参りですか?」
「そうだよ。今日は月命日だからね」
「誰のでしょう……トガのお母さんですかね?」
「……存命だと聞いてるよ」
「……ふうん」
トガの両親が本当の意味でトガを捨ててしまったのだとわかったのか、それからトガは無言で私についてきた。心のどこかで死んでいてほしいと思っていたのかもしれない。死んでいたなら自分に引き取りに来ない理由になるのだから。麗日日向、と名乗るにはあまりに仄暗い表情でトガはぽてぽてとついてくる。
「まだですか、お茶子ちゃん」
「もう少し。このもう少し上だよ」
はあはあと肩で息をするトガを励まして、上へ上へと目指す。私は花のほかに桶に水を汲んで持っている。日頃のトレーニングのおかげで平然としていられる。誰のお墓なんですか、とぶちぶち言いながらもトガは歩む。
緑谷家ノ墓。
その表示を見、そして墓誌に戒名ではなく生前の名前緑谷出久を認めたトガは墓の前に座り込み、なるほどとつぶやいた。
「お茶子ちゃんは、デクくんのお墓に連れてきたかったんですね」
トガは、あのにたりと笑う顔をどこかにしまってきたようで、神妙な顔をして墓標を見ている。
「私とトガだけが共有できる気持ちがあるよね。私はそれを一人で抱えすぎててさ……膿んじゃってる。だからトガにも……ここにきてほしくて」
「つらい気持ちを分かち合いたかった?」
「そ、そんなんじゃ……いや、そうかも……」
「いいんですよ。ここにはトガしかいません。ヒーローウラビディもいません。麗日お茶子と渡我被身子だけいます」
「…………トガは、デクくんが亡くなったって知ってどう?」
「どう? 私はデクくんに拒絶されています。失恋してるんです。なので昔の男みたいな感覚ですね。あー死んじゃったのかーとは思っても引きずらない」
「そっか……」
「お茶子ちゃんはデクくんに好きと言いましたか?」
「……いや私はデクくんに好きとかじゃなくて」
「お茶子ちゃんがそういうなら、それでもいいのですが」
トガはつまんなそうに短くなった金髪の毛先を指先に巻き付けて言った。本意でないかりそめの言葉を、ヒーローという他者を救うとかいう烏滸がましい職で積み重ねた見栄をまだ捨てきれないのかとさげすむような目で私を見る。
突き刺さるように吹く冷たい風がひゅうひゅうと音を立てているのを、ずいぶん長い間聞いていた気がする。学生時代から長いこと蓋をしていた思いを表出するのは信じられないくらい覚悟が要る。
「……好き、好きだったな……」
だった、と過去のものにしたのは、そうでもしないとさびしくて行き場がない気持ちが重たすぎてつらいから。いまでも好き言えないのはひとえに私がいくじなしだからだ。もうデクくんがいない世界で生きていくのがつらい。そう零してしまえたらどんなに楽か。けどヒーローウラビディと私はどんなに頑張っても切り離せなくて、麗日お茶子が苦しんで泣いていても、ヒーローウラビディはかわいくかっこよく強くあらねばならなかったのだった。
デクくんがただの青春の疵で、好き”だった”ひととして処理できていたらよかったのだけど、そうもいかなかった。私を含めて、人の気持ちだけはどうにもできない。
「傷は、膿を出してあげないといけないんですよ」
「知ってるよ……」
「お茶子ちゃんができないなら、トガがやってあげます」
トガは突然立ち上がり、私の鞄を遠慮なくあさると線香とライターを取り出し、火をつけた。私に半分分け、供えろという。いうとおりに備えると、トガは手を合わせた。
「デクくん。こんにちは。トガです。デクくんがいなくなってからもう五年も経ってたんだね。お茶子ちゃんはトガがもらうので、デクくんに会いに来るのはお盆の時だけです。それじゃ、お茶子ちゃんはわたしがいただいた!」
トガは言うだけいうと、お墓のてっぺんから桶で水をぶちまけて、私の手を取って走り出した。当たり前だけど、その前にいた私に思いっきりかかって、びしょびしょになった。
「ち、ちょっ、トガ」
「お姫様を攫うのは悪役のつとめです。デク王子からお茶子姫を攫うわるーいトガにお茶子ちゃんはなすすべなく攫われてしまうのでした。おしまい」
「勝手に初めて勝手に終わった!」
「うふふ、これからは悪役のトガとお姫様お茶子ちゃんのめくるめくほんわかライフなのであった」
「なにそれ、ふふ、ウケる」
「でしょ。……デクくんのこと忘れろとは言いません。でもデクくんは毎月マメにやってくるお茶子ちゃんのこと心配すると思います。死んだ僕のことを気にかけてくれるのはうれしいけど、お茶子ちゃんの人生を生きてほしいってデクくんならいうと思います」
「……トガとここに来れてよかった」
「そう?」
「うん。褒めてつかわす。帰りにケーキ買って帰ろう」
「わあい!」
短くなったトガの後髪の毛先がマフラーに埋もれている。マフラーもコートも服も買ってやらないといけない。となるとぼやぼやしてもいられない。
「今日はお買い物に行こうか。トガにもコートや下着がいるし、好みのシャンプーとかあるでしょ」
「そういうこと、大事にしてもいいのですか?」
「いいよ。大事にできなかった時期もあるけど、今からそうしていけばいいよね」
「うんっ! コートはAラインのコートがいいです。それに短い髪に合うヘアアクセがほしいし、ピアスもあけてみたいです」
「なんでもやったらいいよ」
「やったー!」
ショッピングモールを急いで探すトガのあとをついていく。行きに比べて足取りが軽いような気がする。ずっと曇り空だった雲間に光が差して、まるで私たちの門出を応援してくれているかのようだ。もしかしてデクくんが頑張れって言っているかもしれない。頑張れって感じの、デク。でもねデクくん。もう頑張らなくてもいいんだよって墓前で言ってあげればよかった。ずっと一生懸命で、ヒーローになりたかったデクくんが新しい出会いをくれた。今度は頑張れって感じの麗日お茶子かもしれない。もう少しだけ頑張ってみるよ、とお墓の方向を向いて一瞬手を合わせた。
「はーやーくー」
「はいはい」
降りた幕が再び上がり、私は舞台に立つ。今まで長いこと一人でいたけど、これからは二人だ。奇妙な縁だけど、大切にしたい。
