第1章 ちいさな箱に人生を詰めて
03 Every cloud has a silver lining.
「……た、ただいまー……」
心身共に疲弊したあとに持ち帰るには重い買い物袋を携えて、リデルはようやく寮へと戻ってきた。相変わらず真っ暗な玄関とその先のリビングに、今日に限っては心が騒がしくなる。所在なさげに視線を動かせば、少し汚れたスニーカーが足元に転がっていた。
――帰ってきているんだ。それならよかった。
リデルは息を吐きながら、ようやく肩の力を抜く。
なにかに引っ張られているかのように、玄関先に座り込んでしまう。今日は、雑に表すのであれば盛りだくさんな一日だったというか、実家を思い出すというか、なんというか。そんなことを考えながら、リデルは適当に脱ぎ散らかされているマグレヴァーのスニーカーを揃えていた。その表面は埃だとか土だとか、それから、赤黒いもので汚れていて。それをみとめた途端、リデルは弾かれたように立ち上がった。冷蔵庫に入れておかなければならないものを、めずらしく乱雑に突っ込んで――リビングの棚を開ける。
「確か、このあたりに…………あ、あった」
取り出したのは、白い救急箱。大きな怪我をしていたわけではないから、余計なお世話なのかもしれない。きっとこれを持っていっても、うるさいいらない黙れと扉越しに言われて終わりだろう。それでも、とリデルは救急箱を撫でる。大きな怪我はなくても、と考える。なにがあったかはわからないけれど、もし誰かと争っていたりしたのならば。その切り傷や擦り傷だって、放置しておいていいものではない。……すべてひっくるめて、余計なお世話なのかもしれないけれど。
静かに廊下を歩いていくと、暗闇の中で扉から光が漏れていた。どんな遅い時間になっても灯っているその光に近寄って、小さくノックをする。返事はなかったけれど、隔てられたこの先にマグレヴァーがいるであろうことはわかっていた。
「……お、起きてる? ごめん、邪魔して。救急箱見つけたから、もしよかったら使って。……扉の前に、置いておくから」
予想していた通り、返事はなかった。リデルの言葉が届いたのかどうかすら不明だけれど、どちらにしろ明日になればマグレヴァーはこの扉を開ける。そのときにもし目に留まったら幸運だ。いらないのであれば、それならそれでいい。古い扉に手を滑らせて、おやすみと声をかけようとしたときだった。
「…………おい」
ふと、向こう側から声をかけられた。相変わらず不機嫌そうで鋭くて――けれど、路地裏で向けられた剣呑さは幾分か薄れている。まさかマグレヴァーから話しかけられるだなんて思っていなかったリデルは、咄嗟に声を出すことができない。
「あの女はどうした」
「あの……あ、えっと、シャーロットのこと? あのあとは帰ったよ。今日のことは誰にも言わないって約束してくれたから、安心して」
「は、どうだか。ああいう頭ん中花畑みたいな奴は、どうせ大人にチクるだろ」
「そんなこと、は、ないと思うよ。シャーロットはそんなこと……」
いつも優しくやわらかに微笑むシャーロットの姿を思い出す。確かに、マグレヴァーと……そしてリデルとは違って、大人に一定の信頼は置いている様子の少女。知り合って日が浅いけれど、あたたかい世界で守られて育ってきたことがわかる言動。まだ優れない顔色で、長いまつげを震わせながら「あなたのことを信じているの」とリデルを見つめたシャーロット。彼女が約束を破るとは思えなかった。思いたくなかった、という方が適切なのかもしれない。
「大丈夫だよ。僕からも話したし、」
「――大体。お前もなんのつもりだよ、なんもわかんねえくせに……」
そう言って舌打ちをしたマグレヴァーの声は、それまでとは違ってどこか苦しそうな色を帯びていた。
思わず、そんなことないよ、なんて言ってしまいそうになって、喉元で引っ込めた。マグレヴァーの言う通りだ。リデルにはわからない。彼の身になにがあったのか、なにを考えているのか、そんなことを打ち明けてもらえる日なんてきっとやってこない。そう確信めいた考えが浮かぶほど、マグレヴァーは明確に他人を拒絶していた。
