番外編
乙女たちの蜜月
けれど、ねえ。
取り落とされたその言葉は、嘲りと侮蔑で出来ていた。それまでお行儀よく咲いていた花弁が剥がれ落ち、歪んだ悪意が首をもたげる。
クロエ・アボット公爵令嬢。私がお茶会に呼んだうちの一人が、口を開いた。
彼女の悪意によって立ち込めた暗雲は、たちまち城の庭園を包む。婚約だとか恋だとか、そして形式的な隣国皇太子様への褒め言葉だとか。そうした上滑りしていく馬鹿げた話題の中、その一言は薄氷に亀裂を入れるには十分な棘となった。
それはきっと、我が国の貴族ならば誰もが持つ陰険な気風から生まれた陰口であり。あの家と対立している王家に名を連ねる、私への安直なおもねりであった。その証拠に、クロエは私の方へ視線を投げる。
アリア王女殿下は、どう思われますか。そんな言葉と共に。
「ロバート様って……リリベル公爵家にお生まれですけれど……随分、お優しい方だと思いませんこと?」
◆
――ロバート・リリベル。その名は、名声としても悪名としてもたいして取り沙汰されないものだった。
たとえば彼の父は、その弁舌と容赦のなさと、我が王家との対立から畏怖と共に名をあげられる。そして彼の妹も……私としては大変腹立たしいものの、豪奢な暮らしと苛烈な性質でいつだって話題の中心となる。けれど、リリベル公爵家嫡男であるロバートは別だ。他の血縁ほど残酷な人間ではなく、とはいっても社交界で浮くほどの善人ではない。スポットライトが作り出す暗い影のような人間だった。
だから、この国の王女でありたくさんの噂話を聞く身である私にとっても、彼はそう印象に残らない。なのにこうしてロバートについて思考をめぐらせているのは、先日のお茶会で彼の名があがったから。私を持ち上げる形で始まった婚約談義は、次第に同席した令嬢たちのご予定や想いに及んだ。その中で、クロエが言ったのだ。
リリベル公爵家と話があがっている、と。
その話題選択が意図的なものだったのか、口を滑らせたものだったのか、正確なところは私にはわからない。けれど彼女は、すぐさま彼の名を悪意へと繋げた。ロバートもまさか、このような閉じた場で婚約者候補に笑いものにされているとは思わないだろう。少し哀れに思ったことを、なんとなく忘れられずにいたのだ。
「エルシー嬢、ご機嫌麗しゅう。お会いできて、光栄に存じます」
「こちらこそ。お招きいただけるなんて、まるで夢のよう。本日は王女様が退屈なさらないよう、わたし、努力いたします」
「まあ。エルシー嬢ほどの方が、そう構えることなどございませんわ。あなたの素敵なお喋りは、いつも皆様を笑顔にしていらっしゃいますもの。……城の使用人たちからも、時折お名前を聞くほどですから」
そして理由はもう一つ。この場には、先頃嘲られていたロバートの妹――エルシー・リリベルがいて。そして、クロエ・アボットもいるものだから。つい二人の繋がりのことを連想してしまう。
今日開かれた城でのお茶会は、それはそれは裏の意図に満ち溢れたものだった。招待状を出したのは私だけれど、開催のお達しは陛下からやってきたものだ。クロエのように王家に近付いてくる家の令嬢と同時に、エルシーを呼んだのもそう。王家を嫌い、対立しているはずのリリベル公爵家を招待させたのは……大方、関係改善を図ろうとしているのだろう。詳しくは存じ上げないけれど、陛下は国内外かかわらず王家を取り巻く不和を随分とお嫌いのようだから。
そうした事情があるにしろ。王女たる私、アリアの名でエルシーへお声がけをしたという事実は、それなりに社交界を騒がせたらしい。一時期はエルシーは来ないのではなんて囁かれていたものの、リリベル公爵家もそこまで馬鹿ではない。権力を誇示するような格好でやってきた彼女は、相変わらず人を馬鹿にするような笑みを浮かべていた。
「それにしても、エルシー嬢とご一緒できてうれしいですわ。心配していたのですよ、あなたはお忙しい方ですから」
挨拶が一段落したところで、クロエがふと口を開いた。
向けられた建前を受け止めて、エルシーは「わたしも光栄です」と息を吐く。普段の苛烈な彼女と比べれば、大人しい口ぶりだった。それは王女のお茶会という空間がそうさせているのだろうか。このような場でわかりやすく空気を壊すようなことは、さすがのエルシーでもしないだろう。それともただ、彼女の他は王家派か中立派で占められている不利な環境が……。そこまで考えて、私は自身の仮説を否定した。
あのエルシー・リリベルが、取り巻きがいないからと棘を失うわけがない。けれど、クロエはそうは思わなかったようだ。