◆
トガが言うものを全て買っていたら、二人で両手に持っても辛いぐらい買っていた。
「買ったねえ」
「そりゃあ、オトメの十年を取り返すのですから。このくらいは序の口です」
「これからはトガがバイトするんだよ」
「……トガは名前も顔も知られすぎています。きっとバイトなんて受かりません」
「それがそうでもない。トガが刑務所にいる間に法律が変わって犯罪加害者救済の仕組みができた。社会で支えていこうという感じよ。自宅できるシール貼りとか、そういう内職ならあるはず」
「ほお……お茶子ちゃんしばらく見ない間に大人になって」
「そりゃあ、まあ」
まだテラス席は寒いといったのに、外でと聞かなかったから外でコーヒーを飲んでいるが、そんなに悪いもんじゃない。冬特有の弱々しい日差しを浴びながらシャバの空気はうまいですなんていうトガと、正面に手錠なしで座る日がくるなんて想像もしていなかった。
「ああ、こうして自由に外を歩いて……ちょっと遠巻きに見られているけど、お茶子ちゃん、ヒーローウラビディが一緒だから危険はないだろうと、でも警戒を解かないみんなに見つめられるの悪くないですね。仁くんにもも見せたかった」
「分倍河原か」
「そう。知ってたのですか」
「まあね」
「みんな死んだか、まだ刑務所ですか」
「そうだね。むしろトガが早い方だったんだよ。内乱罪が重かったね」
「私が私として生きただけで、世の中を乱したと言いたいんですか」
「私個人の感情を抜きにして、法律はそう定義したって感じかな」
「なに、それ。私、お茶子ちゃんがどう思っているか知りたい。トガは、生きていてもいいのですか?」
私はこのトガの表情が苦手だ。私と同じ女であり、一度は同じ人に恋したはずなのにあまりにも異質。同じ人を好きなったくらいで同質であると認識する方がおかしいと思わせる地の底から這い出てきたような見えない泥で塗れた手で、私の手をとった。
「それはこの……ドトールのテラス席で言わないとダメ?」
「スタバでもいいですよ?」
「……よし、なんたらペチーノでもなんても飲むがいいわ」
「わーい! トガはフラペチーノにします」
「いいけど、寒くない?」
「ミニスカ履いているときは最強なんです」
「そうか〜私も十年前はそうだったな」
「そうやって、お茶子ちゃんは勝手に歳とっていくんですね」
「なんだそりゃ」
「トガだけが置いてきぼり見たいじゃないですか。雄英高校1Aだった人、結婚したりしました?」
「いやまだだね。お付き合いしている人はいるみたいだけど」
「寂しくないですか? 同じ環境で同じ志を抱いた人が自分とは違う人生を送るのは。トガを迎え入れてしまったら、まともな結婚なんて出来ませんよ」
「なんで」
「トガはどこにいっても……結局は……疫病神なのです」
「そ」
「下手な慰めはいりません。お茶子ちゃん、私のために人生メチャクチャにすることないです。トガがお金を貯めたら一人暮らしをします」
「トガがそうしたいなら、そうしてもいいけど私はトガを簡単な気持ちで引き取るっていってないよ。人生の伴走するつもりで引き取るっつった」
「プロポーズみたいですね」
「真面目に聞け〜っ!!!」
「お茶子ちゃんの真意も聞きたいです。トガは、生きていていいのですか?」
「それを私に決めてもらいたい?」
「はい。トガのことを大事にしてくれた人はみんないなくなっちゃいました。トガに価値を感じてくれているお茶子ちゃんに決めてもらいたいです」
「生きる価値かあ……」
「みんなが払った税金で生かされた身でこんなこと言うのも変かもしれませんけど、私はほんとに……私として生きただけなんです。それがおかしいことなら、生きていても仕方ないと思うのです」
あんなにギラギラとした目をして自分が生きにくいなら環境そのものを変えると息巻いていたトガの弱気な発言に、面食らってしまった。トガの口からまさか生きていても仕方ないという言葉が出るとは思ってもみなかった。自分を認めない周りが悪い、といった調子でいたトガが。こんなにも弱々しくみずからの価値を見失い、萎れた言葉をぽつぽつとこぼしている。
ネイルが少しはげたトガの爪先を指先でいじりながら、ぬるくなったコーヒーを呷る。トガは、黙って私の話を聞いている。そんな縋るような目をするような女だったか。
「……私も若かったし、戦闘時っていうことで考えまとめること出来てなかったから昔と違うこと言うかもだけど、私はトガに生きていてほしい。いや、寿命で死なないといけないと思う」
「どうして? トガに生きていてほしい人なんて少しもいないと思います」
「生きていてほしい人がいなくても、人は生きていくし、多数決で死ぬわけじゃないじゃん」
「だから、世の中のために死んだらいいのかって」
「トガ、どうしたの。そりゃあ、トガに殺された人はトガに死んでほしいと思うだろうけど、トガは法律に則って裁かれて刑期をまっとうした。それでいったん終わり。トガは新しい生き方を探さないといけない。生きている限りつぐないの気持ちを忘れない。それで十分じゃないかな」
「……できるでしょうか、私に」
「だから私がいるんじゃん」
「お茶子ちゃん……」
まるで迷子になった小さい子供が親を見つけた時の顔。暗い道を一人で歩き、やっと生きる道を見つけることができたのかもしれない。そんなの私の奢りだと思うけど、ここにきてからやっと毒気のない笑みを浮かべたので少しだけ安心した。
「トガヒミコだな」
「トガッ……離れて」
トガを突き飛ばすので精一杯だった、と刑事さんの調査にはそれだけしか答えられなかった。私が引き取るといった直後の、トガが殺した人の縁者の凶刃は、トガの命を大きく削りとっていった。
即死ではないが、長くは持たないという。病室で横たわるトガは、苦々しい表情の私の頬を引っ張ってみたり、こっそりピアスをあけてみたり、お化粧を楽しんだりと自由気ままだ。
「ほらやっぱり。トガは生きていてはいけないのです。トガ、という苗字は科、だったのです」
