第1幕 Dear My Sister

03 愛で飾って、恋に眠って


 ――思い出すのは。
 美しい演奏を遮って耳を劈く、グラスの割れる音。
 あの日の、いつも通りの舞踏会。ダンスホールに集まった貴族たちにおかれては、いつも通りお互いを褒めたり言外に貶したり。若い人たちは相変わらず、自分にふさわしい結婚相手を探ろうとして。リュシアンお兄様はいつも通り女に囲まれていて、エドワードお兄様も必要な会話をつつがなくこなしていた。私はといえば、寄ってくる物好きの下衆な意図の透けた話を適当に捌いていた。これもいつも通り。
 エルシーとは一言ご挨拶を交わし、それきり。歓談を始めようとしたときに、エドワードお兄様に呼ばれたものだから。けれどあの日も、あの女は変わらず高慢で派手で取り巻きを従えていて、いつも通りで。
 ……だから、思ってもいなかった。人混みに紛れたエルシーを次に見ることになるのが、彼女が倒れている様だったなんて。
 グラスの割れる音の発生源を探しているうちに、高い悲鳴が響いた。

「……エルシー様が……!」

 取り巻きの誰かが混乱の中に発したその声から、ざわざわと憶測が広まっていった。人々に道をあけさせてようやくエルシーの姿をみとめられたときには、彼女は父親――リリベル公爵に抱きかかえられぐったりしていた。
 覚えている。エルシーが持っていたらしいグラスが割れて、葡萄の色が床にもエルシーのドレスにも散らばって。けれど、華やかさのためなのかグラスの中に入れられていたらしい小ぶりな花は、破損を逃れたグラスの底に沈んでいたこと。そして、私の姿を見た瞬間、リリベル公爵の目付きが鋭くなったことも。

「アリア、下がれ」
「……エドワードお兄様」

 思わず公爵に声をかけようとした私を止めたのは、エドワードお兄様だった。使用人に素早く指示を出したお兄様は、私を野次馬の中から追い出して。そして、慌ただしく浮き足立った雰囲気の中、舞踏会は中止となったのだった。
 どうして、あの女が死んだのだろう。
 その死因はやがて、毒だと医師が言っていた。断定するには調べることが多いからわからないけれど、おそらく舞踏会で口にしたお菓子に遅効性の毒が入れられていたのだろうと。そう判断したのは、家で同じ食事をとっていた他の家族は健康であること。それから、舞踏会では少しのお菓子と、死の間際持っていたドリンクしか口にしていないこと。そのドリンクも、一口飲んだだけらしい。少し口に入れただけで死に至る毒物なんて、未だこの国では聞いたことがない。犯人がどこかから入手した可能性も捨てきれないけれど、床に撒き散らされたドリンクはすべて掃除されてしまったから、今から調べることは困難だろう。
 …………そういえば。
 あのとき、エドワードお兄様が出てくる前。混乱の中、周りに声をかけていたのは――。

「アリア様、ジン伯爵が参りました」
「ええ。……お通しして」

 エイプリルが開けた扉の前、蛇のような目で不遜に笑う男。ちょうど、思い起こしていた記憶と同じ姿が目の前に現れる。

「突然の謁見というご無礼をお許しください……お目通りが叶い光栄です。王女殿下」
「私はこのあとティータイムがありますの。手短にお願いできますかしら」

 ――クロード・ジン伯爵。
 ダンスホールから戻った私を出迎えたのは、ティータイムでも手紙でもなく、この男が私に会いたがっているという連絡だった。本来であれば断るところなのだけれど、今はそうも言っていられない。なにしろ、この男はエルシーの関係者なのだから。

「ええもちろん……王女殿下のお時間をいただくのですから、心得ております。手短に」

 ジン伯爵は、エルシーの縁戚関係にある。……エルシーの母親は伯爵の姉だそうだ。ジン伯爵家の姉弟は仲が良く、姉が他家に嫁いだあともその交流は深いものだったと聞いている。エルシー自身とこの男が仲が良かったかと言われると、あまりその光景は思い起こせないのだけれど。

