第1章 ちいさな箱に人生を詰めて
02 There’s no crying over spilt milk.
――恋をしていました。
あの一部屋の清潔な檻の中で、わたしは彼に恋をしていたのです。
なにも持つことが許されなかった
それでも、あなたには知っていただきたいのです。……どうしても、あなただけには。我儘でごめんなさい。けれど、ですから、どうか……お付き合いくださいね。
わたしの、運命の――初恋の、お話に。
◆
「おはよう、マグレヴァー……!」
リビングで朝食を食べていると、扉が開く。その姿に挨拶をすると、大きな舌打ちという返事をいただいた。
入学から二週間。学校生活というものは、思っていたよりは忙しくまぶしくて……それから、思っていたよりは刺激のないものだった。勉強は難しく、クラスは静かで、寮はおそろしい。元々の適応力のせいなのか、それがリデルの日常となるのは早かった。
「え、っと。もう行く? 朝ごはんは……」
「いい」
これもいつも通り。マグレヴァーはどうやら食事があまり好きではないようで、リデルは彼がなにかを食べているところに遭遇したことがない。……時折、インスタント系の食品や栄養補助食品の残骸をキッチンで見かけるので、なにも食べていないわけではなさそうなのだけれど。
最初こそ仲良くなりたいと思っていたリデルだったが、干渉されることを好んでいなそうな様子を見るにつれ、次第にその気持ちには蓋をするようになった。相手が望んでいないことを強要するべきではない。相手への尊重こそが円滑な人間関係のコツだと、リデルはわかっていた。
ただ、時折どうしても口を出してしまいたくなることがあるとすれば。マグレヴァーが帰ってくるとき、度々血の匂いをまとわせてくることだとか、乱雑に脱ぎ捨てられたシャツに乾いた血がかすかについていることだとか。
……けれど、まあ。聞いたところで答えてはくれないだろうから。口を出すべきではないのかもしれない、と思っている。
乱暴に玄関が開いて、それから閉じられて。マグレヴァーが先に寮を出て、ゆっくり朝食を食べたリデルが施錠をする。それは、この短い期間で2人の間の暗黙の了解になっていた。
「……そろそろ、行かないと」
少し濃いコーヒーを飲み干して、リデルは立ち上がった。帰りに牛乳を買わなくてはいけない。かすかにしか残っていなかった牛乳であつらえた、ほとんどブラックと呼べるコーヒーにじわじわと口内を侵食されるのは、あまり気分がいいとは言えなくて。いまだに残る苦みからどうにか意識を逸らしながら、リデルは寮を出た。
寮から学校までは、徒歩約五分。石畳に街路樹が立ち並ぶ静かな朝の街並みを、リデルは気に入っていた。ずっと住んでいた薄暗い森の中とは真逆の、朝露が太陽の光に輝く世界。その空気を吸えるだけでも満足だった。そんなことを考えながら歩いていればすぐ、学校が見えてくる。
「……まぶしいな……」
――アナガリス魔法学園。
仰々しいその建物は、この学園が直面しているらしい問題とは裏腹に、荘厳な雰囲気を漂わせ鎮座していた。
かつて栄華を極めた魔法。それが失われてから長い年月が経っている。古くは子どもたちに魔法を教えるためと乱立した魔法学校も、科学の発展により姿を消していき……かつては名門の証であった「魔法学校」の名は、いまでは歴史の長さを示すだけの勲章でしかない。それを教えてくれた同級生の、残念そうな顔を思い出す。
……魔法って、夢があると思わない?
