第1幕 Dear My Sister
08 追憶のエヴァネセント
花が嫌いだった。姉の愛した花々が。
あれらはとても我儘で、すぐ弱り枯れていく。世話をしなければその結末は決まりきっているし、しすぎても――その愛は不要だと言うように色を失う。
庭の花々を愛で、やがて自身で育てるようにもなった姉は、いつまで経っても水をあげすぎて花を弱らせている人だった。花々は、姉の与えた愛は無駄なものだと言うように、萎れ、弱り、枯れていく。
そんな花は次第に、視界の中では公爵家と同じ姿を纏っていった。いくら愛を向けようと、邪魔だ無駄だと言いたげに扱う公爵家の人々。あの家と、萎れていく姉。すべてが許せなかった。
だから――。
◆
「エルシーちゃんは、一生懸命なのよ」
エリザベス・リリベルは、そう言った。
「あの子の生まれについての秘密は守ると、言っていたけれど。人の口に戸は立てられないし、本心も隠せないものよ。……そんな人はいないと信じたいけれど……きっと意地悪な人は、エルシーちゃんに冷たく当たるわ。それで傷付いてしまうこともあるでしょう……」
クロード・ジンは、あの少女がそんな殊勝なわけはないと思った。けれど、それを隠して頷いてみせた。
姉の部屋は薄暗く気に入らない。けれど、他でもない彼女自身がそれを望んでいるのだと知っているせいで、曇天をにらみつけることしかできなかった。
「姉さん、でも……」
エリザベス・リリベルは、眉をひそめる男――クロード・ジンの最愛の姉だ。少し年の離れている姉は、年上だとは思えないほどに不器用で失敗ばかりで、そして、誰よりも純粋で優しかった。
「あの男……公爵……は、姉さんが大変な時期にあんな……それで子はこの家でなんて、普通ありえないだろう」
「そのお話はもうしたでしょう? エルシーちゃんのお母様の御台所事情は、そう良くないのよ。幼い子を育てるだなんて、できないくらい」
「……そんなの」
「いけないわクロード。生まれてくる子に罪はないのよ。人は誰も……祝福され、幸せにならなければ」
食事もまともにとれていない痩せ細った手を、エリザベスは祈るように組んだ。
自分が幸せではないくせに、赤の他人の幸せを願うだなんて馬鹿げている。そんな風に思いながらも、クロードにとってそんな姉が愛おしくてたまらない。きっと他人が口にしたら笑い飛ばすような理想も、姉が語ればそれはクロードの世界においても理想となった。
置かれた環境の影響か、幼い頃から自分でなにもかもこなしてきた器用なクロードにとって、他者は自身の道を邪魔する不要な存在でしかなかった。それが唯一姉だけは、に変わったのはいつのことだったのだろう。なにかきっかけがあるはずなのだけれど、気が付けばそれは思い出せないほど遠い些細な出来事になっていた。エリザベスはいつも変わらない愛と優しさをクロードに向けてきていたから、きっときっかけもその中に埋もれてしまったのだろう。
「……彼はわたしとは違って、とても賢い方ですもの。こうしてお部屋から出られないわたしより、よほど博識で、間違えない方よ。エルシーちゃんだってきっと、大丈夫よ」
そうだろうかと浮かんだ疑念は、やはり言葉になることはなかった。
彼というのは、エリザベスの夫であるあの男を指しているのだろう。確かにハーヴェイ・リリベルは頭がいい男ではあった。クロードの目から見ても、彼の家と権威を守る手腕は飛びぬけているし、教養だって文句のつけようがない。けれど、妊娠や出産を越えた妻を気遣う様子も見せず、どこの生まれかもわからない女に現を抜かすなんて、賢い人間のやることとは思えない。その女との間の子を公爵家で育てると報告された……ということを姉から聞いた日には、少しの嫌煙が確かな憎悪に変わったものだった。そんな弟の様子を見て、エリザベスは笑う。
「ねえ、クロード。わたしは家族を愛しているの。……わかってくれるでしょう?」
家族。姉の語るそれには、彼女を顧みない夫と血のつながりのない娘も含まれているのだろう。
長い時を共に過ごしてきた姉のこの博愛だけは、クロードにはどうにも理解ができない。姉は元来不器用だったから、叱責も誹りも多く受けてきていた。そのすべてに反論し……そして時には、姉を悪く言った相手にずいぶんと陰湿な反撃を仕掛けていたクロードに対し、姉はいつも静かに「だめよ」と微笑んだ。
