譫言饗宴

暗翳の途


 その館は薄暗く、気取っていて、厳かで、不気味な場所だった。
 窓と扉はいつだって締め切られていて、新たな客人を――新鮮な空気すらも――拒絶している。風など通らないのに蝋燭の火は揺れ、シャンデリアが軋む音は絶えず誰かを嘲笑っているようだ。空室だと教えられた部屋からは時折悲鳴が聞こえ、時計の針が回るにつれてどこからか激しく扉を叩くような音が鳴り響く。それが足元からのものなのだと気がついたとき、地下室があるのだろうと思い至った。半狂乱に音を立てている何者かは、どうしてそんなところでそんなことをしているのか、と。そこまで考えたところで、少年の心臓が冷たくなった。
 生暖かい空気が纏わりつくように首筋を撫で、高い天井からは押し潰す圧迫感を感じる――ここは、悪魔の巣食う館。
 少年は、気が付けばこの館にいた。招待状を受け取った覚えもなければ、屋敷から出発した覚えもない。ましてや眠りに落ちた記憶すらないというのに、この館の一室で彼は目を覚ましたのだ。取り乱した彼に対し、家主の悪魔は至極穏やかに語りかけた。少年の名を親しげに呼ぶ姿は、まるでこの小さな人間がここにやってくることを知っていたかのようだった。
 自由に過ごしなさいと、あの闇夜に溶ける悪魔は言った。とはいっても、この館から出る方法も家に帰る道筋もわからない少年にとって、そんな許しなどなんの意味もない。こんな息苦しい場所で羽を伸ばすことなんてできやしないし、空室の向こうに気配を感じる館を歩き回るなんて正気の沙汰ではないだろう。
 けれど少年は、今日も館の中を見回っていた。彼のためにと与えられた一室でも、自分以外のなにかの気配がそこにあるような気がして。どうにもじっと落ち着くことができずに、意味もなく歩き回っているのだ。もしかしたら、この館の中に家に帰る方法が隠されているかもしれないから……そんな言い訳を携えて。

「難しい顔してるな、テオドール」

 突然声をかけられて、子どもらしい小さな体が揺れた。自分と同じ声、同じトーン、同じアクセント。少年――テオドールとの相違点をあげるとするならば、その声が彼の背丈よりずっと上から降ってきたことくらいだろう。いまだ幼くどこか高い声には似合わない、見下ろすような音の響き。

「そう驚くなよ。なにも、取って食おうってわけじゃないんだ」

 いかにも隙を見せるような仕草をしてしまった自分への怒りと羞恥で、テオドールの頬は真っ赤に染まる。軽い笑い声に晒されて、余計に頭に血が上っていった。

「うるさい! なんの用だ、セオドア」

 熱くなる脳裏を誤魔化すように、テオドールは顔を上げる。彼の視線が向く先は、目の前の壁……そこに飾られている、一つの肖像画だった。
 本物の人間のようだと、きっと誰もが息を飲むだろう。
 髪の一本一本から服の皺、少しほつれた首元のフリルまで、まるで写真のような細かさだ。キャンバスの外から光を受ける暗い銀髪と、曇ったすみれ色の瞳。鑑賞者をからかうような笑みを口元に浮かべて、美しく姿勢を保つ少年がいた。
 このを前にして、まるで今にも動き出しそうなほどリアルだとでもこぼしたら。きっと作者は意味深に頬を緩めるに違いない。作者なんてものがいるのなら、だれけど。

「なんだよ、挨拶したらいけないのか? お前が僕の前を通ったんじゃないか」

 再び、テオドールと同じ声がして。
 肖像画の少年が、額縁の中で肘をつく。彼が小首を傾げるのと同時に、繊細な一筆で描かれたであろう毛先が乱れるのが見えた。
 ――何度見ても慣れない。
 テオドールはそんなことを考えながら、今日こそこれが目の錯覚や幻覚の類だと断ずるための証拠を探そうと、肖像画を凝視する。
 厳格な規律に満ちた世界で生きていたテオドールとしては、動く絵画だなんて到底理解できるものではなかった。目の前で、自分と瓜二つの絵画が動いて喋っている……そう認識するしかない現象は受け止めるけれど、受け入れることなど決してない。これは悪魔が見せている嘘か、極度のストレスでおかしくなった少年の脳の勘違いか、どちらかに決まっているのだから。
 そう啖呵をきったあの日、絵の少年は「偏屈な奴だな、お前は」とテオドールを笑っていた。