「エルシー嬢はいつも、お友達に囲まれて、毎日とても華やかに暮らしていらっしゃるでしょう。私はどうしてもそのようにはなれないものですから。ぜひお話して、どうすればあなたのように見目も生活もまばゆくいられるのか、お伺いしたかったのですわ。王女殿下のご厚意に甘えさせていただいてもいるのだけれど……私のようなただの娘には、殿下の格別な上品さや美しさを学ぶことは難しくて……」
その物言いは、多少危ういように思えた。決して崖から足を踏み外しているわけではないし、建前だけを選び取れば特別不躾でもない。挑発くらいならお好きにすればいい、私もエルシーもそれを咎められるほど純朴で清廉潔白ではないから。
……それにしたって、構わないのかしら。彼女はリリベル公爵家と縁があるはずなのに。決まったわけではないとはいえ長い付き合いになる可能性があるのなら、クロエの家――アボット公爵家とリリベル公爵家はそれなりに持ちつ持たれつの関係のはずだ。それなのに、安っぽい挑発なんてしてしまって。心配というよりかは性格の悪い興味として、私はそう考えながらお茶菓子に手を付ける。
「……お喋りね」
ティーカップを置いたエルシーの声は、随分と冷え切ったものだった。その空気に一瞬怯んだ様子のクロエだったけれど、エルシーはすぐに鮮やかな笑顔を取り戻す。
王家である私に近付き、明らかに私とエルシーの仲を意識した発言をしているクロエ。けれど家同士という面で見れば、王家を嫌っているリリベル公爵家との婚約が候補に挙がっている。もちろん、家の思惑により接触する相手と個人として交友を持ちたいと願う相手は別だ。それが彼女にとって、前者はエルシーで後者が私だったという話なのかもしれない。けれど、私の直感が正しければ、クロエ……ひいてはアボット公爵家は、それほどいい存在ではないのかもしれない。
私が考え事をしている間に、エルシーはそっと身を乗り出した。クロエを見つめるその瞳には、味方がいないこの場への不安も不満も見当たらない。
「ごめんなさい、わたし安心しましたの。以前当家にいらしたときとは、雰囲気が違うものですから。きっと小鳥のように愛らしい今のお姿が本来のあなたなのね。よく叔父からも言われていますから。公爵家は立派だけど威圧感があって、たまに緊張してしまうと。……ああ、叔父というのは母方の……。ご存知かしら」
憎らしくなるほど親しみやすい笑顔を浮かべて、エルシーは小首を傾げる。彼女の母といえば、エリザベス・リリベル公爵夫人。夫人の実家はジン伯爵家だったから……叔父というのはつまり、伯爵家当主を指していることになる。
「当家も、どのような方でも親しめるような場所にしなければなりませんね。……いいえ、もちろん……あなたがこれほどくつろいでいらっしゃるのは、王女様のお人柄でもあるのでしょうけど」
思い出したかのように取って付けた後半部分は苛立つけれど、今は口を挟まないで差し上げることにした。眉を顰めたクロエの表情なんてまるで気にしていない様子で、「ところで、クロエ嬢」と言葉が続いた。
「……いいえ? クロエお義姉様、と呼んだ方がいいのかしら。わたし、あなたにお礼が言いたかったの。兄を褒めてくださったようで、どうもありがとうございます」
その言葉に、クロエの指先が固まった。それを捉えた青い瞳が、獲物を捕まえた獣のように細められる。周囲の令嬢たちはエルシーの言葉の意味はわかっていないようだけれど、この場を誰が掌握しかけているかは察したようだ。息を詰めるようにして、二人を見つめている。
「それも王女様の御前で、なんて……ね」
「……それは……そのようなこと、ありましたかしら」
私の前で、兄であるロバートを褒めた。
それは私の記憶が正しければ、ほんの少し前のお茶会でのことだろう。私がクロエから話を聞いたのは、あの時が初めてだったから。……まあ、あれは誰がどう聞いても褒め言葉ではなかったけれど。
さっと顔色を変えつつも姿勢を崩さないクロエに対し、エルシーはさらに口を開く。
「兄は慎重な人なんです。だから、相手が誰であれ自分について話すのは得意ではなくて。わたしは妹として心配していたから……貴族の皆さんにも王女様にも、兄の良さを伝えてくださるなんて。なんていいお義姉様なのかしらって、わたし感動しましたの」
エルシーはロバートのことなんて好きでもなんでもないだろうに、よくもここまで口が回るものだ。
それにしても、エルシーはどこからあの日の会話とロバートへの嘲りを聞きつけたのだろう。クロエの他に招待していた令嬢の顔を一人一人浮かべてみるけれど、これといって思いつく者はいなかった。けれど、噂と悪意を好む社交界のことだ。ふと誰かが種としてこぼした話が、三日後には品のない花を咲かせるだなんてことは日常茶飯事。きっと今回も、軽い世間話が寄り道をしながらも本人にまで伝わってしまったのだろう。
