第1幕 Dear My Sister
01 Dance with Love.
あの日もいつも通りダンスホールは綺麗で豪華で、最悪だった。
人の欲望、品定め、それから悪意。そういうものたちがあふれて、社交という建前すらも剥がれかけているこの場所で、いつも隙なく笑ってあげる。おばかさんなかわいいだけの少女として。それはとても醜悪だけれど、とても簡単なこと。……だから、だけれど。そんな生活に慣れきって、知らないうちに気が緩んでいたのかもしれない。
――エルシー・リリベル毒殺の犯人はアリア・リーフェンシュタール王女らしい。
そんな噂が流れるのを許してしまうだなんて。
「……
「ああ、もちろん。わかっているよ。僕のかわいい妹が、人殺しなんてするわけがないことくらい」
リュシアンお兄様はそう言うと、甘い笑顔を浮かべた。
彼に山のように届いた恋文を楽しそうに仕分ける姿は相変わらず。ほとんどがどこかのご令嬢からいただいたものらしいけれど、時折この城の使用人だとか他国の人間からのものも混ざっている。使用人はともかく、国外の女となんてどうやって知り合うのかしら。……そもそも、仮にも第二王子がそこかしこで女をたらしこんでいるなんて、大丈夫なのかしら。色々と。
呆れも混ざった私の視線に気がついたのか、お兄様は顔をあげる。
「確かにあの子とお前は仲が悪かったけど……だからといって、殺すだなんてくだらないことはしないだろう? 僕はわかっているよ、アリア」
「社交界の方々が、お兄様のような方ばかりならよかったのですけれど」
私、アリア・リーフェンシュタールがあの日の毒殺の犯人だなんて、ほんとうにくだらない噂だ。確かに被害者であるエルシー・リリベルとは顔を合わせる度に嫌味を投げかけ合う仲だったけれど、殺すほどの激情はないし……なにより、私はそこまで馬鹿ではない。
私を慰めるように、お兄様は続ける。
「こんなくだらない噂、いつかは皆忘れるさ。あまり気に病むものでもないよ」
お兄様の言う通りだ。興味と悪意によって作り上げられたくだらない噂話に巻き込まれるのは、これが初めてではないし……その噂のすべては、気が付けばどこかへ消えていた。
大抵は人々が新鮮さを失ったその噂に飽きるか、新たに火種が生まれそちらの方を向くか、どちらか。今回ばかりは人の死というセンセーショナルな要素があることだけは気に留めておく必要があるけれど、今回の噂もきっと誰もが忘れていく。
そんなことはわかっている。
城内で起こった毒殺事件だもの。
……けれど、けれど!
「――私の沽券に関わるわ」
「アリア?」
「今回ばかりは見逃すわけにはいきませんわ、お兄様。私の名誉が! あの女のせいで汚されるだなんて耐えられません! ――あんな、あんな女のせいで……この私が、馬鹿げた理由で社交界を乱すような考えなしと思われるだなんて!」
お行儀が悪いけれど、がたりと音を立てて立ち上がる。お兄様は綺麗なお顔をめずらしくぽかんとさせて、私を見上げていた。
「私が犯人を見つけますわ。他の者に任せて悠長にしている場合ではありません!」
「アリア、そんなに怒ることでもないはずだよ。……確かに、お前のことをわかっていない連中はしばらくうるさいだろうけど。犯人だって、君が関わらなくてもすぐに……」
「嫌ですわ! あの女のせいで、……私に! 傷が! つくなんて! 嫌!」
……正直なところ、犯人が誰だろうとどうだってよかった。
ただただ、エルシー・リリベルのせいで、この私の名が曇るだなんて許してはおけない。それだけだ。自分で馬鹿を装うことと、他人からそのレッテルを押し付けられることは違う。そして私は、後者を甘んじて受け入れるほど腑抜けてはいない。
「きっと今頃、城の者が調査を始めていますわよね。……決めましたわ、私も調査に参加致します! それでは失礼します、お兄様!」
「アリア!?」
「あ、アリア様〜……っ!」
リュシアンお兄様の声と……それから、黙って後ろに控えていた侍女の声が被る。私はそれを無視して、長い廊下を……なるべく、早歩きで進んでいった。
「アリア様、アリア様〜……!」
「なあにエイプリル。止めても無駄よ」
「それは存じ上げております〜」
