譫言饗宴
被捕食ヘヴン
「……おなかがすいた」
家主の娘――パンプキンアリスは、そうつぶやいてベッドから起き上がった。
部屋に用意された立派な古時計はちいさな彼女には答えず、沈黙を貫いている。いつからそうして黙り込んでいるのか誰にもわからないその時計は、頓珍漢な時を指し示したまま。時計を見ても窓の外を見ても、今が何月何日の何時なのかを正確に知る術はどこにもない。止まった時計と暗雲が立ち込める空は、この館の日常風景だった。
空腹を訴える腹をさすりながら、少女は部屋の扉を開ける。
きしむシャンデリアには目もくれず、アリスはちいさな歩幅で廊下を急ぐ。彼女の頭の中は底を見たこともない空腹のこと、ただそれだけでいっぱいだ。かぼちゃ畑をさまよって家主夫婦に拾われたあの日から――あまりよく覚えていないけれど、きっとそれ以前の日々も――アリスは癒えることのない空腹に襲われ続けている。食べ物もそうではないものもすべてを咀嚼し嚥下してみても、次の瞬間には時が戻ったかのように腹の虫が鳴る。狂おしい飢餓の前には壁や木々、実体がないはずの霊すらも馳走に見えて、思わず手が伸びていく。
とはいっても、館を食らい尽くすわけにはいかない。アリスの食欲であればこの大きな建物もほんの少し豪華なディナーに過ぎないけれど、そんなことをしたら翌朝から野宿だ。アリスはそれでもいいと思っているものの、「ママ」はやめてほしいと言っていた。ついでに「パパ」も、ママを野に晒すわけにはいかないと。それになにより、「おにいちゃん」が困るだろう。空腹で歪む理性の中で彼女を押しとどめているものといえば、それだけだった。
「エポック、バロック」
かつかつと鳴り響いていた足音がふと止まって、不気味なほど静かな館に少女の声が響いた。
どこかおぼつかない発音が向かう先は、倉庫で顔を突き合わせている子どもたち。揃いの髪色に揃いの服、揃いの身長。その後ろ姿だけを見れば、同じ人間が二人存在しているのかと困惑してしまうことだろう。けれどいくらここが悪魔の館といっても、ドッペルゲンガーが仲良くお喋りをしている……というわけではない。
「こんにちは、お嬢様」
「なんの用? お嬢様」
アリスの呼びかけに答え、彼らは振り返る。この館で使用人ごっこをしている、エポックとバロックと名乗る悪魔たちだ。どちらがエポックでどちらがバロックなのか、アリスは時々よくわからなくなる。
鏡合わせの二人は声までもそっくりで、先に言葉を発したのはどちらだったのか判断することは出来なかった。もっともそんなことはアリスにとっても、そして彼らにとってもどうでもいいことだ。二人で一つの双子には、相違点などあってないようなものなのだから。
「なにしてるの」
「僕たち、ねずみ捕りを仕掛けたんだ。ねえ、バロック」
「うん、エポック。邪魔なねずみを、罠にかけてやろうと思って」
ちょうど捕まっていたんだと、鏡合わせの片側――エポックが手招きする。二人の間にちょこんと座ったアリスは、ぐうとお腹を鳴らした。
「アリス、ねずみたべる」
言うが早いが、アリスの手がねずみ捕りに伸びた。見事に動きを封じられている赤い目をしたねずみが、自身をつまみ上げようとする得体のしれないなにかに焦っているのが見えるが……そんなことを、この空腹の少女が気に留めるわけもない。半ば無理矢理取り上げようとしたアリスに、「待って、お嬢様」と声がかかった。それが左右どちらから聞こえたものかはわからない。もしかしたら、寸分違わず同時に発せられた声だったのかもしれない。言葉を分かつ双子悪魔の声はいつも、一人の人間がよどみなく喋っているかのように響く。
「あまり変なものを食べさせるなって、僕たちこの前奥様に怒られたんだ」
バロックがそう言った。