トガはなぜか喜ばしいといった風の口調で自らの存在を笑みを浮かべて否定した。あれだけ自分の形を世の中に押し通そうとしていたトガが、何度も自らの生を否定してみせる。意味はなかったと嘯く。
そんなトガに腹の傷を見せた。
以前、ファンと名乗った女性に刺された傷と説明すると、トガはにんまりと笑って言った。
「トガと同じ、好きの形がほかの人たちと違うひとがやったんですね」
「そう、だからその人を否定しないためにも、私はトガの生を否定しない」
「なーんだ、もっと早く言ってくれればよかったのに」
「自分のミスを見つめたくなかっただけだよ」
「刺した人が悪いのに、お茶子ちゃんのミスですか?」
「あっちは一般人だよ」
「それは驕りです。まるで自分が神様みたいに一段上から話しますよね。ヒーローって。誰かを助けて感謝をされるって立場が人をおかしくするのだとトガは思いますよ。お茶子ちゃんのことを刺したやつが悪い。トガのことを刺したやつが悪い。それで話は終わりです」
「そうかな…… 私、気づかないうちに偉そうだった?」
「お茶子ちゃんのせいじゃありません。ヨノナカがおかしいんです。たまたま運良く……悪く? “使える“個性に生まれついてしまったばっかりに滅私奉公を強いられているかわいそうな制度です。好きなものを好きでいい、嫌いなものを好きでいいんです。だから自分のこと刺した奴のこと否定しないなんてカッコつけいらないんです」
「……本当は痛くて、怖かった。自分が助けた人が自分を好きになって刺してくるなんて自分に起こるとは思わなかった。ホークスさんジーニストさんとかはめちゃくちゃ刺され未遂あるみたいだけど、まさか自分がって、さ……」
「それでいいんです。トガの前では、ヒーローウラビディはしまってから来てください」
「そうだね……わかった。トガを元気付けけようとしたら、逆に励まされちゃった」
「いいんです。そんな感じで。トガも死んだらいいかもって気持ち薄まりましたから」
それからしばらく、トガの病室に通う日々が続いた。貸し漫画屋さんからあれを借りてきてほしいだの、お手紙書きたいからレターセットとカァイイペンを買ってこいだの。自由に出歩けないとなったらこれだ。
「誰に手紙書いてるの?」
「ナイショです」
「えー、ケチ」
「ケチとかじゃないです」
トガは冬を超えて、夏に差し掛かる前に息を引き取った。満月に程近い深夜、個室の病室で私が買い与えたクロミちゃんのぬいぐるみを抱きしめたまま冷たくなっていたという。
私が着く頃には、顔に白い布を被せられてまるで死体のようだった。つい昨日の夕方、退院したらメロンパンの上だけ食べたいなどと言っていたトガが。職務上死に直面することは多かったし、特段動揺するようなこともないと思っていたが、病室に残されたトガの残滓をビニール袋に押し込んでいるうちに知らず知らず涙がこぼれた。トガも私を置いて逝ってしまった。デクくんだけじゃなく、トガまで。足元が昏く崩れ落ちて行くような錯覚と共に、私は床にへたりこんだ。
トガが書いたという手紙は、封筒にも入れておらず封もされてない、宛名だけが書いてある手紙が乱雑に束になっていた。手紙としてではなく、思ったことのメモにも使っていたようだった。
『お茶子ちゃんへ』
と書かれた手紙があるんじゃないかとと期待して探したら、くしゃくしゃになった用紙に数行走り書きが残されていた。
『もうダメみたい
今度はお茶子姫からわるい……わるいけど、カァイイトガがいなくなっちゃう。
デクくん王子はいないし、お茶子姫は泣き暮らすのでしょうか。かあいそうに。
でも、お茶子姫は生きなくてはなりません
トガに生きろと言ったのですから、自分で死ぬのはナシです⭐︎
人に生きることを目指させるというのは、そういうことでしょ!
渡我被身子』
「重たいなぁ……」
誰もいない病室で、呟きがこぼれた。誰が聞いているわけでもない、それでも呟くことしかできなかった。大声で泣いてしまいたかった。自分が押し付けたものと、これから背負っていくものの重さで今潰れてしまったらどんなにいいか。置いて逝かれる苦しみを二度味わうことになるとは思ってもみなかった。
デクくんの時ですら涙が少しだけ出た程度だったけど、やるせなさ、無力感に押しつぶされそうになる。
もともと大切なものを持っていなかったほうが失う苦しみを味合わなくて済むという考え方があるけど,少しだけ傾倒しそうになった。麗日お茶子は渡我被身子と一緒に死んだ。ヒーローウラビディだけが、私に残された。
葬式は、恨みをもった人の選別が難しいことや、トガの宗派が分からなかったことから行わなかった。一応、新聞のお悔やみ欄に載せてもらったけど当日は誰も来なかった。世界でトガのことを想っている人が一人だけなんて思いたくなかったけれど、事実だった。トガなら「独り占めですね」なんて言うんだろうけど。
トガの遺影を作る時、気づいたことがある。
トガの出所を期に私のスマホの写真データの中身が私と、それとトガで溢れていることに。
それまであまり写真に残す習慣がなかったことから、おいしそうなものを食べても先に手をつけてしまい撮らないことが多かったが、トガがやってきてからはなんてことない……ベーコンと目玉焼きとパンの朝食と、トガ。キムチ鍋と、トガ。パフェと、トガ。そんな写真がたくさん残されていた。
結局選びきれなくて、大きなコルクボードを買って何枚かを貼り付けた。遺影の前には、バラの香りのする線香と、季節の花。普通の香りの線香と菊の花なんて見たらトガは怒るだろうな、という考えがあってのことだ。小さな骨壷と、バカみたいにたくさんの遺影とプリクラ。ミスマッチだけど、なんだか可愛い。
手の先が冷たくなって、頭がじわじわと熱いあの喪失感とかいうやつをいつか乗りこなす日が来るのだろうか。そんなことを考えながら、しんしんと降り注ぐ日差しを浴びて揺れる冬のカーテンをやっと取り替えた。トガの趣味だったパステルグリーンのカーテン。トガのマグ、トガの箸、トガのランチョンマット、トガの靴下、トガの……トガが残したすべての残滓たちと私は生きていくことにした。それってトガの個性みたいじゃない。好きな人と一緒になっちゃうって。
