第1章 ちいさな箱に人生を詰めて

01 When in Rome, do as the Romans do.


 学校は、立派な建物だった。
 よく言えばアンティーク、悪く言えばとんでもなく古臭い大きな門の前には、リデル以外には誰もいない。ここが本当に学校なのかと疑ってしまうほどの静かな空気の中、ひとつ深呼吸をして。
 その敷地へ足を踏み入れようとしたときだった。

「あら、リデル?」

 なんとなく聞き覚えのある声がして振り返ると、あの日と同じ赤いリボンと丁寧に巻かれた縦ロールが揺れていた。そのゆったりとした動作に、ベンチで静かに眠っていたあの姿が思い起こされる。眠っているところを見てまるで死人だなんて思ったけれど……こうして朝の光の中で動いている彼女は、なにかの間違いで生を受けた人形のようだ、と。相変わらず本人には伝えられない感想を、リデルは抱いてしまう。

「あ……えっと、シャーロット、さん」
「ごきげんよう。ふふ、同級生になるのだもの。そう畏まらないでくれたら嬉しいわ」

 そう言ったシャーロットは、あの日とあまり変わりなかった。違うところと言えば、あの目立つ赤いリボンが胸元にも結ばれていることと、リデルのズボンと同じ色をしたジャンバースカートを着ていること。それから。
 目線をあげれば、少し様子をうかがうようにこちらを見ていた色素の薄い瞳と目が合った。一時の逡巡の後、やわらかく微笑んだその目元は、どことなくシャーロットに似ている。

「シャーロット、彼とは知り合い?」

 少女と似た、どこか人形じみた造形が動き。耳馴染みのいい声が朝の空気を震わせる。透けるような涼やかな色合いの髪は陽の光を受けて輝いていて、ともすれば他者に威圧感を与えかねない長身は、高貴で優しげな微笑みのせいかあまり気にならなかった。……シャーロットと並んでこの場にいるということは、彼もリデルと同じ新入生なのだろうか。それにしては、制服が違うけれど。

「ええ、そうなの。先日、彼が先生といるところに偶然会ったのよ。そうだわ、紹介しなくてはね。リデル、」

 ぱちんと手を合わせたシャーロットは、隣を見やる。ただでさえ小さい彼女は、隣の彼と並ぶと余計に幼く見えた。

「彼はハインリッヒ。わたしの親戚なの」

 親戚。なるほど、だから。自分にはいないその存在を多少うらやましく思いながら、リデルは内心頷いた。少しだけ下がった目尻に、常に優雅な笑みをたたえる瞳。その既視感は、彼――ハインリッヒと血が繋がったシャーロットの影響だろう。

「――はじめまして。僕はハインリッヒ・タートリマンと言います。……リデルくん、でいいのかな。よろしく」

 端的に、けれど礼節を持った自己紹介と共に差し出された手に握手を返す。その手は生を思わせないほど冷たくて、やはり人形のようだ、なんて思ってしまう。

「うん、ええと……リデル・ネーヴァルレンド……です。リデルって呼んでもらえたら」
「リデルは、この街に来たばかりなのですって」

 にこにこと楽しそうに笑うシャーロットの言葉に、ハインリッヒは「そうなんだ」と返す。そして、リデルに微笑んだ。

「僕と同じだね」
「えっ」
「僕の実家は、この街からずっと……とても遠い、雪国なんだ。…………元々、こちらに来る予定ではなかったんだけど、色々あって。最近来たばかりなんだよ」

 すらすらと語る中に郷愁を滲ませた彼の寂しそうな雰囲気は、すぐに取り払われる。その色を消し去り、ハインリッヒは笑う。

「学校も、実家から近いところに通う予定で。この……アナガリス魔法学園への入学が決まったのも、急な話で……だから、制服もみんなとは違うんだ。用意がなくて」

 学校の制服、というには高貴な雰囲気さえ感じるその服に視線を落とし、ハインリッヒは微笑んだ。透明感溢れる彼のために誂えたかのように、彼に馴染んでいる。

「ふふ。わたしはその制服も好きよ。あなたに似合っているもの」
「ありがとう。……それはシャーロットこそ。似合ってる、かわいいよ」

 二人のやりとりを見ながら、リデルは少し緊張が解れるのを感じていた。
 ……事情こそまったく違えど、自分と同じように街の外からやってきた人がいるというだけで少しだけ心強い。それに、シャーロットもハインリッヒも、穏やかないい人だ。この少しの会話で断定するには早いかもしれないけれど……なんとなく、悪い人ではない。そんな確信めいた予感が、リデルの中に芽生えていた。

