第1幕 Dear My Sister

04 スレットはまだ遠く


「リュシアンお兄様! これはいったいどういうことですの!?」

 お兄様の前に手紙を突きつける。あのあと、ロバートの手から手紙を引ったくり、長い廊下を走ってお兄様の部屋の扉を開け放ち。すべてお行儀が悪く、さらには王族としての品性は欠けているのだけれど、今だけは許してほしい。なにせ一大事だ。お兄様がエルシーともそういう仲だったなんて!
 突如現れた私に、お兄様は優しい色の瞳をまたたかせた。そうして手紙を一瞥し、困惑したようにつぶやいた。

「……アリア。これは?」
「これはもなにもございませんわ、お兄様! 誤魔化さないでくださいまし!! 私が……あの女と仲が悪いことを知っていらっしゃるのに! 誰が厄介な妹ですって!?」
「落ち着いて。僕はエルシーとはなにもないよ。確かに向こうから……」
「なにかがあったからこのようなお手紙が残っているのでしょう! お兄様の筆跡、お兄様のお名前ではありませんか!」
「いや、だから僕も困っているんだけど」
「――お兄様はずっと私の味方だと仰ってくださったでしょう! それをよりにもよってあの女と……っ! 私とエルシー、どちらが大切なんですの!? 本当のことを仰られるまで私はここを離れませんから!」
「え、えぇー……?」

 お兄様はソファに座ったまま、気圧されたように体を引く。その分ローテーブル越しに距離を詰めると、今度は困ったように視線を逸らされる。そのような態度をとったって、証拠はここにあるのだから誤魔化せるはずがないのに。
 ……お兄様がどんな身分のどんな女と関わっていようと、私には関係はない。だって、お兄様にとってはどれも本気の恋愛などではないし、他所の女より私といてくださる時間の方が長いもの。けれど、相手がエルシーなら話は別だ。その理由はどこまでも私怨で、あの女にもお兄様の優しさが向けられていたのかと思うと許せない、というだけなのだけれど。

「……僕は本当に知らないよ、アリア。その手紙も、そこに書かれているような話も」
「ではこのお手紙はなんだと言うのですか!」
「それは僕が聞きたいくらい……アリア、これはどこで」
「あ、アリア様〜……っ! お待ちください〜……!」

 もう一度問い詰めようとしたところで、エイプリルの声に遮られた。眉をひそめていたお兄様も毒気を抜かれたように扉に目をやると、らしくなく息を乱したエイプリルと……すっかり困り果てた様子のロバートの姿があった。

「……っ、はぁ……、アリア様、リュシアン殿下を責められるのはお待ちください……」

 胸元に手を当てて数度深呼吸をして、ようやく息を整えた様子のエイプリルは、少しだけ乱れた髪の毛を直して私に向き直る。

「待つと言ったって、お兄様は……」
「アリア様……そのお手紙はそもそも、殿下の書かれたものではないのですよ」
「…………えっ」

 確認をするように投げられたエイプリルからの視線を受けて、ロバートはこくりと頷いた。はっきりとした色の青い瞳を揺らして、彼は口をひらく。

「……その手紙は、その……筆跡を真似て書かれたもので……」
「だ、代書ということですの? ……お兄様のふりをして、どなたかが彼女に手紙を渡したという……」
「は、はい」

 気まずそうにぱちぱちと瞬きをするロバートを見て、体から力が抜けていくのがわかった。……それならすべては私の早とちりということ、なのかしら。それならそうと話してくださればよかったのに、なんて内心自分を棚にあげていると、それを読み取られたのか「お話してくださっていましたよ〜」と半ば呆れたような声色が飛んでくる。

「ですけれど、アリア様がそのお話を聞かず飛び出していかれたものですから……」
「も、申し訳ありません。僕が順序立ててご説明していれば」
「いや、君は悪くないよ。ごめんね、アリアってこういうところあるから。……アリア、謝りなさい」

