第1幕 Dear My Sister

09 なんて陳腐なフーダニット!


「その通り……エルシー・リリベルを殺したのは、私です」

 その声は、静かな部屋に重々しく響いた。
 ジン伯爵は人殺しを暴かれただなんて思えないほど落ち着き払った笑みで、挑発するように私を見る。その一挙手一投足に部屋中の注目が集中している中で、彼は「お見事です」と称賛を口にした。

「王女殿下、私はあなたを侮っていたようだ」

 伯爵は降参だとでも言うように軽く手をあげると、椅子の背に体を預けた。軽々しい仕草だけれど、先ほどの彼の言葉への実感がようやく湧いてくる。
 彼が本当に、エルシーを毒殺したのだ。取り乱すでも弁解するでもなく、なんてことない日の午後を過ごしているかのように穏やかに微笑む伯爵が。

「さて……王女殿下。私をどうするおつもりですか? 法に則れば……」
「裁きは私のお役目ではございませんわ。私はただ、犯人を明らかにしたかっただけですもの」

 この国の法律、殺されたエルシーの地位。色々なものを合わせて考えれば、これから伯爵がどうなるかだなんてわかりきったことだけれど、その仔細はエドワードお兄様が請け負うだろう。私がやるべきことではないし、お兄様も私がそこまで関わることは良しとしないはずだ。
 そもそも私は、不名誉な噂に苛立っていただけだ。確かにエルシーについて思うところはあるけれど、私に着せられかけた濡れ衣を晴らしたいという思いが始まりだった。……その過程で芽生えた公爵を黙らせたいだなんて願いも、彼にとっては随分と酷な形で叶ったようだし。
 ちらりとリリベル公爵の様子をうかがえば、言葉を失っている様子だった。
 それも仕方がないのだろうけれど。娘を殺した犯人が妻の弟で、さらには息子も関わっていて。自分の周辺、狭い世界で起きた殺人の内容を知らされて、咄嗟に言葉が出てくる人なんてそう多くはないに違いない。今公爵に声をかけるべきだとは到底思えなくて、私は再びジン伯爵へと視線を戻した。

「……伯爵、よろしければこの場でお聞かせくださいまし」

 その代わりに、リリベル公爵もロバートも尋ねたいであろうことを投げかける。

「エルシー嬢を手にかけた理由はなんですの?」

 伯爵がエルシーを殺したということはわかっても、その動機は不明瞭なままだった。ロバートもこの点に関しては曖昧なようだったし……いえ、ロバートが知っていたことなんてほとんどなかったのだけれど。もしその理由が知れるのならば、本人の口から聞きたいとずっと思っていた。

「そうですね、なんと申しましょうか……」

 私の問いに、伯爵は今日初めて戸惑うような素振りを見せる。視線を下げ表情を曇らせた彼は、けれど、すぐに落ち着いた笑みを浮かべた。

「――許せなかったのですよ、エルシーが」

 その言葉の意味は、正直なところ私にはよくわからなかった。
 許せないから。だから殺した。動機としてはそうめずらしいものでもないのだろう。
 けれど許せなくても、どんなに殺したいと思っていても、白日に晒されればすべてを失う恐怖の前に大抵の人の足は竦むはずだ。それでも、と……どんな罰も厭わないとさせる激情の根にあるものがなんなのか知りたかったのに。そんな私の不満を知ってか知らずか、伯爵はそっと視線を逸らした。これでこの話はおしまい、とでも言うように。
 エルシーなんて、伯爵以外からも買えるだけの恨みを買っている女だ。それでもあの女が社交界で咲き続けられたのは、ひとえにリリベル公爵家の力。公爵の機嫌を損ねることは、貴族にとって好ましくない状況を招くから。地位も名誉も他の家の比ではないリリベル公爵家ににらまれてしまえば、貴族がなによりも愛する栄光は得られなくなる。伯爵だって馬鹿ではない、それはわかっていたはずなのに。それでも彼は、エルシーを殺すことを選んだ。
 その理由は、やけに私の胸に引っかかっていた。けれどジン伯爵はこれ以上語る気はないようで、彼の声は「義兄さん」とリリベル公爵を呼んだ。深い恨みを込めた瞳で見つめられた伯爵は、心底楽しそうな笑顔をこぼした。

「私は今、とても嬉しいのですよ。わかりますか? エルシーをこの手で殺し、ロバートもこれで罪人となった。こうなればあなたも破滅することは間違いない……あなたが不幸になる様を見られるなんて、これ以上ないほどの幸福だ!」
「……貴様……っ!」
「まあそう怒らないでください。そもそもあの子が死んだのは、元はと言えばあなたのせいですよ。義兄さんが……」

