ダムド・レイズド・モノクローム

遍く喝采は子羊の声を知るか


 達海たつみ瑠架るかは天才である。
 中学二年生、春。誰もが少年をそんな言葉で褒めたたえ、そして彼自身も、授けられた称号に謙遜の気配すら見せずゆったりと瞳を閉じた。

「ありがとうございます。すべては、幼い頃から実験に触れさせてくれた両親のおかげです」

 同世代の少年たちと比べると落ち着いた低い声が、そんな言葉を紡ぐ。
 向けられる無数のカメラにも動じることはなく、瑠架は微笑んだ。アイドルグループに所属していたって見劣りしない端正な容姿だと、そう最初に騒ぎ立てたのはどこのメディアだっただろうか。カメラ越しにぶつけられた容姿に関するどこか不躾な質問に、「すみません、美醜ってよくわからなくて」と眉を下げた様子すら話題を呼んだのは記憶に新しい。

「……新発見、といっても。たまたま最初に辿り着いたのが僕だというだけです。この功績は本来、今日まで研究に従事してきた皆様……そして、今この瞬間も人々のために邁進していらっしゃる、すべての研究者の皆様と共有するべきものですから。僕のような中学生を暖かく迎え入れ、協力してくださった皆様に、この場を借りて感謝を申し上げます」

 そう言い終えて笑みを浮かべたと同時に、数え切れないほどのシャッター音が瑠架を襲う。拍手喝采にも似た音が鳴り止んだ頃、彼は薄い灰色の瞳を揺らした。

「……ところで」

 瑠架の正装である白いブレザーのポケットから、小さな錠剤を取り出して。それまでのお行儀のいい微笑みとは違う、どこかいたずらっぽい笑みを宿した少年は口を開く。周囲を取り囲む大人のうちの誰かが、「始まった」と楽しそうにつぶやいた。そうして再びカメラを構えた大人たちを見やり、瑠架は立ち上がる。

「お集まりいただいた皆様に、一つ提案が……」

 小瓶に詰められた錠剤は、高性能のカメラがいくら近付こうと種も仕掛けも見られなかった。それはほんの少しの頭痛を治めるために飲むような、なんの変哲もないただの薬にしか見えない。けれど、その見た目に騙されてはいけないということを、瑠架を囲む誰もが知っていた。
 まるで漫画の世界のような、不思議な実験。この少年の足跡を追っていけば、いつか人類は生身で空を飛ぶことすらできるのではないかと思わせる偉業。非現実としかいいようのない実験、その成果を容赦なく浴びせにくる少年。それはまさしく天才であり、奇人の姿だった。

「――被検体にご興味はありませんか?」


 ◆


 取材陣が去ったあとの学校は、静かなものだった。
 遠くから聞こえてくる運動部の声も、吹奏楽の音もどこか現実味がない。数多の大人から向けられる視線とフラッシュの方が、琉架にとっては余程真実に近いものだ。普通は逆だろうと、少年は自嘲する。
 誰もが琉架を天才だと褒め称える。自分が打ち立てた研究結果は、そう言われるに値することではあるのだろうと頭では理解している。高名な研究者夫婦の一人息子であり、自身も同じ道を志す天才少年。それが琉架に向けられている賞賛であり、幼い頃にかけられた呪いだった。

「……ん。なんだろう」

 少年の思考を遮ったのは、スクールバッグの中で鳴り響く着信音だった。ゆったりとした動作で鞄の中を漁る。画面に表示されていたのは、「お母さん」の文字。
 今海外にいて忙しいはずなのに、と。そんなことを考えて、かすかに指先が惑う。けれどそれは一瞬のことで、琉架はすぐさま電話に出た。忙しい母親の時間を、呼び出し待ちなんかで奪ってはいけないという判断だった。

「琉架? 今大丈夫?」
「うん。なにかあった?」
「取材だって言っていたでしょ。予定だともう終わっていると思うけど、どうだった? 琉架が頑張っているところを見られなくて残念」