「とっても嬉しかったものだから……父にも話したの。そうしたら、なんと言ったと思って? 我が家にはもったいない、ですって!」
紅茶を飲みながら、エルシーの父親の顔を思い浮かべる。
リリベル公爵は、そのような褒め言葉を使う人ではない。顔を合わせる度に、礼儀の中に棘を仕込むような人だから。エルシーだけならばともかく、クロエの発言はあの人にまでとても邪悪な伝わり方をしてしまったらしい。
「わたしもそう思います。いいえ、兄は素晴らしい人だけど。きっとこの国には、あなたに見合う階級の人がいるって、そう確信しているの。ね、クロエ嬢」
「……エルシー嬢。そのお話は、また後日にした方がよろしいわ。せっかく王女殿下にお呼ばれしたのだもの……。お喜びいただいたのは嬉しいけれど、少し……紅茶でも飲まれてはいかが?」
クロエの声は震えていて、先日のような声高な語りはすっかり失われていた。その弱々しく弧を描く声色にも、動揺しつつも私の方に投げられた視線も、その意図は明確なものだった。
エルシー・リリベルを止めろと、そう仰っているのだろう。これ以上自身の名誉に傷を付けられる前に、私が庇うことを期待している。
――その魂胆はさておき、クロエの言う通りではあった。これまで見せられた一人劇は、あまり褒められた行いではない。ここは私が開いた場なのだから、空気も話題も秩序も私の裁量であるべき。そして通常であれば、嫌味による踏みつけなんて不愉快なだけで、この私が気に入るわけも許す道理もない。
にもかかわらずエルシーが口を開いたのは、身勝手な自惚れと家名の力によるものだ。リリベル公爵家の名の元にある彼女を守るのは、権力という剣。王族たる私でさえ安易に非難すれば社交界で問題になり、最悪の場合後ろ指を刺されるのは当家の側となる。
それをよく理解しているエルシー・リリベルという女のことが、私は大嫌いだ。この世界に存在する誰よりも目障りだった。
だけれど――いいえ、だからこそ。
この世界に存在する誰よりも、愉快な女だとも思う。
「……エルシー嬢は……」
私に視線が集中する。助けを求めるような視線に、私が笑みを返すことはなかった。それよりも、かすかに眉をあげてこちらを見つめてくる青く笑う瞳の方が、よほど相手をする価値がある。自分から仕掛けておいたくせにくるりくるりと首を振る風見鶏だなんて、私はお断りだ。
「大変、ご家族思いでいらっしゃいますこと。……私、感動いたしましたわ。エルシー嬢の愛情にも、クロエ嬢のお優しさにも」
だから、この馬鹿げた台詞劇はここで閉幕。私は裁定者でも評論家でもないから、勝敗をつけてはあげないけれど。どちらの演技の方が好ましかったか、その感想を言う権利は持ち合わせている。
「そうですわ。エルシー嬢、皆様。私、皆様のご家族についてお聞きしたいわ」
私の発言で緊張の糸が解れたのか、周囲の令嬢たちの表情が一気に明るいものとなる。口々に囀るのは、相槌と返答。
……他人の家族愛だなんて、実際のところは微塵も興味はない。私はなにも、本当にエルシーに感化されたわけではなかった。他者を見下すなんていう素敵なご趣味をお持ちの口先だけのこの女が、兄を思っているなんて誰が信じるのだろう。
両親の話、兄弟の話、生まれたばかりの小さな末っ子の話。紅茶のお供には味気ない会話を笑顔で聞いているとき、ふとエルシーと目が合った。彼女の瞳はちょうど、黙り込んでしまったクロエの前を冷たく通りすぎ、テーブルへと戻ってきたところだったらしい。視線が交わったことが予想外だったのか、青色がかすかに見開かれる。けれどそれは一瞬のことで、すぐに綺麗に飾られた金髪が揺れた。意地悪く片眉があげられて、その目元には皮肉が漂って、彼女は静かに毒を吐く。
「……王女様は本当、聡明であらせられるのね」
けれどその言葉はいつもより、静かなものだった。
舞踏会で、取り巻きと共に私を揶揄しようとする場面とはまったく違う声色。それは友好ではなく、ましてや愛であるはずもない。常に甲高く周囲を悪意に染め上げようとしている彼女の始めて見る感情も、表情も。私にはふさわしい表現がよくわからなかった。
それでも。思わず緩んだ私の口元は、きっと今のエルシーと同じようなものなのだと思った。
「まあ。それは、エルシー嬢にこそふさわしい賞賛でしょう。ええ、あなたはきっとこの王国の誰よりも……賢く、美しいご令嬢ですわ」