その言葉に、ちいさな手は直前で止まる。「奥様」――すなわち、アリスのママだ。血が繋がっている親子というわけではないものの、パンプキンアリスを拾い、育てている女性。そしてこの館において、その「奥様」に勝る発言権を持つ者はいない。なにせ館の主さえ、彼女の言うことを聞くのだから。そのため悪戯好きの双子も幼い娘も、彼女の名が出れば手が止まる。
「なんで」
「さあ? 庭に山ほど生えてる怨念も幽霊になったねずみも、お嬢様の教育に悪いって言われたんだ」
エポックがそう言った。
教育。その正しい意味は、双子の辞書にもアリスの辞書にも存在しない言葉だった。パンプキンアリスにとって、その怨念もねずみもすべてが等しく食糧。そして悪魔たるエポックとバロックにとっては、教育とは人を歪めて堕落させるための道具に過ぎない。とはいえ、奥様がそう言ったのであれば逆らうわけにはいかない。それでも「怒られた」という双子になにかを思ったのか、アリスは口を開いた。
「アリスが、ママにいってあげる。二人のこと、おこらないでって」
「それでなにか変わればいいけどね、お嬢様」
「ありがとうって言っておこうかな、お嬢様」
双子はくすくす笑って答えた。その表情と声色からは、自分たちがこれからも奥様に怒られるであろうことをわかっているようで。そしてその叱責すら、娯楽として消費しきっているようだった。そんな返事を受けたアリスは、ちいさな手で自身の腹を撫でる。
「でも、おなかがすいた」
同調するように、ぐうぐうと腹の虫が鳴る。しかし目の前にある幽霊ねずみは、どうやら禁止令が出ているらしい。アリスの暗い瞳が倉庫をなぞっていく。ほんの少しの腐敗臭がする木箱、放置されて錆びた鎖、乱雑に積み上げられた本、なにもかも、パンプキンアリスにとっては食糧だ。
「お嬢様が困っているよ、エポック」
「そうだね、バロック。だけど奥様に怒られない食べ物がないよ」
「僕たちは料理だなんてしないしね、エポック」
空腹に苛まれる少女を前に、エポックとバロックはそんな会話を交わしていた。
どうしようかという声が重なる、そのときだった。焦燥と恐怖を伴った息遣いと共に、館の扉が開いたのは。
「……だれかきた」
倉庫を物色していたアリスが手を止めて、扉の方を見つめる。双子悪魔もその仕草にならい、正面玄関を見た。そしてすぐに視線を交える。暗闇でも怪しく光る揃いの瞳は、瞬きの瞬間まで同じだった。同じ顔が同じ意思を反射して、そうして二人は通じ合う。
「お客様が来たみたい、バロック」
「お出迎えしないとね、エポック」
常に一定の温度と声色を保ち続ける悪魔の声は、だけれど今に限っては愉悦に浸されていた。
普段は静かなこの悪魔の館には、時折客がやってくる。招待状も理由も記憶も持たず訪れる者が大半で、出られた者は誰一人としていない。人の形を持たない悪戯と恨み、そして足をからめとる恐怖が支配するこの場所に堕ちて、無事でいられる者などいないのだ。それが人間であれ、生者であれ死者であれど関係ない。戦々恐々と館に足を踏み入れたその瞬間に、その体も魂も悪魔の皿の上なのだ。
――ちょうど、今やってきた哀れで愚かな魂もそうだ。
なにかの因果でここにたどり着いたらしいそれは、霊障に襲われながらもこの館まで来たらしい。ほの暗い灯りと立派な門扉を頼りに、助けを求めようと。扉を開けた先暗い玄関ホールには誰もいないと、怖れを募らせているのだろう。だけれど。
「ようこそ、悪魔の館へ」
扉が閉まる音と同時に迷い込んだ人間の背後に立ち、エポックとバロックは声を揃えて言った。
振り返ったそれは、汚れ切った人間の姿をしていた。堕落と絶望と恐怖に染まった魂の色。エポックとバロックの一番の娯楽、パンプキンアリスの一番の好物。突如現れた子どもたちに後ずさるその人間との距離を一定に保ちながら、双子は話し出した。
「僕はエポック。よく来たね」
「僕はバロック。歓迎するよ」
人間の足を引きずる音と、双子の揃った足音が館に響いていた。玄関ホールに飾られた胸像が、その様子を鑑賞するかのように視線を向け続けている。今日もどこからか聞こえる悲鳴も扉を開けようと殴りつける音も、すべてがこの人間を縛っている。
