第1幕 Dear My Sister
05 月光を排す
「……あー……いやー、お互いお疲れー……っす……こんな夜に駆り出されて、ほんと偉い人は無茶苦茶言う……」
そう思わないですか、と深い夜と揃いの瞳が男に向けられた。暗闇に気怠げな雲を溶かしたような瞳の青年はため息をついて、ふわふわと揺れる髪を軽くいじった。その言葉と視線を投げかけられた男は、なにも返事をせず黙り込んでいる。正確には返事をする余裕なんて持ち合わせていないだけだったけれど、青年はそんなことを気にも留めず、次の引き出しに手をかけた。
はあ、と「面倒臭い」という気持ちの込められた、けれど、それを言葉にすることすら面倒だと言いたげな大きなため息が部屋に響く。
「……ねっむ……あんたは寝ててもいいっすよ……仕事終わりだし、お互い。久々に家のベッドで寝たらどうすか」
「……いや、そういうわけにも」
「あーでも、あれですね、なら先に……めんどくせえな……やっぱ寝ないでもらっていいっすか」
半ばひとりごとのように話しかけた青年は、再び大きなため息をついて引き出しの中身をひっくり返した。ここが他人の家だと思っていなさそうな彼の雑な散らかしように、男は口を挟みそうになってしまったけれど、結局なにも言えずに口を噤んだ。
――男は城仕えである。
王家や高位貴族にはもちろん遠く及ばないけれど、それなりに裕福な家に生まれいい暮らしをして。長年の夢であった料理人となり、そして今では王城の食事の管理を任されるまでに至った。仕事は順調で妻子とも円満、多少の苦労はあったけれど特に不満のない人生を送っていた。そんな彼は今、とある気掛かりのせいで生きた心地すらしていないのだ。それはあまり語りたくはない話で、否定を口にしながら祈るしかない出来事だ。自身と妻子、仕事と家、とにかくすべての命運を王家に握られているのも、この見知らぬ青年により家中が荒らされているのも、その出来事に起因する。
夜、国王より与えられた簡素な部屋で眠れなくなっていた男の元に、青年はやってきた。どこにでもいる平民のような服装に身を包んだ彼が口を開くより先に見せてきたのは、その素朴な風貌には似合わない立派に輝く王国騎士団の証。月明かりを反射して輝くそれに慄いている男に、青年は言ったのだ。
「ある方が、あんたの家漁れって言ってきたんで。今からいいすか」
なにもかもの説明を省いた言葉だったけれど、男はそれだけですべてを理解し、自分に拒否する選択などないことを悟った。
男に家までの道を案内させる間、青年は無言で後ろをついてきていた。あまりやる気を感じさせない雰囲気だったけれど、相手は一応騎士団だ。逆らうわけにはいかない……そんな思いが、男の中で渦巻いていた。
そして今。玄関からキッチン、衣裳部屋にダイニング。その気怠そうな態度とは裏腹に、青年は一部屋一部屋丁寧に、どんな細かいところも見逃さず開けては中身を取り出し、荒らしていく。なにかを探しているらしいことはわかるけれど、彼は自分がなにを探しているのか把握しているのかは、男には計りかねた。眉を顰める彼の背後に立ちながら、床に色々なものが散乱していく娘の部屋を眺めることしかできない。
「あーすみません、そこ、ちょっと」
「え、あ、はい……」
ちょうど男に隠れていたクローゼットに目をやった青年は、次の目標をそこに定めたらしい。嫌な動悸を抑える男を横目に、青年は服をかき分けていく。
――もしも、すべてがこの青年と、青年をここへやった者の手の内だとしたら。
あとはもう、
「あとは……あっちか……部屋多すぎだろ……」
ぼやく彼についていき、別の部屋を漁る彼の様子を今度は隣で眺めながら。男は動揺を隠そうと努めることしかできなかった。
「…………あー……だる……」
そしてすべての部屋を満遍なく捜索し、考えられないほど荒らした後。青年は座り込んだまま立ち上がろうとしなかった。声をかけようとした男を、視線だけを斜め上に投げ見やった青年はようやく立ち上がる。そして男の横をすり抜けて部屋から出る背中を見送りながら、彼はようやく息をついた。ああ、やっと帰るのだろうと彼を追った視線は止まり、引き攣ったような声を上がる。