「単刀直入に申しましょう。王女殿下、この度私は、先のエルシー嬢についてお耳に入れたい情報があり参りました」
「そうですか。続けてくださいまし、伯爵」

 彼もあの舞踏会にいたのだし、そしてなにより親戚だ。私よりもエルシーやその周囲については詳しいはず。それに、狼狽する公爵の横で周囲を落ち着かせようとしていたのは彼なのだ。動転していたエルシーの家族では知りえないことを知っているかもしれない。

「社交界では、エルシー嬢の毒殺について、王女殿下の仕業ではないかという噂が蔓延っていることはご存知でしょうか」
「……くだらない讒言をしにいらしたのでしたら、私はこれで失礼いたします」
「そう結論を急がないでください――さすが王女殿下、お耳が早い。ですが、誰がその噂を流しているかまではご存知ないのではないですか?」
「…………伯爵は知っている、と捉えますけれど」

 半ば脅しとポーズの意味も込めてあげた腰を、再びソファに落ち着ける。
 ……噂の発生元。大方、リリベル公爵だろうけれど、それは私の予想に過ぎない。そしてその根拠もたいしたものではない。舞踏会のあの日の目と、日頃親子共に嫌がらせをされてきた私の個人的な感情から膨らんだ妄想でしかないと言われれば、反論する術はない。

「ええ、もちろん……」

 薄気味悪い貼り付けたような笑顔を深めて、伯爵は笑う。

「――噂を流しているのはリリベル公爵です。いえ、彼はもう王女殿下が犯人だと信じ込んでいる様子ですが」
「なぜそう断言されるのですか、伯爵」
「彼からそう聞きましたから。犯人は王女に違いないと。エルシーは殺されるような恨みを買うような子ではない、娘を殺す動機があるのは王女くらいだと」

 ……そうだろうか。あの女は、それなりに色々な方向に横暴を働いていたような気もするけれど。血縁の贔屓目か、それとも、父親の前では大人しかったのかもしれない。そんな脇道に逸れる思考を押さえつけ、ジン伯爵に相槌を打つ。まあ、そのようなことを仰っておりましたの、という風に。

「公爵が、本来騎士団が行う調査を買って出たのも、犯人を王女殿下だと思い込んでいるからです。王女殿下が犯人だと判明した場合、王家直属の組織である騎士団は、証拠を隠蔽するかもしれないと」
「……公爵にはそのようなお考えがありましたの……常に公正たれと教えられている騎士団がそのように思われるとは、いただけませんけれど。今はそちらを議論している場合ではございませんわね」

 少し眉根を寄せれば、ジン伯爵は大げさに頷いた。
 実際、リリベル公爵の見立ては正しいのだけれど。仮に私やお兄様方、またはそれに近しいものたちがなにか裁かれるべき罪を犯した際、騎士団は……というか王家に関わる様々な機関も含め、隠蔽に全力を注ぐだろう。表向きは公正公平たる国家機関を名乗っておきつつも、王家直属の組織である以上は、彼らの雇用を握るのは陛下というわけで。つまり、そう、この国は、そこまで真っ直ぐで真っ白ないい国でもないので……そういうことも、ままある。

「亡くなった娘を想うからこその行動かと思っていましたけれど……そうですか。公爵は私を疑っていらっしゃるのですね」
「ええ。王女殿下ともあろうお方がそのような真似はなさらないと止めたのですが……」

 そこで言葉を切り、伯爵は首を横に振ってみせる。
 彼の話を信じるのであれば、公爵の行動の理由は理解できる。騎士団を排除したのは、彼らがいると証拠を隠蔽されると思っているから。……どうやって騎士団を黙らせたのかはわからないけれど。

「――いくら探しても、犯人は私ではないのですから証拠など見つかりませんのに」

 つぶやいた言葉は、伯爵に拾われた。仰る通りですと言った彼は、途端に声をひそめる。

「その件なのですが、アリア王女殿下」
「……どうかいたしまして?」
「先に申しあげた通り、リリベル公爵は騎士団を信用してはいないようです。ありえないことですが……。彼は既に、証拠が騎士団により隠蔽された可能性も考えております。見つからないのであれば陥れることもやむなし、と。彼は私に言いました」
「…………それ、は」