 お兄様とエイプリル、双方向から咎められて、私はすっかり小さくなっていた。……ええ、そう、確かに話を聞かなかったことは私の落ち度だ。けれど、私のリュシアンお兄様がよりにもよってなによりも嫌いな女と通じていたかもしれないだなんて、さすがに……いえ、ここは私が謝罪をするべきなのだけれど。
 いまだに心の中に巣食う、手紙の末尾を見たときのあの感覚を振り切って、私はロバートに向き直る。

「…………う、はい。失礼致しましたわ、ロバート様。数々の礼節を欠いた行動、お詫び申し上げます」
「えっと、いえ、そんな……僕こそ、説明不足でした」
「はい、よく出来ました。おいで」

 私に伸ばされた手に従って、お兄様の隣に腰掛ける。いつものように腕をからめると、お兄様は少しだけ笑った。お兄様が側にいてくださると、それまで感じていた不満がどこかへ溶けて消えていくから不思議だ。頬をつつかれるのは子ども扱いをされているようで嫌だけれど。

「大体、僕はもっとうまくやれるよ。こんな陳腐で使い古された言葉じゃなく、ね」

 私の髪を弄びながら、お兄様は笑った。私の手から手紙を抜き取った彼は、口元に笑みを浮かべたままもう一度文字をなぞっていく。

「あら、そうですの? ……男女の駆け引きの通例は存じ上げませんけれど、いかにもお兄様の仰りそうなことだと思いましたわ」
「お前……だーいすきなお兄様のことをなにもわかってないみたいだね。口説き文句のひとつも知らないなら僕が教えてあげようか、リトル・ミスお嬢さん?」
「……ご遠慮させていただきます。私には愛しの婚約者様がおりますもの」

 顔を背けてみせると、お兄様の楽しそうな笑い声が降ってくる。もう1度私の頬をつついたお兄様は、打って変わって真面目な表情へと変わった。

「……それで? この手紙は誰がなんのために書いたのかな」

 す、とお兄様の視線がロバートに向き、細められる。
 いつも通りの笑顔だけれど、綺麗な瞳の奥には底冷えするような光が秘められていた。その手の中にあるのは、リュシアンお兄様の字。幼い頃から何度も見てきたそれにそっくりなのに、そこにお兄様の言葉はないのだという。

「僕もこれでも王子だからね。こういうことがあると困るんだ。……言いたいこと、わかるよね?」

 さらりと揺れる前髪をかき上げて、お兄様が息を吐く。
 代書屋という職業自体は、この国……そしてこの大陸において、そう異端のものでもない。けれどそれは、本人が依頼していることが前提だ。こうして他人を装って悪用される危険くらい誰もが知るところなのだから、様々な対策だって打たれている。それなのに。

「庶民相手ならいざ知らず、僕の名前を騙る勇気のある人間なんてなかなかいないよ。相当金を積んだか……それとも、人には言えないところに頼んだのかな」

 お兄様の言葉に、ロバートの顔色が変わる。
 お兄様の仰る通りだ。だから、きっと、清廉潔白なところで作られたものではないはず。だって、代書の末尾に王子の名前を書くだなんて、この国の法を恐れている人間ができることではないのだから。

「……ロバート様。エルシー嬢に送られ、彼女のお部屋に保管されていたこのお手紙が、代書されたものだとどこでお知りになりましたの?」
「……それは、その……頼まれ、ました。ある人に……この内容を、代書屋に依頼しろと」
「まあ。それでは、あなたが代書屋まで? このような依頼を請け負う場など、貴族の赴く場所ではないでしょう」

 思わず声をあげると、ロバートはなにを思い出したのか曖昧に言葉を濁しながら体を震わせた。その反応だけで少しは彼の身に起きたことは想像できる。貴族の中でも特別裕福で恵まれているリリベル家のご子息が、治安維持の目が行き届いていないであろう場所に行くだなんて。ロバートはどうして、そのような危険な場所へ向かう頼み事なんて引き受けたのだろうか。そもそも、この手紙の意図はなんなのだろう。