「――……、も、もうお帰りでは……そこはもう……」
「いや、あー、はい」
返答のつもりなのかなんなのかわからない言葉だけを残して、青年は再び娘の部屋へと入っていく。慌てて追いかけた部屋は相変わらず、綺麗好きの娘が見たら怒り出すであろう有様だった。そんな床の中心で部屋を見回した青年は、立ち尽くす男をそのままに迷いなく歩き、ぴたりと立ち止まった。視線を落とした先は、もう既に中身はからっぽのはずのクローゼット。自分が隈なく調べたはずの場所を、もう一度眺めて――青年はふと、ため息をついて軽く体を伸ばす。
まだ幼い娘のために誂えた、新品と呼んで差し支えのないブランドもののそれ。内側にまで意匠が施された扉に、青年は――。
思いっきり、蹴りを入れた。
声にならない悲鳴が部屋に響く。けれどそれは、家具を壊されたことによる怒りでも、娘の悲しむ顔が思い浮かんだからでもなかった。普段の男ならば、そんな部分を咎めるような理性と正しさを持っていたけれど、今に限ってはそうではない。なぜなら、その深い木の色に雑にあけられた穴から覗く、上質であることがわかる紙は……。
「これか」
青年の手がその紙に伸びて、中身にさっと目を通す。その文面を追って、密やかに少しだけ顰められた眉に、男が気が付くことはできなかった。自分の仕事は終わりだとばかりに胸ポケットに紙を入れると、青年は立ち上がる。違う、これは、とうわ言のように言い訳を口にしようとする男に、青年は迷惑そうに突き放す。
「すみませんけど、そういうの聞くのは俺の仕事じゃないんで……あーでも、言っときますけど」
青年が口を開く。無感情だった瞳には、微かに同情のようなものが映っていた。
「堂々としてた方がいいっすよ、たぶん。視線も立ち位置も、ずっと意識してましたよね。これ。……人間ってそういうもんなんだろうけど……」
「……!」
「これを見つけて、あんたを城に戻すまでが俺の仕事なんで……じゃ、行きますか」
「やあ、お疲れ」
「……ほんとですよ」
すっかり力を失った男を無理矢理ベッドに押し込んだあと、青年は約束の場所へ向かった。月明かりすら入らない城内を曖昧に照らすランプの傍で、彼はにこやかに微笑んでいる。
――リュシアン・リーフェンシュタール。青年に突然、今からシェフの男の家に行ってあるものを探してこいと命じた第二王子殿下だ。男の家から見つけたものをポケットから取り出すと、リュシアンはわざとらしく感心した声を出した。
「本当にやってくれたんだ」
「……見つけるまで帰ってくんなって感じじゃなかったすか」
「嫌だな、僕はそんな無理は押し付けないよ。ただ、君ならすぐ見つけて帰ってくるだろうと信じて……少し応援しただけじゃないか」
こいつ適当言いやがって、なんて思いが浮かんで、相手の立場を思い出して青年は目を逸らした。リュシアン殿下はそれはそれは気安く話しかけてくるが、向こうは王子。そしてこちらは王国騎士団に入れられただけの平民なのだから。青年にいつも通り微笑みながら、リュシアンは紙に目を通す。その笑顔は相変わらずだけれど、瞳には剣呑な光が次第に宿っていった。
「――へえ……これを知ったら妹が喜ぶよ、ありがとう」
「はあ……そうですか。それよりも殿下、約束の話ですけど」
「わかってる。頼みを聞いてもらったんだ、君の願いも叶えるさ。……とにかく、今日はありがとう。いい夢を」
リュシアンは上機嫌に、ひらりと手を振って去っていく。その後ろ姿に、不本意ながら叩き込まれた礼儀として一応頭を下げつつ、青年は大きなあくびをしたのだった。
◆
「なるほど、それでは手がかりという手がかりはないと」
私の話を聞き終わったジン伯爵は、モノクルを押し上げながらそう言った。少し大袈裟に頷いて見せると、彼は労わるように微笑んだ。
ジン伯爵を呼び出したのは、先日彼が城に来ていたのに話しそびれたから。せっかく挨拶をしようとしてくれていたのだし、という方便を携えた使者を送ると、すぐに色良い返事が返って来た。これまでの話を軽く伝えつつ、「犯人はまだわかりそうにもない」と告げて紅茶に手を伸ばす。