 偽装工作、ということだろうか。私を陥れるため、犯人と仕立て上げるための。
 さすがに動揺を隠せなかった私の表情から、何を考えているか読み取ったのか、ジン伯爵は重々しく頷く。本当にそのようなことを企てているのであれば、あまり悠長にはしていられない。眉根を寄せて考え込んでみせれば、ジン伯爵は更に続ける。

「リリベル公爵を自由にしておくのは危険だと存じます。……王女殿下、出過ぎた真似かとは思いますが、犯人について私の仮説を申してもよろしいでしょうか」
「……そう、ですわね。ええ、聞かせてくださいますか?」
「公爵家の嫡男――ロバートが怪しいかと。彼は私の甥ですから、以前から色々と話を聞いていたのですが……彼は以前からあまり、妹をよく思っていないようですから」
「まあ、そうですの?」
「はい。これは仮説に過ぎませんが……ですがもしロバートが殺したのであれば、公爵が偽装工作を行おうとするのは息子の罪を隠そうとしているのではないでしょうか」

 ジン伯爵はいつも通り、堂々と語る。
 その冷ややかだけれど自信に満ちた声には、なぜだか説得力のようなものが絡みついていた。……ロバートが殺したなんて根拠など、何もないにもかかわらず。没落寸前だった伯爵家を立て直しただけはある話術、なのだろうか。

「伯爵の仮説が正しいのであれば、公爵は私に罪をなすりつけようと画策されていることになりますわね」

 あえてその言葉に前のめりになると、彼はめずらしく微笑んだ。

「これが真実だというわけではありませんが。……戯言です。ですが、リリベル公爵が王女殿下にとって脅威となることは事実かと」
「ええ、そうですわね。伯爵、わざわざご足労いただき感謝いたしますわ」
「もったいないお言葉です」

 立ち上がった伯爵の、モノクル越しのペリドットが私を見下ろす。そうして決まりきった挨拶を交わして、ジン伯爵は去っていった。扉が閉まり、外へと案内するメイドと伯爵との二つ分の足音が遠ざかって、聞こえなくなって……。

「エイプリル」
「はい、アリア様」
「…………どういうつもりで来たのかしら、あの男!」
「……まあまあ〜……本当に、濡れ衣を着せられかけていらっしゃるアリア様のためを……思われたのかもしれませんよ〜」

 本心ではまったくそう思っていないであろうエイプリルの声に、背後を振り返る。伯爵が訪れてからの一部始終をそこで見ていた彼女であれば、私と同じ結論に至ったに違いない。じとりと視線を投げれば、エイプリルは苦笑しながら小首を傾げた。

「ですが……これまではどちらかといえばリリベル公爵派だった伯爵が、突然アリア様にというのも、不思議な話ではありますね」
「そうよね。もちろん、伯爵にはリリベル公爵側につかなければならない理由があるけれど。それにしても、私にあのようなことを言って、どういうつもりなのかしら……」

 私が生まれる前から……正確には、お母様が社交界へ現れてから。ただでさえ不穏だった社交界は、見事に二分されたのだという。そのきっかけは、なんの爵位もないただの下働きの使用人だったお母様を、陛下が妃とすると言い出したこと。
 ――王妃にはふさわしくない地位のお母様を、認めるか認めないか。認めない、相応の地位の者を、今度こそ前妻たちとは違うただしく規範となる女性をと求めた派閥の筆頭が、リリベル公爵だったと聞いている。……貴族たちがいくら騒ごうと、陛下は自らの愛に従って動き、お母様は王妃となり、私が無事生まれたのだけれど。
 リリベル公爵が私を目の敵にする理由も、きっとこの流れだろう。公爵が言うところの、ふさわしくない女から生まれた王族。公爵にとっておもしろくないに決まっている。……けれどその一方で、私への同情を盾に取り入ろうとする者もいた。こちらが、お母様に対する論争において肯定派だった人々。

「けれど、アリア様。これまでのジン伯爵は、良くも悪くもアリア様とは積極的に関わろうとはしていなかったように思います。……公爵とは違い、アリア様に負の感情を持っているわけではないのでは……」
「……それは、あなたの言う通りね。けれど、ジン伯爵はどうして公爵の行動を告げにやってきたのかしら」