「あなたに代書を依頼した方にもお話を伺いたいですわ。どなたか教えていただけますかしら」
「は、はい。それが……」

 気を取り直したらしいロバートが、話を続けようとしたときだった。
 規則正しく、控えめなノックの音。話の腰を折られて、私もロバートもその向こうを見やる。ロングスカートを翻して扉へ歩み寄ったエイプリルは、短く会話をして。少しだけ困惑したように、私に向き直った。

「アリア様。ジン伯爵がお城にいらしていて、アリア様にご挨拶したいとのことです。……それから、ロバート様がこちらにいるはずだから、アリア様とのご用事が済んだら話がしたい、とも」
「伯爵が? ……そう」

 ジン伯爵は、エルシーはもちろんリリベル公爵とも親しい人物だ。そして、なぜか私に協力的。機会があるのであれば彼に話をとも思っていたものだから、都合がいいといえばいいのだけれど。ロバートからもまだ聞きださなければならないことはあるのだし……それなりに伯爵を待たせることになってしまう。地位ある者はそう暇ではない、長々と待たせることなんて、礼儀としてはいかがなものかと思考がよぎる。
 ひとまず、目の前の手紙のことだけでも早く聞いてしまおう。そう頭を切り替えてロバートの方に向き直れば、彼は血の気が引いたような顔色で固まっていた。その瞳は恐怖と怯えと混乱を雄弁に語っていたけれど、彼の口から漏れ出るのは、そんな感情の欠片にすらならない音だけだった。

「……どうかされましたの?」

 不審に思ってそう声をかけるけれど、返事はない。というよりも、私の声が耳に入っていないようだ。あまり強く声をかけることも憚られてしまうような彼の様子にどうすることもできないでいると、隣からこほんと咳払いが聞こえた。その音にロバートと……それから私は我に返る。

「エイプリル、申し訳ないけど伯爵にはまた別の機会にと伝えてもらえるかな」
「かしこまりました」

 お兄様は満足げに頷くと、「続きを」と短く私を促した。それに従い、私も気を取り直す。

「はい、お兄様。……ロバート様、よろしいかしら」
「……え、っと……は、はい」

 先ほどから気弱だった声色はさらに覇気をなくし、なにかにおびえるように扉の向こうに時折視線を投げて。そんな彼の様子は気になるけれど、先を急かす。

「…………それは……」

 ロバートは相変わらず顔色を悪くしたまま、なにかを話し出そうとしては黙り込む。その姿は、どことなく違和感を感じさせるものだった。生来のものであろう気弱さこそずっと感じていたけれど、先ほどまではこのように口をつぐむことなどなかったのに。

「……口封じをされているであろうことはわかります。けれどあなたは仰いましたでしょう? 私に協力する、と。それが本心であるのならば、教えて頂けますわよね」

 目の前にあるはずの、最もほしい情報を得ることができない不満がそのまま声に乗ってしまう。そのせいか青い瞳はさらに萎縮の色を濃くするけれど、相変わらずなにかに怯えているように黙り込むばかりだ。
 一体、なんのつもりなのだろう。私に協力すると言って、舞踏会の日に関わる手紙――それも、なにか意図を持って代書されエルシーの手に渡ったものを持ってきて。先ほどまではなんの躊躇いもなかったというのに!

「……なにか事情があるなら、話せるようになってからでも構わないよ」

 どう口を割らせようか思案していると、隣からそんな言葉が聞こえてきた。

「お兄様、」

 このままロバートを帰すのは得策とは言えないのではないだろうか。もし、その依頼主と口裏を合わせられでもしたら? そう言い募ろうとした私を、お兄様が制止する。静かに、というジェスチャーと軽いウインクに、私は次の句を紡ぐことができなかった。黙った私に満足気に微笑んで、お兄様はロバートに向き直った。