――優しくて正義感が強いあなたにとっては、棘のような言葉かもしれないけれど。それでも、わたしは彼らが好きなのよ。大好きな弟が大好きな人たちを傷付けているところなんて、姉さんは見たくないの。
今とまったく同じように、わかってくれるでしょうと微笑んだ姉のその言葉は、幼い頃からわからないままだ。クロードにとって、自分を嘲笑うような相手はまごうことなき敵であり、どのような手を使ってでも敵の膝を折らせなければ満足などできなかったから。性質なのだろう。クロードのこれも、姉の博愛も。自身を嗤う存在を愛するなんておかしいと思うけれど、姉が「そう」ならば。他人なら歪で不気味だと距離を取るはずのその愛情すら心地よかった。
「……ただ……使用人に世話を任せきりなのは、あまりよくないわね。ロバートだって、ずっと一人にしてしまっていたのに……」
「無理する必要なんかないだろう。エルシーの世話を姉さんがする義理なんてないのだし」
「クロードったら……」
弟のあけすけな物言いに苦笑はすれど、エリザベスはそれ以上なにか言う気はないようだった。
エリザベスが部屋の外を恐れるようになってから、もう随分時が流れたように感じてしまう。ロバートが生まれてからの出来事なのだから、そう時間は経っていないはずなのだけれど。とある日、「そういえば」の温度感のハーヴェイからそのことを聞かされたクロードは、その足で姉に会いに行ったことを覚えている。
薄暗い部屋に沈んだ表情で立ち尽くす姉の姿と曇り空を忘れた日なんてなかった。迷子のような表情のエリザベスを宥めて落ち着かせて聞いた話によれば、特に理由はないのだと言う。ただ少し、出産からこの頃気分が落ち込んでいるだけだ、と。最初こそ公爵家でもまたなにか言われているのではと考えたクロードだったけれど、どうやらそれは外れのようだった。ハーヴェイは優しくはないものの妻にひどい言葉を投げかけることはなかったし、使用人も規律正しく――内心はどうであろうとも、姉にわかるような態度の者はいないようだ。
それならばなぜと考えても、答えは出ないまま。日に日に弱っていく姉の様子を頻繁に見に来ながら、クロードはどうしようもない歯がゆさを感じていた。
「けれど最近は調子がいいのよ。少しなら食事もできるようになったし、それに、ロバートが時々会いに来てくれるもの。そのお花だって、ロバートが持ってきてくれたのよ」
それは花というよりも、雑草という言葉が似合うようなものだったけれど、その感想は腹の底に沈めておくことにして。クロードは1つ咳払いをして切り出した。
「姉さんが少しでも楽になっているならよかった。なにかほしいものがあるなら、用意……」
「ありがとう。いつも言っているけれど、その気持ちだけでじゅうぶんよ」
「……そんなこと……」
嘘だろうとは言えなかった。姉は本当に無私で無欲な人なのだ。それがわかっていても、こうして彼女の願望を求めようとするのはやめられない。
けれど、姉に必要なものは自分の用意するような高価なものではないのかもしれない。息子が持ってくるような草……もとい花こそが、もしかしたら。卓上のそれだけに向けられていた、この息苦しい空気を浄化するような姉の微笑みを見てそんなことを思った。
「そうだわ。いつもならもうすぐロバートが来てくれるのよ。あまりお話したことはなかったでしょう? 親戚ですものね、せっかくだし……」
エリザベスがそう言ったとき、控えめなノックの音が聞こえた。その小さい音は、遠慮と力のなさを感じさせるもので、これがロバートか、とすぐに思い至る。
「はい、どうぞ」
姉の弾む声に扉が開いた。
小さくておどおどしたその子どもの纏う空気は、エリザベスにとてもよく似ていた。明るい金髪と青い瞳の色は父譲りだろうけれど、目元や雰囲気は母にそっくりだ。その子ども――ロバートは、クロードの姿をみとめた途端に怯えたように足を下げる。
「ロバート、こちらにいらっしゃい」
母の声を受けて、ロバートはどうにかこうにか部屋に入ってきた。大判の絵本を持って、クロードから距離を取ろうとよたよたふらふらと歩くその姿を見て……ああ、きっと姉に似て不器用なのだろうなという考えが浮かぶ。エリザベスのベッドを挟んだ向かい側、窓を背にしてクロードを警戒するその姿は、誰をも受け入れ愛する姉とは異なっていたけれど。
「ロバート。こちらはお母様の弟……クロードよ。ご挨拶しましょう」
