番外編

優美なるアンガジェマン


「……なるほど、今の私の選択肢にはない意見だ。興味深い提案をありがとう」

 誰もが敬愛するアルテュール・フルニエ皇太子殿下はそう言って、切れ長の瞳を細めた。静かな観察と慈愛を浮かべた視線に射抜かれて、男は姿勢を正す。自身は間違ってなどいないという確信の元アルテュールに提言をしたはずなのに、男の心はどこか怯えていた。
 男――デュラン・マクサーンスは、広大で比類なき力を誇る大帝国、リアンソワール帝国の宰相である。
 雪が降りしきる北の土地から、バカンスにはぴったりの南の土地までを領土に組み込むこの帝国の中枢を担うのは、並大抵のことではない。家柄、才能、教育、そしてなにより努力。自身の持ちうるすべてを研鑽した末にたどり着いたこの肩書きを、デュランは心底気に入っていた。国中だけではない、世界中の誰もが見上げるような地位であるから……というのも、理由の一つだ。
 けれど、なにより。

「大方は理解したよ。君は、フォレスデン王国との同盟について疑問を持っていると」

 なにより、皇太子たるアルテュールに仕えたかったのだ。
 いつでも冷静で心優しく、文武両道。けれどその輝かしい功績を誇らず、彼の視線はいつでも学問へと向かっている。自身の好奇心を究めながらもそれに溺れることはなく、国と国民のことを考える思慮深い殿下。有り余る天性の才を持って生まれたアルテュールは、その評価を少しも下降させずに十八歳を迎えていた。城に出入りする者たちから見れば年下の青年ではあるけれど、その才覚の前では年齢の優位性などいともたやすく消え去ってしまう。だからこそ、宰相であるデュランも他の貴族たちも、皇太子を尊敬し、次期皇帝として深い信頼を寄せているのだ。
 アルテュールの声色は、いつもとなんら変わらない穏やかなものだった。
 手にした薔薇の棘を慣れた様子で取り払う仕草は、指先に至るまでとても優美なもので。それは所作だけではなく、きっと彼が纏う高貴さに起因するものなのだと。デュランは現実逃避でもするかのように、そんなことに見惚れていた。

「王国との同盟……。私は、とても意義深いものだと思っているよ。君も知っての通り、王国の紡績業は素晴らしい。それだけではない、建築、装飾品、美術……かの国には我が国に取り入れるべき技術が数多くある」

 その薔薇は鮮やかな茎の色に似合わず、物足りない色をしている。華やかだった色を水に溶かしてしまったかのような、淡い水色。けれどそんなことよりも、デュランの意識はアルテュールに向いていた。
 まるで幼子に講義でもするかのように、彼は形式ばった言葉を並べていく。小さな隣国との同盟の理由、その利点。アルテュールが口にする言葉の意味するところなんて、デュランは今更説明されなくともわかっている。皇太子が並べ立ててみせる理由が建前に過ぎないことも。
 ――リアンソワール帝国とフォレスデン王国との間に結ばれた同盟は、勢力を拡大していた帝国が一方的に結んだ不均衡な同盟なのだから。
 それは数百年も昔、いまだこの大陸が戦禍と領土争いで揺れていた頃。その国力で思うがままに勢力を拡大していた帝国には、一つの憂いがあったと言われている。
 それは、隣国であるフォレスデン王国に背後を突かれること。正確に言えば、王国が他国と手を組むことだ。
 国土も広くない王国は大した脅威ではないけれど、当時帝国の仮想敵であった国に取り込まれてしまえば話は変わる。もしも、王国を敵対軍の補給地、経由地とされてしまえば。最終的な勝利は帝国軍旗の下になるとしても、それなりの犠牲は生まれてしまうだろう。それを避けるため、軍事侵攻を匂わせる形でリアンソワール帝国によって結ばれた同盟が、現在も続いているのだ。