トガが亡くなってから四度目の夏、私はデクくんの墓参りを元雄英1Aの有志でいくというので参加した。みんなめいめいに花を買っていったので、デクくんのお墓はお花でいっぱいになった。
対して、私が別の日に行ったトガの墓はいつも荒れている。墓石は汚れ、ゴミや燃やされた花でいっぱいになっている。それを掃除して、トガが好きそうな薔薇の花を供える。トガが好きそうなお香を焚いて、手を合わせる。トガと人生を走る予定だったのに、早々に置いていかれて。本当は好きな花や香りを聞いておきたかった。
トガには内緒。私以外にもここにきている人がいる。誰にも見つからないようにこっそりきている中年の女性。毎回、オレンジのガーベラを備えて帰るひとのこと、トガには内緒。
いまだにトガが使っていた部屋を処分できずにいる。今はトガが使っていたクロミちゃんとお揃いで買ったマイメロディを抱いて眠っている。黄泉の国で、トガもクロミちゃんを抱いて寝ているだろうか、なんて夢想する。
two hearts 完
====
お疲れ様でした。
明るさのないお話でしたがお楽しみいただけたでしょうか。喪失は悲しみだけど悲しみだって一色で塗れるほど単純な色合いをしていない、というのが今作のテーマです。
楽しんでいただけたら何よりです。
それでは
20220826
喉の奥に何か重たいものを飲んだように、どこか苦しい感覚がじわりと満ちた。
トガヒミコ。私と同世代だったら知らない人はいないであろう、ヴィラン連合の中核を占めていた当時少女と報道されていたトガは私と同い年であれば二十五歳になっている。トガの家庭は何年も前に崩壊していると聞いているが、引き取り手はいるのだろうかと聞いてみた人皆が口々に言う。やめとけと。
「だめよ、お茶子ちゃん。トガを引き取ろうとしているんでしょう」
彼女の名前を冠す、梅雨のような雨続きだった。
梅雨ちゃんはその黒々としたひとみで私を見つめた後、でもお茶子ちゃんが選んだことなら私も助けになるわと呟いた。
「ありがとう梅雨ちゃん」
「緑谷ちゃんが亡くなってからお茶子ちゃんほんとうに元気がないもの。お茶子ちゃんが少しでも興味があるならやってみるといいわ」
でも、と梅雨ちゃんは続ける。
「トガを立ち直らせようだなんて思わないほうがいいわ」
梅雨ちゃんは、あなたが心配なのお茶子ちゃんと言って震える手で私の手を取った。他の人の手より大きな手で私の手をくるんで祈るように額に当てた。
「トガのことを立ち直らせるのは無理かもしれん。けども、私とトガにしか共有できない気持ちがあって」
「そう」
梅雨ちゃんは私を説得できないと悟ると深追いはせず、また会いましょうと言って伝票をさらっていった。前はおごってくれたからといって財布を開く梅雨ちゃんはもうすっかり大人の様子でいる。
誰が死んでもおかしくなかった、そしてたくさんの人が死んでいった戦いを終え、奇跡的に私たちは大人になり、こうして平和と呼ぶに程近い世界でゆっくりお茶する機会に恵まれている。ヒーロー業は以前より格段に暇になり、こうしてまるで年頃の女性のようなこともすることができている。
トガがいる女子刑務所の最寄り駅の改札で梅雨ちゃんと別れた。毎度別れる時はお互いに口には出さずとも胸に抱える気持ちがある。次会う時、冷たくなっていないだろうかと。
しとしとと雨が降る中、肩の線が合ってない白シャツとゆるい黒ズボン、そして最低限の荷物であろうものをまとめたナップサックだけの姿でトガは檻の外へと歩みを進めた。そこに久しぶりの外界に降り立ったことへの感動はなく、ただ地獄の延長線上にいると言った様子の表情だった。
長かった金髪は短く切り、頬はやつれてはいるが当時の眼光は健在だった。私は無意識のうちに震えていることに気づいた。
トガに私が身柄を引き取ることを打診したら特段考えることなく了承したというが、その真意もわからないままでいる。個性は薬で消してしまっているので以前のような活動はできないが、寝首をかかれてしまえばかつての同級生と冷たい私が対面することになってしまう。
トガにビニール傘を渡すと無言で受け取り、差した。呼んであったタクシーに乗り込み、スマホと家の鍵、当面のお小遣いを入れたピンク色の財布を渡した。
「私が刑務所にいる間、デクくんと結婚してたりして、なんて思っていたんですよ」
トガは茶化すように笑い、まずはお風呂に入りたいですと言った。
「トガは知らなかったね。明日一緒に行きたいところがあるんだ」
いぶかしげに私を覗きこんだトガは、数秒で興味を失ったらしく窓の外の雨粒を見ていた。
「ついたよ、スマホにうちの住所入れといたから」
「わ、お茶子ちゃんいい家住んでる」
逆にいうと家以外にお金を使う道がない、と言った方が正しいだろう。親に楽させようと走り続けた十年だったが、蓋を開けてみれば両親は子供の世話にはならないと突っぱねてしまった。私は誰のためにヒーローをやればいいのかわからなくなっていた。求めれば助けたが、求める絶対数がなくなれば、助けもいらなくなるのだった。
そうなると、急に死ぬのが怖くなった。
誰かのために死ぬ、世界のために戦うという行為にはアドレナリンがジャバジャバ出るんだと、今更ながら思い至った。なら、大人である先生たちが戦わない選択肢を提示して欲しかったような気がするけど、先生も雄英のヒーロー科。他人の人生のために生きていると先生自身も献身に身を浸しているために鈍感になるので示しようがないのだと思う。自分が歩んできていない道を示すことはできないんだ。
先生のせいにするのはよくない、自分で選んだ道だ、未成年に命をかけさせる選択をさせないでほしかった。他人のために死んでいたら満足だったろうか。
私には、葛藤だけが残され、気軽に相談できる仲間は全国に散り忙しくしている。私自身、ヒーローウラビティとしての仮面が自分で被ったはずなのに、外せないでいる。
アドレナリンが抜けた頭で、私は日々恐怖に震えている。こんなことになるなら、アドレナリンが効いているうちに死んでいたなら幸せだったかもしれない、という思考が頭をよぎるくらいには。