 リリベル公爵は私を以前より嫌っていて、エルシーを殺した犯人も私だと思っている。伯爵の話を信じるならば、たとえ証拠を見つけられなければ捏造してでも私を犯人とするのだと。そして、公爵はそれを伯爵に話している。

「……私にこのようなことを話したことが公爵に知られれば……いえ、もしかしたらすべて織り込み済みなのかもしれないわ。……伯爵はリリベル公爵になにか指示されて、私に会いに来た……?」

 ありえなくはない話だ。だけれど、これ以上伯爵の件を考えるには情報が少なすぎる。だから彼の真意を探ろうとしても不毛なのに、荒れる思考の波はどうにかなにかを掴もうとする。
 主に考えられる可能性は二つ。
 リリベル公爵になにか言われて伯爵が私の元に来たか……それとも本当に、さすがに目に余る公爵の言動を告げにやってきただけなのか。もしかしたら別の目的があるのかもしれないけれど、それを考えるには私はジン伯爵のことを知らなかった。

「…………」

 繊細なレースのテーブルクロスを睨みつけながら、情報を整理してはかき混ぜて……泥濘に足を取られかけたときだった。
 ぱん、と明るく両手を合わせる音がして。それにおどろいたことを悟られないように顔をあげると、エイプリルが微笑んでいた。

「アリア様〜、お茶をお忘れではありませんか? お手紙もありますよ〜」

 頬を緩めて微笑む彼女に、濁っていた脳内がゆるやかに落ち着いていくのがわかった。

「本日はアリア様のお好きなガトーショコラの用意がありますよ〜。お手紙も持ってきていただきましょう」
「……そうね。ええ、そうするわ。ありがとう、エイプリル」

 気付けば詰まっていた息を吐き出して、気持ちを切替える。……そうだ、訪問が入って隅に追いやってしまったけれど――私はそもそも、一度休息を取ろうとしていたのだった。

「お茶を用意してちょうだい。……そうだわ、帝国から他には届いていないの? 色々とお願いしたのだけれど」
「届いていますよ〜。ドレスとアクセサリーボックスと……それから、植木鉢が。アリア様、なにか植物を育てられるのですか?」
「ええ! 私、青い薔薇がほしいの。人工的に作るもので、難しいと聞いていたのだけれど……帝国で試作品が出来たそうだから。私も育ててみたくなったのよ」
「……今度こそ、ご自身でお世話をなさってくださいね〜」

 主人である私に対して呆れを隠そうともしないエイプリルに反論しようとして、やめておいた。手渡された封筒の方に、私の意識は向いていたものだから。
 いつも通りの美しい封筒を裏返せば、中心には帝国の王家の紋章が入ったシーリングスタンプ。
 これは隣国――リアンソワール帝国の、私の婚約者から届いたものだ。よくある同盟と政略結婚で、彼との婚約が決まったのはもう数年前の話だ。お勉強が好き、なんていう変わった婚約者から持ちかけられた文通は、案外飽きることもなく続いていた。少し達筆な筆跡で綴られた季節の挨拶、難しいお勉強の話。それから、おねだりした花のこと。詳細に書かれた育て方に目を通していくと、最後に添えられた一文で手が止まった。

「試作品だから、完璧な青にならなくても怒らないこと――もう! 私子供ではないのだから、そのようなことで癇癪なんて起こすわけないわ!」

 幼子に言い聞かせるように書かれたそれに思わず声が出る。お茶を注いでいたエイプリルからの視線には気が付かないふりをして、二枚目の便箋に目を通した。

「……ねえ、エイプリル? 舞踏会の鈴蘭は、帝国にお願いしていただいたものなの?」
「……まあ、そうなのですか? 私は、帝国からのいただきものとしか聞いておりませんが……」

 花と言えば、と続いたそこに記されていたのは、舞踏会で飾られていた鈴蘭のこと。
 ――王国貴族からの頼みで城に鈴蘭を送ったと聞いたけれど、アリアはもう見たのかな。君の好みとは少し違うかもしれないけれど、たまにはああいった素朴な可愛らしさもいいものだろう?
 手紙には確かに、そう書かれていて。
 舞踏会に使うらしいけれど、と続いた文まで読んで、一度顔をあげる。舞踏会の飾り付けは大抵王家が行っているけれど、時には貴族に任せることもある……らしい。私は派手で豪華な飾り付けは好きだけれど、その用意まではあまり気にしたことがないものだから。
 ――君が触れることはないだろうけれど、一応。