「……うん。わからない、ごめん。でも、僕が君の立場でも……誰にも言わないでほしいって思うだろうから。それは、尊重されるべきだと思って……」
まとまらない言葉を不器用に並べていく。
そして、ああ、喋りすぎているのかもしれない、なんていうことを考えた。
「……だから、ちゃんとシャーロットにも、言わないでほしいって……たぶん、大丈夫だから」
「…………どっか行け」
「ご、めん」
申し訳程度に付け足したおやすみは、マグレヴァーに聞こえていたのだろうか。来たときと同じようにそろりそろりと部屋の前を離れる。
あまり食欲は湧かなかった。もう眠る準備をしてしまおうと、リデルは緩慢に部屋へと歩き出した。
◆
「……お、おはよう」
その日も朝も、いつも通りだった。ある程度。
そこそこの早起きをして、準備を整えて、朝食を作って。いつも通りのトーストの味にも少し飽きてきたかもなんてことを考えつつ、ミルクの柔らかさにあふれたコーヒーを飲む。そして時計を見て、そろそろマグレヴァーが来る頃だろうなと、考えて。その予想は大方当たって、扉が開いた。
いつも通り一応挨拶をしたものの、きっと返ってこないだろう、と。マグレヴァーの色違いの瞳が、じとりとリデルを見下ろす。普段と変わらないはずだ。マグレヴァーは話しかけるといつも、返事を返す返さないにかかわらず、真意を疑うかのように警戒して睨みつけてくるものだから。リデルは慣れているつもりだったのだけれど、今日はなぜか――警戒とは違うなにかが含まれているかのように思えた。
「…………」
結局無言のまま。けれど、す、と視線を逸らされると同時に、一瞬だけ。ポケットに突っ込まれたままのマグレヴァーの手には、真新しい包帯が巻かれているのが見て取れた。
それを見て、マグレヴァーの部屋の扉の前――昨夜置いた救急箱がなくなっていたことを思い出す。それを見たときに、浮き立つ気持ちもあったことは確かだ。邪魔だったから片付けただけかもしれない、と冷静になろうとしていたのだけれど。
――でも。
お節介ではあっただろうけれど、どうやら余計なお世話だったというわけでもなかったようだ。抑えようとしてもあがる口角を、誰が見ているわけでもないのに誤魔化そうとして、リデルはコーヒーを飲み干した。
「……あ」
「えっ、あっ」
広く静かな食堂で、戸惑った声が重なったのは。相変わらず冷え切った教室で、授業をなんとかこなしたあと……昼休みのことだった。
廃校寸前にして生徒数もぎりぎりの二桁、街と校舎の大きさにはまったくそぐわないこじんまりとしたこのアナガリス魔法学園に、学食なんていうものは存在しない。だから、かつてはにぎわっていたらしいこの食堂も、清閑な雰囲気を醸し出しているだけだ。わざわざ教室を出て、階段と長い渡り廊下を乗り越えてまでここで昼食を食べるメリットというものはあまりない。そのため、リデルも含めた生徒のほとんどは教室で、家から持ってきている昼食を食べているのだけれど。
今日に限っては、考え事をしたくて。一人迷いつつも辿りついたこの食堂で、今朝半ばぼんやりしながら詰めたサンドイッチでも食べようと考えたのだ。
……そうして、扉を開けるのと同時に。
がたがたと椅子を引く音と、それから声にならない悲鳴が響いた。
「…………」
「…………」
その音の方に目をやると、広い食堂の隅――角の席で生まれたての小鹿のように震えている少女と目が合った。ボブほどの長さに切りそろえられた茶髪の彼女は、教室でも端の方で視線をさまよわせている。攻撃的に他人を拒絶しているマグレヴァーやターリアとは異なって、他人との関わりを怖がって拒絶しているような彼女に声をかけるのは、少しだけ気が引けるけれど。
「……えっと」
目が合ってしまった以上、無視するわけにもいかない。
迷いながらも絞り出したリデルの声はあまり通るものではなかったけれど、他に誰もいない食堂の空気を震わせるには十分だった。
「ごめん、その、お邪魔してもいい、かな……」
「……えっと、うん、その、うんっていうか……わ、わたし、戻るから……」
「えっ、いやそんな、気を遣ってもらわなくても……!」