「それなら、何をそんなに困っているの。……ああ、わかったわ。今回は、あなたに危ないことはさせないつもりよ。それが心配なのでしょう?」
人の目がある以上走ることもできないものだから、すぐに侍女が追いついてくる。
幼少のみぎりより私の傍にいる侍女のエイプリルは、文字通りどんなときも……たとえば私が陛下の寝室の鍵を破ろうとしたときだとか、お母様が贔屓にしている宝飾店に行くためお城を抜け出そうとしたときだとか。どんなときも、私の後ろをついてきた。ずいぶんと職務に忠実な彼女のことを、私は気に入っている。
エイプリルは、一つに結わいた長い三つ編みに触れた。これは、なにか困りごとがあるときの彼女の癖だ。
「いえ、そうではなく……アリア様、調査に参加されるのであればお気をつけてください〜。聞いた話ですと、リリベル公爵が指揮をとっていらっしゃるようですから」
「……そう」
思わず立ち止まってしまう。エイプリルは少しだけ乱れた前髪もそのままに、なにか言いにくそうに躊躇ったあと……結局、口を開いた。
「リリベル公爵は公爵令嬢が亡くなったことに大変心を乱しておられていると聞きますし……それに……ええと……」
「それに? 続けなさい、エイプリル」
その先に続く言葉はなんとなく予想ができた。
彼女を急かしたのは、良くも悪くも濾過されたものばかりが滴り落ちる貴族社会とは違う本音を、彼女はいつも知っているから。侍女の間の噂だという清濁混ざった下世話な話は、もちろん根も葉もないただの噂も多いけれど。
「…………リリベル公爵は、公爵令嬢毒殺の犯人を、アリア様だとお考えのようですから……アリア様が自ら向かわれると、公爵は……」
けれど今回に限っては、その噂もあながち嘘ではないのだろう。
……あの日。彼女が倒れたとき。公爵は真っ先に私を睨んだ。その意図はわからないけれど、おそらく……私を疑っているとみていいだろう。
「……そうでしょうね。その話は私も知っているもの。リリベル公爵は、娘と私が親しくないことにもお気付きだったでしょうし」
「それなら、アリア様」
「けれどエイプリル。だからこそ、ではないかしら。公爵の前で、私が犯人ではないことを証明するのよ。そうすれば、あの人も私を噂話で責めることはできない……そうではなくって?」
私があの女を殺したのだという噂を、あの公爵は信じている。それがなにかしら確信があって言っているのか、ただ単に乱心なのかはわからない。けれどとにかく、この私の名誉を取り戻すにはあの公爵を黙らせなくてはいけない。
「それはそうかもしれませんが……」
「エイプリル、これ以上なにか反論がおあり? ……ないわね? あったとしても、なにを言われようとも私は行くわ!」
「アリア様がそう仰るのでしたら〜……」
エイプリルはそう言って、少し困ったように笑った。そして、なにかを思い出すように目線を下げる。
「この時間ならおそらく、公爵はダンスホールにいらっしゃると思います。今朝、午後は事件の調査をするからダンスホールには近付くなと言われましたから〜」
「そう、ありがとうエイプリル。……さあついてきなさい! 私が華麗に! 無実を証明してみせるわ!」
◆
「……エイプリル、中は見えるかしら」
かくして、私とエイプリルはダンスホールまでたどり着いた。意外なことにダンスホールの周辺には誰もいない。てっきり、周囲を警備している者がいると思っていたのだけれど。それはエイプリルも同じだったようで、少し警戒した様子の彼女は私の前に出て中を覗き込んでいる。
「はい。リリベル公爵と……あれは……公爵家の使用人? 五人いるようです。城仕えは見当たらないようですが……」
「……仮にもお城で起きた事件なのに、城の者が出てこないだなんて、エドワードお兄様が許すのかしら……。けれどわかりました。人数が少ない方が都合がいいわ。入るわよ」
「はい、アリア様」
エイプリルの声を聞きながら、背筋を伸ばす。
かつん、かつんとヒールを鳴らす。耳障りに響かせれば、苛立ったようにリリベル公爵の体が動いた。振り返りかけている顔を見なくてもわかる。きっと不満げに歪んでいて、邪魔をしたことを鋭く咎めようとしているのだと。
「――ごきげんよう、リリベル公爵」