「ところで、この館には慣れたか? 広いから迷うだろ、僕が案内……」
「結構だ! こんな館、僕の家よりもよっぽど小さいんだ。お前に教えられなくても、迷ったりなんかしない!」
「テオドール!」

 セオドアの言葉を置き去りにして、テオドールはわざとらしく大きな足音を立てて歩き出した。今自分は不機嫌なのだと伝えるような音は、人の気配を感じない館に虚しく響く。
 ここには自分しかいないはずなのに、その靴音を咎めるかのような視線をいくつも感じる。おかしな話だ、ここにいるのはテオドールと……セオドアだけなのに。他に目がついているものといえば、仰々しく飾られた誰ともわからない胸像たちだ。歴代の館の主なのかと尋ねても、あの悪魔は微笑んではぐらかすだけ。なにかに激怒しているかのような顔ばかりの像たちが自分をじっと見つめている――そんな妄想がよぎって、少年の靴音はさらに甲高いものとなった。

「そう言うなよ。なあ?」

 テオドールの歩くペースに合わせて、セオドアも音もなく隣を歩く。歩くといっても、絵の中の住人である彼は床を踏みしめているわけではない。先ほどの肖像画を留守にして、今度はほど近い距離に飾られた別の絵の中に現れたのだ。額縁の中に描かれた麦畑の前を悠々と通る彼の髪は、それまでの写実的なものとは違う筆致で揺れていた。

「僕はお前を心配してるんだ」
「必要ない。心配っていうのは、哀れんで馬鹿にしてるってのを言い換えただけだろ。お前なんかに憐れまれるなんて屈辱だ!」

 高圧的に怒鳴っても、同じ顔をした絵は笑みを崩さなかった。
 身なりも雰囲気も自分と同年代に見えるのに、いつも達観したかのようにこちらを見つめる姿がテオドールはどうにも気に入らなかった。感情的になっても嘲ることも機嫌を取ることもしないその瞳に見つめられると、まるで愚かだと見下されているように感じてしまう。お前の癇癪なんて相手にしてやる価値すらないのだと、そう言われているようで。

「……それに、案内なんて意味ない。僕はすぐにここから出て行くんだから」

 ふと自分が滑稽に思えて、テオドールは大きく息を吐いてそう言った。深呼吸をしたおかげか、ようやく頭が冷えてくる。

「出て行く? なんでだよ」
「なんでって……。こんな悪魔の館なんて出たいに決まってるだろ! 刺し殺そうとしてきた奴と、一つ屋根の下になんかいられるか!」

 館で目を覚ました日、腹の虫を鳴らしながら向けられた切っ先を思い出してテオドールは身震いする。
 自分よりも小さく幼い少女が、彼女の背丈ほどはありそうな大きなフォークを持って追いかけてきたあの日。テオドールは地獄も死神も信じていなかったけれど、あの逃走劇の最中はあれが人間の命を刈り取るものなのか、ついに自分の番がやってきたのかと恐怖を感じたのだ。
 初日以降あの鋭いカトラリーを向けられることはなくなったものの、彼女が「おなかがすいた」とつぶやく度に背筋が冷えるのだ。なにか口に入れられるものを探す少女の視線とかち合うと、食糧として品定めされているのだという錯覚に陥る。……双子悪魔に無理矢理聞かされた彼女の食事風景を考えれば、あながち錯覚でもないのだろうけれど。

「ああ、あれは悪かったよ。よく言っておいたからさ」
「そんな軽い謝罪で許されるものじゃないだろ! 殺されかけたんだぞ!」

 テオドールの訴えを軽く笑って流したセオドアは、麦畑の行き止まりに躊躇う様子もなく歩みを進めていた。額縁にその体が吸い込まれていき、やがて絵の中は麦と鳥だけの静かな空間を取り戻す。「でもさ」という声だけが高い天井に響いて、次の瞬間、セオドアの姿は再び隣に現れた。