猫背のせいか、その表情は髪で隠れていてうまくうかがうことができない。リデルがどうにか言葉を繋げようとしても、聞いているのかいないのか、彼女はわたわたとテーブルの上に広げていたものを片付けていく。引き留める隙もなく、食べていた途中のちいさなパンやらなにやらを手元に詰めて、忙しなく走り出した、と思ったら。
「ひん……っ」
次の瞬間、彼女はへちゃりと床に倒れた。
「……ご、……ごめん、なさい……」
「いや、そんな、気にしないで……それより、大丈夫?」
「う、うん、……よく、あるし……」
前髪の隙間から覗くおでこを赤くしている様子からは、到底大丈夫には思えないのだけれど。この世の終わりかのように下を向き、ちいさくなりながらサンドイッチを食べている姿に、これ以上下手なことは言えないような気がした。
少しだけ日に焼けた肌に、荒れ切った指先。困ったようにリデルを時折見やる彼女も、この魔法学園に通う級友の一人……エラ・アーシェンだ。あまり他人と話しているところを見かけない彼女は、教室で見る姿と同じように猫背をさらに丸めて黙り込んでいる。
――特になんの変哲もない床でエラが足をもつれさせたのと同時に、彼女が持っていた昼食は派手に宙を舞い、床へと着地した。まだだいぶ中身が残っていた様子の昼食に、半ば絶望といった様相を浮かべる彼女を放っておくことはもちろんできなくて……。簡単なものだけれど、とリデルが差し出したサンドイッチをいや悪いから、気にしないでなんてやりとりを数分ほど繰り返した後、二人は揃って同じものを食べることとなったのだった。
「……そういえば、その……」
リデルはふと口を開いた。お互いになにかをうかがうような沈黙は居心地が悪くて、思わず話しかけてしまったのだけれど。あからさまにびくりと体を震わせる彼女を見て、失敗したかな、と思った。けれど今から止めるわけにもいかず、どうにか言葉を続ける。
「エラって、いつも早く学校来てる……よね」
「えっ!? ……えっと、そう、かな、そうかも……」
目を丸くした彼女は、なにかを思い出すように視線を上へ投げた。高い天井に設置されたクラシカルな照明は、太陽の光を反射しているだけだ。
「僕、学校まですぐなのにいつものんびりしちゃって。結構時間がなくなるから、すごいなって」
「……そ、そん……そんな、すごいとかじゃ、なくて……ただ、朝、早くて……」
エラはなにかを恐れるように、荒れた指先をテーブルの下へと隠す。少し痛々しい怪我やあかぎれのあとが見て取れる自身の手を見下ろして、「いろいろ、やらなくちゃいけなくて」とつぶやいた。どこか諦めたようなその声色に、これ以上なにか言うことはできなくて、リデルはそうなんだ、と相槌を打つだけに留まってしまう。そうして、再び静かな食事が再開された。緊張と居心地の悪さのせいか、あまり味はせず、食事というより咀嚼だったのだけれど。
「……りょっ、……んん、寮、だよね、……リデルくんは」
少しだけ裏返った声をごまかしながら、エラが古時計の秒針の音を遮った。
「う、うん。マグレヴァーと、いっしょで」
「……え……そっか。……そうなんだ……」
同じ寮生の名前を出すと、エラがふと顔を上げた。その瞳をぱちぱちと瞬かせて、彼女はあのいつも不機嫌な級友の名前を転がした。
「……いいな、ふふ。たのしそう」
そうして、彼女は静かに微笑んだ。初めて見た彼女の微笑みは、こもれびのように控えめだったけれど。いつもなにかを恐れているかのように眉根を寄せている彼女の笑顔が見られて嬉しい気持ちが半分と、まったく「たのしそう」ではないんだけれども、なんて思いが半分。リデルにとっては、マグレヴァーはいつも他人を拒絶していて不機嫌で、だいぶ刺々しい存在で、初対面の第一声から間違っても共に過ごして楽しそうだとは思えなかったのだけれど。エラにとっては違うようだ。それが少し意外で、けれどすぐに思い直した。
リデルは、マグレヴァーのことをなにも知らないのだ。……知れるような距離にいけるほど、心を許されてはいないからどうしようもないのだけれど。マグレヴァーは、分類するのであればとっつきにくい怖い人、だ。けれど、いつも緊張の糸を張り巡らせているエラをかすかに緩ませるようななにかが、彼にはあるようだ。
それなら、許されるのであれば。そのなにかを知りたいと思った。
