第1幕 Dear My Sister
10 永遠にうたって、レクイエム
「このような場所にわざわざ足を運んでいただき、申し訳ありません」
ペリドットのような瞳を細めて、彼は言った。
――クロード・ジン伯爵。爵位を剥奪されたのだから、正確には伯爵ではないのだけれど……とにかく、彼の殺人を暴いてから時は流れた。エドワードお兄様から聞いた話では、伯爵とロバート、それから買収だとかをされた人々も含めて一律に有罪。既にそれぞれの罪に相応しい罰も裁判により結論付けられており、今はその執行を待つのみとなっている。
刻一刻と、静かに終わりが差し迫っている牢の中でも、伯爵は変わらず静かにそこで微笑んでいた。
「こちらこそ突然失礼いたしましたわ。お話がしたいのですけれど、よろしくって?」
「ああ、もちろん喜んで。やることがないものですからありがたいです」
お茶でも用意させましょうかと尋ねると、一瞬目を見開いた彼はふっと笑みをこぼす。
「……せっかくのお申し出ですが、ご遠慮させていただきます。毒でも入っていたらたまりませんから」
「まあ、私がそのようなことをするとお思いですの? ふふ」
「これは失礼しました。……よろしければお座りください。王女殿下にはふさわしくない粗悪なものですが」
指し示された椅子は、確かに褒められたものではなかった。簡素な作りのそれはとても硬いけれど、この牢に通されているのならば丁重に扱われている方……のはずだ。そのような扱いをされているのは、彼が元がつくといえども貴族だからなのだろう。
「……そうですわ。伯爵。あの舞踏会の日のため書かれたお手紙……とても見事なものでしたわ。特に花言葉のくだりなんて、傑作でございました」
その冷たくて硬い椅子に腰掛けて、私はさっそく切り出した。本題に入る前の雑談にはあまり適していない話題ではあるけれど、私と伯爵の繋がりといえばあの事件だけなものだから。彼はあの手紙のことを思い出したのか、軽い笑い声をあげる。
「ああ、あそこは書いていて鳥肌が立ちましたよ」
「本当にお上手でしたわ。私の目から見ても、お兄様のお手紙そのものでしたもの」
思い出しては愉快な心持ちになってしまう。あの手紙を始めて見たときの私といえば随分と焦っていたものだけれど、それほどまでにリュシアンお兄様が口にしていそうな言葉の並びだったのだ。
それにしても、エルシーもあの甘い笑顔と態度に惑わされていたうちの一人だったなんて。もちろんお兄様とエルシーの接点はあったけれど、恋をしているだなんて思っても見なかった。あの女が生きていたのならば、嫌味の一つくらい言ってやったのに。もう顔を見ることも叶わないことが残念で仕方がない。
「はは……ですが、王女殿下のお気に召したのであれば、無理をした甲斐もあるというものです」
冗談めかしてそう言った伯爵に、私も笑い返す。一呼吸を置いて彼の名前を呼べば、彼は顔を上げた。高い位置に取り付けられた小さな窓から降り注ぐ光がまぶしいのか、伯爵はかすかに目を細めたている。
「本日、あなたの処刑と相成りますわ。ロバート・リリベルも同様に」
――彼の処刑が決まったと聞かされたとき、そう驚きはしなかった。
法に照らせば、貴族の殺害を実行したジン伯爵と……彼に協力したロバートの処刑は、決まりきった結末だ。伯爵の罪を白日に晒したあの日から、そうなるだろうということは予想がついていたことだ。ロバートだって、直接手は下していないものの加担しているのだから。
聞いた話では、捕えられた日からロバートは随分と変わったらしい。それまでの彼といえば優柔不断で自信がなくて日和見主義で……なんて色々と欠点をあげられたものだけれど、今となってはどこか達観したように落ち着いているそうだ。誰とも会おうとしない彼は、唯一母とは会いたがったらしい、とも。彼ら親子がどうしたのかは、私に知る手段はないことだ。
「リリベル公爵は首を落とされるわけではございません。けれど、名誉を何よりも重んじる貴族がそれを取りこぼしたときどうなるのか、私はよく学んでおります……」