「……と。立ち話もなんだし、そろそろ教室に行こうか」
「そうね。行きましょう、リデル」
「う、うん……!」

 よかった。こんな優しい人たちがいるなら、きっと大丈夫だ。
 自身の人付き合いのなさから来る不安は、少し拭われ始めていた。ゆるやかな会話を交わすシャーロットとハインリッヒに時折相槌を打ちながら、慣れた様子で階段をあがり、角を曲がるシャーロットへついていく。

「……すごい数の教室……」
「昔は生徒も多かったと聞くから、その名残なのかな。こんなに綺麗なアンティークなのに、人の目に触れないのは少しもったいないよね」

 そうつぶやいたハインリッヒに答える前に、前を歩くシャーロットが立ち止まった。細やかな意匠が施された扉に立ち、彼女は静かに息をつく。

「…………」

 ずっと穏やかな微笑みを浮かべていた彼女らしくない浮かない表情を浮かべた彼女の指先は、学校には似つかわしくない豪奢な扉の前で止まっている。どうかしたのかとリデルが声をかける前に、「大丈夫だよ」と頭の上から声がした。

「シャーロット。繰り返しになるけれど……学校も、級友も、そう怖いものではないよ。みんな君と同じただの学生で、子どもなんだから。そう構えないで」
「……そう、よね。ええ、ありがとう。……これから友人になる人たちだもの、必要以上に怯えるのも失礼よね」

 今度はほっとしたような息を吐いて、シャーロットは顔を上げる。先ほどの憂いだなんてどこにもなかったかのような、この短い時間ですでに見慣れた微笑みを浮かべて。彼女が少し力を込めて開いた扉からは、かなりの歴史を感じさせるきしんだ音がした。
 ――リデルは正直、気が緩んでいた。シャーロットとハインリッヒが、あまりに、絵に描いたような優しいいい人、なものだったから。同年代とはこういうものなのだろうと。だから。

「――……」

 がらりと開いた扉の先……こちらもまたアンティークな雰囲気漂わせる教室に張り詰める、やけにひりひりとした空気に、すっかりひるんでしまったのだった。
 すでに席についていた八つの瞳が、音に反応したのかこちらを見る。
 それらは気まずそうに、警戒するように、怖がるように、それから、わかりやすい敵意をこめてすぐに逸らされた。名前も知らない人間と同じ教室に押し込められた所在なさとはまた違う、それぞれが明らかな意図を持って暗黙の了解として存在する不干渉。それがなんとなく、この決して大きくはない教室に明確な線を引いているようで。その空気に気が付いていないのか、気が付いたうえで意に介していないのか、シャーロットは赤い靴を踊らせて教室に入っていく。……扉側に座る少女が、ちらりとその赤いリボンを盗み見て、それから何かを怖がるように茶髪を揺らしてすぐ俯いた。
 前に位置する黒板に貼られた一枚の紙に、どうやら座るべき席が書いてあるらしい。それを確認したシャーロットは、ゆるやかに彼女が座るべき席に視線をすべらせて、それから「あら」とつぶやいた。

「……アンタがシャーロット?」

 その視線の先――シャーロットのものであるはずの席に、我が物顔で腰かけていた少女が、その整った顔を警戒で染めている。ゆるく編まれたみつあみをいじって、足を組んで。当たり前だけれど、リデルにとって関わったことのない性質の人間であった。……そして、シャーロットにとっても。

「ええ、そうだけれど……あなたは」
「じゃ、あのバカみたいに派手な屋敷に住んでるんだ」
「……まあ、我が家をご存知でいらっしゃるのね」
「あんな目立つの、ご存知じゃないわけなくない? ふーん……アンタがあの大金持ちの……」

 値踏みするように頭のてっぺんからつま先まで視線を落として。もう一度大きな瞳でシャーロットを見上げ、その意図を探ろうとする彼女の言葉をがたりと立ち上がって遮った。一つ後ろの席に座っていた金髪の少年の、少し焦ったような呼びかけを完全に無視し、もう一度シャーロットを上から下まで眺めた。

「アンタの席ここでしょ」

 相変わらずどこか不満と警戒を浮かべたまま自身の席へと戻っていく。その動線に立ちすくんだままのリデルを、シャーロットに向けたそれよりも厳しく睨みつけて。
 攻撃性を隠さないその態度に、教室内の空気がさらに冷たいものとなるのがわかった。助けを求めるように見上げたハインリッヒは、困ったように眉を下げて「とりあえず、座ろうか」とだけささやいた。その言葉にこくこくと頷いて、なんとか席に着く。ようやく落ち着いたのもつかの間――隣の席からびしびしと感じる視線に、リデルは半身が蝕まれるような居心地の悪さに陥った。