 明るい母親の声に、琉架はトーンを合わせて笑い声をあげる。「いつも通りだよ」と言葉を返しておく。
 今日の取材は、なんの変哲もないニュースだ。決められた質問に答えて、写真を撮られて終わり。バラエティ番組やらクイズ番組やらに引っ張り出されるよりは気が楽だ。

「……そんなことより、そっち今何時? わざわざかけてこなくても……」

 両親は忙しい人だ。海外に出向くことも多い二人は、それでも琉架を気にかけてくれた。
 幼い息子を自分たちの仕事に触れさせ、この私立中学校に行きたいと言った琉架をサポートしてくれたのも。時差があるにもかかわらず、今更取り立てて騒ぐことでもない取材一つのために電話をかけてくれるのもそうだ。それはすべて、愛と呼べるものなのだろう。

「そんなこと気にしないでいいの。琉架は賢い子だから心配はしてないけど、なにかあったら言うのよ」

 スマートフォンを持つ手に力がこもる。
 自分は愛されている。やりたいと言ったことはなんでもやらせてもらえたし、両親は多忙の中精一杯時間を作ってくれた。これを愛と呼ばないのなら、琉架の世界に愛は存在しないように思えた。

「そうそう。今日お母さんが仕事で会った人もね、琉架のことを知っていたのよ。将来が楽しみだって」
「……それは……ありがたい、ね」

 将来なんて、そんなものどうせ決まっている。十で神童十五で才子、幾度となく頭の中で繰り返したリズムを刻みながら、教室にかけられた時計を見上げる。
 放課後。どこにも所属していない瑠架には関係のない話だけれど、今はちょうど部活動の時間だ。ほとんどの生徒が部活に所属する中で、瑠架は二年生の今までずっと帰宅部だった。その理由はたいしたことではない。ただ、両親は「無理して部活に入らなくてもいい」と言った。「瑠架が家で研究したいのなら、そっちを優先した方がいい」と。同級生、親戚、メディアも、皆口を揃えて同じような言葉をぶつけにきた。君は天才だから、研究で忙しいから、部活なんて入らないでしょう。すごいね、いいなあ、さすが、普通の人とは違うね。
 ――だから、みんな、そうしてほしいのだろうと思った。
 中学生にとって当たり前の、部活動での青春や友人との絆なんて必要としない。そんな普通を好まない、特異な天才少年であってほしいのだろうと。ならば、そうあるまでだ。幸か不幸か、瑠架には放課後を使いたいと思うほど興味を引かれることも新たに始めてみたいこともなかったから、後悔はしていない。今のところ。

「ええ、本当に。それでね、お母さん、帰ったら琉架に見せたいものがあるの。楽しみにしていて」
「…………」

 そう言われるのは初めてではなかった。だから、そうしてなにを見せられるのか、大体わかっていた。
 研究成果、論文、その他諸々。すべては両親の優しさゆえなのだとわかっている。だって、もし息子に興味がないのなら、電話なんてかけてこない。共通点である学問の話なんて振ってこない。だから琉架は、いつも「ありがとう」と返事をする。

「……ごめんなさい、お母さんそろそろ……」
「うん。忙しいのにありがとう」
「声が聞けてよかった。いつも言っているけど、研究に夢中になって食事を疎かにしてはダメよ。それじゃあ、また」

 母親の言葉に感謝と別れを返すと同時に、スマートフォンは静かになった。別に、熱中して食事を忘れているわけではないのに。食事をしていない理由を話した覚えはないけれど、母親にとって自分がそういう風に見えているのならば、それはそれで構わない。
 そういえば今日はなに食べたんだっけと、朝から黙り込んでいる腹に手を当ててみる。カロリーは足りていないだろうと撫でてみても、からっぽの胃は相変わらず無言を貫いている。体の主に似たのかな、と考えた。
 なんとなく帰る気になれなくて、瑠架は自席に腰を下ろした。たまに放課後でも教室に残っている生徒はいるけれど、今日に限っては無人。気兼ねなく机に突っ伏してみると、まるで周囲から遮断されたかのように感じる。目を閉じると次第にまどろみに襲われて、そういえば最近は寝不足気味だったと思い至る。
 学校で、教室で眠るだなんてことは初めてで、ほんの少しだけ心が躍った。どこか不思議な感覚に身を任せていると、ここがどこで自分が誰なのか忘れてしまいそうな。ただひたすら、知らない現象への逃避に溺れることができそうな……。