そんなギトギトした負の感情まみれの私がトガをなぜ引き取ったか。
ひとえに、新しい救う人を探していたのかもしれない。この人のために生きているという実感が欲しかったのかもしれない。そんな疑念渦巻く我が家に、トガは能天気な声をあげて家探ししている。こら、備蓄のカップラーメンを漁るな。トガ。
トガに与える予定だった部屋に通したら、刑務所並みに殺風景ですねと抜かした。
「これからトガがお金を貯めてステキな部屋にしてくんだよ」
落ち着いた柔らかいオレンジ色のカーテンをひらひらさせながら、トガは私があげたお小遣いを数えている。
「なるほど。そういうことですか」
トガはふむふむ、なんて言いながら毛足の短いラグを撫でている。お値段以上のお店でセットになっていた家具をそのまま買っただけだが、それだけはお気に召したようだ。
「トガは何か嫌いな食べ物ある?」
「ありましたけど、刑務所行ってからなくなりました」
「じゃあおうどんとサラダでいっか」
「わ、おうどん好きです」
「ならよかった。トガはビール飲む?」
「トガは未成年で入所して二十五で出所なので飲んだことありません。お茶子ちゃんのちょっとちょうだい」
「いいよ。夕食まで自由にしてていいから」
「はあい。お風呂借りたいです」
「ほんじゃお風呂洗っておいで」
「りょーかいです」
とたとたと足音をたてて風呂場に消えていったトガを見送り、ほっと一息ついた。怒りにまかせて暴れまわるということもなさそうだ。念のため、近隣に住むヒーローや事務所を構えるヒーローには連絡しておいたが、杞憂に終わりそうだ。
「お茶子ちゃん、わたしパジャマないです」
風呂場から顔を出してトガはいうと、おパンツもないです、靴下も、と細々とした要るものを数えて指を折って数えている。一応最低限は用意したつもりだったが、足りなかったようだ。ブラのサイズだってわからないし。
「と、思って……パンツとパジャマはユニクロで買っておきました。モコモコの靴下はトガの部屋のタンスに入ってるよ」
「……お茶子ちゃん、本当にわたしのことまっててくれたんですね」
もじもじとしているトガにパジャマを渡すとそんなことを言うので、そうだよと返した。
「わたしのこと待っていてくれた人、大切にしてくれた人、仁くんのほかにいないと思ってた」
「トガの人生長いからね。いろんな人がいるよ」
「……そうですか」
トガの表情は窺い知れなかったものの、声音は優しいものだった。ほどなくしてシャワーが床をたたく音が聞こえてきた。
「にがい」
ビールをひとなめ、トガは顔をしかめて舌を突き出して言った。
「味わうもんじゃないよ。喉越しだよ」
「これお茶子ちゃんが頑張って働いたお金を出すほど美味しいですか……?」
「そこまで言われると自信無くなっちゃうな」
トガは野菜も嫌いらしく、苦々しい顔をしながらどうにか胃に押し込んでいる様子だった。トガから私と同じにおいがするというのも不思議なもので、トガが短くなった髪を乾かしているところをぼんやり眺めた。髪を伸ばして結べるようになりたいという。話を聞くと、髪を切ったのは刑務所でのルールがあったので仕方なく切ったという。
「明日はどこに行くんですか?」
「内緒」
「えー、ケチ」
「ケチとかいうんじゃなくてさあ……」
「何着ていきます? 私あの刑務所出る時に着てた服しかなくて」
「あー、そうか……私のワンピなら入るかな」
「お茶子ちゃんのじゃ、お胸がちょっときついかも」
「あ゛?!!」
「わーい、怒ったあ」
トガの罠にしっかりハマってしまった。トガはうれしそうに飾りっけのないパジャマを着てくるくる回って踊っている。
冬の気配が日に日に強まっており、気が滅入る。だが、トガが熱心にスマホに向かっていたり、偽名でできるバイトを探そうとしているのを見るとなんとなくやる気になってくる。当面はコイツのぶんまで稼がないとという気持ちが湧いてくる。
「トガ。偽名って何にしてんの?」
「麗日日向です」
「……へー」
「トガはずっと日陰者でした。みんなに馬鹿にされて、ちがうって言われて。でもわたしだって日向を歩けます、歩きます。私は間違ってないもん……ってことで」
「そっか。まあ、いいや。トガはまだ目立つからマスクと帽子してくれる?」
「いいよ」
黒いバケットハットと黒いマスク。これでもう十分あやしいが、そうも言ってられない。
「どこに行くんですか」
「まず、花屋」
仏花を二束買って、一つをトガに持たせてもう一つは私が持った。ここでトガは何かを察したようで、ニヤリと笑みをたたえた。
「お茶子ちゃん、お墓参りですか?」
「そうだよ。今日は月命日だからね」
「誰のでしょう……トガのお母さんですかね?」
「……存命だと聞いてるよ」
「……ふうん」
トガの両親が本当の意味でトガを捨ててしまったのだとわかったのか、それからトガは無言で私についてきた。心のどこかで死んでいてほしいと思っていたのかもしれない。死んでいたなら自分に引き取りに来ない理由になるのだから。麗日日向、と名乗るにはあまりに仄暗い表情でトガはぽてぽてとついてくる。
「まだですか、お茶子ちゃん」
「もう少し。このもう少し上だよ」
はあはあと肩で息をするトガを励まして、上へ上へと目指す。私は花のほかに桶に水を汲んで持っている。日頃のトレーニングのおかげで平然としていられる。誰のお墓なんですか、とぶちぶち言いながらもトガは歩む。
緑谷家ノ墓。
その表示を見、そして墓誌に戒名ではなく生前の名前緑谷出久を認めたトガは墓の前に座り込み、なるほどとつぶやいた。
「お茶子ちゃんは、デクくんのお墓に連れてきたかったんですね」
トガは、あのにたりと笑う顔をどこかにしまってきたようで、神妙な顔をして墓標を見ている。
「私とトガだけが共有できる気持ちがあるよね。私はそれを一人で抱えすぎててさ……膿んじゃってる。だからトガにも……ここにきてほしくて」
「つらい気持ちを分かち合いたかった?」
「そ、そんなんじゃ……いや、そうかも……」
「いいんですよ。ここにはトガしかいません。ヒーローウラビディもいません。麗日お茶子と渡我被身子だけいます」