「正直に申し上げますと、私はもう手詰まりだと感じていますの。伯爵」
「それはそれは……王女殿下らしくない。なにかお力になれればよろしいのですが、私も助けになれるようなことは……」
「いえ、そのようなことありませんわ。私は伯爵のお考えを伺いたくお呼びしたのですから。……以前伯爵は仰っていましたわね、怪しいのはロバート様だと」
「ああ……その件ですか」
ジン伯爵は笑みを崩さずつぶやいた。伯爵が初めて私の元を訪れてきた際に言っていたことだ。ロバートから直接妹に対する不満を聞いていたし、嫡男の犯行なのであれば公爵が偽装工作に走る動機もあるのではないかと。気弱な彼に人殺しなんて出来るのかしらと思い始めてきた私としては、伯爵の考えを全面的に支持する意図はあまりないのだけれど……ふと感じたのだ。
「思えば私は、事件の渦中にいるリリベル家についてなにも知りませんわ」
いつも私に嫌味を投げてきていたエルシー・リリベル。そして私を嫌う公爵――こと、ハーヴェイ・リリベル。今回の事件が起きるまで、私が話したことがあるのはこの二人だけだった。兄であるロバートは社交界にやってくるのは最低限だったし、公爵夫人も気がつけばその姿を見かけることがなかったから。その公爵夫人が心を病んだなんて話もあまり聞くことではなかったのだし。ですから、と前置きをして、私は伯爵に告げた。
「縁戚であるあなたのご意見を伺いたいのです。公爵のこと、あの兄妹のこと、それから……公爵夫人のこと。事件に関係なくとも構いませんわ、家族仲や交友関係を。もちろん、話せることだけで結構ですから」
「ええ、喜んで。とは言っても、私もとても親しくしていたわけではありませんが……公爵家には度々訪れていましたから、少しはお力になれるかと」
「ありがとうございますわ。では……そうですわね、伯爵から見て、公爵はどのようなお方ですの?」
リリベル公爵とジン伯爵の間を表す言葉として最も簡単なのは、義兄弟だろうか。ジン伯爵の姉、エリザベスがリリベル家に嫁いでいるのだから。家同士の付き合いがあるだろうから、なにか話を聞けないだろうかと思ったのだけれど、伯爵は少し考えた後に口を開いた。
「そうですね……とてもやり手の……貴族として卓越した能力をお持ちの方だと存じます。――ですが、公爵とエルシーについては、私も親しいわけではないのです」
「まあ、そうですの?」
「当主としての付き合いはありましたが、特には……。私はどちらかというと、姉やロバートの方と親しくしていました。エルシーとはあまり話したことがなく、かなりの我儘娘だという印象くらいしか」
きっと伯爵も、エルシーのあの態度に悩まされたことがあったのだろう。なにかを思い出すように苦笑いを浮かべてそう言った。
「それから、公爵の前では随分と猫をかぶっているなと。ロバートはそんな妹と、厳しい公爵に挟まれて苦労をしている様子でしたね。彼も悪い子ではないのですが……怯えすぎというか、優柔不断というか。そのようなところがありますから、主張が強く自信に満ち溢れている二人とは相性が悪かったのでしょうね。私としては、ロバートの方が好ましい存在でしたが」
「そのお考え、わかりますわ。ロバート様も気苦労が絶えない方ですわね」
「はい、本当に。時折気にかけて声をかけていたのですが、その度に妹への怨嗟や怒りを聞かせてくれました」
「……と、申しますと」
その流れるような語り口を止めさせると、伯爵はティーカップを置いて微笑んだ。細められたモノクル越しの瞳に見つめられると落ち着かない。本当に、蛇のような人だ。
「王女殿下のお耳に入れるべきではない品位に欠けた内容ばかりですから、詳しくは伏せさせていただきますが……ロバートはとにかく、エルシーを殺したいほど憎んでいる様子でした。その原因までは口を開きませんでしたが」
その話に、過去のロバートの言葉が思い出された。
――エルシーは殺されて当然だと。