「……エラは、マグレヴァーのこと……その」
どう思っているのか、と聞くのはなぜか憚られた。人付き合いに慣れてきたとはいえど、他人との関わりは難しい。からっぽの方が多いような言葉の引き出しを開けては閉めて、そうして、時間をかけて……どうにかリデルは、続きを絞り出す。
「……仲、いいの? たのしそうって」
「…………えっ、そん、そんな、そ、わけない、よ、わたし、全然、話したこと、あの……」
途端にあわあわと視線も手も泳がせたエラは、けれど、ちいさく息をついて続けた。
「……そういう、わけじゃ、ない、けど…………でも、すごいなって……かっこいいなって、わたし、あのとき……」
か細い声は、ここではないどこかを思い出すかのように消えていく。長いまつげが影を作る灰色の瞳は伏せられていたけれど、それまでの怯えや翳りとは違うなにかが見て取れた。ここが学校で、目の前にリデルがいることすら忘れているかのように、彼女は指先を遊ばせる。吐息混じりのその声の続きを待っていたけれど、その続きを知ることはできなかった。
学校にはおおよそ似つかわしくない、荘厳な鐘の音が鳴り響く。
まるで子うさぎのようにその音に反応したエラは、再びなにかに怯えているかのように詰まりながらもごめんなさいを繰り返した。
「ご、なんだか、わたしばっかり、しゃべっちゃって……あの、えっと、ごめんなさい、じゃない、ちがうの、えっと、ごめんなさい……なんだけど、お昼、……あ、ありがとう……!」
そう言ってあわただしく去っていった背中を見送って。あと少しで、午後の授業が始まる。そうしてここが教室まで多少の距離がある食堂であることを思い出して……リデルも、すこしあわただしく立ち上がったのだった。
◆
そうして今日も、なぜだか息をひそやかに抑えて、リデルは音を立てないように寮の扉を開けた。今日はそう怯えるようなこともおどろくようなこともなかった普通の日のはずなのに、それでもどこか緊張が喉に張り付くのは。昨日と同じような温度で、この扉の向こうに帰っている彼のことを、考えているからだろう。
電気をつける前から、リビングからの光がほわりと彩る玄関先で、リデルは緊張の息を吐いて、それからふと気がついた。
……放課後、時折シャーロットに捕まったりちょっとした買いものを終わらせてくるリデルとは違い、マグレヴァーはさっさと教室を出て大体リデルより早くここへと帰ってくる。帰ってはくる、のだけれど。マグレヴァーは必ずリデルに顔を見せようとはしなくて、彼の部屋へと閉じこもっている。だからリデルが彼が先に帰宅していることを知る術は、玄関に散らばる履き潰されたスニーカーと廊下の前、彼の部屋を通るときの気配だけ。マグレヴァーが干渉を望んでいないことはわかっていたし、だからこそだろう。リデルは彼が共用スペースにいるところなんて見たことがなかった。もちろん、リビングに明かりが付いていて、そこに彼らしい人影が揺らめいていることも。
消し忘れかな、なんてことを考えながら散らばった靴を整えていると。
「おい」
「ひっ」
背後から地を這うような声がして、ひやりと背筋が冷たくなるのを感じた。
「遅い」
振り返らなくとも、不機嫌に睨みつけられていることがわかる。それも普段よりもだいぶ鋭く、だいぶ苛立ちをこめて。なにかしただろうかと必死に今日1日を思い返すけれど、なにも思いつかない。あがれよ、と短く告げられた言葉はリデルにとって、処刑台への誘いのような重さを持っていた。
「お前さ、どこまで見たんだよ」
震える足でテーブルについた途端投げかけられたのは、そんな言葉だった。なにを、とは言われなくともわかる。昨夜の出来事だろう。一日経った今も同じ彩度で脳裏に焼き付いているあの場面。
どこまでと言われても、リデルにとって思い出せる場面は少なかった。ぼんやりとした血の匂いがする、なんていう感覚の元足を踏み入れた路地裏は、時間帯と場所柄もあってか暗かったし……それに、リデルの意識はマグレヴァーだけに吸い寄せられていたから。事件にしろ喧嘩にしろ、リデルがやってきた頃にはすべては終わっていたのだろうし。その証拠に、他にあのときリデルがかすかに捉えたものといえば、誰かが暗闇に紛れて去っていくところだけだったのだから。随分と不満げな目の前の相手を刺激しないためにはどうすればいいのか、それを考えながら、リデルは慎重に口を開く。
