譫言饗宴

悪魔の猟犬


「ママ」

 ドレスの裾にかすかな重力がかかったのと同時に、平坦で幼い声が聞こえた。
 ママと呼ばれた女性――マドモワゼル・ラ・モントルは、声の主の手が届かないところに包丁を遠ざけてから視線を落とす。この小さな住人は、包丁なんかよりもよほど鋭利なものを使って食事をしているのだから、気にしなくてもいいのだけれど。それでもラ・モントルにとっては、小さな可愛い娘なのだから。

「ママ」

 もう一度、長く黒いドレスを引っ張られる。ラ・モントルは、幼い小さなパンプキンアリスと視線を合わせるためにしゃがみこんだ。

「はい、ママですよ。どうしたのかしら、アリスちゃん。おなかがすいてしまったの?」

 アリスの髪を直しながら問いかける。今朝丁寧に結ったはずだというのに、その髪は既に乱れていた。きっと、双子と一緒に館の庭や周囲を駆け回ってきたのだろう。オレンジがかった髪はぼさついて、丸い頬には擦り傷が残っている。
 館の庭や周辺を走り回って……と言ってしまえば健全でかわいらしい遊戯に聞こえるだろう。けれどここは悪魔の住む館。周囲には、恨みを抱えた幽霊や人ならざる魑魅魍魎が跋扈している場所だ。そう平和な話でもない。
 あまり危ないことはさせないでと言っているのに。ラ・モントルはそんなことを考えながら、娘の頭を撫でる。

「ううん」
「まあ、そうなの? なあに?」

 大人しくそれを受け入れていたアリスは、小さく首を横に振った。いつだって空腹を訴えてはキッチンを覗きに来る彼女のことだからと思ったものの、今日に限っては違う理由があるようだ。
 感情を覗かせない瞳がまっすぐに母を見つめ、小さな口が開かれる。

「アリス、犬がほしい」


 
「それは困るな」

 家主にしてラ・モントルの夫たるマスター・デッドリーの返答は、そんな短いものだった。
 蝋燭の光だけが頼りとなるデッドリーの書斎には、たくさんの本がまるで意思を持っているかのように浮遊する。普通の人間から見たらありえない光景だけれど、彼は悪魔でここは悪魔の館。この程度の現象に驚く者など、ここにはいない。惨劇と血の記憶が記されている本の山が作る恨みの影を気にかける様子もなく、デッドリーは穏やかな動作で分厚い本を閉じた。

「どうしてですの? お部屋はたくさんありますし、お庭だって……。それに、アリスちゃんがおねだりしてくれたのに」

 ラ・モントルは、まさか夫が拒絶の意を示すとは思っていなかった。
 マスター・デッドリーは、いつもどこか俯瞰するように館の住人を眺めているものだから。誰がなにをしていようと、「好きにしなさい」と微笑んでいるだけ。だから今回も、犬でも猫でも鳥でも蛇でも好きに飼いなさいとでも言うだろうと思っていたのに。
 困惑する母に同調するように、アリスは「なんで、なんで」と繰り返す。デッドリーの膝に座ろうと彼のマントを命綱に登山を試みる娘を、彼はいともたやすく抱き上げた。膝の上におさまったアリスの小さな鼻を手袋越しの指先でつついて、デッドリーは口を開く。

「なぜって、お前も犬も小さいだろう。きっと私は、どちらが娘でどちらがペットなのか見分けがつかなくなってしまうよ。お前を犬小屋で寝かしつけてしまうかもしれない」
「パパ、アリス、犬よりおっきいよ。犬は、アリスのはんぶんもないんだよ。しらないの?」
「おや、そうなのかい。けれど私には同じことだ。……ともかく、お前に犬の餌を渡しても怒らないと約束するのなら、用意してあげよう」
「アリス、いぬのえさ? も、たべる」

 夫の言葉に小首を傾げたアリスの返答に、ラ・モントルは頭が痛くなる。どこをどう取っても咎める要素しかない今の会話に思うところがあるのは、どうやら彼女だけのようだった。かわいい娘はともかくとして、夫たる悪魔にはもう少し子育てのなんたるかを学ばせないといけない……そう思いながら、ラ・モントルは「あなた、いけませんわ」と口を挟んだ。
 犬の餌についてお喋りを展開していた金色の瞳が、彼女の方へと移動する。

「人間と愛玩動物の見分けくらいつきますでしょう、昔は人と共に暮らしていらしたのですから」
「どうだったかな。君に出会ってからというもの、私はずいぶんと目が曇ってしまったようだから。君以外の生き物の区別だなんて興味もないし、わからなくなってしまったよ。やはり君は――」
「はいはい、後でお聞きいたします。……アリスちゃん、どんなわんちゃんがほしいかしら。大きな子? 小さな子? ふわふわの子?」