「…………あ……」
エリザベスの体に身を隠すように揺れながら、ロバートはもごもごとなにかを口にした。小さくこもった声が発した言葉はよくわからなかったけれど、母に示されたような挨拶なのだろう。おそらくは。そう判断したクロードは、ちいさな甥と目線の高さを合わせて微笑んだ。
「……ええ、こんにちは。私はクロード・ジンと言います。ロバートくん、なにか困ったことがあれば、私に相談してくださいね」
作り笑顔には自信があった。ロバートはそれに絆されたように目を瞬かせ、それからこくりと頷く。
「姉さん、そろそろお暇するよ。また来るから」
「あら、そうなの? わかったわ。忙しいだろうから、無理はしないでね」
慈愛のこもった手つきで息子の頭を撫でながら、エリザベスは微笑んでいた。
エリザベスが屋敷の中でなら自由に過ごせるようになったと聞いたのは、それからしばらくしてからだった。
「……お天気が素敵な日に限るのだけれど。それでも、嬉しいわ」
黒髪を揺らし、目を伏せてエリザベスはそう言った。
「どういう心境の変化か知らないが、また面倒をかけるなよ」
「ええ、はい。わかっています。ふふ」
冷たく言い捨てたハーヴェイに、エリザベスは気を悪くした様子もなく微笑んだ。姉の方を向こうともしない様子にクロードの眉が上がるけれど、家主である彼に招かれた身で文句をつけるわけにはいかない。どうにか自身を落ち着かせようと、クロードは以前姉から聞いた話を思い出していた。
彼女の言うところでは、夫は優しいらしい。エリザベスがずいぶんとおぼつかない足取りでふらついているのを見かけた彼は、それまで誰もいれようとはしなかった自身の書斎で休むことを許可したのだ。それどころか、こうして日常的に隣にいることすら許してくれた、と。必要以上に近寄るなと言われていたこれまでが異常なのではと思わなくもない。けれど姉が「彼は優しい」というのならば、弟においてもそれが真実。クロードの目には、姉が優しさだと語るこれは無関心から来るものに映ったけれど、それは勘違いだということとする。
「子どもたちも、もうずいぶん大きくなりましたでしょう。わたしもしっかりしなくては」
「そうだな。ロバートは、まだ母離れができていないように見えるが」
「母離れだなんて。あの子は優しいから、わたしのことを心配してくれているだけですよ。もうとっくに1人で立てていますもの」
「どうだか」
楽しそうなエリザベスに対し、ハーヴェイは冷たかった。それでも今が幸せで仕方がないというようにエリザベスが頬を染めているから、クロードは場に合わせて微笑むことしかできない。いったいどういう理屈なのかクロードにはわからないけれど、姉は夫のことを愛しているようなのだ。姉が今幸せなのであれば、水を差す必要はない。
「……そろそろ戻ったらどうだ。弟と話したいこともあるだろう」
「ふふ、ありがとうございます。それではお言葉に甘えて……クロード、わたしのお部屋に戻りましょう」
ついぞエリザベスと目を合わせなかったハーヴェイに一礼し、クロードは姉に続いた。その足取りはずいぶんとしっかりしていて、あの暗い姿は嘘のようだ。陽の光を浴びる姿に笑みをこぼしていると、ふと怒りに満ちた足音と共に子どもが走ってくる。
ふわりふわりと揺れる金髪のツインテールと、翻るスカート。そしてなにより、エリザベスとは似ても似つかない気の強そうな瞳。
「まあ、エルシーちゃん」
エルシー・リリベルだ。その出自のせいでついその姿に眉をひそめたくなるけれど、なにも知らない子どもの前で行儀がいいとは言えないだろう、とクロードは思い直した。
「走っては危ないわ。どうしたの?」
エリザベスの問いかけに、エルシーは不満げに頬を膨らませる。母のスカートを引っぱった彼女は、きゃんきゃんと子犬のような声をあげた。
「お兄ちゃんとあそぶのつまらないの! 言ったことやってくれないし、どんくさいし!」
それは幼い子らしい愚痴だった。こんがらがった大人の事情だなんて知らない子どもたちは、どこにでもいる普通の兄妹のように話し食べ遊び、そして眠っているようだ。けれど、なにをするにも時間がかかるロバートと行動力にあふれるエルシーは、なにをしていても合わないらしい。そしてその不満を口にするのは必ずエルシーで、ロバートの方は妹からの遠慮のない言葉をいつも黙って聞いているだけ。その態度もまた少女の気に障るようで、外から見ている限り兄妹仲はお世辞にもいいとは言えないように見えた。