そう言った彼は――。
「お、おはよう、リデル!」
「わ……っ、おはよう」
突然かけられた硬い声におどろいてしまう。それは突然後ろから声がしたからではなくて、ちょうど今思い出していた声が現実から降ってきたから。振り返ると、やわらかな金髪が揺れている。
「ごめん、急に声かけて……!」
「あ、えっと、大丈夫。少し考えごとをしていたから……おはよう、ラファーユ」
そう呼ぶと、同級生――ラファーユ・チーシャキールは嬉しそうに笑った。あの不干渉の壁が張り巡らされたクラスにおいて、まだ話しやすい存在であった。……ただ一つの気がかりを除けば。
「…………」
――に、睨まれている。
ラファーユの背後、不満げにリデルをじとりと睨みつける少女の気に障らないように、そっと彼女へ注意を向ける。初日にさっさと帰った彼女の名前は、ターリアと言うらしい。
……らしい、と言うのは。名乗る機会も名乗られる機会もなく、ラファーユが頻繁に呼ぶその名を記憶したに過ぎないから。
「ソイツと話すならあたし先行くから」
「えっ、ごめん、待ってターリア。でもさ、ほら、これから同じクラスなんだから、自己紹介とか……」
「いらない。あたしは仲良くする気ないから」
おろおろとリデルとターリアを見遣りながら話すラファーユに、彼女は冷たく言い放つ。そしてもう一度、初日のようにリデルを睨みつけて……すたすたと歩いていってしまう。
「――待っ、」
そんな彼女を追いかけようとして、ラファーユははっとしてリデルを見た。
「……ごめん。その、ターリアは……あんまり、知らない男子がちょっと……あの、嫌……みたいで。リデルがなにかしたわけじゃないから、そういうのは全然! 気にしないで大丈夫だから!」
もう一度ごめんと謝って、ラファーユは先を行く少女へ追いつこうと走っていった。
その光景は、この二週間ですっかり見慣れたものとなっていた。ラファーユとターリア……彼らは幼馴染らしい。いったいどういう関係を築いているのか、リデルにはよくわからないが、とにかくラファーユはあの調子でいつも幼馴染の後ろをついて歩く。遠くなっていく2人の背中を見ながら、リデルも再び歩き出した。
――相変わらず、教室は静かだった。
リデルの姿をみとめると、ごきげんようと駆け寄ってくるシャーロットに挨拶を返す。
……今日も美しく整えられた彼女について、最近一つわかったことがある。それは、このシャーロットという少女は、とんでもない大金持ちのご息女だということ。街の小高いところに建つ城のような屋敷から、彼女は専属運転手のついている車に乗ってやってきて、そして、帰りも同じように迎えの車を待っている。同級生と違うジャンパースカートの裾や襟に意匠が施された制服は、彼女のために誂られた特注品だという。
シャーロット=キャロル=カーレン。彼女と、彼女の暮らしのことを考える度、リデルはなんとなく住む世界の違い……なんて言葉のことを、ぼんやり考えてしまう。
「リデル、どうかして?」
「……あ、ごめん。なんでもないんだ」
この世のすべてを美しく映し出すような瞳に見つめられると、時折居心地が悪くなる。どうにか別の話題を探そうと視線をめぐらせているうちに、鐘の音が鳴り響いた。ぱたぱたと席につくシャーロットを見ながら、リデルも自席へと向かう。相変わらず不機嫌を隠しもしないマグレヴァーの横は、相変わらず喉元に刃を突き立てられているようで。
「……えっと、今日、なんだけど」
それでも、どうにか勇気をだして声を絞り出す。共に暮らしているとは言い難いほど顔を合わせないけれど、一応寮という空間を共有している身だ。そこでの生活を滞らせないように、最低限の報連相はしなければならない。
「少し、寄り道して帰るから、遅いかも……しれなくて。内鍵かけないでくれると、嬉しい……です」
「…………」
マグレヴァーはこちらを見ようともしない。けれどこれまでの経験上、こういうときの彼はいつもちゃんと聞いていることをリデルはわかっていた。他人を寄せつけようとしないにもかかわらず、他人が発するものには人一倍敏感なようだ。――関わりたくないからこそ、誰よりも注意深いのかもしれないけれど。
いくら買い物をするとはいえ、ちょうどリデルの夕食が終わったあたりに帰ってくるマグレヴァーよりは、早く帰れる気はするけれど、一応。そこまで考えて、リデルはふと思いついた。
「あの、買い物するから。なにかほしいものがあれば……」
「ない」