「……『鈴蘭には毒があるから、気を付けて』……」

 それまでと変わらないトーンで書かれたそれは、本来気にすることではない。彼の言う通り、私が花に触れることだなんて滅多にないのだから。
 けれど、ずっと毒殺のことを考えているからだろうか。その言葉が引っかかったのは。……それとも、あの小さな花と毒だなんて物騒な単語が、うまく結びつかないからなのだろうか。

「……返事を書くわ。エイプリル、便箋を」

 エイプリルの返事を頭の片隅で捉えつつ、私はペンへ手を伸ばした。


 ◆


 手紙に封をしたのと、ノックの音がしたのはほとんど同時だった。
 エイプリルは扉の向こうに立つ使用人と少しだけ会話をして、私の方へと振り返る。

「アリア様。エルシー公爵令嬢の死因について、医師から説明があるようですが……アリア様もお話を聞かれますか、とのことです」
「……医師が? 彼女を殺した毒が何に含まれていたかわかったのかしら。ぜひ同席させていただきたいわ」

 ……いったいどうして私に声がかかるのかはわからないけれど、医師の話が聞けるのであればありがたい話だ。エイプリルと話していた使用人は、私を見ると目を合わせたくない、とでも言いたげに視線を逸らす。

「……さて。お医者様がいらっしゃるのはどちらかしら」
「応接間だそうです。こちらの使用人が案内すると」

 仕事中の割には態度がなっていないその使用人は、無愛想に私に挨拶をして。さっさと先導をして歩き出す。このような態度をとられるのは初めてではなく、むしろ慣れていると言ってもいい。けれど、慣れていることとそれを許容するかどうかは別問題だ。どこにでもいるその背中を睨みつけて歩いているうちに、応接間の前へと辿りついたらしい。私の元を訪れたときと同じように無愛想に去って行こうとするその姿に、いつもならば多少なにか仕掛けてやっていたところだけれど……今はそれどころではない。
 エルシーの死因が知れるのだ。気を引き締めなくてはならない。
 エイプリルの開けた扉の先、かつりと靴を鳴らして踏み込む。と、そこ、には。

「おお、アリア。遅かったな」

 聞く機会のない、けれど聞き間違えるわけもない声がする。その声の主を頭が認識するよりも先に、私は片足を曲げて、もう片方を下げて。スカートを持ち上げる。そして私は、震えそうになる声を隠して優雅にご挨拶をする。

「――ご機嫌麗しゅうございます、お父様」
「そう畏まるなと言っているだろう。お前は私の可愛い娘なのだから」
「もったいないお言葉ですわ」

 我がフォレスデン王国国王陛下……家族らしい呼び方をするのであれば、私のお父様――ジャック・リーフェンシュタール。公務だとか外交だとか、そんな必要最低限しか私の前に現れないこの方が、どうして。

「だが、まあ……お父様、と呼ぶようになっただけでも進歩ではあるな。アリア、こちらに来なさい」
「……はい」

 エルシーのことを医師から聞けるのではなかったのだろうか。どうしてこの方がここに。……エルシーが倒れたときも、死んだと判明したときも、興味なんてなさそうだったのに。そんな私の考えを読み取ったかのように、陛下は優雅な笑みを私に向ける。

「何、お前が今度は探偵ごっこをしていると聞いてな。様子を見てやろうと思ったのだ」
「た、探偵ご……っ、――いえ、はい、お父様。気にかけていただき光栄に存じますわ。お医者様が、公爵令嬢の死因についてお話してくださると伺いましたけれど」

 そこでようやく応接間を見回す。随分と気まずそうに立っていたのは、医師の男と、それから、ロバート・リリベルだった。
 ――エルシーの兄がどうしてここに。……いえ、彼がこの場にいることはなんらおかしくはないのだけれど、彼だけというのはなんともめずらしく感じられた。国王がいるからだろう、居心地が悪そうな彼に微笑みかけると、ロバートはほっとしたように方の力を抜いた。