「…………トガは、デクくんが亡くなったって知ってどう?」
「どう? 私はデクくんに拒絶されています。失恋してるんです。なので昔の男みたいな感覚ですね。あー死んじゃったのかーとは思っても引きずらない」
「そっか……」
「お茶子ちゃんはデクくんに好きと言いましたか?」
「……いや私はデクくんに好きとかじゃなくて」
「お茶子ちゃんがそういうなら、それでもいいのですが」
トガはつまんなそうに短くなった金髪の毛先を指先に巻き付けて言った。本意でないかりそめの言葉を、ヒーローという他者を救うとかいう烏滸がましい職で積み重ねた見栄をまだ捨てきれないのかとさげすむような目で私を見る。
突き刺さるように吹く冷たい風がひゅうひゅうと音を立てているのを、ずいぶん長い間聞いていた気がする。学生時代から長いこと蓋をしていた思いを表出するのは信じられないくらい覚悟が要る。
「……好き、好きだったな……」
だった、と過去のものにしたのは、そうでもしないとさびしくて行き場がない気持ちが重たすぎてつらいから。いまでも好き言えないのはひとえに私がいくじなしだからだ。もうデクくんがいない世界で生きていくのがつらい。そう零してしまえたらどんなに楽か。けどヒーローウラビディと私はどんなに頑張っても切り離せなくて、麗日お茶子が苦しんで泣いていても、ヒーローウラビディはかわいくかっこよく強くあらねばならなかったのだった。
デクくんがただの青春の疵で、好き”だった”ひととして処理できていたらよかったのだけど、そうもいかなかった。私を含めて、人の気持ちだけはどうにもできない。
「傷は、膿を出してあげないといけないんですよ」
「知ってるよ……」
「お茶子ちゃんができないなら、トガがやってあげます」
トガは突然立ち上がり、私の鞄を遠慮なくあさると線香とライターを取り出し、火をつけた。私に半分分け、供えろという。いうとおりに備えると、トガは手を合わせた。
「デクくん。こんにちは。トガです。デクくんがいなくなってからもう五年も経ってたんだね。お茶子ちゃんはトガがもらうので、デクくんに会いに来るのはお盆の時だけです。それじゃ、お茶子ちゃんはわたしがいただいた!」
トガは言うだけいうと、お墓のてっぺんから桶で水をぶちまけて、私の手を取って走り出した。当たり前だけど、その前にいた私に思いっきりかかって、びしょびしょになった。
「ち、ちょっ、トガ」
「お姫様を攫うのは悪役のつとめです。デク王子からお茶子姫を攫うわるーいトガにお茶子ちゃんはなすすべなく攫われてしまうのでした。おしまい」
「勝手に初めて勝手に終わった!」
「うふふ、これからは悪役のトガとお姫様お茶子ちゃんのめくるめくほんわかライフなのであった」
「なにそれ、ふふ、ウケる」
「でしょ。……デクくんのこと忘れろとは言いません。でもデクくんは毎月マメにやってくるお茶子ちゃんのこと心配すると思います。死んだ僕のことを気にかけてくれるのはうれしいけど、お茶子ちゃんの人生を生きてほしいってデクくんならいうと思います」
「……トガとここに来れてよかった」
「そう?」
「うん。褒めてつかわす。帰りにケーキ買って帰ろう」
「わあい!」
短くなったトガの後髪の毛先がマフラーに埋もれている。マフラーもコートも服も買ってやらないといけない。となるとぼやぼやしてもいられない。
「今日はお買い物に行こうか。トガにもコートや下着がいるし、好みのシャンプーとかあるでしょ」
「そういうこと、大事にしてもいいのですか?」
「いいよ。大事にできなかった時期もあるけど、今からそうしていけばいいよね」
「うんっ! コートはAラインのコートがいいです。それに短い髪に合うヘアアクセがほしいし、ピアスもあけてみたいです」
「なんでもやったらいいよ」
「やったー!」
ショッピングモールを急いで探すトガのあとをついていく。行きに比べて足取りが軽いような気がする。ずっと曇り空だった雲間に光が差して、まるで私たちの門出を応援してくれているかのようだ。もしかしてデクくんが頑張れって言っているかもしれない。頑張れって感じの、デク。でもねデクくん。もう頑張らなくてもいいんだよって墓前で言ってあげればよかった。ずっと一生懸命で、ヒーローになりたかったデクくんが新しい出会いをくれた。今度は頑張れって感じの麗日お茶子かもしれない。もう少しだけ頑張ってみるよ、とお墓の方向を向いて一瞬手を合わせた。
「はーやーくー」
「はいはい」
降りた幕が再び上がり、私は舞台に立つ。今まで長いこと一人でいたけど、これからは二人だ。奇妙な縁だけど、大切にしたい。
◆
トガが言うものを全て買っていたら、二人で両手に持っても辛いぐらい買っていた。
「買ったねえ」
「そりゃあ、オトメの十年を取り返すのですから。このくらいは序の口です」
「これからはトガがバイトするんだよ」
「……トガは名前も顔も知られすぎています。きっとバイトなんて受かりません」
「それがそうでもない。トガが刑務所にいる間に法律が変わって犯罪加害者救済の仕組みができた。社会で支えていこうという感じよ。自宅できるシール貼りとか、そういう内職ならあるはず」
「ほお……お茶子ちゃんしばらく見ない間に大人になって」
「そりゃあ、まあ」
まだテラス席は寒いといったのに、外でと聞かなかったから外でコーヒーを飲んでいるが、そんなに悪いもんじゃない。冬特有の弱々しい日差しを浴びながらシャバの空気はうまいですなんていうトガと、正面に手錠なしで座る日がくるなんて想像もしていなかった。
「ああ、こうして自由に外を歩いて……ちょっと遠巻きに見られているけど、お茶子ちゃん、ヒーローウラビディが一緒だから危険はないだろうと、でも警戒を解かないみんなに見つめられるの悪くないですね。仁くんにもも見せたかった」
「分倍河原か」
「そう。知ってたのですか」
「まあね」
「みんな死んだか、まだ刑務所ですか」
「そうだね。むしろトガが早い方だったんだよ。内乱罪が重かったね」
「私が私として生きただけで、世の中を乱したと言いたいんですか」
「私個人の感情を抜きにして、法律はそう定義したって感じかな」
