我が愛の肖像

ロマンティック・ラプソディック


 また会えて、うれしい。
 ヴィヴィアンはそう囁いて、白くなめらかな頬を寄せた。着古した上着の触り心地はあまりよくないはずなのに、彼女はそんなことを気にする様子もなく擦り寄る。そっと腕に添えられた指先は傷一つ、ささくれ一つない。きっとこの子の本当は、僕のような庶民とは関わらない世界にあるのだろうと、ダニエルはぼんやりと思いを馳せる。
 失策をそのままに亡くなった国王夫妻が作った苦境と負債は、すべてダニエルたち市民が住む城下へと今も降り注いでいる。そんな中でも家族揃って生活するためには、老若男女問わず仕事に家事にと身を粉にするしかないのだ。だから自分の手も家族のそれも、お世辞にも綺麗だとは言えない。だというのに、隣に座る彼女の手には労働の跡なんてなにも見えなかった。だから、きっと。
 けれど次の瞬間に、そんな考えは吹き飛んだ。

「ねえ、ダニー」

 その理由は単純で、甘い声に名前を呼ばれたからだった。
 淡く儚い花のような色をした髪が、陽の光に照らされている。この疲弊して荒みつつある首都に、ヴィヴィアン・ブロッサムという少女は明らかに不釣り合いだった。かつてはあんなにも美しいともてはやされた街並みは翳り、誰もがどこか苛立ちを滲ませている今日この頃。彼女だけが、そんな苦しみを知らないかのように微笑んでいた。それは、彼女の丁寧に整えられた身なりのせい。けれどそれだけではないと、不思議な確信がダニエルにはあった。

「ダニー、ヴィヴィね、ダニーにお礼をしなくちゃって思ったの」

 そう言われたかと思えば、ケーキのような香りがさらに近付いてくる。きっとこの香りは香水かなにかで、名前がついているのだろうけれど。詳しいことは貧しいダニエルにはわからなかった。ただ一つわかるのは、この甘やかで可愛らしい香りはヴィヴィアンにとてもよく似合っていて、優しく包まれてしまえば彼女のことしか考えられなくなるということだけ。
 細い両腕が行き場をなくしたダニエルの片腕に絡みつき、大きな瞳が彼を見上げる。

「ダニーのおかげで、今こんなに幸せなんだもの」
「そんなの……それは、僕も同じだよ」

 ――妖精のようだと思ってしまう。出会った日から、ずっと。
 そう、ヴィヴィアンは人間なんかじゃないに違いない。街路樹さえも沈んで枯れたこの国で、いつだって花が綻ぶように微笑むこの子が。扉が錆びかけた菓子店が絶望の残り香だけを運ぶこの時代に、砂糖を纏うかのように甘い香りをさせるこの子が。誰もが暗い顔で俯いて歩く中で、幸せを思わせる軽やかな足取りでこちらへ駆けてくるこの子が。
 ただの人間の女の子だなんて、ダニエルには到底思えなかった。

「でもね、ダニーがいなかったら……どうすればいいかわからなかったもの。あのときからずっと、優しくしてくれて。ねえ、ヴィヴィにできることがあったら、なんでも言ってね」

 ヴィヴィアンと出会ったのは、雨上がりの曇天のことだった。ぬかるみに足を取られて転んだのか、上質な衣服を汚して戸惑っていた様子の彼女に声をかけたのが始まり。なぜそんなことをしたのかと聞かれたら、彼女が困っていたから……というだけだ。ダニエルは聖人でも英雄でもないけれど、せめて手の届く範囲の人は助けたかった。暗く貧しい時代だからといって、自分の心まで貧しくなってしまってはいけない。
 声をかけた見知らぬ男に、少女は柔らかく微笑んだ。たすけてくれるの、ありがとうと。
 それが二人の出会いであり、恋の始まり。それ以来ヴィヴィアンは、時折夢のように突然現れてはダニエルを甘い時間へと誘うようになったのだ。彼女が好むのは、この小さく寂れた裏路地の花壇。初めてここにダニエルを連れてきたとき、ヴィヴィアンはほんの少しだけ目を見開いて、それから「昔はとってもすてきだったのに」とつぶやいた。それが忘れられなくて、どうすればここに花を咲かせることができるのか――そんなことばかりを考えている。

「……僕は、ヴィヴィがいてくれたらそれでいいよ。他にはなにも望まない」

 頭がぼんやりするほどの甘い空気に焦がされた喉から出たのは、そんな言葉だけだった。
 世界中で使い古されたであろう気障なせりふは、今のダニエルにとっては自身と彼女のためだけに誂られたかのように思えた。だって一言一句、彼の本心だったものだから。

「…………」

 ヴィヴィアンはその言葉におどろいたかのように目を瞬かせ、そして「本当?」と吐息混じりの細い声で囁いた。肯定の意味を込めて頷けば、日焼けを知らない頬が途端に色付く。ダニエルの腕に絡んだ手に力がこもって、けれど、今の彼女はそんなところまで気を向けることができないようだった。

「……ヴィヴィうれしい」

 彼女がようやく絞り出したのは、そんな言葉だけだった。その表情は歓喜と羞恥からか紅潮し、きらきらと輝く瞳がダニエルを映す。生まれて初めてロマンスを知った乙女のような――いや、比喩ではないに違いない。花の中から現れた愛らしい妖精は、今このとき人間の掌中に舞い降りたのだ。

「だいすき」

 柔らかい声が、愛を告げる。僕もだよと返した声は熱にかすれていて、けれど、ヴィヴィアンは嬉しそうに微笑んだのだった。
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