「ごきげんよう、ロバート様。本日は、公爵はいらっしゃらないのですか?」
「……はい。父は、今日は……外せない用事があるようで……僕が名代として参りました」
「それは、ご苦労様でございますわ。公爵にもよろしくお伝えくださいませ」

 ロバートはへらりと気弱な笑顔を浮かべる。
 陛下お父様に指し示されて、彼の座るソファへ腰掛けた。

「……さて。それでは、舞踏会でどのように駒鳥を殺したのか……話を聞こうではないか」

 優雅に、けれど有無を言わせない雰囲気で陛下が言う。医師は緊張した面持ちで、手元の診断書に視線を落とした。陛下の手が、手持ち無沙汰に私の髪を滑っていく。

「……エルシー・リリベル公爵令嬢は……先日の舞踏会の折、突如倒れられました。診断の結果、毒殺であることが判明いたしました。……毒が混ぜられていたのは、舞踏会で出されていた菓子だろうとも」
「そのお菓子が、特定出来たんですの?」

 口を挟むと、医師は頷いた。慎重な聞き込みだとか調理器具の調査だとかを行ったのだと前置きを行って、それから、陛下の様子をうかがって……そしてようやく、口を開いた。

「カップケーキです。エルシー公爵令嬢がそれを食べられたことは、彼女の周囲の方々が証言していらっしゃいます」
「カップケーキ……お医者様、いつ毒が混ぜられましたの? 調理過程なのかしら」

 私の疑問に、医師は相変わらずおどおどと陛下の様子をうかがう。なにかを恐れている、と言いたげな彼の態度は不思議だった。……確かに、陛下には威圧感はあるけれど、それにしたって……王侯貴族の前に出ることが始めてというわけでもないはずなのに。

「ええ、ええ……調理中……キッチンで混ぜられたのではないかと」
「それならば、厨房にいた者は皆怪しいな。アリア、厨房の者たちから話を聞きたいか?」
「は、はい、お父様。きっと重要な手がかりになるはずですわ……カップケーキを作ったシェフがいますでしょう。その方からお話を伺えれば、きっとなにか……」

 シェフが犯人だとしてもそうではなかったとしても、毒物が判明した以上作り手に話を聞かないわけにはいかないだろう。いずれ公爵もこのことを知ることになるだろうから、そのときの聞き取りに無理矢理入り込んでもいいし……。それとも、もし私が今ここでねだったら。陛下は、私がシェフと話す機会を作ってくださるだろうか。そう考えていたときだった。

「よろしい。アリア、私に任せておきなさい」
「お父様?」

 困惑する私をよそに、陛下は組んでいた足を解いて立ち上がる。そして、大きな手が私の頭を撫でた。

「小さな探偵が楽しむための舞台は、私が整えてあげよう。シェフの件は私が手はずを整えておく」
「……あ、ありがとう、存じます……?」

 もう一度私の頭を撫でて、陛下は去っていく。私もエイプリルも、それから医師とロバートも……わけのわからないまま、その後ろ姿に頭を下げる他なかった。
 ……いったいなんのつもりで、なにをしにいらしたのだろう。閉められた扉を眺めていることしかできない私に、医師の視線が突き刺さる。それに気が付いたと同時にはっとして、私は一つ咳払いをした。

「お医者様、ロバート様も。本日は城まで足を運んでいただき、ご苦労様でございました。今後ともよろしくお願いいたしますわ。……それでは、私はこれで」
「……あっ、お、王女殿下……」

 この気まずい空気から退散を試みた私を、か細い声が呼び止める。

「ロバート様。なにかございましたか?」
「……王女殿下に、お話したいこと、が。……エルシーのことで」

 そう言ったロバートの瞳には、それまでの気弱そうな色とは違う――なにか、覚悟を決めたようなそれがあったものだから。この魔窟でよく見る、おおよそ正しくない方向へ足を踏み入れる人間特有のものだったから。だから、仕方がないことだ。私の敵側にいた者が、もしかしたら。そう期待してしまうことも。