あまり話しかけると嫌がられるかな、と思いつつ発した言葉は、案の定にべもなく撃ち落とされた。そうだよねと苦笑いして、会話はそれでおしまい。リデルは脳内で買うものを整理しながら、今日の授業の始まりを待つのだった。
◆
「――まあ! すごいわ、とても賑わっているのね」
忙しなく行き来する人々の中に似合わないゆったりとした声が、雑踏へ吸い込まれていった。
リデルにとってもまだ少しだけ新鮮でめずらしい、いつ来ても混雑しているマーケット。この街で買い物といえばここだとリードに教えられてからというもの、リデルは時々訪れていた。食材はもちろん、洋服やちょっとした日用品まで。すべてが揃うこのマーケットに、今日は同行人がいた。
「普通に買い物するだけだから、おもしろくないと思うけど……」
きらきらと目を輝かせて周囲を見回すシャーロットに声をかける。心底楽しそうに周囲を見回していた彼女は、「いいえ」と首と横に振った。
「恥ずかしい話なのだけれど、わたしはお外でお買い物をしたことがなくて。……だから、こうして来れるだけで楽しいわ」
――放課後。世間話の流れから、少し買い物に行くのだとシャーロットに告げた途端、彼女はそわそわと巻かれた髪を揺らして、それから、覚悟を決めたように言ってきたのだ。「もしよろしければ、ご一緒させてくださらない?」と。そのときも、ただの買い物だからおもしろいものでもないと伝えたし……その言葉を共に聞いていたハインリッヒもなにやら言いたげな表情だったのだけれど。それに気付いているのかいないのか、お邪魔はしないと約束するわ、と続けてきたのだった。
……かくして。断る理由も特に見つからなかったため、リデルは彼女とマーケットへとやってきたのだ。リデルも最初こそその物量と人の流れに圧倒はされたものの、シャーロットのように楽しんだ覚えなどなかったものだから。ずっと気を張っていた心が、その姿で少しだけ和らぐような気がした。
「……それにね、リデル」
ふと、シャーロットが口を開いた。
落ち始めている太陽の光を受けて輝いていた瞳が、リデルを捉えている。外で買い物をしたことがないから……そんな幼い子どものような理由で無邪気に笑っていた姿とは、どことなく異なった温度でシャーロットは微笑んだ。
「わたしは、あなたともっと仲良くなりたいの。だから、学校にいる時間以外もあなたと過ごしたくて……ご一緒したい、だなんて言ってしまって」
ご迷惑だったかしら、そんな少しこちらをうかがうように投げかけられた言葉にすぐさま返事をすることはできなかった。
――シャーロットの言葉が、初めて向けられた好意だったものだから。
期待をしていたわけではなかった。共に暮らしていた父親が、リデルを顧みないあの調子だったから。自分は他者にとって、そういうものなのだろうと思っていた。その考えは、たとえばリードやマグレヴァーや、その他の同級生の面々を前にしても変わらず。だから、連れ出された外の世界とその刺々しさにおどろきこそしたものの、それが当たり前のことだと思っていた。森の中も外もたいして変わらないのだ、と。そういう単純な事実は森の外でも同じで、つまり、リデル・ネーヴァルレンドという存在は、他人からそういう扱いを受ける人間なのだという事実だけを改めて突き付けられているだけだ、と。思っていた。
「……いや、ううん……」
思っていた、のだけれど。
そう思おうとしていただけだと、今、初めて。
「嬉しいよ、ありがとう……その、僕も、仲良くなれたらって思ってるから」
「……! そうなのね、ありがとうリデル。ふふ」
ぱあっと花が咲くように微笑んだシャーロットは、初めて見るマーケットにはしゃいでいる彼女と同じだった。あの一瞬見せた表情はなんだったのだろう、とリデルは考える。大人びたというには年相応で、けれど、普段のシャーロットから感じる穢れなき純粋さとは違うなにか。その姿を思い出そうとするより先に、シャーロットは視線を逸らしてしまった。
「……お話ばかりしてしまってはだめね。リデル、なにをお探しなの?」
「あ、うん。ええと、そんなに多くはないんだけど――」
頭の中にしまいこんでいたメモを取り出し、買わなければいけないものをあげていく。足りない食材、日用品、エトセトラエトセトラ。店先に並ぶすべてが目新しいのか、リデルの数歩先を踊るように進む彼女の赤いリボンを眺めながら歩いていく。ちいさなはずのシャーロットの体は、人並みの中でも目を惹いた。
「あら、ティーセットも購入できるのね」
シャーロットが足を止めたのは、可愛らしい日用品を取り扱う店だった。安価ながらも食卓を彩る食器で人気の店……らしい。リデルはそんな細部にまで気を遣ってはいなかったから、いつも前を通りすぎていたのだけれど。
