第1幕 Dear My Sister

02 静かにあなたを射止めるもの


「……特に、手がかりになりそうなものはないわね」

 リリベル公爵のご厚意・・・にて毒殺事件の調査に加わった私は、さっそくエイプリルと共にダンスホールを歩き回っていた。
 ダンスホールは、いつもの舞踏会後のそれと変わりない。事件調査の観点から、舞踏会そのままの姿を残しているのだと聞いていたけれど……すべては一分の隙もなく、整えられている。

「リリベル公爵かしら」
「はい、おそらく。公爵がいつ頃こちらへ出向かれたのかはわかりませんが、もしも手がかりを見つけていても、私たちには教えてくださらないでしょうし……」

 どうしましょう、と言いたげなエイプリルの視線を受け止めながら、私はリリベル公爵とその使用人たちと……それから、リュシアンお兄様の様子を伺う。突然現れて私の助力をしてくださったお兄様は、あの後私の頭を撫でながら囁いたのだ。
 ――公爵のことは僕が見ておくから、アリアは周りを調べてきておいで。
 その言葉に甘え、私は公爵をお兄様に任せている。……もしも、公爵が既に何かを知っていて黙っているのであっても、お兄様がそれを見逃しはしないだろう。

「それは、お兄様にお任せするしかないわ。……だからこそ、私たちで何か……とは言っても、もう大方見て回ったのだけれど……」
「そう、ですね。公爵令嬢が倒れたところも、椅子も机もすべて綺麗……わたしもホールの準備を少しお手伝いしましたけれど、まるで舞踏会の前みたい……」
「……あら。エイプリルまで準備に? 普段は関わっていないじゃない」
「はい、わたしの仕事はアリア様の補佐ですから、いつもはお手伝いしていないのですが〜。帝国からお花をいただいて、メイド長がずいぶん張り切っていらっしゃって……。大変でした〜……」

 忙しなさでも思い出したのか、エイプリルは少し困ったように微笑んだ。
 お花。その言葉にダンスホールを見回すと、確かにいつもの派手で豪華な花とは違うそれが花瓶の中で咲き誇っていた。……舞踏会の最中は気が付かなかったけれど。花のひとつひとつが小ぶりなことだなんて気にならないくらい、見事に誂られている。

「鈴蘭、というお名前だそうですよ。帝国の……首都とは遠い、高原に咲くお花だと聞きしました〜。エドワード殿下もご興味を示されたこともあって、先日の飾り付けは鈴蘭で埋め尽くしたのだとか」
「エドワードお兄様が? ……お兄様って、花にご興味があったのね。あまりそうした情緒は解さない方かと思っていたわ」

 鈴蘭。その名前にどこか聞き覚えがあったのだけれど、私の意識は突如出てきたエドワードお兄様に引き寄せられていった。
 あの、冷たい瞳を思い出す。花を愛でるなんて行為とは遠い方だと思っていたけれど、認識を改める必要があるのかもしれない。エイプリルは曖昧に微笑むと、「……申し訳ございません」と口を開いた。

「今はお花のお話よりも、手がかりを見つけなくてはいけませんのに……少し無駄話が過ぎました」
「いいのよ。歩き回っていたところで、なにも見つからないでしょうし。エイプリル、椅子を持ってきてちょうだい」
「はい、アリア様」

 エイプリルが素早く置いた椅子に腰かける。公爵は、……お兄様はなにをしていらっしゃるのかしら。その様子を伺うには、ダンスホールは広すぎる。春を想起させる香りに包まれながら、私は美しい天井を見上げた。

「……エルシーは、毒殺されたのよね」
「はい。医者の話によりますと、公爵令嬢がお口にした……お菓子に遅効性の毒が混ぜられていたとのことです」
「お菓子に毒を混ぜるだなんて、誰にでもできることだわ。料理人、運んでくる使用人……それに、貴族にだって。毒の種類がわからないと正確なところはわからないけれど、液体であれ粉であれ、周りが見ていないときに紛れ込ませることも……不可能ではないわ」
「仰る通りです。エルシー公爵令嬢に食べ物を渡した使用人については、公爵令嬢とご一緒していたご令嬢方に事情を伺うとのことですが」
「ああ、エルシーの取り巻き……いいえ、今はあの女たちは重要ではないわね。――そうね、それなら、実行を疑われるのはその使用人……けれど計画をした人間は別にいるはずだわ」