 デッドリーの話を強引に切って、ラ・モントルはアリスと視線を合わせる。父親の長い髪で遊んでいた様子のアリスは、その言葉に少しだけ黙り込んだ。

「あのね、アリス、りょうけんがほしい」

 りょうけん。舌足らずなその声が紡いだ単語を飲み込むのには、少しだけ時間がかかった。
 ラ・モントルはてっきり、犬種や大きさ、毛並みの色なんかを並べ立てられるものだと思っていたから。そんな予想は外れて、告げられたのは「猟犬」だ。この館にはペットの類はいないし、飼おうと口にするような人物はいない。一体どこで知ったのかしらと思いながら、確認を取るように質問を続けた。

「……狩りのお手伝いをするわんちゃんのこと?」
「うん。おにいちゃんが言ってた。犬は、にんげんといっしょにごはんを取る。犬がいたら、もっとごはんがたべれる。アリス、犬といっしょにごはんをたべるの」

 どこか得意げに見えるその表情に、思わずラ・モントルの頬が緩む。
 彼女が指す「おにいちゃん」とは、館に飾られた絵画の中に住む少年であるセオドアだ。そういえば、彼のために飾った絵のうちの一つに、猟犬が描かれているものがあったような気もする。絵を隔てた二人の交流の様子はとても微笑ましく、かわいらしいものだったのだろう。こうも愛らしい理由を聞かされると、ますます叶えてあげたくなってしまう。
 マドモワゼル・ラ・モントルは、夫に見せるそれなりの厳しさが嘘のように、小さな娘にはとことん甘い人だった。

「あなた。アリスちゃんもこう言っていますし……」
「……そうか。自分で面倒を見るならば用意してあげよう。私たちは世話をしてはやらないよ」

 その言葉に、アリスは目を輝かせた――ように見えた。彼女の大きな瞳が感情を映すことはめずらしく、もしかしたらラ・モントルの錯覚だったかもしれないけれど。少なくとも母の目から見れば、その表情は最大限の喜びと高揚を示しているように思えたのだ。
 ぴょんとデッドリーの膝から飛び降りたアリスは、「おなかがすいた」とつぶやいた。小さな手で飢えに食い尽くされた腹を撫でながら、食べてもいいものを探して彼女の瞳はあっちこっちへとさまよっている。書斎の本にも噛みついてしまいそうな食欲を抱えているであろう娘に、ラ・モントルは優しく声をかけた。

「それなら、キッチンにおやつがあるわ。エポックちゃんとバロックちゃんにお願いして、棚から出してもらうのよ」
「わかった」

 とてとてと愛らしい仕草で、パンプキンアリスは去っていく。重厚な扉が開いては閉まる様子を見届けたデッドリーは、椅子の背にゆったりと体を預け本を開いた。この話はこれでおしまいと言いたげに。

「……あなた」

 ページをめくろうとしていた手が、妻の言葉にぴたりと止まる。
 人間の夢や野望や事情はよくわからない、自分にとって人間は糧の一種でしかないのだから、彼らの感情なんて推し量ろうとも思わない。マスター・デッドリーは、かつてそのようなことを妻に語った。けれどどうやら、今に限っては向けられている声色に滲んだ感情を読み取ったらしい。それは長い時を人である妻と暮らしてきたからこその慣れなのか、ひとえに妻を愛する気持ちからなのか。きっと後者に違いない。

「アリスちゃんに、あんなことを言うものではありません」

 柔らかく温かいラ・モントルの声は、少しだけ冷えたものだった。今からなにを言われるのか想像がついた様子の悪魔は、「その話は長くなるのかい」と諦めたように問いかけた。


 ◆


「犬だ」
「ああ、ご所望の猟犬だ」

 ――数日後。館に、新しい住人がやってきた。
 床にぺたりと座り込んだアリスを、つぶらな赤い瞳が見上げている。黒い毛並みはつやつやと輝いていて、誰もが目を奪われるような愛らしさだ。どこからどう見ても無害そうなこの子犬は、成長すればそれはそれは大きく狂暴になるらしい。そしていずれは炎を吐くようになるのだという。デッドリーが子犬をもらい受けた際に聞いた話を披露してみたものの、娘はなにも耳に入っていないようだった。

「ちいさい」
「そうだね。これでは本当に、お前と間違えてしまうかもしれないな」
「まちがえられたら、どうする?」

 問いかけられて、お行儀よくおすわりをしていた子犬は首をかしげる。わかっているのかいないのか、きゅうんと鳴いて。小さな温かい体で、アリスに擦り寄ったのだった。
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