人間の恐怖と堕落を好むエポックとバロックにとっては、それがなによりの馳走だった。恐怖に歪んだ顔、震える手足、暗闇で見開かれる瞳。そのすべてが悪魔にとっての糧であり娯楽であり、双子を満たすものだった。もっと恐れてもっと怯えて、絶望に叩き落される様が見たい。そのためならばどんなことだってする、どんなことだって許される。それこそが、双子悪魔にある唯一のルールだ。
やめろ、来るなと虚勢に滲んだ声が聞こえた。やめろと叫んだら、時が止まるとでも思っているのだろうか。であればそれはとても愚かで好ましい。状況が変わないとわかっていても、意味もなく声を上げなければ正気でいられないのだろうか。だというのならば、どこまでも惨めで素晴らしい。
「怯えているね、エポック」
「そうだね、バロック」
だけれど、双子悪魔の足は止まった。
それを認識した途端、人間の表情が変化する。そこに映る生々しく愚かしい感情のすべてが、悪魔には手に取るようにわかる。恐怖と混乱、わけもわからず死を覚悟した瞬間に得体のしれない子どもたちが止まったことを受け止めて、それから。涙がこぼれ落ちていく。それは極限状態から解放された……と、勘違いしたことによる安心によるものだろう。いや、ようやく恐怖を恐怖と体が認識し、反応しただけなのかもしれない。どちらでも、双子にとっては関係がなかった。
話が通じると思われているに違いない、助かるかもしれないと思ったに違いない。
人間がエポックとバロックに声をかけようとした瞬間だった。
「…………」
立派な階段の上から、なにかを引きずる音がした。床と金属がこすれ合う、耳をふさぎたくなるような嫌な音が。錆びついた人形のような動きで、人間がおそるおそる音のした方を見上げている。流した安堵の涙も凍るような寒気に襲われているであろうその姿は、最高の娯楽だ。
「……おなかがすいた」
薄暗いシャンデリアの下で、大きな銀食器が鈍く煌めいた。
◆
「ねえ、バロック」
「なに、エポック」
玄関ホールの階段に並んで腰かけながら、エポックとバロックは言葉をかわしていた。目の前の食事風景を眺めながら、その声はどこか弾んでいる。それも当たり前だ――人間の断末魔と絶望を、目の前で浴びたばかりなのだから。
「あの人間、助かるって思っていたみたいだね」
「僕たちが止まったからって、そう思ったみたいだね」
二人分の笑い声が、揃ってくすくすと響く。悪魔たちの頭の中では、先ほどの光景が何度も反芻されていた。
助かるかもしれないと希望が見えた矢先に降ってきた声、大きなフォークで貫かれた体。捕食者の飢えた紫色。自身を捉える切っ先の鋭い反射を救いの光だと勘違いして、そしてすぐそれが間違いだったと思い知らされた絶望。まるで遊戯の相談でもしているかのように無邪気な笑みで、双子はそんな愉悦を語り合っていた。
「……」
そんな中、ふとかぼちゃ色の髪が動いた。お嬢様のお食事は、どうやらもう終わったらしい。手袋をした手で口元をごしごしとふくと、パンプキンアリスは満足したように立ち上がった。
「おいしかった? お嬢様」
「器の方は僕たちが片付けておくよ、お嬢様」
「うん」
一辺の欠片もなく愚かな人間の魂を食い尽くしたアリスの胃は、ほんの少しだけ満たされたらしい。きっとまたすぐに「おなかがすいた」と言い出すだろうけれど。ただそれでも、魂を食べられて空になった器――最早動くことのない肉体を見下ろす少女の瞳は、今は満たされていた。
「……あ」
どう遊んでやろうかと、エポックとバロックがその肉体に近寄ろうとしたとき、アリスはなにかを思い出したようにつぶやいた。そして再び座る。食べ終えたものには興味がない、だけれどママにそう教わったから。
パンプキンアリスは手を合わせ、言った。
「ごちそうさまでした」
3/3ページ