「……ええ、もちろんですわロバート様。私も、ぜひお話したいと思っていたのです」

 医師を帰したあと、ロバートは途端に堰を切ったように話し出す。この人ってこうして饒舌に話せたのね、なんて思ってしまうほど、彼は滔々と話し出した。

「――エルシーは、殺されて当然の子です」

 そう語る彼の濃い青色には、憎しみが滲んでいた。

「父は、エルシーはいい子だなんて言うけど……そんなわけない。あの子は我儘で自分勝手で、周りのことなんかなにも考えていなくて……殺される理由ばかりが転がっている、最悪の人間なんですから」
「……まあ。ロバート様ったら……妹君に対して、ずいぶんと辛辣でいらっしゃるのですわね」

 気弱だけれどエルシーとは違って善良そう、なんて思い浮かべていたロバート像は、会話を始めての数秒で見事に打ち壊された。人は見かけによらないとはいうものだけれど、それにしたって、他人を相手取って血縁を罵れる人だとは。これが彼の素なのか、こう言わせるほどエルシーが強烈なのか。その答えを導きだそうとしていた私の思考は、次の言葉で止まることとなった。

「エルシーは、妹なんかじゃありません」

 そうして、ロバートは吐き捨てるように言った。

「……あの子は、愛人の子です。だから……僕は認めていません、あんな子が妹だなんて」
「――愛人」

 彼の発した言葉を、思わずおうむ返ししてしまう。頭をなにかで殴られたかのような衝撃だった。
 愛人の子? あの、エルシーが? 愛されているのだと、自分はあの公爵の子なのだと、あなたとは違うのだと、何度も詰ってきたあの女が。公爵夫人の子ではない、と。ロバートは言っている。

「そ、れは……存じ上げませんでしたわ。エルシー嬢が……」
「はい、父は必死に隠していましたから……王女殿下が存じ上げなくとも無理はありません。ですが、公爵家やその使用人、それから当家に近しい者にとっては公然の秘密でした。エルシーは、父が囲っている庶民の女との間に生まれた子です。……でも」

 はらり、と。リリベル公爵と、それからエルシーと揃いの金髪が、彼の表情を隠す。

「僕も、最初は……家族に貴賤を持ち込むべきではない、と……思っていて。たとえ母が違っても、同じ父の子ですから、仲良くするべきだと思っていたんです。ですが……! 父もエルシーも、母をないがしろにするばかりで……!」
「お、落ち着いてくださいまし。その、母と言うのは、ロバート様のお母様……公爵夫人のことですわよね」

 口を挟むと、ロバートは息をついてから頷いた。色々と考えたいことはあるけれど、ひとまずそれは後だ。彼に続けるように促すと、今度はゆっくりと話し出した。

「特にエルシーは、母を困らせてばかりでした。我儘を繰り返して困らせるだけでは飽き足らず、召使のようにこき使って、時にはひどい言葉を投げかけて……母は日に日に憔悴していって。今では心労で、家から出られないのです」
「近頃公爵夫人をお見かけしていないとは思っていましたけれど、そんなご事情がありましたのね。エルシー嬢に、リリベル公爵はなんと?」
「……なにも。元々政略結婚だとかで、父は母をよく思っていなかったようで……そんなときに出会った庶民と恋に落ちて、母を邪魔者扱いするようになったんです。エルシーが母を罵っていたのも、父の影響で。父は、確かに優しい親ではなかったけど……愛人と出会うまでは、他人を馬鹿にするような人ではなかったのに……」
「――……それは、なんと申しましょうか……リリベル公爵がそのような方だとは……」

 本当に、今ここでなにを言うべきなのかがわからない。エルシーのあの態度、私や末端の使用人相手だけではなく、家でも変わりなかっただなんて。それに、リリベル公爵も。そのような浅慮なことをするような人には見えないのだけれど、恋をすると人は変わるのだろうか。

「エルシーは、父の前ではいい子でいただけなんです。母にも、使用人にも、付き合いのある令嬢にも、それから僕にも……横柄で我儘でどうしようもない、嫌な娘でした。エルシーをそういう風に育てて、母がやつれていっても知らぬふりをして、今もエルシーを庇い続ける父のことはもう信じられません」