 まだなにか言葉を続けようとしていた様子だったけれど、それが言葉になることはなかった。音を立てて椅子から立ち上がったリリベル公爵が、乱暴に伯爵の襟元を掴んだからだ。
 後ろでエイプリルが息をのむ音がする。私も態度にこそ出さないように努めたものの、一瞬身を引いてしまった。公爵が暴力的ともいえる手段に出るだなんて思っていなかった……というのも、その理由に一つにあった。彼はかなり苛立ちやすい性質だけれど、その苛立ちを訴える際に手を出すことなんてなかったから。

「……陛下の御前ですよ。こんなやり方、義兄さんらしくない」

 けれど一番は。
 大人の男性……それも二十も三十も歳が上で、礼儀だって申し分ないと思っていた彼らの、荒っぽい様子が恐ろしくて。手をあげられたことも、ましてやそのような現場を目撃したこともない私にとって、目の前で繰り広げられているものは怖れの対象だった。

「姉さんがどれほど苦しんでいたかなんて、あなたは想像もしないでしょうし……できないでしょう。まったく、私のような者に踊らされて哀れなものですね」

 伯爵が軽く押し返せば、リリベル公爵はいとも簡単に手を離した。伯爵は乱れた髪とずれたモノクルを直しながら話を続ける。

「王女殿下が犯人だとか証拠の隠蔽がされているだとか、よく信じたものではないですか。ねえ? 権力も頭脳も優れているあなたが、私のでっち上げた嘘に乱されている様は痛快でしたよ。……義兄さん、エルシーはあなたが思っているよりもずっと狡猾で嫌な子でした。あなたが気が付いていないわけがないと思いますが」
「…………」

 その問いに公爵は答えない。
 思い返せば、それは最後に残った疑問でもあった。エルシーは父の前では猫をかぶっていると誰もが口をそろえて言っていたけれど、リリベル公爵はそれを見抜けないような人なのだろうか、と。私の知っている彼は、この社交界を生き抜いてきた人だ。ときには騙してときには騙されたふりをして、最後には相手の裏をかいて。そうやって今の盤石な地位を手に入れた公爵が、十代の子どもの仮面一つ見破れないことがあるのだろうか。巷の親というものは、それほどまで我が子に甘いのかしら……なんて自分を納得させていたのだけれど。
 公爵の顔色を見る限りそういうわけでもなかった、のかもしれない。

「昔からそうだ。あの子は幼い頃から好き放題していたでしょう。あなたが屋敷にいようといまいと関係なかったはずだ。姉さんやロバートにどこで覚えてきたのかわからない罵倒をぶつけて。……エルシーがああいった言葉をあなたから仕入れてきているからこそ、なにも言わなかったのですか」

 モノクルの向こうの瞳が細められる。少しだけ目にかかる黒髪は、伯爵の表情を怪しく隠す。

「それとも、愛する人との間にできた子のことは咎められませんでしたか? あなたは随分とあの人に夢中で、目が曇っていたようですしね」
「……」
「図星ですか? はは、いいのですよ。あなたは恋人と娘のため、私は姉のため生きてきたまででしょう。結果としては私の方が優位……と言いたいところですが、私もこうして罪を暴かれた身ですからね」

 日の光を反射して、伯爵のモノクルがきらりと輝いた。数歩下がってリリベル公爵と距離を取った彼は、思い出したかのように再び公爵に向けて言葉を続ける。その瞳は随分と鋭利に煌めいている。その表情の奥にあるものを、私はよく知っていた。
 明確な意図を持って、相手の心の大事なところを刺そうとするときの光だ。誰かの大切なものや尊厳を踏みにじろうとするときの、ほの暗い喜びを隠そうともしないその表情。

「以前から思っていましたが……彼女もエルシーも、あなたがなによりも嫌う方々となんら変わりはないでしょう。公爵家に生まれながら下賤な女性を愛したあなたに、口出しをする大義などありません」

 「彼女」とはきっと、エルシーの母のことだろう。どのような出会いかは知らないけれど、貴族社会の中だけで生きているはずのリリベル公爵と恋に落ち、エルシーを産んだ平民の女性。似ているのだわ、と考えてしまう。エルシーと私、そしてきっとリリベル公爵と陛下も。堂々と隣を歩くことが出来る妻の座を得たという点では、エルシーの母と私のお母様は違うけれど、それだけだ。
 高貴なる一族に混ざった、ただの女の血を継ぐ私。蛇蝎の如くこの出自を嫌っていた公爵が、同じような背景のエルシーを甘やかして愛していた理由が、それが、愛する人との子どもだからという理由ならば。それなら、私たちはどこまで――。あの金髪の輪郭を思い出す余裕もなく、伯爵の声がする。