その顔が固まるのを見るのは小気味いい。上がりそうになる口角を、ぱさりと開いた扇で隠す。
「エルシー嬢のこと、お悔やみ申し上げますわ」
絵に描いたような貴族の姿を見上げる。きっと眉をひそめたいところでしょうけれど、さすがこの伏魔殿で権力を持っている者というべきか……彼はポーカーフェイスで私に頭を垂れる。
「……アリア王女殿下」
「お顔を上げてくださいまし。私はあなたにお話があってきたんですの。聞いてくださいますでしょう?」
「は、……」
なにを言おうとしたのか知らないけれど、公爵が口を開く前に次の句を紡ぐ。
「私、エルシー嬢のことを本当に残念に思っていますのよ。あの方は聡明でしたし、輝かしい未来が約束された方でもありました」
「……王女殿下にそう評していただけるとは」
「本当のことですもの。だからこそ、彼女があのような最期を迎えたことは、許されざることだと思いますわ。生前のエルシー嬢には
公爵は相変わらず、無表情に私を見ている。それに対して使用人は、やけに戸惑っている様子だ。王家の人間を初めて近くで見たから? ……いいえ、そのような人間を公爵は近くに置くかしら。
そんな思考を振り払う。今はとにかく、公爵の調査に踏み入らなくては。
「公爵は、エルシー嬢毒殺事件の犯人の調査を買って出てくださったようですわね。私も、ご一緒させていただきたいわ」
そう言った途端、空気が張り詰めたものになるのを肌で感じた。公爵はゆったりとした動作で頭を下げる。
「王女殿下のお心遣い、大変ありがたく思います。ですが、お忙しい王女殿下のお手を煩わせるわけには……」
「あら、その心配には及びませんわ。公爵もご存知の通り、私ったら毎日のティータイム以外は張り合いのない日々を送っているものですから。それに、公爵。私はこの手で明らかにしたいのですわ。――私の友人を死に追いやった犯人を」
そう言って公爵の様子を伺うけれど、相変わらず私を警戒しているようだ。そもそも、娘とあからさまに仲が悪かった人間にこうもつらつら様々述べられたところで、信用できないのは当たり前だ。
このままでは断られる。それはよろしくない。
調査ならば私一人でだってできるけれど、公爵が関わっていると知った今はそうもいかない。彼はおそらく私を疑っている人物の筆頭なのだから。彼の目の前で犯人を見つけ黙らせるのが、一番手っ取り早いはずだ。……それに、私は彼のことが嫌いなので。この男の鼻を明かしてやりたいという気持ちもある。
リリベル公爵は相変わらず、苦虫を噛み潰したような表情……を、どうにか隠そうと努めながら、私を見ている。
「リリベル公爵。そう難しいお話ではありませんわ。私、勝手なことは致しません。ただ、ご同行させていただきたいだけですの。皆様のお邪魔になるようなことはしないと約束します」
……どうして公爵は、ここまで頑なに私を拒もうとするのかしら。
次の句を考えている様子のリリベル公爵に、ふとそんな疑問が浮かぶ。毎日遊び呆けて贅沢ばかりの馬鹿な人間を、娘の死の調査という場に関わらせたくないだけかもしれない。けれどそれにしては強情に思えた。公爵は私を軽蔑しているけれど、娘とは違って、最低限の礼儀は見せる人だった。波風を立てないようにと振舞って……娘があの調子だったものだから、その努力も相殺されていたけれど。
とにかく、公爵がこうして粘るのは、私としては予想外だった。彼は私を舐めているから、私の言うことを大体聞いていた。一見矛盾しているけれど、それはまるで、貴族が道行く貧乏な平民に施しをするのと同じ。それはそれは苛立ったことを覚えている。今回も適当に通し、形だけでも同行させればいいものを。
私のことが嫌いだから? 私を犯人だと思っているから? 家の問題だと考えて、内々で解決しようとしているのかしら。
……内々、に。
「……そうだわ」
「アリア様……?」
扇の裏で思わず漏れた声に、エイプリルが反応する。それを後ろ手に制し、私は考える。
そういえば、この場には公爵家の人間しかいない。城で起こったこと……それが事故であれ事件であれなんであれ、その解決や事後処理は騎士団が行うことが通例だ。今回のリリベル公爵のように、事件事故に巻き込まれた家の者が出てくることもあったけれど、そのときもいつも、監視の意味も込めて、騎士団が関わっていた。