「僕たちは王族だ。君がどんな脅しを受けていようと、大抵の相手なら握り潰せる。だからそう怖がらず、ぜひこの場で色々と聞きたいところだけど……生憎、今日はアリアの気が立っているようでね」

 立っていませんけれど。確かに手紙の件では多少はしたないところをお見せしましたけれど、今の私は平常心です。
 反論しようとしたところで、背後から「アリア様〜……抑えてくださいませ〜……」と囁かれた。お兄様もエイプリルもなんなのよという気持ちを我慢して、ソファに深く背を預ける。お兄様はともかく……エイプリルは賢いのだから。

「僕は君を信じているんだ、ロバート。妹に協力すると言ったくれた君を。王族として、丁重にもてなさなくてはならないと思っているくらいだ」
「……いえ、そんな……僕にはもったいないほどです」
「そんなことはないよ。でも、まあ……この子は僕の可愛い妹で大切な王女だ。そのつもりで、よろしくね」
「…………は、はい」

 私の頭を撫でるお兄様は、やわらかな笑顔を浮かべたまま。それなのに室内は霜が降りたようで居心地が悪かった。そんな部屋の中に、今度は打って変わっていつも通りのお兄様の声が響いた。

「そうだ。エルシーのお友達から聞いた話だけど、彼女結構我儘だったんだって?」
「……え、友達? ……ええと、その通りです。社交界での様子はご存知の通りですが、家ではさらに手がつけられなくて……。王女殿下には以前お伝えしたかと思いますが、そのせいで母は気を病んでしまいまして」
「お屋敷から出られないほどだとお聞きしましたわ、お兄様」
「…………それはまた……。ジン伯爵が頻繁に公爵家に来ているのも、それが理由?」
「はい。母の様子を見にいらしています」
「それは家族思いなことだね。伯爵は、エルシーが自分の姉と血の繋がりがないことは知っているのかな」

 さらりと告げられたその言葉に、私は思わずロバートと目を合わせた。
 お兄様が、エルシーが愛人の子であることを知っていらっしゃるなんて。ロバートの話によれば、公爵は外に漏れないようにしていたとうのに。

「……あら。お兄様は、彼女の出自をご存知でしたの?」
「ん? ああ、知っているよ。エルシー・リリベルは愛人の子で、本当の母親は平民……それも花売り。エルシーはその話をなにも知らないってことくらいは」
「……その通りです。…………父は必死に隠そうとしていたのに……」

 ロバートも驚いたようにそうつぶやいた。噂が回るのだけは早いこの社交界で、身内や使用人だけにその秘密を留めることはそう簡単なことではない。それが今まで私まで届いていなかったのは、公爵の努力なのだろう。影響力のある彼に睨まれるのを嫌がって、誰もがその秘密について口を閉ざしていたとも考えられるけれど。

「口が軽い侍女でもいたのでしょう。お兄様ったらいつもそうですの」
「あはは、あの子は悪くないよ。僕が我儘を言ったんだ。……だから、公爵家の侍女を罰する、なんて考えないでほしいな」
「……それは、父が決めることですので……。ですが、殿下がご存知だったことはこの場限りの話とさせてください……」

 きりきりと胃でも痛めている様子のロバートには同情心すら覚える。お兄様はいつも、他家の人間……大抵の場合は令嬢か侍女を誑かし、秘密も嘘も暴いてしまう。呆れる気持ちはあるけれど、私の意識はお兄様の「それよりも」という言葉の方に向けられていた。

「アリア、そろそろお茶会の時間だよ。彼には一度お引き取り願おうか」
「はい、お兄様。ロバート様、本日はありがとうございますわ。またお会いいたしましょう」
「……ああ、そうだ。ロバート」
「は、はい」

 頭を下げて去ろうとした彼を、お兄様が呼び止めた。不思議そうな表情で振り返るロバートと同様に、私もお兄様を見上げる。

「――僕には君の気持ちがわかるよ。なにかあったら、いつでも話を聞こう。……わかりあえると思うんだ、同じ……兄として」
「…………え、っと。そんな、そのお言葉はありがたいですが……いえ……はい。もし、殿下のお時間を頂ける機会があれば」