「シャーロットはこういうの、好き?」
「ええ。よく紅茶を飲むものだから……それに、お母様がティーセットをたくさん集めていらっしゃるの」
どことなく高級感を漂わせるそのティーセットは、安価なものだと思わせないほどの魅力があった。リデルにはよくわからないけれど、シャーロットの視線は楽しそうに棚を滑っていく。
「リデル、お時間をもらってもいいかしら」
「もちろん」
「ありがとう。……ごきげんよう、少しよろしくって?」
ちょうど近くの棚を整理していた店員を呼び止め、シャーロットはすっと姿勢を正してその姿を見上げた。
「こちらのティーセットをいただきたいのだけれど、どちらのブランドのお品なのかしら」
「……ブラン、ド」
この安価な品に似合わない質問を投げかけられ、店員はぱちぱちと瞬きをした。それはリデルも同じ。……ティーセットにブランドなんてあるんだ、なんてことをぼんやり考えていた。けれど、ぱっと我に返る。当たり前だけれど、ここに並ぶティーセット含む食器は、シャーロットが語るブランド品ではない。ただ、使いやすく壊れにくく、そして買いやすさを求められた大量生産品。けれど、どうやら彼女の知っているティーセットというものは、美しさに加えてそのような付加価値がついているものばかりのようで。
「……シャーロット、たぶんだけど、」
ブランドとかではないんじゃないかな、そんなことを言おうとしたときだった。
――血の匂いがする。
認識するよりも先に、頭にその事実が叩きつけられた。あまり強いものではないし、大量出血とは思えない程度のものだけれど。それでも気分がいいものではない。突然顔色を悪くして周囲を見回すリデルの姿に、シャーロットは不安そうに彼の顔を覗き込む。
「どうかして? リデル……」
「いや、うん……ごめん」
――森の外に出て知ったのは。
人間の生活には、血の匂いなんてありふれているのだということ。たとえば、子どもが道で転んだりだとか。たとえば、紙で指を切ったりだとか。死体も死にかけの人間も血も見慣れていたせいだろうか、リデルはこと血の匂いに関しては人よりも敏感な方だった。もちろん、森の中での――死体や死にかけの人間の放つそれとはまったく違うけれど、血の匂いがするくらいで構えるものでは無い。学校でそんなことを感じずに過ごせていることが、喜ばしいくらいだ。だから、気にすることはない。こんなに賑わっている場所なのだから、たとえば、子どもが不注意で転ぶことなんてめずらしくもないはずだ。
頭ではそう思えているはずなのに。よぎるのはなぜかマグレヴァーの姿だった。
「り、リデル? どちらに行くの?」
気が付けば、人並みの中を駆け出していた。少し遅れて、シャーロットの細い声が聞こえてくる。
この血の匂いの元がマグレヴァーではなかったとしても、最悪なことを考えるならば……シャーロットを先に帰すべきなのだろうかと考える。けれど、次第に増していく不快な匂いに脳内が支配されていって。普段なら戸惑うであろう、大通りを外れた薄暗い路地裏にも躊躇うことなく、足を踏み入れてしまったのだった。
「……」
路地裏は薄暗く、なにかが「出そう」な雰囲気を醸し出していた。それは人ならざるものかもしれないし、大通りからは外れたただの人間かもしれない。どちらにしろ、リデルはあまり恐れてはいないのだけれど。薄暗くてどこか散らかっている路地を、まるで道案内でもされているようにリデルは駆け抜けていく。
そうして、ようやく。
「――……っ、マグレヴァー!」
陽の光が届かない、大通りと違って薄暗い路地。
切れかけている電灯の白い光がスポットライトとなって、暗い闇の中で色違いの瞳を鈍く照らしていた。咄嗟に呼んだその名に反応したのか、なにかが起き上がってばたばたと大きな音を立ててさらに奥へと消えていく。それが誰なのか、何なのかはわからないままだったけれど……それでも、その中で一人座り込んでいる姿は間違いなくマグレヴァーだった。
「どう、したの、それ」
ぎらぎらとした瞳だけが、鋭くリデルを射抜く。
「んでいんだよ」
「血の匂いがして。気になって」
「……意味わかんねえ」
マグレヴァーは大きくため息をつくと、血のついた手でじんわりと汗の滲む頬を拭った。長い前髪はいつもより荒々しく、無造作だった。なにかを考えている様子のマグレヴァーは、いつも通りの鋭い瞳をリデルに向けた。
「マグレヴァーは怪我してない、よね」