「義兄さん。私はエルシーが生まれるまで、同じ貴族としてあなたを尊敬していました。貴族の誇りを持ち、継がれてきた家を守り続ける力があって。秩序に相応しくなければ、そうと断ずることができるあなたが。……人としては大嫌いでしたが」

 私の位置からでは、リリベル公爵の表情を読み取れない。けれどその後ろ姿からは、エルシーがあんなにも好きだと言っていた公爵の威厳を感じ取ることはできなかった。

「あなたがあんなひどい矛盾を通さなければよかったのですよ。そうすれば事件は起きなかった。たとえエルシーが公爵家にいたとしても、ああもあからさまに贔屓しなければ。エルシーも彼女もロバートもあなたも、そして……」

 姉さんだって。
 静寂に支配された部屋に、その言葉だけが最後に落とされた。柔らかだけれど底知れなかったそれまでの伯爵とは違う、どこか幼い言い方で。口を閉ざした伯爵の表情はどこか悲痛なものだった。
 部屋に置かれた振り子時計の音が聞こえるほどに、静かで張り詰めた部屋。不思議となにも考えられなくて固まっていた私を動かしたのは、緩慢な拍手の音だった。

「なかなか愉快な真相じゃないか」

 父上、とエドワードお兄様の含みのある声がする。それを気にする様子もなく、拍手の主である陛下はいつもと変わらず微笑んだ。それはちょうど舞台でも観ていたかのように満足げな表情で。今ここで、一人殺人犯が見つかったとは思えないほどだった。

「足を運んだ甲斐もあるというものだ。……アリア」
「……はい、お父様」
「面白いものを見せてもらったよ。お前は母に似て可愛らしい上に聡明な子だ」

 つい表情が崩れそうになって、それでも笑顔を作った。お母様の話は、今はあまり聞きたくはない。

「だが、このあたりで幕引きといこう」

 陛下が軽く指を鳴らすと、騎士たちが部屋の中へと入ってきた。伯爵たちに軽く視線を投げ、短く「全員連れて行け」と合図する。それに従って騎士たちはジン伯爵とロバート、それからリリベル公爵を誘導していく。それは礼節を持って案内する仕草だったけれど、そこにはどこか有無を言わせない圧のようなものが感じられた。公爵はともかく、他の二人は罪人なのだから仕方がないのかもしれないけれど。
 三人は静かに騎士に従っていた。これが舞台かなにかであれば、きっと感情を爆発させるのだろうけれど。こうして静かに退場していくのは諦めなのか、それとも、いかなるときも取り乱さず優雅であれと教えられてきた貴族の矜恃なのだろうか。

「……ああ、そうです」

 ふとそう言って、レンズ越しの瞳が私に向けられた。突然立ち止まった伯爵を歩かせようとする騎士を制すると、彼は静かに口を開いた。

「王女殿下、あなたは一つ勘違いをなさっています」
「……と、申しますと?」
「私はエルシーを鈴蘭で殺そうとした、だからこそ彼女に毒性を知られたくはなかった。それは間違いではありませんが、正解でもありません」

 そう言うと、伯爵は薄暗い微笑みを浮かべる。なぜだか背筋が冷えるような気がした。

「私はすべてが憎らしかった。社交界もなにもかも、破滅へ向かえばいいと思っていました。エルシーだけではなく、使用人も貴族も誰も彼も、この毒で死んでしまえばいいと。ですから、誰にも毒のことは告げなかったのですよ」
「…………」

 あの舞踏会にいた誰も彼もに、死んでしまえと呪いをかけていた、というのだろうか。私やお兄様方、陛下にお母様、貴族たち、それから……。本当に彼のその願いがかなっていたときにはどうなっていたのだろうと、つい考えてしまう。

「生憎とそれは失敗しましたが。さすがに、あの場にいたすべての人々が毒に触れるようにするだなんて、無理な話ですからね」

 そう軽く続けた伯爵に、悔恨の色は見受けられなかった。むしろ、これまで見てきた彼とは比べものにならないくらい満足気に見える。長いまつ毛に縁取られた瞳をそっと伏せると、小さく息をついた。

「王女殿下、それでは失礼いたします」

 肩にかかっている黒髪を揺らして、伯爵は扉の方へ体を向けた。そして彼はこちらを振り返ることなく去って行く。それを眺めていた陛下も、残った私たち兄妹を横目に立ち上がった。