 そう言ったロバートに満足そうに微笑んで、ひらりと手を振るその横顔は、どことは言えないけれどいつものお兄様とは異なっていた。扉が閉まった途端、軽やかな声で咎めるように私の名前を呼ぶ姿は、見慣れた私のお兄様だったのだけれど。

「あまり追い詰めるものではないよ。責め立てるばかりではうまくいかないこともあるんだから」
「……お言葉ですが、お兄様。代書に関わった人物の名を隠すのは、不自然ではございませんこと? 手紙を持ってきているのですから、糸を引いている人物について話す覚悟があるものと思っていましたわ」
「気持ちはわかるけどね。ほら、昔読んでやった絵本に書いてあっただろ? 上着を脱がせるには北風はいい手ではないって」
「……お兄様も太陽ではないでしょう」
「はは、そうかもね。でも、僕はお前より優しい陽の光の真似事は得意だよ」

 余裕たっぷりに微笑むお兄様に反論したかったけれど、それよりも先に彼が話を続ける。

「まあ、僕もロバートが口を割らないのはおかしいと思うけどね。こうして関わっておいて直前で手を引くような臆病者なのか……それとも、別に理由があるのかはわからないけど」

 つぶやくようにそう言って。ロバートが去っていった扉の向こうを、お兄様は静かに見つめていた。

 
 ◆


「あら、まあ。ごきげんよう王女様」

 つんと甲高い、嫌味たらしい声が私の耳に届いた。毛先がゆるく巻かれ、二つに結われた金髪が、彼女の身に纏う青と踊る。気が強そうな大きな瞳は、今日も相変わらず意地悪く細められていて。その口元は弧を描く。取り巻きを従えたその姿を、見間違えるはずもない。

「ごきげんよう、エルシー嬢。本日は我が城での舞踏会にようこそ。楽しんでいただけていますかしら」
「ええ、それはもう。お城の舞踏会は、本当にまばゆくて美しいですね」

 決まり切ったやり取りに、エルシーはにこりと微笑む。その顔は憎らしいくらいに完璧だった。端から見れば好意的なだけの笑顔は、その実、ナイフを隠し持っているのだから油断はできないのだけれど。

「そうそう、美しいと言えば……王女様、今日のドレスもお似合いですこと。王女様が身に付けられると、流行りの見慣れたドレスも別物のようですね。わたしたちのような貴族とは一線を画す美しさですもの。きっと、王妃様のご教育の賜物なのでしょう」
「お褒めいただき光栄です。エルシー嬢……そして、ご友人の皆様方こそお似合いですわ。いつも素敵なご友人とご一緒で……エルシー嬢の分け隔てないお人柄の賜物ですわね。公爵譲りでいらっしゃるのかしら」
「わたしは父を尊敬していますから、そのように仰っていただけるなんて光栄です。王女様」

 軽く笑ったエルシーに同調するように、取り巻きもひそやかに笑う。背後の彼女たちと目を合わせるエルシーに……というよりも、エルシーの影に嫋やかなふりをして隠れている彼女たちに苛立ってしまうのはなぜなのだろう。
 ――私はエルシー・リリベルが嫌いだ。
 父である公爵の権威を笠に着る嫌な女。テーブルクロスの下で足を踏んでくるような嫌味ばかりを投げてくる、品位のない貴族。仮にも王家である私の出自を、お母様の生まれを執拗に詰るこの女とは気が合わないし、向こうも私を嫌っていることは明白だ。
 敵だらけのこの社交界で、私たちはきっと、誰よりもお互いのことを嫌っていた。私にとっての最大の敵はエルシーだったし、それはきっと、彼女にとっても。
 ……この国で最も私の邪魔をしてきたエルシーのことを、私は、どうして。