確認の意味も込めてそう聞くと、彼はおどろいたように目を見開いた。そして、苦々しげに「なんでそう思った」と吐き捨てる。
……なんでと聞かれても。リデルのよく知る匂いがしないから、としか言いようがない。
父親はたいてい、既にもう動かなくなった人間をどこからか持ってくることが大半だったけれど、時折……本当に稀に、まだ息がある人間を連れ去ってくることがあった。ネクロマンサーである父親の目的たる「完璧な死体の蘇生」の実験のためにはもちろん、息があっては都合が悪いというもので。
だから、つまり、リデルは知っていた。一つ屋根の下、きちんとした最先端の医術を施されれば生きることができていたかもしれない人間が、冷たくなるときのことを。父親は魔法に関してはあんなにも繊細なのにそれ以外のことは大雑把で、とりあえず息絶えればいいからとでも言いたげに、いつも雑に切り裂いていた。肉を割かれただとか、強く殴打されただとか。とにかく、なんらかの要因で人が怪我したとき特有のあれこれは、リデルの脳内にいまもこびりついていた。
「……なんでって言われると、難しいんだけど。血も、そんなについていないから」
苦し紛れに言った言葉にマグレヴァーが納得したのかはわからないけれど、彼は興味をなくしたようにふいと顔をそむけた。
「おい、さっさと……」
マグレヴァーがそう言いかけたときだった。
リデルのローファーとも、マグレヴァーの履きつぶしたスニーカーとも違う足音がこの静かな路地裏に響く。マグレヴァーは色違いの瞳をまたたかせて不思議そうにしているが、リデルには心当たりがあった。先ほどまで隣を歩いていた赤いパンプス――気が動転していたとはいえ、すっかり置き去ってきてしまった少女。
「……シャーロット」
怯えるような不規則な足音の主の名前をつぶやくのとほぼ同時に、人工の白いライトの下で赤いリボンが揺れた。少し荒れた路地裏に怯えているのか、リデルの姿をみとめると少しだけ安心したように息を漏らす。そして、その大きな瞳はリデルを飛び越えて――。
「……マグ、レヴァー……?」
ただでさえ路地裏に恐怖の色を漂わせていた瞳が見開かれる。彼女が一体、目の前の状況をどのように飲み込んだのかはリデルにはわからないけれど。なにか声をかける前に、シャーロットは少しだけ震える足を動かして、ポケットからしわ一つないハンカチを取り出した。いつになく忙しない動作を、マグレヴァーは警戒を隠さない野生動物のような視線で見つめている。
「お、お怪我をしているの? こちらを使ってちょうだい、なにかあったの……よね?」
「……してねえ」
真っ白なハンカチを受け取ろうとせず、マグレヴァーは視線を逸らす。少し震えて、けれど、その冷たさにそれ以上ひるむことなく、シャーロットは続けた。
「けれど、あなたの身になにかがあったことは事実でしょう? 気休めにしかならないけれど、受け取ってほしいの」
繊細な刺繍とレースが施されたそのハンカチは、おおよそ汚れを拭うことなど想定していないような純白だった。おねがい、とささやかれた言葉に絆されたのか、マグレヴァーの手がそろりとハンカチに伸びていく。
「一度大通りに戻りましょう。それから、お医者様か警察か――……とにかく、大人の方を呼ばないと……」
そのときだった。
なにかに同意を求めるように、自分自身に言い聞かせるように。憔悴がにじむ声色でシャーロットがつぶやいたのは。そして、それと同時だったのだ。マグレヴァーの手が再びぴしりと固まって。
……おそらく、リデルだけが気が付いている。差し出したハンカチに視線を落としている彼女を見下ろすマグレヴァーの瞳にこもる、底の見えない濁った殺意に。かき混ぜても砂と泥が底でゆるやかに循環するばかりの濁った水の中のような瞳が、シャーロットを睨みつけていた。そして、マグレヴァーの少し荒れた大きな手は――ぱしりと音を立てて、シャーロットの手を拒絶した。
「――っせえなあ!」
その拍子にシャーロットの手から滑り落ちたハンカチが、ぱさりと静かに地面に落ちる。この暗い路地に不釣り合いなその純白を見て、そして。忌々しそうに立ち上がったマグレヴァーを、彼女は事態が飲み込めないと言いたげに見上げていた。
「これだから……っ、お前みてえな奴は……!」
抑えきれない怒りの発露のように、マグレヴァーは低い声でつぶやく。誰かに聞かせるためではないマグレヴァーのその声は、リデルがこの二週間で彼から向けられてきた冷たさも無関心も、すべてがかわいらしく思えてしまうような。
「大人が出てきたからなんになんだよ! あんな奴ら、なんの役にも立たねえくせに……! お前もそうだバカ女!」