「さて、私は戻る」
「……父上、あの者たちの処遇は……」
「ああ、お前に任せる。なにかあれば言いなさい」

 エドワードお兄様の言葉に返された言葉は、どこか心ここに在らずといった様子だった。陛下にしてはめずらしいけれど、なにかあったのかしら。その疑問を押し殺しながら、可愛い笑顔を作って陛下を見送った。
 扉がしまり、足音が遠ざかっていく。たっぷりとした沈黙のあとで、エドワードお兄様はひとりごとのように言った。

「…………これから王妃と出かけられるそうだ」

 どこか憎々しげな言葉に、リュシアンお兄様の嘲笑うような軽い笑いが乗る。なるほど、と相槌を打ったお兄様の声は冷え切っていた。

「だからあんなに上機嫌で。スキップでもしそうでしたね」
「陛下のスキップ……変なものを想像させないでくださいまし」

 不思議と揃って、やんわりと気を落としてしまう。私たちは兄妹とはいえ三人でそう親しくしたり盛り上がることはないのだけれど、陛下の話となると別だ。正しく言えば今のように盛り下がるばかりなのだけれど、それでも唯一心が揃う話題といえばこの話しかない。
 部屋の中に曖昧に揺蕩う負の空気を打ち消すように、エドワードお兄様は一つ咳払いをした。

「父上のことは置いておくが。とにかく……アリア、よくやったな」
「ありがとうございますわ、お兄様。ですが、お兄様方がいなければ犯人に辿り着くことなどできませんでしたから」

 そう答えると、お兄様は満足気に少しだけ表情を緩める。けれどその青い瞳はすぐに厳しい色を帯びた。

「それにしても、色々と厄介な話だな。公爵令嬢が殺され、犯人はその親族……おまけに伯爵が買収した使用人やらもいるのだろう。それから……代筆だったか……」

 眉間に皺を寄せてため息をつく姿は、これから先のことに頭を悩ませているようだった。ただでさえお忙しいお兄様の肩に乗ったこの新たな悩みの種は、きっと随分彼の荷となっているのだろう。

「……いや。なにはともあれ、ひとまずは一段落といったところだな。お前たちももう戻れ」
「はい。……兄さん、僕たちにお手伝いできることがあれば、どうかご遠慮なさらず」

 リュシアンお兄様のその言葉に、エドワードお兄様はそちらを見ることもなく頷いた。完全無欠の第一王子と称される彼が、私たちになにかを求めるとはあまり思えないけれど、リュシアンお兄様は度々こう言っては相手の出方をうかがうように微笑む。

「それでは、僕たちはこれで」
「お兄様、ありがとうございましたわ。また改めてお礼をさせてくださいまし」

 ――廊下は、随分澄んだ空気だった。むしろ、室内がよどんだそれだっただけかもしれないけれど。
 大きく伸びをするリュシアンお兄様と後ろを静かに歩いているエイプリルの足音に挟まれて、私は一人頭を悩ませていた。

「……アリア様、なにかお困りごとですか〜?」
「ええ、そうね……いえ、大したことではないのだけれど」

 それを素早くエイプリルに見咎められて、ゆったりとした声に尋ねられる。歩く速度を落として隣に並んできたリュシアンお兄様は、不思議そうに私を見ている。

「もう毒殺の話は終わっただろう? それとも、僕が知らないうちにまた他の子と喧嘩でもしたのかな」
「違いますわ! ただ……伯爵はなぜエルシーを殺したのかしらと……」
「……ああ……アリアはそのあたり鈍いからなあ」

 お兄様の呆れた声に、かっと頭に血が上っていくのがわかった。そのあたりと言われてもどのあたりなのか見当もつかないし、それに私は、鈍くなんてないのに! こんなにも頭が良くて可愛い子、他にいないもの。

「伯爵は、姉のことが大事なんだろう? だから、だよ」
「…………だから……? なんですの?」
「……はは、アリアは子どもだからなあ。いつかわかるよ」

 ぽんと頭を撫でられたかと思えば、お兄様は先を歩いていく。一呼吸置いて、今子ども扱いされたことに理解が及んだ。

「……おっ、お兄様! お待ちくださいまし! 私は子どもでは……! しっかり教えてくださいませんこと!?」

 駆け出したい気持ちを抑えて早足で追いかけると、後ろからエイプリルの焦った声が聞こえる。お兄様はやけに楽しそうに笑い声を漏らしていて、それが私には不思議で仕方がなかった。
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