 たかだか使用人に、公爵令嬢であるエルシーを殺す動機があるとは思えない。確かにあの女はそれはそれは高慢で、使用人にもそれなりの態度をとっていたけれど、それはエルシーに限った話ではない。個人的な恨みを持っていたとしても、……殺すだなんて。こうして調査され、白日の元に晒されれば処分は免れない。そんなリスクを、使用人が犯すだろうか。

「…………それに、人を殺す理由があるのなんて。王侯貴族私たちくらいですものね」
「アリア様? なにか仰いましたか?」
「いいえ。もう少しだけホールを調べて、お兄様のところへ向かいましょう」

 そう言ってはみせたものの、ダンスホールはつつがなく。どうしたものかと頭を悩ませていたとき、エイプリルの「あら?」という声が聞こえてきた。

「どうかして?」
「あ……申し訳ございません。大したことではないのですが……花の、向きが」
「向き?」

 背後に並ぶ鈴蘭に目を向ける。それらが活けられている花瓶には、特に変わったことはない。城内では度々見かける特注品だ。

「こちらの花瓶の鈴蘭だけ、向きが変わっているのです。すべて花が正面を向くようにと指示がありましたのに」
「あら、本当だわ」

 エイプリルが指し示したのは、私の真後ろにあるものより四つほど先、隅に置かれた花瓶。
 すべての花が控えめにこちらを向く中で、それだけはそっぽを向いている。……というよりも、花瓶の向きが変えられている、と言った方が正しいだろう。すべてが一律に揃えられた花瓶の列の中で、その一つだけは異質に……横に向けられていた。

「……おかしいですね。準備の最中は、花瓶には寸分のずれもないようにと口酸っぱく言われていたのですが……メイド長が、見逃すとも思えませんけれど」
「それなら、舞踏会が始まる前までは、向きは変えられていなかったということよね。……誰かが…………けれどそんなこと、なんのために……」

 常識的に考えて、花瓶一つをあえてずらすなんてことはしないだろう。美しく飾り立てはしても、会場は所詮背景だ。目立つようなことをする場ではない。それに、準備に関わったエイプリルがこう言っているのだから、舞踏会が始まってから誰かがなにかの意図を持って動かしたと考えていいだろう。
 ……問題は、花瓶一つ動かしてなにが変わるのか、ということだ。このイレギュラーがもし、エルシーの死に関係しているとしても……これでは人は殺せない。

「……アリア様」

 思考の波に流されかけた私を、エイプリルのひっそりとした声が現実に引き戻す。

「なあに、エイプリル」
「こちら、どういたしましょう」

 いつも穏やかに微笑む瞳が、少しだけ鋭く利発に光る。かすかに花瓶を見やったエイプリルの意図するところは簡単に理解できて、思わず口角があがった。

「ええ、そう……そうね。元に戻しておいてちょうだい。この美しいダンスホールに乱れがあるだなんて、私、気分が悪いですわ!」
「はい、かしこまりました」

 普段の――対外的な話し方をしてみれば、エイプリルはくすりと笑った。そうして、一つ余所を見ていた花瓶を正面に戻す。いくつものちいさな花は、何もなかったかのように揺れている。
 リリベル公爵は、この花瓶に気がついていたのだろうか。花瓶の向きに意図があるとするならば、彼になにか心当たりはあるのだろうか。先頃の私の頭にはそんなことばかりが浮かんでいたけれど……そもそも、気がついていない可能性だってある。これが最終的に、犯人の発見に役立つにしろ役立たないにしろ、ダンスホールのイレギュラーであることには違いない。
 ……どう転ぶとしても、彼がこれを見留めることは私にとっていいことだとは思えない。