「瑠架! こんなところにいた!」

 そんな安寧と静寂を破ったのは、知人の声だった。顔を上げると、突然視界を埋め尽くす光のせいか景色がぼやける。数度まばたきをすると、ようやく焦点が定まっていった。瑠架が緩慢な動きで現実を受け入れているうちに、彼はこちらへと駆けてくる。さきほどまで教室の出入り口にいたはずなのに、今はもう窓際の瑠架の席までやってきている。いつものことながら、元気がいい子だ。
 仮にも一年生が、なんの躊躇もなく上級生の教室へ入ってきている。なかなか見ない光景であり、自分にはできない行動だろうなと瑠架は苦笑いを浮かべてしまう。けれど。

「…………あまね

 けれど、そんなところが彼――鳳凰殿ほうおうでんあまねの良さであり、瑠架が彼を好いている理由なのだろう。自分の年齢も学力も、この明るい少年の前では存在していないように思える。天才少年と喧伝される身としては複雑だけれど、周に天才だと褒められた記憶はなかった。

「さっきから探してたんだよ、もう帰ったのかと思った!」
「連絡してくれたらよかったのに」

 椅子の背に体重を預けながら言うと、周は「確かに」と言いたげに目を丸くした。探した方が早いかと思ってと笑う姿は、どこまでも無邪気なものだった。その明るさに慣れなくて、瑠架はひっそりと目を細めた。昔からの知り合いではあるものの、共に過ごした時間は濃くも長くもない。時折こうして顔を合わせる度に、光のような彼への耐性がなくなっているように感じてしまう。

「周らしいね。……どうしたの」
「寄りたいところがある!! だから一緒に帰ろうと思って」
「へえ、なんだろう」

 一緒に。あまり、周からは聞かない言葉だった。彼には喜びも悲しみも共有できる相手が山ほどいるものだから、わざわざ琉架の元へ来る必要なんてないのだ。そう、クラスや学校からはどこか浮いている先輩になんか……と、自傷に似た言葉が浮かぶ。

「抹茶のアイス! 地下鉄の方だけど、なんか流行ってるアイス屋が出来たんだってさ。写真見たんだけど、すっげー豪華で。だから行こう!!」
「……うん、それは……いいけど……なんで僕に?」
「抹茶味好きだって言ってたじゃん。あと、俺が今アイス食べたい!」

 声高らかに食欲を宣言する周に、琉架は笑みを浮かべることしかできなかった。
 ――そんなこと言ったっけ。
 頭はその記憶を探し出すために回転していて、けれど、わからなかった。記憶力には自信がある方だというのに、まったく覚えがない。確かに抹茶が好きなのは嘘ではないけれど、それをいつ、どういった流れで彼に言ったのか、なにも思い出せない。
 「天才少年達海琉架」としての記録に残る発言ならば、すべて覚えているのに。

「……あ、用事とかあったら今日じゃなくても大丈夫。琉架、暇?」

 自分が忘れた好みを、誰かが覚えている。研究にも将来にも、なんの役にも立たないことを、覚えている人がいる。それは一般的に、嬉しいことなのかもしれない。そのあたりの感情の機微に、琉架はあまりにも疎かった。疎くなった、という方が正しいだろう。

「暇だよ。だから、行こう。周」

 けれど。琉架が好きだと言ったものを、他でもない周が覚えている――それは、とても心地よいものだった。全身が不思議な安心感に包まれ、次に琉架が感じたのは空腹だった。

「……おなかもすいたし、僕もアイス食べたいな」
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