「殿下の仰る通り、王国の技術力は我が帝国の利となるでしょう」

 しかし、と何度か組み立ててきた言葉を続けようとデュランは息を吸い込んだ。
 王国との同盟に利点はある、けれど婚約までする必要はあったのか。今になって婚約破棄というのは現実的に考えて不可能ではあるものの、聡明たる皇太子殿下が納得されているとは思えない。婚姻という強固な繋がりを結ぶならば、あの小国よりも適切な相手はいくらでもいるはず。皇帝陛下もそのようなことを仰られていたのに。……というようなことを、得意の弁舌ですらすらと口にしていく。
 目の前に座る皇太子は相変わらず、薔薇の棘と戯れていた。まるで愛おしい恋人に触れるかのようなその手つきで行われているのは、薔薇という植物の防衛手段を奪う侵略行為なのだから不思議なものだ。

「……違うな」

 黙ってデュランの言葉を聞いていたアルテュールは、短くそうつぶやいた。すっかり棘を抜かれた薔薇を空の花瓶に差しいれながら、帝国の象徴たる皇太子は薄い笑みを浮かべる。

「君の真意は、同盟そのものの是非ではないね」
「…………」
「アリア王女だろう。……まったく、皆示し合わせたように同じことを言うのだから」

 呆れたとでも言いたげな言葉選びとは裏腹に、その声色はどこか楽しげなものだった。アルテュールの長く美しい白髪が一瞬彼の表情を隠し、けれど、すぐにその微笑みは再びデュランへと向けられる。大きな窓から入り込む光に照らされている彼は、いつも慈愛に満ちた表情で国民を見つめるのだ。

「君がなにを言いたいのかはわかっているよ、今日に至るまで山ほど貴族の忠言を受けてきたからね。アリア王女は私に相応しくはない、そうだろう?」

 図星を突かれて、思わず口ごもってしまう。
 デュランが高貴で柔らかい言葉で幾重にも包んで差し出そうとしていた不満を、アルテュールはまるで明日の天気の話でもするかのような口調で持ち出したのだ。仮にも自身の婚約者を宰相に非難されたというのに、目の前に座る青年はなぜか楽しそうだった。その様子を見ていると、血筋がどうだとか我儘がどうだとか、用意してきた王女の欠点を上げ連ねることはなぜか憚られてしまう。

「彼女は自分勝手で、王国内でも賛否が分かれる俗な王女。自国の置かれている立場を弁えず、私にあれもこれもと要求する傲慢な田舎娘。ふふ……皆、なかなか他者を評する術に長けているとは思わないかい? 彼らがここまでよく喋るとは、私は知らなかったよ」

 次期皇帝がこれではいけないねと、彼は笑いながら首を横に振った。軽い仕草だったけれど、よく手入れされた絹糸のような髪はその小さな動きにも追従する。
 くすくすとひそやかな笑い声を漏らしていたアルテュールは、ふと小さく息を吐いた。柄も装飾も少ないゆったりとしたシャツに飾られた細い体が、静かに動く。立ち上がるときに少しの音もしないのは、彼が幼い頃から身に付けてきた気品のおかげなのだろう。

「デュラン」

 先ほどと、なんら変わりのない声に名前を呼ばれた。
 皇后によく似ているアルテュールは、どこか繊細でしなやかな美しさを持つ人だった。この細身な体のどこに、騎士と渡り合えるような力と技術が眠っているのだろうと思わずにはいられない。まだ十八歳だとは思えないほどの長身の輪郭を浮かび上がらせる太陽の光は、まるで後光のようだ。

「君は……君たちは。私の婚約者がどのような女性なのか、知らないだけだ。アリアは決して身勝手な王女ではないよ。それはいつか、彼女自身が君に証明するだろう」

 ふと、雲がかかったような気がした。けれどそれは自身の勘違いだと、デュランはすぐにわかった。だって、アルテュールの威光を示すかのような太陽の光はまだそこにあるし、窓越しに見える空は翳りを見つけることの方が難しいような眩しさなのだから。
 それではなぜ、ばかげた勘違いをしてしまったのだろうと考えて。賢い彼は、すぐその答えに行き着くことができた。自分が感じている、不思議な寒気のせいだ。そして、背中に走った冷たいなにかの原因は――。
 そこまで考えて思い浮かんだ名は、アルテュールの「それよりも」という低く優しい声にかき消されてしまう。