 そこまで言うと、ロバートは顔を上げる。
 王女殿下、と私を呼ぶ彼の目元は、エルシーとはあまり似ていなかった。

「王女殿下がエルシーの死の真相を調査されるのであれば、僕にも協力をさせてくださいませんか。王女殿下の役に立つこと……命じられることであれば、なんでもします」

 空想はしていたけれど予想はしていなかった言葉に、私は返事を紡ぐことができなかった。それをどう受け取ったのかはわからないけれど、ロバートは懐から一枚の封筒を取り出す。

「……その。もちろん、僕はリリベル家の息子ですから、協力しますというだけで信じられないのもわかります。ですから、エルシーの死に関わっていそうなものを、あの子の部屋から……」
「え? お部屋から?」

 持ってきました、と言ったロバートが差し出した封筒はとてもシンプルだった。表にエルシー宛の旨は記されていたけれど、裏面に送り主の名前は書いていない。中身を取り出すと、封筒と揃えられたシンプルな便箋に、さらりとした筆跡が置かれていた。……見覚えがあるような気がするのは、私の気のせいだろうか。

「ええと……『愛するエルシーへ』。まあ、恋文?」

 思いがけなかった書き出しに、思わず声が漏れた。エルシーだって貴族令嬢だ、社交界でそのような仲になる相手と出会っていたとしてもなんら不思議ではない。それにしたって、これが一体どういう――そんな疑問は一度置いておいて、先を読み進める。

「――『先日は君と過ごせて楽しかったよ。僕の立場のせいで、不自由を強いてごめん。叶うならば、地位も名誉も捨てて、君をどこか遠いところまで攫ってしまいたい』……熱烈な物好きもいるものですわね」

 読んでいいのだろうか。いくら相手があの女といえど、他人の恋愛事情を盗み見るのはあまりよろしくないような気がするのだけれど。そこまで考えて思い直す。ロバートは、エルシーの死に関わっていそうなものだと言っていた。それならば、ええ、まあ……許される、だろうか。

「……『次の舞踏会には君も参加するのだと聞いたよ。君との逢瀬を楽しみたいのだけれど、目立つところで話すと妹が厄介でね。最初のダンスが終わったあと、城の裏庭で落ち合おう。もしも君も僕との時間を望んでくれているのなら、ダンスのあとベランダのそばで、使用人が持ってくる白い花の乗ったドリンクを受け取って』」

 使用人まで巻き込んで、随分と回りくどい逢瀬の合図だ。
 エルシーの恋は、身分だとか家同士のしがらみだとかで本来結ばれるべきではない人間が相手だったのだろうか。舞踏会の最中、ダンスホールで話すことすらも許されないような語り口。……妹が許さない、とはどのような意味なのだろう。単純に考えれば、なにか家同士のいざこざがあって、その妹が確執に厳しい、というあたりが思いつくけれど。
 私は手紙の送り主の意図を読み取ろうと、文字列をにらみつける。この送り主の男が毒殺に関わっている可能性だってあるのだから。それにこの手紙に、舞踏会の日の彼女の行動が書かれているかもしれない。

「『白い花は、この国では見かけないものだからすぐにわかるよ。鈴蘭と言って、少し前に帝国から贈られたものだそうだ。花言葉は純粋、君にぴったりだろう?』……そうかしら……」

 思わず顔を上げてエイプリルの方を見れば、彼女はなんとも言えない表情で微笑んでいた。
 この送り主の男は、ずいぶんと恋に傅いているらしい。あんな女の、どこが! 純粋だというのだろう。……それとも、エルシーは恋仲の男の前では猫を被っていたのだろうか。父の前ではそうしていたようだもの。あの女なら、そのくらいのことはしそうだ。

「……ええと……? 『僕もダンスのあとはすぐ裏庭へ向かうよ。待っていて。――愛を込めて』」

 そこで文章は終わっていた。他人の恋文を全文読み上げてしまったわけだけれど、これも調査に必要なのだから仕方ない。どうやらかなり祝福されない恋に落ちてしまった送り主のためにも、この秘密は必ずこの私が墓まで持っていって差し上げなくては……そう考えながら、あの女のお相手を知るべく私は手紙の右下に目を落とした。
 ……そして。私は王女にふさわしくない、素っ頓狂な声をあげることとなる。

「…………はあ!? り、りゅっ、リュシアン・リーフェンシュタールより!?」
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