「もう! お兄ちゃんって、ほんとにできがわるいんだから!」
「……あらまあ、エルシーちゃん。そんなことを言っては……」
「知らない! もう行くね、おじさまもまたね!」
説教の気配を敏感に感じ取ったらしいエルシーは、やってきたときと同じような足音で去っていく。その姿は公爵令嬢にはふさわしくはないけれど、ただのお転婆な少女だと思えばかわいらしいものだった。クロードにも手を振ったエルシーには、悪意や敵意というものはまるで感じられなかったし……自分とはこれまで関わりのなかった性質の女の子だというだけで、そう悪い子でもないのだろう、と。そう判断し、クロードは心配そうにその娘の後ろ姿を見送るエリザベスに声をかけた。
「……まあ、姉さん。子どもならあのくらいの言葉、悪気なく使うこともあるだろう。意味もたいしてわかっていないだろうし」
「そうかしら……あまり、人を悲しませるようなことは言ってほしくないのだけれど……」
部屋に戻る途中でも心配を口にし続けるエリザベスに、その都度そう心配することでもないと口を挟みながらも、クロードも多少の引っ掛かりを覚えていた。
遊んでいてもつまらないという大人から見ればかわいらしく、本人から見れば大きな不満。それを親に語るどこか舌足らずな声に挟まるには、ずいぶんと鋭利な言葉であったことは確かだ。「出来が悪い」だなんて、彼女はどこで覚えてきたのだろう。エリザベスではないことは明らかなのだし、使用人にそのような言葉を吹き込まれるのだろうか。クロードの身近にいる幼い子といえばロバートとエルシーくらいなものだから、いくら考えても答えは出なかった。もしかしたら今の子どもとはそういうものなのかもしれないし、なんて年寄りじみたことを考える。それに姉と義兄のことだから、そのうち言葉遣いも正しく教えるだろうという信頼もあった。だから、少しの違和感を見ないふりをして、クロードは相変わらず心配そうな姉に違う話題を振った。
――このときからもうすべては狂い出していたのかもしれないと、今思い返せば……そう思うのだ。
◆
それは、ロバートが十三になった年の冬のことだった。
エリザベスは過去の明るさを取り戻していた。大勢の人々がいるところに行くには少し準備に時間がかかるけれど、ご近所付き合いくらいであれば問題なくこなせるようになっていたし……そしてなにより、公爵家で微笑んでいるところをよく見るようになった。クロードとしてはそれだけでもう満足で、これ以上はなにも望まないと思えるほどだ。この頃は自身も忙しくはなっていたのだけれど、それでも姉を放っておくことなど到底できず、暇を見つけては公爵家に足を運んでいる。
そんなある日のことだ。公爵家に訪れると、なにかを話していた様子の兄妹がクロードの来訪に気がついて振り返る。兄の様子を見る限り、会話というよりもエルシーからの一方的な押し付けにも見えるけれど――ロバートを憐れんでそこを問い詰めても、賢しいエルシーはうまくかわすだろう。揃いの色をした、意志の強そうな瞳と気弱そうに伏せられていた瞳がこちらを向いた。
「あ、叔父様。お母様のこと見にきたの?」
「……こんにちは。母を呼んできましょうか」
「こんにちは、お気遣いなく。姉さんには伝わっていますから、こちらから向かいますよ」
どこか不遜なエルシーが「ふうん」と意味ありげに呟いた。幼い頃と比べると美しく伸びた金髪をいじりながら、どこか馬鹿にしたような声色で話し出す。
「お母様っていいわね、実家が勝手に面倒見てくれるんだもん。わたしが嫁いでも、お兄ちゃんはこんなに尽くしてくれないよね」
「……エルシー……」
「わかってるわよ、昔はこうじゃなかったのね。何回も聞きました」
「……そ、れも……そう、だけど……ほら、その……」
「言いたいことがあるならちゃんと言ってよ。その調子だから、お父様に怒られているんじゃないの?」
「…………そ、うん……そうだね……」
口ごもった兄を冷たく一瞥し、エルシーはクロードへと向き直った。自分の方が上だと言いたげな立ち姿に思うところがないわけでもないが、それを隠して微笑む。
「お母様に、叔父様がいらしたって伝えてきます。お母様に話したいこともあるから、わたしは先に行くね」