あんなにも感情を露わにして、憎々しげな光を宿していたロバートの姿を見たのはあの時だけだ。その後ロバートが話したのは、エルシーの横暴とそれに心を病んでしまった公爵夫人への心配、公爵への不信。曰く、エルシーは我儘を言っては公爵夫人を召使かのように扱っていて、その結果夫人は外に出ることすら出来ないほど追い詰められてしまって。そして公爵は、そんな妻を気にかける仕草さえ見せなかったと。随分な話だけれど、めずらしくもない。地位ある人間の愛人もその子の存在も、それによって狂わされていく家庭も。
公爵夫人ほどに追い込まれてしまうなんていう話も、身近に存在しなかっただけで、きっと。
「……ロバート様は、公爵にもエルシー嬢にもお怒りでいらっしゃるのですね。公爵夫人のことを大切に思っていらっしゃるようですから、余計に……。そうですわ、ロバート様から、伯爵が公爵夫人を案じて公爵家にいらしていたとお聞きましたけれど」
「おや、そのような話まで……。はい、その通りです。姉は元々繊細で落ち込みやすい人でしたから、色々と話を聞いたりしておりました」
「そうでしたの。もしよろしければ、公爵夫人についてお聞かせくださいませんこと? 事件の収集がついた後になりますが、なにかそのお心を癒すお手伝いをさせていただきたいのです。不躾なお願いですが、どのような方なのか知りたいのですわ」
そう言うと、伯爵は不意を突かれたように黙り込んだ。おそらくだけれど、私がこのようなことを言い出したのが意外なのだろう。……裏を探られなければいいのだけれど。公爵夫人のことは労しいと思っているし、どうやら夫の色恋に巻き込まれる形で苦しまれている彼女に安らぎをという思いも、もちろんある。ただ、夫人の話を聞きたい理由はもう一つあり、そちらの割合がどちらかといえば大きいのだ。
わざとらしくならない程度に、ここにはいない彼女を気遣うような表情で伯爵を見つめる。数秒の間の後、ジン伯爵は穏やかに笑って口を開いた。
「お気遣い、大変嬉しく頂戴いたします。……それでは、少しお話させていただいてもよろしいでしょうか。私にとって何より大切な――姉のことを」
「ええ、お聞かせ願いますかしら」
エリザベス・リリベル公爵夫人。ジン伯爵とは少しだけ歳の離れた、ジン家長女。彼女はロバートの実の母親であるけれど、エルシーは彼女の子ではなくて……これまで聞いた話をまとめると、歯車が大きく狂い始めた原因はエルシーの存在のように思えた。
伯爵の目が見たこともないくらい優しく細められる。この人このような表情もできたのね、なんて感想を抱きつつ、私は彼が話し出すのを待った。
「……姉は、とても優しい人です。たとえ相手がどのような悪人であっても、言葉の通じない動物であっても、すべての痛みに共感し相手に尽くそうとして、結局いつも疲れ切ってしまうような……優しすぎる人です。昔からずっと。彼女は身内の贔屓目で見ても器用な方ではなく、誰かに手を差し伸べにいく途中で転んでしまうことばかりでした。それを恥じて落ち込んでばかりでしたが、私はそんな姉のことが好きだった。あんなに優しい人を、私は他に知りません。…………本当に……要領の方は……あまり、でしたから、隙のない公爵とは婚約中から合わなかったようですが……」
器用ではない、要領は良くないと言いつつも、ジン伯爵は楽しそうだった。この人がこんなにも穏やかに微笑む姿は、社交界では見たことがない。いったい何人が今のような伯爵を知っているのだろうと思って、すぐに思い直した。今の彼の姿は、ずっと姉にだけ向けられていたのだろうと。
「……それでも、姉は幸せそうでした。自分にはないものを山のように持っている公爵を、本当に尊敬していて……嫁いでからは忙しいのか連絡もまちまちになりましたが、手紙には毎回公爵と子ども――ロバートのことがいっぱいでした。エルシーが幼いうちは、なにも……」
そこで伯爵は一度言葉を切った。先ほどまで宿っていた優しさはどこかに消えて、苛立ちのようなものがちらついていた。ロバートと同じだ、と思う。自分の人生を、大切なものを壊された憎しみを静かに燃やしているその炎を向けられたことは……今はまだ、ないけれど。いつ見かけても温度のない微笑みを浮かべているジン伯爵でさえも、こうしてその怒りの炎を隠そうとできないなんて、それが愛の持つ激情なのだろうか。