「出たところでどうしようもないって、お前も忘れたわけじゃないだろ?」

 水差しと果物を隠すように、絵の中から身を乗り出すように、すみれ色の瞳が距離を詰めてくる。かけられた言葉も距離も忌々しいもので、テオドールは奥歯をかみしめた。
 この館で目覚めてからというもの、逃げ出すことを考えなかったわけではない。そもそも実際のところ、テオドールは閉じ込められているわけではないのだ。目を覚ます前の記憶がない少年に対して、ここで暮らすのも帰るのも自由だと、家主はそう言っていたのだから。
 帰りたいのなら好きにすればいいと言われた途端、テオドールは手を付けていない夕食を放置して扉へ向かった。大きな扉は少年の力でも簡単に開けることが出来て、思わず拍子抜けしたほどだ。出て行こうと外に足を踏み出すのは簡単だった。ならばなぜ、テオドールはいまだにここで肖像画に弄ばれているのか。理由は簡単だ。

「……ああ、わかってるよ」

 ――館の周辺に、悪魔なんてものよりよっぽど凶悪な幽霊が山ほどうろついているから。
 館を走り庭を駆け抜け、そしてようやく敷地外に出て数歩。悍ましいという言葉では到底言い表せない、醜くおそろしいなにかに足を取られたのだ。たくさんの蒼白い手に足首を掴まれ、地面の中へと引きずり込まれて。その先を思い出すことも語ることもしたくはない。
 認めたくはないけれど、家主夫婦が来なければ……あの悪魔に助け出されなければ。あのあとどうなっていたかもわからない。

「幽霊なんか信じてなかったけど……というか、あれは幽霊なのか?」
「さあな。お前がそう名付けたいなら、あいつらは幽霊だ」
「……僕が聞きたいのはそういうことじゃない。お前たちはあれをなんと呼んでいる? どう理解して、どう対処しているのかを聞いているんだ」

 敵意を隠さず睨みつけてきたテオドールを意に介する様子も見せず、セオドアは肩をすくめて笑った。

「僕が言ったことをお前は信じるのか? 強い風に揺れてぶつかってきた木の枝を、お前が怨念の塊だと見間違えたと教えてやったら?」
「馬鹿にしているのか? あれは木なんかじゃない、確かに人の手そのもので……」
「まあ聞けよ。僕の名は『セオドア』……お前はどう捉えた? 作品名か? それとも人名か? 仮に作品名だったとして、キャンバスに描かれた子どもの名前が作品名と同一であるとは限らない。人の手に渡り、画商に売られて、展覧会に出て……その過程で、僕の本当の名は失われたのかもしれないな。そうだとしたら、お前は僕をなんと呼ぶ?」

 あの日の恐怖を思い出して揺れる脳内に、絵画の声が流れ込む。テオドールの質問を無視して滔々と語られる言葉は、不思議と少年の精神を逆撫でするものだった。その理由は明確にはわからない。けれどふと思い浮かんだのは、美しく明るく、この不気味な館とは似ても似つかない豪華な我が家。
 こんなわけのわからない問いを押し付けてくる喋る絵も背筋が凍るような悲鳴もない、完璧な配置と色調の計算によって成り立つ世界。あそこにいたときのテオドール自身もまた計算し尽くされ、完璧で、そして……。

「うるさい!! 意味の分からないことを言うな!」

 なぜか霞のかかる帰るべき場所の姿への混乱を隠すように、はたまた押し付けるように、テオドールはそう叫んだ。
 この際自分のした質問に答えなかったことには目をつぶってやる。脈略なくおかしな話をする狂った絵に、正答を求めることが間違いだったのだ。突然語り出した言葉の意味も、テオドールにはよくわからなかった。だって、あの悪魔がそう言ったのだ。「あれは『セオドア』だ」と!

「自由に動けもしない苦痛に耐えかねて、そんなにお喋りになったんだろ? ここから逃げることも出来ないお前のことを、僕だけは心配してやるよ!!」

 八つ当たりじみた罵声を浴びせると、テオドールは爪先の向きを変えた。とにかくここから離れてしまいたい、この馬鹿げた会話を終わりにしたい。その一心で別れの挨拶もなく走り去った彼を、セオドアはそれ以上追いかけようとはしなかった。林檎の前を通り、再び麦畑へ。ようやくいつも通りの繊細な肖像画へと戻った彼は、額縁に寄り掛かるようにして笑った。

「見たか? あの怒り様」

 その声に応える者はいない。けれど、胸像たちは横目にその肖像を見つめていた。
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