ぱたぱたと屋敷の中に戻っていく彼女を見送ったロバートは、機嫌を窺うようにクロードを見上げて「すみません」と小さくつぶやいた。
ロバートは幼い頃から変わらず気弱で不器用で、人見知りが激しい性格へと成長した。それでも姉を訪ねていた際に頻繁に顔を合わせていたからだろうか。クロードに対しては人見知りも控えめで、口ごもることも少ないように思える。いつも妹に容赦なく言葉を投げつけられては、言い返すこともできず眉を下げている姿ばかりで、父のような威厳はどこにも見受けられない。きっと対等な人間として知り合っていたら、クロードにとってもロバートは優柔不断で忌々しい存在だったけれど、幼い頃から知っている甥となれば多少は別だ。
「君が謝ることはないでしょう。またエルシーに、なにか?」
「……いえ、えっと、はい……僕のことは、いいんです。いつものことですし……それよりも、エルシーが失礼なことを言って……すみません。……叔父様のおかげで、母は今のように生活できるようになったのに……」
「私は姉さんの話を聞いていただけです。姉が明るくなったのは、君の存在が大きいと思いますが」
それは心からの言葉だった。姉の話を聞いては行き場のない苛立ちを募らせるだけだったクロードは、彼女のためになっていた自信はない。それよりも、日々の小さな喜びを共有しようとしていたロバートの方がよほど彼女の心を支えていたように思える。そう伝えても、ロバートは自嘲するように笑っただけだった。
「……どう、でしょう。母が体調を崩したのは、僕が生まれたからだと聞いていますし……。それに、僕がこんなに不出来でなければ、父の機嫌も……両親の仲も、もっとよかったのではないでしょうか」
いつもの気弱にこもった声とは違う諦念を感じる掠れた声に、クロードは咄嗟に言葉を返すことができなかった。しっかりとした言葉選びは、まだ十歳と少しの少年がこの考えを何度も何度もなぞっているのであろうことが伺える。クロードは我ながら薄情な方だと思っているけれど、そんな甥の姿に憐憫を抱かないほど冷え切ってはいなかった。
「いえ……すみません。母のところに向かわれるのですよね。用事がありますので、これで失礼します。母は部屋にいると思いますので……」
呼び止められることを恐れるように去っていくロバートを見送るしかなく、一人取り残されたクロードは慣れ親しんだ公爵家へと足を踏み入れた。
いつ訪れても一部の隙もなく整えられてその権威を示している屋敷だけれど、その内部はかなり不安定のようだ。けれど、クロードにとって最も大切なのは姉である。エリザベスが幸せそうに暮らせているのであれば不満はない。また以前のように暗く沈んだ表情を見ないで済むのであれば、それが一番だ。公爵家の兄妹や親子の不和も、もし姉の心を乱すようであれば首を突っ込むつもりではあるけれど……正直なところ、そこまでの影響はないように思える。
「……だから!! お母様の意見は聞いてないんだってば!」
冬にしては暖かい気候のせいか緩んでいたクロードの思考を引き戻したのは、そんなヒステリックな声だった。
姉の部屋の方から聞こえた声は、間違いなくエルシーのものだ。少女らしい高いそれは、普段とは違って激しい怒気に包まれていた。慌てて部屋に近寄るけれど、閉じられた扉の前では姉の声は聞こえそうにもない。エルシーの怒鳴るような声の合間に時折静寂が挟まるあたり、なにか会話をしているであろうことは間違いないのだけれど。
「わたしはお母様とは違うの! 色々な人に寄りかからないと生きていけないお母様とも、頭の悪いお兄ちゃんとも違う。使えないあなたたちとは違って、わたしは賢いの!!」
「……だ、だめよエルシーちゃん、そんな言葉を使ったら……」
なおも言い募ろうとするエルシーを遮って大きな声を出した様子のエリザベスは、そんな言葉を口にした。どこで聞いたのかわからない罵倒を娘が口にするたびに、彼女は幾度となくそう言い聞かせてきた。それが功を奏しているようには思えなかったけれど。今回もあまり響いていない様子の一瞬の沈黙のあと、エルシーの呆れたような声が聞こえてくる。
「……子どもの頃から、そうやってお説教されてきたけど……」