「……エイプリルが私の侍女でよかったわ」
「まあ〜……ふふ。光栄に存じます」

 だから、暗にこの謎の配置をなかったことにしないかと語るエイプリルの提案は、本当に。
 ……それにしても。彼女、私に仕え始めたばかりの頃は秩序を善性と良心でトッピングしたような人だったのに、いつの間にこのようなことを言い出すようになったのかしら。頭の片隅に浮かぶ、原因の一端を担っていそうな私の我儘と無茶の数々を振り払っていたときだった。

「アリア」

 リュシアンお兄様が私を呼んだ。
 エイプリルが頭を下げるのを視線の端にとらえつつ、私は振り返る。

「お兄様。どうかいたしましたか?」
「ああ、公爵はもうお帰りだそうだ。だから挨拶をと」
「まあ、そうでしたの! 公爵、本日はわざわざ出向いていただき……あら」

 相変わらず仮面を被ったかのような公爵を見上げて、それから、その横に立つ男と目が合った。お兄様と同年代ほどに見えるその人は、なんとなく見覚えがあった。金髪に、鮮やかな青い瞳。同じ色を持つ公爵とあの女とは真逆の、気弱そうな態度。

「……エルシー嬢のお兄様でいらっしゃいますわよね? お名前は……ロバート様でしたかしら」
「……! は、はい。あの……」
「そう畏まらないでくださいまし。エルシー嬢のご家族の方ですもの、忘れるわけがございませんわ」

 ロバート・リリベル。リリベル公爵家の嫡男だ。エルシーから彼の名前を聞くことはあまりなかったけれど、それにはロバートの自己主張が苦手な性格が関係しているという話を聞いたことがある。父である公爵も少し冷たく当たっている、とも。

「エルシー嬢のこと、お悔やみ申し上げますわ。大事な妹さんだったでしょうから」
「ああ、いえ、そんな」

 眉を下げると、ロバートは困ったように声を上げて、それからなにか言いたげに口ごもった。
 彼とはあまり関わりがなかったけれど、その姿を見て確信する。なるほど確かに、リリベル公爵やエルシーとは気が合わなそうな性格をしていそうだ。あの公爵に育てられたのだから馬鹿ではないだろうけれど、頭の回転が早いわけではなさそうだ。自身の欲望を通すために矢継ぎ早に言葉を紡ぎ、相手にもそれを要求する父や妹にはずいぶん、苦労をしていそうな。

「ロバート様も、エルシー嬢の死の調査に?」
「はい」

 ロバートが話し出す前に口を開いたのは、リリベル公爵だった。

「ロバートは愚鈍ですが、なにかの役には立つかと思いまして。あのような事件のあとです、家族のような信頼できる存在こそ頼らなくては」
「……ええ、そうですわね。公爵の仰る通りですわ。家族ほど信頼できる相手もいませんもの。――と、いうお話のあとにすることではございませんが、ロバート様」

 一度公爵の方へ向いた私に再び声をかけられるとは思っていなかったのか、ロバートはびくりと体を揺らす。それを咎めるように眉を上げたけれど、公爵は黙っていた。

「私も、エルシー嬢の死の真相……ひいては、犯人探しに関わらせていただいていますの。エルシー嬢は、私に臆することなく向かってきてくださった唯一のお友達……そんな彼女の死の謎は、私が解き明かし犯人を皆様の憂いを晴らしてみせますわ」
「えっ、王女殿下が……妹の、ために」
「はい。ですから、もしロバート様がお気付きのことやご存知のことがあれば、私にもお話してくださると嬉しいですわ。……もちろん、無理にとは申しませんが」
「あ、あの、それなら、」
「愚息はあの日の舞踏会でも隅におりましたから、王女殿下のお耳に入れることはないかと存じます」