「……夢……」

 最悪だ。
 暗闇に目が慣れていくと同時に、そんな言葉が頭に浮かんだ。……せっかくあの女が死んで、もうその顔を見る必要はなくなって清々したというのに、なにが楽しくてあの女のことを夢に見なければならないのだろう。
 エルシーが生きていたとき。相変わらず顔を合わせるたびに投げられた爆弾を、起爆する前に彼女に投げ返していた日々。この国も社交界も、こと貴族の間柄に関してはお行儀のいい国ではないことくらいわかっていたけれど、まさかあの女が殺されるだなんて思ってもいなかった。なぜって、エルシーは貴族の中でも権力を振りかざすリリベル公爵家の娘だったから。……そもそも、王家の舞踏会で毒を仕込む人間がいるだなんて、という驚きもあるのだけれど。犯人は随分肝が据わっているか、我慢ならなかったらしい。

「……眠れないわ」

 夢に呼び起されたのか、それとも、忘れるにはまだ日が短すぎるのか。エルシーの声や交わした言葉は、べっとりと耳に張り付いている。そのせいか目を閉じても、再び眠りに落ちることはできなくて。

「…………お兄様……は、さすがにご迷惑ね。……どうしましょう」

 あんな女のせいで眠りが妨げられるだなんて屈辱だ。あの女が生きていたときには、このようなことはなかったのに。近頃、彼女とその周りの人々のことばかり考えているだろうか。
 諦めてベッドから起き上がり、ベッドサイドのランプを灯す。
 ――ロバートは言っていた。エルシーは愛人の子なのだと。そしてあの女は、自身の出自の真実を知ることなく死んだ。それは幸せなことだったのだろうか。
 預かり知らないところで育まれた愛の名の元、華やかな薔薇に囲まれて立っていたエルシーの真実を知る人間は、そう多くはないようだけれど。それでも、もしかしたら……あの女の足元にも、無数の棘が向けられていたのではないか、と。同情のように考えてしまうのは、なぜなのだろう。


「……へえ、夢で寝不足? 怖い夢でも見たの? 今夜はお兄様が一緒に寝てあげようか」
「子供扱いしないでくださいまし! 少し目が冴えただけですわ」

 あまり眠れないまま過ぎ去った夜を超えたあとのことだった。
 くすくすと笑ったお兄様に言い返すと、彼はますます楽しそうに笑みを深めた。リュシアンお兄様はいつもこうだ、私が幼い子供のような真似をする度に喜んで。拗ねていると、鈴を転がすような控えめな笑い声が被さった。

「アリア様、少しお疲れなのでしょう。本日は一度、羽を伸ばされるのはいかがですか?」

 ティーセットを持ってきたエイプリルは、そう言いながら慣れた手つきでお茶を注ぐ。ふわりと広がるのはカモミールの香りだった。

「今日はお天気もいいですから、お庭に出られたり……ゲームをして過ごされてもよろしいかと思います~」
「……そう、かしら」
「いいんじゃないかな。確かにずっと気を張っていたし。僕も付き合うよ」

 二人からそう言われると、それもいいのかもしれないなんて思えてくる。
 そうだ、少し疲れているだけ。だからあんな女との過去のやりとりなんてものを夢に見るし、そのせいで目が冴えるし、今多少微睡んでしまうだけ。それに、エイプリルを心配させるのは本意ではないのだし。

「それなら、久々にボードゲームがしたいですわ。チェスをしましょう、お兄様!」
「いいよ。今度は泣かせないように手加減してあげるからね」
「な、何年前のお話をしていますの!? 私はもうそのようなはしたないことは致しません……し、手加減も不要です!」
「はいはい。エイプリル、悪いけど用意してもらえるかな」
「はい、かしこまりました。おやつもお持ちしましょうか」
「うん、よろしく」

 お兄様もエイプリルも柔和な笑みを浮かべていて、久々に穏やかな時の流れに身を任せることができた。エルシーが死んでから――正確には、私が関わっているという噂が表面化しかけてきてからだけれど、心の安らぐときというものはあまりなかったから。こうして静かに過ごす時間は、少し懐かしいような気がした。