「なに、それ。私、お茶子ちゃんがどう思っているか知りたい。トガは、生きていてもいいのですか?」
私はこのトガの表情が苦手だ。私と同じ女であり、一度は同じ人に恋したはずなのにあまりにも異質。同じ人を好きなったくらいで同質であると認識する方がおかしいと思わせる地の底から這い出てきたような見えない泥で塗れた手で、私の手をとった。
「それはこの……ドトールのテラス席で言わないとダメ?」
「スタバでもいいですよ?」
「……よし、なんたらペチーノでもなんても飲むがいいわ」
「わーい! トガはフラペチーノにします」
「いいけど、寒くない?」
「ミニスカ履いているときは最強なんです」
「そうか〜私も十年前はそうだったな」
「そうやって、お茶子ちゃんは勝手に歳とっていくんですね」
「なんだそりゃ」
「トガだけが置いてきぼり見たいじゃないですか。雄英高校1Aだった人、結婚したりしました?」
「いやまだだね。お付き合いしている人はいるみたいだけど」
「寂しくないですか? 同じ環境で同じ志を抱いた人が自分とは違う人生を送るのは。トガを迎え入れてしまったら、まともな結婚なんて出来ませんよ」
「なんで」
「トガはどこにいっても……結局は……疫病神なのです」
「そ」
「下手な慰めはいりません。お茶子ちゃん、私のために人生メチャクチャにすることないです。トガがお金を貯めたら一人暮らしをします」
「トガがそうしたいなら、そうしてもいいけど私はトガを簡単な気持ちで引き取るっていってないよ。人生の伴走するつもりで引き取るっつった」
「プロポーズみたいですね」
「真面目に聞け〜っ!!!」
「お茶子ちゃんの真意も聞きたいです。トガは、生きていていいのですか?」
「それを私に決めてもらいたい?」
「はい。トガのことを大事にしてくれた人はみんないなくなっちゃいました。トガに価値を感じてくれているお茶子ちゃんに決めてもらいたいです」
「生きる価値かあ……」
「みんなが払った税金で生かされた身でこんなこと言うのも変かもしれませんけど、私はほんとに……私として生きただけなんです。それがおかしいことなら、生きていても仕方ないと思うのです」
あんなにギラギラとした目をして自分が生きにくいなら環境そのものを変えると息巻いていたトガの弱気な発言に、面食らってしまった。トガの口からまさか生きていても仕方ないという言葉が出るとは思ってもみなかった。自分を認めない周りが悪い、といった調子でいたトガが。こんなにも弱々しくみずからの価値を見失い、萎れた言葉をぽつぽつとこぼしている。
ネイルが少しはげたトガの爪先を指先でいじりながら、ぬるくなったコーヒーを呷る。トガは、黙って私の話を聞いている。そんな縋るような目をするような女だったか。
「……私も若かったし、戦闘時っていうことで考えまとめること出来てなかったから昔と違うこと言うかもだけど、私はトガに生きていてほしい。いや、寿命で死なないといけないと思う」
「どうして? トガに生きていてほしい人なんて少しもいないと思います」
「生きていてほしい人がいなくても、人は生きていくし、多数決で死ぬわけじゃないじゃん」
「だから、世の中のために死んだらいいのかって」
「トガ、どうしたの。そりゃあ、トガに殺された人はトガに死んでほしいと思うだろうけど、トガは法律に則って裁かれて刑期をまっとうした。それでいったん終わり。トガは新しい生き方を探さないといけない。生きている限りつぐないの気持ちを忘れない。それで十分じゃないかな」
「……できるでしょうか、私に」
「だから私がいるんじゃん」
「お茶子ちゃん……」
まるで迷子になった小さい子供が親を見つけた時の顔。暗い道を一人で歩き、やっと生きる道を見つけることができたのかもしれない。そんなの私の奢りだと思うけど、ここにきてからやっと毒気のない笑みを浮かべたので少しだけ安心した。
「トガヒミコだな」
「トガッ……離れて」
トガを突き飛ばすので精一杯だった、と刑事さんの調査にはそれだけしか答えられなかった。私が引き取るといった直後の、トガが殺した人の縁者の凶刃は、トガの命を大きく削りとっていった。
即死ではないが、長くは持たないという。病室で横たわるトガは、苦々しい表情の私の頬を引っ張ってみたり、こっそりピアスをあけてみたり、お化粧を楽しんだりと自由気ままだ。
「ほらやっぱり。トガは生きていてはいけないのです。トガ、という苗字は科、だったのです」
トガはなぜか喜ばしいといった風の口調で自らの存在を笑みを浮かべて否定した。あれだけ自分の形を世の中に押し通そうとしていたトガが、何度も自らの生を否定してみせる。意味はなかったと嘯く。
そんなトガに腹の傷を見せた。
以前、ファンと名乗った女性に刺された傷と説明すると、トガはにんまりと笑って言った。
「トガと同じ、好きの形がほかの人たちと違うひとがやったんですね」
「そう、だからその人を否定しないためにも、私はトガの生を否定しない」
「なーんだ、もっと早く言ってくれればよかったのに」
「自分のミスを見つめたくなかっただけだよ」
「刺した人が悪いのに、お茶子ちゃんのミスですか?」
「あっちは一般人だよ」
「それは驕りです。まるで自分が神様みたいに一段上から話しますよね。ヒーローって。誰かを助けて感謝をされるって立場が人をおかしくするのだとトガは思いますよ。お茶子ちゃんのことを刺したやつが悪い。トガのことを刺したやつが悪い。それで話は終わりです」
「そうかな…… 私、気づかないうちに偉そうだった?」
「お茶子ちゃんのせいじゃありません。ヨノナカがおかしいんです。たまたま運良く……悪く? “使える“個性に生まれついてしまったばっかりに滅私奉公を強いられているかわいそうな制度です。好きなものを好きでいい、嫌いなものを好きでいいんです。だから自分のこと刺した奴のこと否定しないなんてカッコつけいらないんです」
「……本当は痛くて、怖かった。自分が助けた人が自分を好きになって刺してくるなんて自分に起こるとは思わなかった。ホークスさんジーニストさんとかはめちゃくちゃ刺され未遂あるみたいだけど、まさか自分がって、さ……」