 なにか言いかけたロバートを遮り、公爵がそう言った。これ以上話すことはないと言いたげな視線に、私は優雅に笑ってみせる。

「……お引き留めしてしまいましたわね」
「いえ、失礼致します。リュシアン殿下、アリア王女殿下」
「僕たちも少し、城内のことを調べてみます。お帰りはお気を付けて」
「またお会いしましょうね。公爵、それから……ロバート様も」

 去りゆく背中が、ダンスホールを出るのを見送って。そうして、少し経ってからのこと。絵画のように完璧な笑顔をたたえていたお兄様が、大きく息を吐いた。

「……はぁ……疲れた。公爵がロバートに厳しいという噂は本当みたいだ」
「気が強い公爵やエルシーとはうまくいかなそうですわよね。私たちが見ていてあの様子ですから、家ではもっと……。……それよりもお兄様、ありがとうございますわ」
「ん? ああ、気にしないでアリア。大したことはしていないよ」

 私の頭を撫でる手に身を任せながら、「そのようなことはありません」と反論する。実際、お兄様がいなければ公爵はあのまま私を拒んだだろうし……万一うまく調査に入り込めたとして、向こうの様子まではわからなかっただろう。その役目をエイプリルに任せていたら、私は花瓶のことだなんて気が付かなかったに違いない。

「公爵は見ておく、なんて言ったけれど……なかなか隙がなくてね。こんなの初めてだ」
「あら。お兄様でもだめでしたの?」
「うん。この件に関しては壁を作られていて。公爵が女性だったらもう少しうまく……そうだ、夫人の方から攻めてみようか?」

 へらりと笑ったお兄様に、あまりよろしくない仮定が浮かぶ。
 リリベル公爵夫人といえば、美人だと評判なのだ。私のお母様には負けるけれど。……お兄様が美人の女性に積極的に関わろうとするときは、たいてい、そういったふしだらな遊びなものだから。

「……お兄様、既婚者にまで手を広げたら本当に大事になりますわよ。ねえ、エイプリル?」
「そうですね〜。使用人や未婚のご令嬢だからこそ、公然の秘密になっていると言いますか……ご夫人のお相手はおそらく、ご夫君との揉め事に発展しかねないかと……」
「攻めるってそういう意味ではないからね!? さすがに僕もそこは弁えてるよ……ただ単に、僕たちを警戒している公爵よりも、夫人からの方が話が聞けるんじゃないかってことだよ」
「……けれどお兄様って、そのように仰っても……その……そう……ではありませんか……最終的に……」
「そうじゃな……いとは言わないけど、そうじゃないときもあるよ! 大体、娘を失って傷ついているご夫人相手に仕掛けるわけないだろう?」
「そうかしら……」
「し、信用ないなー僕……エイプリルはわかってくれるよね?」

 そう投げかけられたエイプリルは、お兄様の期待とは裏腹になにも言わず、ただにこりと微笑んだ。そして、「アリア様」と私に向き直る。

「公爵家の他の方々から情報を得る、ということ自体は名案なのではないでしょうか」
「え、エイプリル? ちょっと」
「そうね。私もそれは考えていたのだけれど。……私はエルシーとの仲もあって、公爵家の人間にはあまりよく思われていないでしょうから……」

 やはり、公爵家への接触はお兄様に任せるべきなのだろうか。その女癖から多少……というか、かなりの不安は残るのだけれど、さすがにお兄様も夫人には……なにも、しないだろう。おそらく。そうであってほしいという希望的観測をそれなりに含むけれど。

「ロバートはどうかな」

 エイプリルの対応に多少落ち込んでいた様子のお兄様だったけれど、すぐに会話に戻ってきた。その言葉に、エルシーの兄の姿を思い出す。なにか言いかけて、公爵に遮られていたあの姿。

「僕も少し話したけど、なにか知っていそうだったし。……公爵の目が気になって言えない、という感じだったけどね」
「ええ。彼はなにか、引っかかっていることがあるのでしょうね」
「たとえ何も知らなかったとしても、味方は増やしておいた方がいい。見たところ押しに弱そうだし、少し優しくしてやれば簡単に落ちるんじゃないかな」
「お兄様、言い方! けれどそうですわね。公爵家の中に協力者が出来れば心強いですし。それなら、お兄様が……」