「それでは、準備をしてまいりますね。アリア様」
「ええ、わかったわ。……帝国から送られてきたクッキーがあったでしょう、持ってきてくださる?」

 私の言葉に頷いたエイプリルは、一度頭を下げて扉に手をかけた。けれど、立派な装飾が施されたそのドアハンドルが、彼女によって回されるよりも先に、無遠慮に外側から開かれる。
 慌てるように数歩下がるエイプリルを視界に捉えつつ、一体だれがこのような真似を、と眉をしかめたのは一瞬だった。

「おはよう、アリア。……おや、リュシアンも一緒か」

 日の光を浴びて、透けるような金髪が輝く。優しげな目元は、リュシアンお兄様によく似ていた。

「――……お父様」

 無遠慮に、などと言っていい相手ではなかったことに、内心が冷えていく。けれどそれをあからさまに悟らせるわけにもいかず、私はなるべく普段通りに立ち上がって礼をした。

「これは……陛下。お元気そうで何よりです」
 隣で緩やかに頭を下げるお兄様はそう言って、「アリアにご用でしょうか」となにかを探るように尋ねた。それに軽く頷いてソファに腰かけた陛下は、私たちにも座るように示す。それに従うと、陛下は相変わらず底が見えない笑顔で語り出した。

「いや何、毒を混ぜたシェフと話がしたいとアリアが言っていたからな。探し出してやったと伝えに来たのだが――試しに部下に聞きださせたところ、なにやら興味深いことを言っていてな」
「……興味深いこと、と言いますと」

 思わずおうむ返しにしたけれど、それよりももうシェフを探し出したのかしら、ということにおどろいてしまう。元々有事の際に備えて、城に出入りする者や働いている者の詳細は管理されているのだからそれを見ればすぐなのだとしても、それにしても、だ。
 私が命じたとしたら、管理上の問題だとかなんとかで色々理由を付けられて、ここまで素早い動きにはならないだろう。……陛下が特別ということなのか、私が特別ということなのか、苛立つからそこは深堀しないようにしておく。おそらく両方なのだろうけれど。

「そうだな、直接喋らせた方が早い。少し待っていろ」

 陛下が軽く手を叩くと、再び扉が開いた。そして、少しの間の後部屋に入ってきたのは、見慣れた騎士団の制服に挟まれて居心地が悪そうに立っている一人の平凡な男だった。件のシェフなのだろう。

「この者が、毒殺された娘が口にした菓子を作ったのだという。私が許そう、我が部下の前での証言をここでもう一度述べてみろ」
「…………」

 そのシェフの男は、顔を青くして黙り込んだままだった。そして、そのまま時は静かに過ぎていく。……どこかで見たような光景だ。ただ、私の知っているその光景と違うのは、ここには陛下がいるということ。なにも話し出そうとしないシェフは、かすかに苛立ちを込めた視線を送られただけで、震える声で話し出した。

「……た、確かに……私はあの日、舞踏会でお出しするカップケーキに毒を混ぜました」

 その素直な告白に、拍子抜けして体から力が抜ける。それならエルシーは先日の診断通り、食べ物に入っていた遅効性の毒で死んでいたということになる。けれど、ここまで簡単に罪を話してしまうものなのかしら。回り出した頭は、「ですが、それは――」と続けられたシェフの言葉に停止させられる。
 彼は私を見て、言った。

「――アリア王女殿下に、脅されたため、行ったまでです……」
「……なっ、適当なことを仰らないでくださる!? お父様、この者は嘘をついていますわ!」

 反射的に立ち上がってシェフを指差すと、陛下は落ち着けと言わんばかりに微笑んだ。

「だが、お前が命じてなどいないという証拠はないだろう? アリア」
「それは……そう、ですが。私は脅しも命令もしていません……!」

 そう返すしかなかった。証拠はない、けれど私はやってなどいない。このどこの誰かも知らない男のせいで、冤罪を着せられてはたまったものではない。私とシェフを交互に見た陛下は、「それなら」と口を開いた。