「……お言葉ですが、公爵」
……そう、監視なのだ。外からやってきた人間が好き勝手しないように見張っていろと、騎士団は命じられている。その騎士団がいない。可能性として、考えられることは……。
私は扇を持ち直す。この思いつきを思いつきだと悟られないように、堂々と。
「城で起こってしまった事件を、城の関与をなしに解決しようとするのはいかがなものかしら」
「……!」
「我が国の騎士は、このような事態に対応するよう訓練されています。それを拒まれたということは、公爵は我が騎士団が問題解決には不足だとお考えですの?」
「いえ、そのようなことは――」
公爵の纏う雰囲気が、一気に焦りを帯びる。
この様子だと、どうやら当たりかもしれない。公爵は、自ら、意図的に、騎士団を調査から排除している。その理由まではわからないけれど、公爵の感情がわからない鉄壁の仮面が崩れるほどなのだから、相応の理由があるのでしょう。
……これは押せるかもしれない。もう少しだけ、公爵を動揺させられれば――。
「感情論を抜きにしても。この度の行い、まるで王家直属の公権力の目を盗もうとしているようですわ。……ええ、それから、リリベル公爵。このようなことはお伝えしたくはありませんが……エドワードお兄様が、あなたのこの行動に大変ご不満でいらっしゃいます」
エドワードお兄様の名前を出した途端、リリベル公爵の顔色が変わる。
それもそのはず。リリベル公爵は私を嫌っているけれど、それと同じくらい……いいえ、それ以上の熱量で、エドワードお兄様を盲目に慕っているのだから。
――エドワード・リーフェンシュタール。長兄であり、私とは異母兄妹にあたる王位継承者だ。そして、リリベルの人間が言うところの――「汚らわしい血」が混ざっていない、高潔な人間。もちろんエドワードお兄様が、公爵のこの行動をどう思っているかなんて知らない。お兄様のことだから、「そうか」で済ませるような気もするけれど……相手は私以上にお兄様のことを知らない。だから、効くはずだ。……おそらく。
けれど。これで首を縦にふらなかったら、どうしましょう。そう思ったときだった。
「……まあまあ、公爵。アリアの我儘を聞いてやってくださいませんか」
この場に似合わない明るい声がして。ふと、頭が重くなる。そして感じるのは人の、体温。上を見上げると、優しい瞳と目が合った。
「――リュシアンお兄様!」
「アリアだって、数少ない話相手を亡き者にした犯人を見つけたいだけなんですから」
にこにこと笑顔を浮かべながら、お兄様は続ける。いったいどこからだとか、いつからお聞きにだとか聞きたいことは山ほどあるけれど、お兄様はまっすぐ公爵を見据えていた。
頭に乗せられた大きな手が、手持ち無沙汰とでも言いたいように私の髪を撫でていく。
「それに、アリアの言う通りですよ。公爵が騎士団の協力を拒否したことを、兄さんはよく思っていないようだ。……兄さんはこうなると強情ですよ? ……まあ、そうですね。僕とアリアから口添えして差し上げてもいいのですが……」
お兄様と目が合って、ぱちりとウインクされる。一瞬だったけれど、その意図はなんとなく読めた。
「そうですわね、お兄様。私たち、家族ですもの……エドワードお兄様がいくらご立腹でも、家族の話なら聞いてくださいますわ! ですから。ねっ、リリベル公爵?」
……そんなことはないけれど。私たちは兄妹だけれどたいして仲は良くなくて、エドワードお兄様は私とリュシアンお兄様の話を、基本的に聞かない。
けれどリリベル公爵はそんなことを知らないのだから。案の定、公爵は目を泳がせて……大層苦しそうに息を吐き、「アリア王女殿下」と口を開いた。
「……ぜひ、調査にご協力いただきたく存じます」
お兄様が、心底愉快そうな笑みを漏らす。
忌々しそうな色を滲ませる公爵にとびきりかわいく微笑んであげれば、彼もまた、私に笑顔を返した。
「公爵ったら。お願いしているのはこちらですのに。ふふ……よろしくお願いいたしますわね。私たちで、エルシー嬢の無念を晴らして差し上げましょう!」
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