 お兄様が接触してくださいますでしょう、と言いかけた私の言葉を待たず、お兄様は首を横に振った。その意図がつかめず、私はエイプリルと顔を見合わせる。

「アリアが行った方がいい」
「……えっ。ですがお兄様、彼はエルシーの兄ですわ。妹とああも仲の悪かった相手に、心を開くとは思えませんけれど」
「そうかな。……アリアと別行動をしていたとき、僕がいくら話しかけてもまともに返そうとしなかったけど、君に対しては違ったから。いけると思うよ。それに、あの様子だと……」

 お兄様はそこで口を噤んでしまう。少し急かすと、言葉を選ぶように再び話し出した。

「……ロバートは、エルシーのことをそこまで好きじゃないと思う」
「まあ。なぜそう思われたんですの?」
「……僕も彼と同じ……兄だから、かな」

 まったく説明になっていなかったけれど、なぜかそれ以上踏み込むのは躊躇われた。それに、お兄様の直感は当たるのだ。人に関することだと、なおさら。だから疑問は一度置いておいて、お兄様を信じるべきだろう。

「わかりました。お兄様がそう仰るのでしたら、ロバートには私から」
「うん、それがいいよ。僕も少し、エルシーの周りに話を聞いてみようかな」
「周りと申しましても、お兄様。ロバートや公爵夫人の他には……使用人ですか?」
「そっちもいいけど、それよりはエルシーの友達の方が近付きやすいかな。あの子たちには、アリアもうまく話せないだろうから、僕が行くよ」
「私がではなくて、あちらが私を見ると難癖をつけてくるのです! 悪いのはあの女たちの方ですの!」
「うんうん、ごめんごめん」

 悪いと思ってはいなそうなお兄様には、なにを言っても無駄だ。私が悪いわけではなく、あくまで、向こうが! 私を見かけるとくだらない文句をつけてくるだけで、断じて私がうまく話せないなんてことはない。けれどエルシーの死という有事に際しても、彼女たちのあの姦しさは変わらないだろうから。お兄様が聞き出してくれるのであれば、その方がいいだろう。

「リュシアン殿下」

 ふと、それまで黙っていたエイプリルが口を開いた。

「ん? どうしたの、エイプリル」
「エルシー公爵令嬢のご友人方……そのうちのお一人が、明日の夜会に参加なされるとのことです」
「へえ。……エルシーと1番仲がよかった子なんて、だいぶショックを受けて部屋にこもっているくらいって聞いたけど」
「ええ……他のご友人は、しばらく屋敷で過ごすとのことです。夜会に出席される……オリヴィア・ドミニク伯爵令嬢が、言葉はあまりよろしくありませんが……狙い目かと存じます」
「オリヴィアって、一番エルシーに擦り寄っていた女ではなくって?」

 あまり想像していなかった名前に、思わず口を挟む。
 エルシーの取り巻きの中でも、最も派手で騒がしく、ついでに最も私に突っかかってきた女。その姿は本当に取り巻き、もっと言うのであれば腰巾着、太鼓持ち。舞踏会の事件のときも一番動転していたというのに。……もちろん部屋に閉じこもることが正しいわけではないし、オリヴィアの傷の癒し方が他の女とは違うだけなのかもしれないけれど。
 そうだとしても。外野の私から見てもあけすけなあの媚び売りを知っている身としては、少し疑ってかかってしまうのも事実だ。

「……気を紛らわせているだけかもしれないよ。でも、他の子が外に出てこないならオリヴィアがちょうどいいかな。ありがとう、助かるよ」
「とんでもございません。そう言っていただくほどのことでは」
「そんなことないよ。エイプリルには……アリアのことも含めて、いつも助けられているんだ。礼になるかわからないけど、僕にできることがあればなんでも言ってね」