「この者が嘘をついているという証拠、お前が命じていないという証拠。どんなものでも構わないから、探してくるといい。どうやらこの者の方も、お前に命じられたという証拠をすぐに出せないようだから。……お前が望むのであれば、この者への尋問でもなんでも好きにしなさい。部下にはそう伝えておく」
「……お父様……」
「一度下がらせるが、騎士団の同伴さえあればこの者と話すも連れ出すも家に帰すも自由だ。頑張りなさい、小さな探偵さん」

 陛下はご自身の言いたいことだけを伝え終わると、騎士団とシェフを連れて部屋を出ていった。足音が遠のいていくにつれ、体から力が抜けていくのを感じる。やがて完全に聞こえなくなった頃、私は倒れ込むようにソファに体を預けた。

「な……っ、なんなんですの……」
「……面倒なことになったね。エルシーを殺したお菓子を作ったシェフの証言か……」

 隣でお兄様がつぶやく。
 陛下の言う通り、私がやっていない証拠なんて出せはしない。やった証拠ならどうとでもなるけれど。

「アリア、本当に脅してなんていないんだろう?」
「もちろんですわ! お兄様まで私を疑われますの?」
「そんなわけないよ、確認。……どうしてあのシェフはアリアの名前を出したんだ? 出回っている噂から咄嗟にアリアの名前を使ったのか……?」

 半ばひとりごとのようにつぶやくお兄様の声を聞きながら、私も頭を回す。確かに、私がエルシーを殺したというくだらない噂は、事件後この城にいれば聞こえてくるものではあるけれど。それでも、シェフの証言を元に私に話が行けば、今のような面倒ごとになるだなんて明らかなのに。

「……誰かの入れ知恵……という線はいかがでしょう、お兄様」
「確かにありそうな話ではあるけど、それも証拠が見つからなければどうにも……。家探しでもしてみようか?」

 お兄様はひらりと手を広げてそう言った。その声の調子からして、それはどう考えても軽い冗談で――けれど、私にはその提案は、暗闇を照らす光のように見えた。ええ、陛下だって、好きなようにしていいと仰っていたじゃない! 気が付けば、私はすっかりその気になっていた。

「ええ、それですわお兄様!」
「は? アリア?」
「家探し、致しましょう! あの者の家を隅から隅まで調べて、証拠を探すのですわ!」
「……いや、本気にされるとは……。大体、アリアや僕が出向くわけにはいかないし、落ち着いて……」
「いいえお兄様、どなたも調べられないのであればこの私が! 直接あのシェフの家を解体してでも詳らかに致します」

 この直感にすっかり酔いしれていた私は、お兄様のため息も、そんなお兄様への「一度お好きにしていただくのはいかがでしょう……」という消極的なエイプリルのささやきも、大した問題にはならなかった。多少冷静に考えると、ありもしない罪を着せられかけていることが許せないだけで、とにかく……どんな手でもいいから行動をしないと気が済まない、というだけではあったのだけれど。そんなことは、今の私の前では些事に過ぎない。

「わかった、わかったよ。ただし、僕もアリアも行かない。……僕の友人に任せる。それならいいよ」
「……お兄様、ご友人がいらっしゃったの?」
「失礼だな。お前よりはいるよ。そいつは騎士団に所属しているし、ちょうどいいと思って。それに、こういう場面ではちゃんと仕事をする、信頼できる奴だから」

 いい? と念押しするように言われると、首を横に振ることはできない。お兄様はいつもこうだ。この誰しもに頷かせてしまうような甘い雰囲気は好きだけれど、少しだけ厄介なところがある。

「わかりましたわ。お兄様がそう仰るのでしたら……」

 そう答えると、お兄様は微笑む。その笑顔は、陛下によく似ていた。
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