「それでいいんです。トガの前では、ヒーローウラビディはしまってから来てください」
「そうだね……わかった。トガを元気付けけようとしたら、逆に励まされちゃった」
「いいんです。そんな感じで。トガも死んだらいいかもって気持ち薄まりましたから」
それからしばらく、トガの病室に通う日々が続いた。貸し漫画屋さんからあれを借りてきてほしいだの、お手紙書きたいからレターセットとカァイイペンを買ってこいだの。自由に出歩けないとなったらこれだ。
「誰に手紙書いてるの?」
「ナイショです」
「えー、ケチ」
「ケチとかじゃないです」
トガは冬を超えて、夏に差し掛かる前に息を引き取った。満月に程近い深夜、個室の病室で私が買い与えたクロミちゃんのぬいぐるみを抱きしめたまま冷たくなっていたという。
私が着く頃には、顔に白い布を被せられてまるで死体のようだった。つい昨日の夕方、退院したらメロンパンの上だけ食べたいなどと言っていたトガが。職務上死に直面することは多かったし、特段動揺するようなこともないと思っていたが、病室に残されたトガの残滓をビニール袋に押し込んでいるうちに知らず知らず涙がこぼれた。トガも私を置いて逝ってしまった。デクくんだけじゃなく、トガまで。足元が昏く崩れ落ちて行くような錯覚と共に、私は床にへたりこんだ。
トガが書いたという手紙は、封筒にも入れておらず封もされてない、宛名だけが書いてある手紙が乱雑に束になっていた。手紙としてではなく、思ったことのメモにも使っていたようだった。
『お茶子ちゃんへ』
と書かれた手紙があるんじゃないかとと期待して探したら、くしゃくしゃになった用紙に数行走り書きが残されていた。
『もうダメみたい
今度はお茶子姫からわるい……わるいけど、カァイイトガがいなくなっちゃう。
デクくん王子はいないし、お茶子姫は泣き暮らすのでしょうか。かあいそうに。
でも、お茶子姫は生きなくてはなりません
トガに生きろと言ったのですから、自分で死ぬのはナシです⭐︎
人に生きることを目指させるというのは、そういうことでしょ!
渡我被身子』
「重たいなぁ……」
誰もいない病室で、呟きがこぼれた。誰が聞いているわけでもない、それでも呟くことしかできなかった。大声で泣いてしまいたかった。自分が押し付けたものと、これから背負っていくものの重さで今潰れてしまったらどんなにいいか。置いて逝かれる苦しみを二度味わうことになるとは思ってもみなかった。
デクくんの時ですら涙が少しだけ出た程度だったけど、やるせなさ、無力感に押しつぶされそうになる。
もともと大切なものを持っていなかったほうが失う苦しみを味合わなくて済むという考え方があるけど,少しだけ傾倒しそうになった。麗日お茶子は渡我被身子と一緒に死んだ。ヒーローウラビディだけが、私に残された。
葬式は、恨みをもった人の選別が難しいことや、トガの宗派が分からなかったことから行わなかった。一応、新聞のお悔やみ欄に載せてもらったけど当日は誰も来なかった。世界でトガのことを想っている人が一人だけなんて思いたくなかったけれど、事実だった。トガなら「独り占めですね」なんて言うんだろうけど。
トガの遺影を作る時、気づいたことがある。
トガの出所を期に私のスマホの写真データの中身が私と、それとトガで溢れていることに。
それまであまり写真に残す習慣がなかったことから、おいしそうなものを食べても先に手をつけてしまい撮らないことが多かったが、トガがやってきてからはなんてことない……ベーコンと目玉焼きとパンの朝食と、トガ。キムチ鍋と、トガ。パフェと、トガ。そんな写真がたくさん残されていた。
結局選びきれなくて、大きなコルクボードを買って何枚かを貼り付けた。遺影の前には、バラの香りのする線香と、季節の花。普通の香りの線香と菊の花なんて見たらトガは怒るだろうな、という考えがあってのことだ。小さな骨壷と、バカみたいにたくさんの遺影とプリクラ。ミスマッチだけど、なんだか可愛い。
手の先が冷たくなって、頭がじわじわと熱いあの喪失感とかいうやつをいつか乗りこなす日が来るのだろうか。そんなことを考えながら、しんしんと降り注ぐ日差しを浴びて揺れる冬のカーテンをやっと取り替えた。トガの趣味だったパステルグリーンのカーテン。トガのマグ、トガの箸、トガのランチョンマット、トガの靴下、トガの……トガが残したすべての残滓たちと私は生きていくことにした。それってトガの個性みたいじゃない。好きな人と一緒になっちゃうって。
トガが亡くなってから四度目の夏、私はデクくんの墓参りを元雄英1Aの有志でいくというので参加した。みんなめいめいに花を買っていったので、デクくんのお墓はお花でいっぱいになった。
対して、私が別の日に行ったトガの墓はいつも荒れている。墓石は汚れ、ゴミや燃やされた花でいっぱいになっている。それを掃除して、トガが好きそうな薔薇の花を供える。トガが好きそうなお香を焚いて、手を合わせる。トガと人生を走る予定だったのに、早々に置いていかれて。本当は好きな花や香りを聞いておきたかった。
トガには内緒。私以外にもここにきている人がいる。誰にも見つからないようにこっそりきている中年の女性。毎回、オレンジのガーベラを備えて帰るひとのこと、トガには内緒。
いまだにトガが使っていた部屋を処分できずにいる。今はトガが使っていたクロミちゃんとお揃いで買ったマイメロディを抱いて眠っている。黄泉の国で、トガもクロミちゃんを抱いて寝ているだろうか、なんて夢想する。
two hearts 完
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お疲れ様でした。
明るさのないお話でしたがお楽しみいただけたでしょうか。喪失は悲しみだけど悲しみだって一色で塗れるほど単純な色合いをしていない、というのが今作のテーマです。
楽しんでいただけたら何よりです。
それでは
20220826
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