扉の前で、クロードは部屋に入るべきか否かの答えを出せずにいた。今すぐ扉を開けて、エルシーを止めることが正しいように思える。けれど、今まで見てきたあの少女の性質上、余計に激昂するのではないだろうか。いや、それでも止めて……多少強く言ってでも、エルシーを部屋から追い出すべきだろう。少しの逡巡の中でそう結論付けたクロードは、重々しい雰囲気の扉に手をかける。
その動きは、扉の向こうから聞こえてきた次の一言で止まることとなった。
「お母様のこともお兄ちゃんのことも、お父様がそう言っていたんだよ。出来が悪くて使えないって、だから嫌いだって、ずっと!」
クロードは、素直にすべてを愛し愛を信じる姉とは違う。ハーヴェイ・リリベルという男は、姉の語るような優しい夫ではないであろうことくらいはわかっていた。そもそもが冷たい性分であるし、不義の子の面倒を妻に見させるような人間のどこが優しいというのだろう。エリザベスの心身が落ち着いてからというものは、多少その態度は軟化していたように見えていた。それがずっと彼女が向けていた愛に応えたものなのか、それとも別の理由なのかはわからないけれど。
とどめを刺すように続けられているエルシーの声は最早耳に入ってこない。それはエリザベスも同じなのだろう。我に帰ったのは、向こう側で扉が動く音がしてからだった。咄嗟に隣の部屋へと身を隠すと、すぐに不機嫌そうに眉をひそめるエルシーが出てくる。まだ怒りが収まらない様子の彼女の向かう先に、今はなんの興味もない。
「姉さん」
開けっぱなしの扉から中を覗くと、今にも崩れ落ちそうなエリザベスの瞳が動いた。
「……あら、クロード……」
「姉さん、その」
「聞かれてしまっていたかしら、ごめんなさいね……あなたはわたしの家族とはいえど、お客様なのに……」
体に力が入らないというようにふらふらとその場に座り込んだ彼女の表情を、クロードはよく知っていた。ロバートが生まれてからの数年間、ずっと暗い部屋の中で見てきたものだったから。以前会ったときにはやわらかく未来を語っていた瞳は、今では陰を落とすだけだ。
「…………嫌い……」
そうつぶやく声は震えている。
姉は、エリザベスは、どのような言動にも愛を返す人だった。
苛立って反論しようとするクロードを抑えては、わたしは彼らが好きなのだものと微笑んで。好きな人が好きな人たちを傷付けるところなんて見たくないわと頭を撫でて。どんな失敗をしようとなんと言われようと、姉が悲しんでいるところだなんて見たことがなかった。たとえ嫌いだと直接言われたとしても、それを受け止めたあと微笑むのだ。それでもわたしは、と。クロードには姉のそんな性質はまったく理解できないものだから、その意図はまったくわからなかったけれど。
それでもそんな姉を慕っていた先でわかったのは、エリザベスにとってハーヴェイ・リリベルは特別なのであろうということだけだ。婚約していた頃も、そして結婚してからもエリザベスを気に留めようともしない彼を、それでも幸せそうに見つめていたから。
「…………ごめんなさい、違うの……」
だから――初めてだった。ごめんなさいとうわごとのようにつぶやく姉の、泣き伏す姿を見たのは。
◆
それからのことは、あまりよく覚えてはいなかった。それは無意識にクロードが忘れたがっているからかもしれないし、姉への思い以上に強い憎しみに、日々のすべてを塗りつぶされているかもしれない。
数年が経って、この小さな王国にも色々なことがあった。それはもう聞き飽きるほど繰り返されている貴族同士の争いだとか、新たなる王妃やその子に対する批判だとか。すべて議論しようと思えば話すことには困らない話題ではあったけれど、クロードの関心がそちらへと向くことはなかった。
彼の関心は、ただ。あの日から再び部屋に閉じこもるようになり、最早会話すらままならないエリザベスのこと。そして、姉の心を壊すような言葉を放ったエルシーへの憎悪。憎しみは次第に、姉への不義の末に生まれたエルシーの存在そのものへの棘へと変貌を遂げていく。それが肥大化し、クロードの体を突き破るまでにそう時間はかからなかった。
「姉さんも君も、エルシーにはひどい目に遭わされてばかりだ」
ロバート・リリベルは、あの頃よりも大人びてはいたけれど……相変わらず、どうしようもないほど愚かな子どもだった。
「――私に一つ、彼女を大人しくする方法に心当たりがあります。……それには君の力が必要なんですよ。手伝っていただけませんか?」
そんな甘い言葉に希望を見出した様子のロバートに、クロードは微笑んでみせたのだった。