「わ、わたし……」
「なんも知らねえくせにわかったような口聞きやがって! 大人なんてもんに頼るくらいなら死んだ方がマシだ。……お前みてえな奴には一生わかんねえだろうな」
底冷えする冷水のような声がシャーロットに降り注がれる。なにが起こっているかはわからないけれど、自分に今悪意が向けられていることだけをどうにか汲み取って、彼女は固まっていた。
「いいか、他人に言ったら殺す」
そう言い捨てると、マグレヴァーは2人を置いて去っていく。いつも浮かべている穏やかな微笑みが抜け落ちている彼女を放っておくことはできなくて、リデルは彼女と同じように膝をつく。幼い迷子のように惑うその表情は、初めて見るものだった。
「……リデル、わたし、その、なにか――……」
長いまつげが震えて、シャーロットはそれ以上の言葉を紡ぐことができなかった。彼女の大きな瞳には、いつもの無邪気な輝きとは違う膜が張っていたけれど、それを必死にこらえている姿を見ていられなくて。リデルはまとまらない頭を必死に動かした。
「だ、大丈夫だよ、シャーロット。君はその、えっと……君の言っていることは、間違っては、いなくて……」
そんな風に慰めようとしながら、リデルはマグレヴァーの言葉を思い出していた。大人が出てくるからなにになるというんだ――そんな言葉を。
大人を信じられない、そこに抑止力も解決力もなにも感じてなんかいない。そんな気持ちは、リデルにもなんとなく理解できた。なにせ、リデルにとっての大人とは息子を顧みない父親を意味するものだから。もしも彼に、自分と同じような……呪いのような、「大人」との思い出があるのなら、今の彼を大人には会わせたくない、と思った。
「マグレヴァーのことは、今は……僕に任せてくれないかな。怪我もしていないみたいだし、とりあえず病院は大丈夫だと思うんだ」
「けれど、……あのような目に遭うなんて。な、なにか事件か事故に巻き込まれているかも、しれないでしょう……」
「……うん。それは、僕も心配なんだけど」
リデルは慎重に言葉を選んで続ける。
大人なんて、そういいものではなくて。けれどそれはきっと、シャーロットにとっては違うのだろうな、なんてことを頭の隅で考えていた。リデルが夢見てもついぞその手をかすめることすらなかった大人を、家族を、きっと彼女は知っている。
「……今のマグレヴァーに必要なのは、知らない大人に自分の話をすることじゃないと思うんだ。大人に伝えることで、もしかしたら追い詰められることだってあると思うから。たぶん、正しいやり方じゃないのかもしれないけど」
「…………ええ、ごめんなさい、リデル。それでもわたしは、大人の方に伝えるべきだと思うわ」
いまだ震える声で静かに告げるシャーロットに、リデルは思わずうつむいてしまう。わかっている。今自分は感情を優先しているのだと。そして、大抵の選択を迫られる場での感情というものは、おおよそ判断を惑わせるものなのだと。こんがらがる頭を、「けれど」とささやいたシャーロットの声が解いた。
「――けれど、リデル。わたしは……」
いまだ彼女の顔色は悪く。それでも見慣れた嫋やかな微笑みをたたえて、ゆるやかに口を開く。
「わたしは、あなたのことを信じているの。彼のことはあなたに任せて、口外しないと約束します。……けれど……危ない目に遭ってしまいそうなら、大人の方に伝えてちょうだいね」
「うん、ありがとう。約束するよ」
「……そう、それなら……いいの」
シャーロットは立ち上がり、少しだけ乱れた前髪を整える。点滅する安っぽい光は、彼女には似合わない。
「お母様が心配してしまうもの、わたしはお先に失礼するわね。……リデル、今日はありがとう。また明日、学校で会いましょう」
ひらり、フリルを従えたジャンパースカートが踊る。もう一度微笑んで去っていくシャーロットに、なぜか声をかけることはできなかった。彼女が路地を抜ける頃、いまだ考えをめぐらせていたリデルはふと足元に視線を落とす。
「……あ、ハンカチ」
数日前に降った雨のせいだろうか、ぬかるんでいる地面に落とされたままのハンカチを拾い上げる。真っ白だったそれは、取り出されたときの美しさを失っていたけれど。着飾ったフリルの繊細さは相変わらずだった。
「洗ったら、落ちるかな」
帰らないと、とひとりつぶやく。迷い込んだときはあんなに入り組んだ迷路のように思っていた路地裏は、記憶さえ引っ張り出せればそう難しい道ではなくて――大通りの光と活気が、やけに目に痛かった。