 そうしてエイプリルの顔を覗き込む姿は、いつものお兄様の姿としか言いようがない。けれどその瞳には、他の女を口説こうとしているときとは違うものがあるような気がした。女を勘違いさせて惑わせるケーキのような甘さとは別のなにかが。

「……いえ……お気持ちだけいただかせてください、殿下。わたしは主のために知っていることを申し上げたまでです。わたしは、アリア様の侍女ですから」

 エイプリルはいつも通りに微笑んで返答する。他の侍女ならきっともうお兄様の虜になっているだろうけれど、エイプリルはまったく動じていなかった。
 お兄様っていつでもとびきりかっこよくて、優しくて、紳士的で。ついでに地位は次男といえど王子だ。そんな人にああして見つめられて致命傷を負わずに済んでいる女を、今のところ私は知らない。エイプリル以外は。

「……そっか。君は昔から変わらないね」

 お兄様はどこか満足気につぶやくと、顔を上げて微笑んだ。

「僕はそろそろ行こうかな。またね、二人とも……と、そうだ、アリア」
「はい、なにか?」
「あまり無理をしすぎたらだめだよ。勝手に暴走しないで、なにかあったら僕に教えて。できる?」
「私はもうそのように言われる子どもではありません! わかっていますわ、慎重にならなければいけないことくらい!」
「それならいいんだ」

 私の頭を軽く撫でて、お兄様が去っていく。
 お兄様はいつまで経っても、私を幼い子どもだと思っているのだ。確かに三つの年の差は決して小さいものではないのかもしれないけれど、私はもう十四なのに。ああして子ども扱いされる度に思うのだ。……お兄様の中の私はずっと、あの泣いてばかりの私のままなのかもしれない、と。そうだとするなら、とても不服だけれど!

「アリア様? どうかされましたか?」
「いいえ、なんでもないわ」

 エイプリルの声に、浮かんだもやもやを振り払う。なんとなく違うことで頭をいっぱいにしたくて、話題を探して……咄嗟に出たのはやっぱりお兄様のことだった。

「……あなたの周りの侍女は、お兄様のあの態度を見てきゃあきゃあしているじゃない? あなたはあまり動じないのね。あの手のリップサービスはお嫌い?」

 いつも変わらないエイプリルを見ているからだろうか。そんな言葉が口をついた。あの態度、と不思議そうに言葉をころがしたエイプリルは、すぐに思い当たったようで少し眉を下げる。

「…………そん、なことはありませんよ。リュシアン殿下はとても魅力的で、周りの子のはしゃぎたくなる気持ちもわかります〜。ですが、その……」

 エイプリルはお兄様が歩いていった方向を見る。静かなダンスホールに、彼女はなにを思い出しているのだろう。

「――今更、なので〜」
「……お兄様なんてもう見慣れているから、今更心が踊ることもないと? あなたって結構言うようになったわね」
「もう〜……そうは申しておりません」

 困ったように微笑むエイプリルは、いつも通り私だけを見ている。「それよりも」と続けられたエイプリルの言葉に、私は目の前の目的を思い出す。

「公爵家……ロバート公爵令息にお話を伺うとしても、どのように連絡いたしましょう」
「そうね。無難なのは手紙……けれど、公爵に知られると少し厄介だわ」

 呼び出すにしたって、方法は限られているのだ。そして、どうしたって私が動けば目立つ。この王女という肩書きは、隠密には向いていない。

「…………ひとまず、一度戻りましょう。私疲れてしまったわ、お茶にしましょう」
「はい、かしこまりました。……そうでした、アリア様……帝国――皇子殿下よりお手紙が届いております」
「まあ! それなら急いで戻らなくてはね」

 考えなくてはならないことは色々あるけれど、思いつかないときはどうやったって思いつかないのだ。だからおいしいお茶と、それからお手紙で、頭をすっきりさせましょう。一度、毒殺のことだなんて忘れて……そんなことをのんきに考えていた私の目論見は、すっかり外れることとなるのだけれど。
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