リリベル公爵はこの事件においては、娘が殺された哀れな被害者側ではある。ただ、息子がこのような事態になっては家名も名誉も失墜するのは明らかだ。爵位だとかなんだとか、そのようなことを気にしている場合ではないだろう。そう話すと、伯爵は小さく頷いた。
「仰る通りです。彼の転落劇が見られないことは心残りですね。……エルシーと同じくらい……私は彼を憎んでいましたから」
「きっと、劇と呼べるほどのものではございませんわ。ありきたりで使い古された、山場のない奈落でしょう。……それから。公爵夫人……いえ、離縁となりましたので、この呼び名は適切ではございませんわね。エリザベス様は、病まれた心身の回復のため、親族の所有される別荘でお休みになられるとのことです。海沿いの静かな国へ、ご旅行のようなものだと伺いました」
「…………そう、そうですか」
ならいいのです、と。ジン伯爵は、安心したかのような息の隙間でつぶやいた。それはこれまで見てきた狡猾な彼とも、仮面をかぶったかのような笑顔とも違う――たとえるならば、やわい月の光のような。どこか泣き出しそうな笑顔だった。
「王女殿下、姉さんはなにか……」
今にも糸が切れてしまいそうな細い声で呟いた伯爵は、そこで一度言葉を切って。一度目を伏せるとゆるく首を横に振る。そうして切り替えるように顔をあげた彼には、先ほどまでの繊細な色はどこにも見つけられなかった。
「……いえ…………いやはや、どこで下手を打ったのやら。まあロバートを引き入れたことは今覚えば……。はは、素直に刺し殺してでもおけばよかったかもしれませんね」
自嘲するような笑みを交えてそう言った彼は、伸びた前髪をかきあげる。ぱさりとその黒髪が落ちるのと同時に、伯爵の表情にも影が落ちた。
「王女殿下。私は――エルシーを殺したことに、なんの後悔もありません。私の命と引き換えに、彼女たちを不幸にできたのであれば……どうかこのことを、あなたに覚えていてほしいのです」
「……それが最期の願いなのであれば、喜んで」
きっとこうして言葉を交わすことも最後だろう。それならば、彼の願いを聞き届けたいと思った。
自分の死が迫りくるとは、どのような気分なのかしら。人前で、人の手で、否応なく首を落とされて。その瞬間に人はなにを思い、どう振る舞うものなのだろう。気にはなるけれど、処刑を見届ける気は不思議と湧かなかった。それは命が散る瞬間を見たくないからではない。伯爵のきっと静かであろう最期を前にした民衆を見たくない、そんな思いが私にはあった。
二度と座る機会なんてないだろう椅子から立ち上がる。
「伯爵。では、ごきげんよう。この日が、どうぞ良き日でありますように」
牢を出ると、壁によりかかっている騎士の姿が目に入った。同じく待たせていたエイプリルとの間に流れる、この微妙な空気はなんなのだろう。少しの疑問を隠したまま近寄ると、彼はゆるゆるとした動作で頭を下げた。
「……おつかれ……っす」
騎士らしくない仕草だけれど、リュシアンお兄様の友人らしいから口を出すのはやめておく。それに、彼の力がなければ伯爵を追い詰めることなどできなかったのだから。
「アリア様、もうよろしいのですか~?」
「ええ、戻りましょう。あなたもよろしければ、ご一緒に」
それならと頷いた騎士と共に、どこか空気のこもった牢の中を歩いていく。あまり近寄ることのない場所だけれど、城内とは異なった嫌な空気に満ち溢れている廊下は気分が悪い。
「あなたもご苦労様でございました。兄より、あなたのご尽力のおかげだと聞いております」
「…………や、そんな……そう言われるようなことは。一応、仕事の一環として……だったんで」
「仕事だとするのならば、なおさらふさわしい労いと待遇を与えねばなりませんわ。……そう、兄は『約束の件は、確かに』と。奮っていただいた分、どうぞごゆっくりお休み遊ばせ」
気だるげだった瞳が、休みという言葉にかすかに輝いたような気がした。騎士としての役割もあるはずなのに、今もお兄様に命じられて私の付き添いだなんて、彼もなかなか大変だ。きっと普段から振り回されているのだろう。そんな彼に同情しつつ、私の部屋の前で別れる。
「エイプリル、あなたも下がっていいわ。少し一人にしてもらえるかしら」
「かしこまりました~。なにかあればお呼びください」