「この花をどう思う?」

 穏やかな声色と共に綺麗な指先が指し示したのは、先ほどまでその手が棘を取り除いていた薔薇だった。
 城でもよく見かける豪華な品種だけれど、その華やかさに負けてしまっているような薄い色の花。庭園に並べられていたのであれば、きっと目が滑っていってしまうような薔薇を、どう思うかと聞かれても。
 正直なところ、デュランは植物にあまり興味はなかったから、告げるべき誉め言葉も教養もなにも思いつかない。なにか気の利いたことを言おうと目を泳がせているよりは、ある程度素直になってしまった方がいいだろうと、彼は慎重に口を開く。

「……薔薇、でございますか。お恥ずかしいことに、私はそのような美しいものに触れることも少なく年を取ってしまいましたが……。国内で見かけるものと比べると、少し……色が……淡いように、存じます」
「そうだろう? これもアリアのご要望でね。青い薔薇はめずらしいのだと話したら『でしたら私、そのめずらしいお花を一度見てみたいですわ!』だ。試作してみたはいいものの、なかなか彼女の求める青にはならなくてね。君は花を育てたことはあるかい?」

 その言葉に、デュランは首を横に振った。貴族の生まれである彼にとって、花とは育て上げられた姿を愛でるものだったから。宰相たる彼より高貴な出自を持つ皇太子殿下は、「私もだよ」とひとりごとのようにこぼしながら薔薇の花弁に触れる。

「なかなか難しいものなのだが、それ以上に楽しくてね。……数日後、私の婚約者に見せてあげようと思うんだ。君も同席するといいよ」

 ゆったりと重心を移動させながら、アルテュールは立ち竦むデュランを見つめた。なんてことのないその動きが、なぜか目に焼き付いてしまう。彼の靴が床を滑る音も、毛先が揺れる様も、なにもかもが自身の喉元に突き付けられる刃のように感じられるのはなぜだろう。
 デュランが、そしてこの国の誰もが敬愛するアルテュール皇太子殿下は、その高貴な身分に見合った心優しい微笑みを浮かべているというのに。

「君も、薔薇に興味があるのだろう?」
「……いえ、私は……」
「花は――薔薇はいいものだよ、デュラン。水や肥料も重要だが、剪定も大切らしい。学ぶことが山ほどあって飽きないよ。それに、数えきれないほどの品種があるのもいい」

 こつこつと靴音が鳴り、アルテュールがこちらへと歩を進める。

「美しい花弁とその下の棘も、私にとっては興味深い生き方だ。……たとえば、この棘が私の武器の一つになり得るのなら。それはとてもおもしろいとは思わないかい?」
「お言葉ですが、殿下……。花というものは、存外繊細なものだと耳にしたことがございます。水をやりすぎてもよくないかと、存じますが」
「ああ、それなら聞いたことがあるよ。だが私は、美しく興味深いものは甘やかすのが趣味でね」

 その言葉は、静かな部屋に甘く響いた。
 ほんの少し目を伏せて、アルテュールは自身の白髪を背に流す。指先まで優美なその動きは、まるでここが舞台上だと錯覚してしまうかのようだ。彼に釘付けとなって動けないデュランと再び目を合わせたとき、その完璧な微笑がほんの少しだけ崩れたような気がした。普段の思慮深い笑みとは少しだけ違う、抑えきれない好奇心に支配されたかのような無邪気な笑み。

「それに。私は、この薔薇の兄でも恋人でもないから」
「では、もしも……」

 ――もしも、その甘さに溺れたのならば?
 そんな問いがよぎったものの、なぜだか口にすることはできなかった。けれどデュランの脳裏をかすめた言葉を読み取ったかのように、アルテュールは小さく笑い声をあげる。

「その程度ならば、相応しくないのだろうね。我が帝国に……そして、次期皇帝たる私に」

 そのときは、君たちの望み通り剪定ができるかもしれないよ。
 高貴で高潔な白を纏う皇太子は、そう言ってデュランを見つめたのだった。
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