「エルシーが成長してからです。私の姉……エルシーから見れば母、ですね。母を邪険にする公爵を見ていたからでしょう、彼女は次第に傲慢になりました。甘えから来る我儘だと笑って片付けられていた頃はまだ良かったのですが、家族に……他者に向けるべきではない態度へと変化していったのです。罵倒も揶揄もなにもかもを向けられて――傷つきやすく受け流せない姉は、不安定になってしまいまして」
「……そして、現在のようなお外に出られない状況になってしまったと……伯爵はお会いになっているとのことですけれど、お話はできるご様子なんですの?」
「はい、私や両親相手ならば、少し。……申し訳ございませんが、王女殿下……姉は家族以外と会うことは……」
「あら、言い方がよくありませんでしたわね。今は公爵家も私も、不本意ながら好奇の目に晒されておりますし、お会いしようとは考えておりませんわ。ただ、少しでも心を許せる相手がいるのであればと思いましたの。……伯爵にとって、公爵夫人は大切な……愛する家族ですのね。無責任な言葉となってしまいますけれど、公爵夫人にとっても伯爵は大きな支えだと思いますわ。家族、その中でもきょうだいとは、何事にも変え難い存在ですもの」
そう言って差し上げれば、ジン伯爵は嬉しそうに笑った。「仰る通りです」という声は、いつもの他人の裏を覗こうとする圧を感じる声色とはまったく違う調子だ。
「姉は私のなによりも大切な人です。本当に――変え難い存在だ。だからこそ……姉をああして追い詰めたエルシーには、この手で罰を与えたかった」
男性にしては細い指先が、緩やかに開かれた後強く拳を握る。公爵夫人について語っていた時とは打って変わった地を這うような低い声と、再び恨みの炎を宿すペリドットの瞳。なにも言うことが出来ずその姿を見つめていると、伯爵ははっとしたように顔を上げて、何事もなかったかのように微笑んだ。
「……失礼、取り乱しました。エルシーは……何者かに殺されたのですから、もうどうしようもない恨みですが」
「いいえ伯爵、お気になさらず。お気持ちお察しいたしますわ」
「そう仰っていただけると、気が楽になります。……随分と長居をしてしまいましたから、私はそろそろ失礼させていただきます」
「まあ、気を使わずともよろしいのに。伯爵のお話でしたら、私いつまでもお聞きしたいですけれど……ご予定があるでしょうし、ね。またこうして、ご家族のお話を聞かせてくださいませんこと?」
「……王女殿下がそう仰ってくださるのでしたら、ぜひ」
美しい動作で紅茶を飲み終え微笑んだジン伯爵は、初めて相対したあの日とは違う優しい表情を浮かべていた。
「アリア様、少しお休みになりますか?」
伯爵を見送った後、エイプリルが声をかけてきた。邪気のない穏やかな笑顔に、張り詰めていた心が緩やかに癒されていく。このまま甘えてしまいたくなる気持ちはあるけれど、私はソファから体を起こした。ティーセットが片付けられた机の上には、リュシアンお兄様から渡された紙が置かれている。お兄様のご友人が持ってきたと言うその内容にはおどろいたけれど、これをうまく使えたのなら。そう思うと口角が上がってしまうのを抑えられない。
「いいえ、私は大丈夫よ。それよりもエイプリル、彼に連絡してくださる?」
「かしこまりました、アリア様。それでは、失礼いたしますね〜」
エイプリルが下がって、部屋には私一人になる。開け放った窓から、小鳥の声と葉が揺れる音だけが聞こえた。
上等な……たとえば、そう、王族貴族が使うような紙とそれに見合ったインク。簡素に書かれた要項の下に並ぶのは、サインと揃いの手書きの字。思わず笑みがこぼれてしまって、すぐに頬の緩みを抑えて背筋を伸ばそうと気を取り直した。誰も見ていなくとも、私は立場に相応しい振る舞いをしなくてはいけない。王女なのだから。
「けれど……ふふっ、彼はどう反応するのかしら……」
せっかく正した姿勢が崩れて、背もたれに身を預けてしまう。
――ああ、私は随分と性格が悪いらしい。あの女と揃いの青の狼狽を期待してしまうなんて。