一人になった部屋で、ついついソファに倒れ込んでしまう。
こうしてなにも考えずに休むことができるのも久々だ。毒殺事件に関わってからというもの、なにかと頭を悩ませてばかりいた気がする。疲れていないつもりだったけれど、ここまで脱力してしまうなんて、思っていたよりも消耗していたのかもしれない。
ジン伯爵と会ってきたからだろうか、私の脳裏には彼と同じ黒髪が浮かんでいた。思い出すのは伯爵の罪を暴く数日前、リリベル公爵家を訪ねた日のことだ。
「どうか、王女殿下。エルシーちゃんに会いにいってあげてくださいませんか。きっと喜びますわ」
そう言って、エリザベス・リリベルは痩せこけた頬で笑っていた。
エルシーの出自を知った日から、私はどうしても彼女に会いたかった。夫の身勝手に燃えた愛に振り回されたであろう彼女がなにを思うのか……不義の娘をどう思うのか、聞いたところでなんの意味も持たないことを知りたくて。
「わたしにまで会いに来てくださるなんて。こんなに素敵なご友人がいるなんて、エルシーちゃんもきっと幸せです」
私と顔を合わせた彼女の第一声は、どこかはしゃいだ声色で紡がれた言葉だった。
権力を振りかざし、無理矢理この場を設けさせた私に嫌味の一つや二つ言ったっていいのに。もしかしたら私は、友人が殺されたことに心を痛めて、面会謝絶のはずの母親の元へまでやってきた清らかな王女、なんてことになっていたのかもしれない。その様子を見たら、私の聞きたかったことなんてどこか遠くへ溶けていってしまって。
だって、わかってしまった。私がエルシーの死を悼む友人だと信じてしまえる彼女にとってのエルシーがなんなのか。汚らわしい存在でも目障りな存在でもない、出自も血も関係ないただの娘なのだ、と。
――私はエルシー嬢のことを忘れません、なにがあっても。
そう答えたあの瞬間、あの部屋、エリザベス・リリベルの中でだけは、私とエルシーは美しい親友だったに違いない。だとしたら最悪だ。私にとってあの女は他のなににも変え難い敵であり続けたし、これからもそうだから。彼女と親しいだなんて、冗談でも言われたくはない。
「そうね、いつか……」
けれど、と考えてしまうのは、感傷に浸っているからだろうか。エルシーのいない社交界なんて、きっと呆れるくらい退屈だと思ってしまうのは。
「鈴蘭でも持っていって差し上げようかしら」
◆
「ねっ、ねっ、ローズちゃん!」
フォレスデン王国、首都。穏やかな気候にふわりと髪の毛を踊らせた少女の明るい声が響いた。男爵家、その小さな屋敷からあふれてしまいそうなほど満開の花々が咲き誇る庭。多少あぶなっかしくもティーセットを持ってきた少女は、「ローズちゃん」と呼びかけた友人が返事をするより前に語り出した。
「アリア様のお話、聞いた!? この前の毒殺事件、解決なさったのはアリア様なんだって!」
「……知ってるわよ。あのね、あまり鵜呑みにしない方がいいわ。尾鰭がついているかもしれないじゃない……」
「そんなことない、そんなことないよ! アリア様は賢くて優しい素敵な方だもの!」
少女の勢いに押されたのか、少女の友人は大きな瞳を不満げに歪ませる。「あの王女殿下が、まさかそんなことする?」だなんて思ってしまうけれど、今の彼女に対してそう言っても厄介なことになるだけだろう。桃色のワンピースの裾を風に遊ばせて、少女は友人の向かいに腰かけた。
「……アリア様……」
流れて行く雲を見上げるその瞳は、まるで恋する乙女。友人の冷めた瞳だなんて感じていないように、少女は夢見るように言葉を紡ぐ。
「どうにかお近づきに……ううん、せめてもう一度近くでお姿を拝見できたら……」
少女の瞳に抜けるような青空が反射して、その瞳の中を綿菓子のような雲が染める。ローズは心底呆れたようにため息をついた。いつものことだけれど、王女に夢を見ている友人を見るのはおもしろくはないのだ。彼女は目の前の少女の意識をこちらに向けさせるため、近頃話題の歌手について――友人が好みそうな話題を、頭の隅から引っ張り出すことにした。
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