番外編
飾り物の花
王女殿下だわ、と誰かが言った。
一つのつぶやきだったそれは、次第にひそやかなざわめきへと変わっていく。秘める真似だけをして交わされる陰口は、静かにこの場を支配しているように思えた。だけどそう思っているのは、なぜか勝ち誇るかのような笑みを隠して王女を見つめる令嬢たちだけだろう。
フォレスデン王国王女、アリア・リーフェンシュタール。彼女にはきっと、無数の雑草が揺れる音だなんて聞こえていないのだから。王女足り得る気品でヒールを鳴らして、雑草に目もくれず歩くアリアが手を伸ばすのはこのわたし、エルシー・リリベルだけだ。――これは決して、思い上がりなどではない。
その生まれからアリアの一挙手一投足はいつでもわたしたちに見つめられ、その存在はわたしたちに影響を与えた。他国の王女が向けられているであろうそれよりも、ずっと邪悪な意図を持って。
国王陛下と一使用人の愛の間に生まれた王女。そんな背景を持つアリアをよく思わない貴族は、社交界に山ほどいる。そんな立場の弱い王女に取り入って、王家に介入しようとする貴族もそれはたくさん。現王妃とアリアの存在は、それまでどうにか保たれていた社交界の均衡を打ち壊すものだったらしい。
「本日も素敵なドレスじゃない? どちらで仕立てられているのかしら」
わたしの背後で落とされた誉め言葉も、嘲りを多分に含んでいた。それに呼応するのは、似たような意図を隠そうともしない返答と笑い声。
彼女たちが求めているものが、このわたしからの同調にあることはよくわかっている。正確に言うならばリリベル公爵令嬢からの微笑みと、そこから引き出されるかもしれない贔屓。淑やかな声と態度から、その程度の期待が透けるだなんて。さぞかし素敵なご教育を受けたことで……なんて言いたくもなるけど。
まあ、せっかくのお友達なわけだし。少しくらいはかわいがってあげないと、こちらとしても甲斐がないというものかもしれない。
「そうね。いつだって美しい王女様のことだもの……」
「ごきげんよう、皆様方。仕立て屋のお話ならば、私もご一緒させてくださいませんこと?」
どこか幼く甘えるような声がして、わたしは向けられていた期待から視線を逸らした。
目が合うのは声の主。砂糖菓子のように甘い笑顔を浮かべて、素敵なドレスを着こなす王女――アリア。形式ばったご挨拶よりも先にそんな言葉をかけてきた彼女は、わざとらしく眉を下げた。
「ご歓談中、申し訳ございませんわ。私、皆様がお越しくださることを心待ちにしておりましたの。ですから気が逸ってしまって……お許しいただけますかしら」
「王女様、お招きいただきありがとうございます。そう仰ってくださるなんて、何にも勝る喜びですもの。……許すだなんて、滅相もございません」
「まあ。エルシー嬢は寛大でいらっしゃいますのね。本当にお優しい方。ですからこうして、たくさんのご令嬢があなたを慕うのでしょうね」
思ってもいないであろうことを口にするアリアは、その割に楽しそうだった。変な女ね、なんて考えているわたしも、先ほどまでのお友達との会話なんかよりも余程心が踊っている。
アリアは笑みを浮かべたまま、わたしの背後をそっと見やった。そのまま静かにすべっていく瞳に、わたしのお友達はどう応えているのだろう。そんな疑問も浮かんだけど、そう気にするものでもないと思い直した。アリアの表情を見る限り、彼女たちは王女のお眼鏡にはかなわなかったようだから。それならば、わたしが気にかけるべきことでもない。
「エルシー嬢、先ほど皆様でドレスのお話をされていましたでしょう? 私もお聞きしたかったのですわ。あなたの、薔薇さえかすむようなその美しいお召し物……どちらでご用意されていますの?」
「以前から当家が贔屓にしている店に。けれど王女様、どうか仔細はご容赦くださいませ。王女様はなんでもお似合いになりますもの。きっと店の品はすべてあなたに贈られて、空になってしまいますわ。そうしたらわたし、困りますから」
「まあ。そのようなことを仰って、ふふ。……そうですわ。エルシー嬢は、来週の観劇にはいらっしゃいますの?」
礼儀としてのご挨拶を交えた会話のあと、アリアはふとそんな話をし出した。大きな丸い瞳がわたしを見ている。無邪気でどこかあどけない少女らしいその表情は、世間が嘲笑と共に扇の裏で囁く「馬鹿な女」にふさわしいものだった。わたしはその評価には懐疑的だけど。
薔薇の花のような女だと思う。豪華で人目を引く花弁は、政治も駆け引きもわかりませんとでも言いたげに咲いていて。だけど一度摘み取ろうとすれば花の下に隠した棘で突き刺してくる、そんな赤い薔薇。端的に言えば、性格が最悪で狡猾な王女ということだ。
「ええ、ご招待いただきましたから。なんでも帝国随一の劇団の公演なのだとか」
舞台にはあまり興味はないけど、招待された以上これも務めだ。隣国でとても評判のいい舞台だと聞いているし、退屈することはないに違いない。アリアも来ると以前聞いたから、舞台がつまらなくてもその前後は楽しめるはずだ。
……今もまだ、時間はあるようだし。もう少しだけ彼女と楽しくお喋りでもしようと、手頃な話題を投げかける。
「……わたし、ずっと思っていましたの。王女様はお美しい方ですから、きっと舞台の上もお似合いになるに違いないと。近頃話題となっている首都の劇団なんて、王女様がお立ちになるにふさわしい舞台ではないかしら」
「まあ、ありがとうございますわ。私、そのように言っていただいたのは初めて。もし本当に舞台上にお呼ばれする日がくるのならば、演出はエルシー嬢に一任させてくださいませ。そのご慧眼は素晴らしいものですから」
「そんな、恐れ多いことです。わたしはただの貴族令嬢ですもの。王女様のような――特別な方を彩る術だなんて、どうして持ち合わせていましょうか」
アリアは綺麗に微笑む。その笑顔は、母である王妃とはあまり似ていない。過去に一度見かけた王妃は確かに美人だったけど、お世辞にも高貴な人だとは思えなかったから。陛下と運命の恋に落ちた美しい使用人だなんてもてはやされるのは結構だけど、その程度の肩書きになんの意味があるというのだろう。
「そうご謙遜なさらないでくださいまし。私、心からエルシー嬢を尊敬しておりますのよ。なによりも、こうしてご令嬢の方々に好かれるあなたのお人柄を」
アリアはそこで言葉を切ると、とびきりの笑顔を浮かべた。花がほころぶような、とはこうした瞬間をたとえるために生まれたのだろう。アリアは本当に薔薇の花のように華やかで、天使と見紛う笑顔を浮かべる、悪魔のような女だ。
「……あまりあなたを独り占めしては、怒られてしまいますわね。エルシー嬢、またお話いたしましょう」
そう言って、彼女はドレスの裾を翻す。ヒールの音が響くのは、誰もがアリアに目を奪われているから。わたしに背を向けて、また他の貴族にご挨拶でもしにいくのだろう。王女というのも、ご苦労が絶えないお立場だ。
アリアがこの場を離れた途端、背後からは堰を切ったかのように彼女に対する陰口が飛び交う。相変わらずわたしのご機嫌を伺うようなその言葉の中には、どこか王女殿下への恐怖が滲んでいるようにも思える。
それにお返事して差し上げる気には今はならなくて、わたしはこの華やかな場の中に咲く唯一の薔薇を見つめていた。
1/1ページ