「えっと……あんまり。焦ってたし、君が危ない目に遭ったのかなって……。人が奥に走ってくのはわかったけど、暗くてどんな人かよくわからなかったし」
事実を口にしているだけなのに、こんなにも胃が縮むのはなぜなのだろう。今まで味わってきた不安とも緊張ともまた違うなにかを感じながら、リデルはマグレヴァーの様子をうかがった。肘をついてこちらを睨みつける様子は相変わらずだったけれど、再び吐かれたため息は先ほどとは違う温度感を持っていた。
「……ならいい」
そう言って目を伏せたマグレヴァーは、それから、思い出したように再びリデルを見やる。少しだけ言いにくそうに舌打ちをして、身を乗り出してきた。少し近付いた鋭い瞳に若干気圧されていると、「お前さ」と先ほどよりも苛立ちに満ち満ちた声が飛んでくる。
「……んで、あんなこと言ったんだよ」
「あ、あんなこと。……僕、なにか変なこと……」
「言った。わかんねえけど尊重されるべき、とかなんとか」
「……えっ、ああ、昨日の夜……」
そう言われてようやく思い出したのは、救急箱を置いたときの会話。あれをどうにか絞り出したことが遠い昔のように感じてしまっていて、咄嗟に記憶から引っ張り出せなかったけれど。混乱の渦の中、なにを言うべきなのかわからない頭で発した言葉は、彼の気を害しただろうかと今更ながら不安が押し寄せてくる。
「どういうつもりであんなこと言った」
「えっ、どういうって、えっと……」
どういうと言われても、なにをどう答えればいいものなのだろう。次の句が定まらず思わず下に落とした視線をどう捉えたのか、マグレヴァーは苛立ちを増した声で続けた。
「…………いいから吐け。お前が大人を信用しない理由はなんだ」
内容によってはお前の知りたいことも話してやる。そう言い添えたマグレヴァーの表情は、リデルにとってなんとなく、覚えがあるものだった。そうやって相手の出方をうかがって、その内心さえも透かそうとして――この人を信用してもいいのか、探ろうとしているときの。とはいっても、リデルは早々に唯一の身内である父親を推し量ろうとするのを諦めていたから、記憶の奥底に眠っていた感情だったけれど。
どうして大人を信用できないと思ったのか。できない、なんて断定して嫌悪するほど強い拒絶も思い出もリデルにはなかったけれど、断片的な記憶を手繰れば心の中に霧のように居座るものに行き当たる。
「……昔のことはあんまり覚えてないから、少し曖昧なんだけど。僕の家、母親はいなくて……父親は僕のことより、昔から……えっと……なんというか、……研究、に夢中で」
「は? 研究?」
「いや、うん、ちょっと、えっと、僕もあまり詳しくはないんだけど。何してたかとかは。とにかくその関係も色々あって、僕は家から出られなかったから、だから……」
父親がネクロマンサーで少し死体を動かそうとするなどを日々行っており、なんてことはもちろん言えず、リデルはかなり適当にごまかした。
ネクロマンサーというものは、死体を用いるという方法が陰鬱かつおぞましいものとして扱われているのだ、という父親の言葉を思い出す。だから、人間の生活に入り込むことなんて決して叶わないのだと、リデルが窓の外を眺めるたびに言い聞かせてきた父親の姿。そんな父親は今はどこにいるのかはわからなくて、リデルはそんな家族の存在と引き換えたかのように外の世界を知った。
そういえば。今まで意識したことなんてなかったけれど、自分の母親はどんな人なんだろう。ふと浮上したそんな考えを一度頭の端に追いやりながら、リデルは続けた。
「……父親とはあまり話したこともなくて。大人を頼るって考えたこともなかったというか……ううん、違うかな、頼れるものじゃないと思ってた。信用できない、とはまたちょっと違うかもしれないけど」
「……」
「自分でやるしかないんだって……他の人に助けてもらうとか、考えたことなくて」
好かれるとかも、あまり。それを口に出すことはなかったけれど、リデルはそっと目を伏せた。
「……多分、君の抱えている理由とは全然違うんだろうけど……。たとえば僕がなにか、事件とか事故に巻き込まれたとして、それを見られたとしても……誰にも言わないでほしいと思うし……だから、……えっと、ごめん、偉そうに……」
喋っているうちに自信はどこかへ消え失せていき、段々声が小さくなっていく。そんな様子に苛立ったのか、向かい側から舌打ちが響いた。委縮して小さくなっていくリデルを前に、マグレヴァーは「……けど」とこぼした。
「…………俺もお前も似たようなもんかもな。親に相手にされねえ挙句、こんなとこに放り込まれて」
他人を遠ざけるため、いつも自分以外の誰かへと発せられていたようなマグレヴァーの声は、今だけは。他者の介在を意識していないように――そこに自分以外のなにかがあることを怖がっていないように、ひとりごとのように紡がれていく。そして、ふと長い前髪が彼の顔を隠した。
「ま、お前は殴られたりしてねえだろうから。全然違えけど」
その声は風にさえかき消されそうな声量で、リデルは聞き取ることが出来なかった。聞き返すより先に、ぱっと顔を上げたマグレヴァーが続ける。
「喋れっつったのは俺だ。んで、内容によってはお前の知りたいこと教えてやってもいいっつったのも俺。…………あー……」
彼は言いにくそうに、傷んで好き勝手そっぽを向いている髪の毛をかきあげた。片目の金色が、気まずそうに細められる。
「……俺は撤回なんかしねえ。だから……」
「ごめん、その、そういうつもりじゃなくて。言いたくないことを言う必要なんかないよ。君の……きっと、あまり楽しくない話をさせるために、親の話とかしたわけじゃないし……」
「は? じゃあなんのためだよ」
意図が掴めない、というようにマグレヴァーは眉根を寄せる。いつも不満を刻み込まれている眉間がさらに深くなるけれど、それまで感じていた蛇に睨まれたかのような感覚は、不思議と感じなかった。
「……なんのため…………なんだろう、もちろん、君の質問に答えるのはそう、なんだけど……多分、誰かと話したかったんだ。どんなことでもいいから。……そういうの、したことなくて」
事情があったとはいえ、自身の交友経験も社会経験も足りていないことを思い知らされて、リデルは痛みを誤魔化すようにへらりと笑った。
「だから、これからもたまに……こうやって。学校のこととか話せたらいいなって思ってる」
「……俺はお前と仲良く友達なんかやってやらねえぞ」
「あはは、うん。そんな気はしてた」
リデルを見た瞳は、相変わらず鋭かったけれど……不思議と、その瞳を向けられたときの委縮はどこにもなかった。それはきっと、根を張る痛みこそ違えど傷ついたまま成長したのは同じなのだろうと感じ取れたから、だったのかもしれない。
そうして、部屋に戻ったときにはもう日付が変わりそうで。あのあとぽつりぽつりと控えめに、境界線を探るように交わしたいくつかの会話を思い出しながら、リデルは少しだけ、刻み込まれた孤独が薄れていくような気がした。
◆
「お、おは、よう」
少しだけパサついたパンをコーヒーで流し込んだのと、扉が開いたのは同時だった。
「ん」
リデルは今朝も、昨日と変わらず朝食を食べていて。そしていつも通りであれば、マグレヴァーはそんなリデルをときに横目に見て、ときに一瞥もせずに通り過ぎて先に寮を出ていく。それが日常になっていたものだから、リデルはちいさく頭を下げつつ挨拶をして、手元に目を落としたのだけれど。
「…………」
ぎ、と向かいの椅子が引かれる音がした。
思わず目を白黒させながら目の前を見やると、相変わらず制服を着崩した彼が乱雑に菓子パンのパッケージを開いていた。
「……めずらしい、ね」
「は? 文句あんのかよ」
「な、ないよ。……そうだ、コーヒーならすぐ飲めるよ」
「ん」
短く返事をしたマグレヴァーは、そのままふいと顔を背ける。やれ、ということだろうか。横暴だ、なんて感想が浮かんだけれど、それを伝えられるまでではなくて。ちょうど半分ほど食べ終わったトーストを置いて、自分もついでにおかわりでもしようとキッチンへと歩いていく。新品のカップと並んだいつも使っているそれが、普段意識しない陽の光を受けていた。