「……あ。あの」

 急き立てられるような視線が苦しくて、リデルはどうにかそちらに目を向けて、そして、それをすぐさま後悔した。

「は? んだよ」

 短く告げられた言葉は、先ほどのみつあみの少女のそれだなんて比にならないほどの警戒と冷たさと、それから殺意を孕んでいた。長い前髪の隙間から見える、色違いの宝石のような瞳は鋭く光っていて、獣を連想する敵意に塗れている。こうして見つめ合うのもおそろしいけれど、先に目を逸らすのもなぜだか怖くて……リデルはからからの口から、どうにか言葉を絞り出した。

「え、えっと……僕、リデルって言うんです、けど」
「……聞いてねえんだけど」
「あっ。そ、すみません……」

 舌打ちのあとに吐き捨てられた返答に、リデルはすっかり委縮していた。学校というものが一体どういうシステムなのかは知らないけれど、これから先ずっとこのおそろしい同級生が隣にいるのだろうか。こんなことを思うのは失礼だとわかっていながら、背筋になにか嫌なものが駆け上っていく。そんなリデルを見て彼はもう一度舌打ちをして、窓の外へと視線を投げた。
 ――帰りたい。
 そんな考えが、リデルの頭の中に浮かんで弾けた。もう帰るところなんて、どこにもないと言うのに。そんなことを考えて、気持ちが沈んできたときだった。
 前の扉が、相変わらず古びた音を立てて開く。各々が目線をそちらへ向けたり、よそを向いたりする様子を見て。入ってきた男――リードはため息をついた。出席簿らしきものを片手に教卓へと歩いた彼の姿を見て、「本当に”先生”なんだ」なんてことを考える。……リデルの中では、リードはいまだただの放火魔であったので。

「あー……ガキども、おはよう」

 教室を見回し、からっぽの三つの机を苛立たしげに眺めてから、リードは口を開いた。

「俺が教師のリード・マクウェルだ。……だがまあ、俺は教師なんてものの経験はないし、望んで就いたわけでもないのでお前たちと仲良くするつもりはない。一応それなりに勉強は教えるが、将来仰々しい肩書きがほしい奴の助けになることはできん」

 不機嫌そうな低い声でそこまで喋ったリードは、そこで1度息をつく。喋るべきことは喋った、とでも言うように。先ほどまで教室を覆っていた冷たい空気はほんの少し消え去り、この人大丈夫なんだろうか、という思いでこの教室は1つになった。

「……あとは、そうだな。これだけは言っておく」

 ポケットに伸ばしかけた手を、再び教卓についてリードは続ける。

「子供に寄り添ってやらなんやら、そういう考えは俺は持っていない。……ただ、お前たちほどのガキはそれなりに問題を起こすだろうから言っておくが。――俺に手間をかけさせるな。これは何かが起きても黙っていろという意味ではない。ガキの手に負えなくなった大事を押し付けるな。問題が起きたらすぐに報告しろ。学生生活なんてもの、大人の話なぞ無視して好きなように過ごせばいいと思っているが……これだけは守れ」

 以上だ、と話を切ったリードは、無表情で必要書類だとか連絡事項だとかを捌いていく。そのスピード感に半ば遅れつつも、リデルは教室とリードを眺めた。教室と揃えたようなアンティークな机と椅子は、十個ずつ揃えられている。そこに座っているのは、自分も含めて七人。あとの三人は、どうしたのだろうか。

「――こんなものか。諸々の書類の処理はもう済んでいるから、お前たちは明日からここに登校してくるだけだ。それと……ああ」

 明日からの予定だとかをあらかた説明したリードは、なにかを思い出したかのように視線を上に向け……それから、面倒だという感情を隠しもせず口を開いた。

「お前たち、自己紹介やらをしたいタイプか?」

 突然自分たちに投げ捨てられた選択に、ふと空気が緩む。どうしようと周りの様子を伺おうとして、同じようにしている他の生徒と、なんとなく目が合った。お互いに答えを持っていないことを確認し合い、すぐに目は逸らされたのだけれど。そんな少しだけ浮足立った空気を破ったのは、あの三つ編みの少女だった。

「せんせ、あたしもう帰りたいんだけど」

 椅子の上で体育座りをし臆面なく発言するその姿に、リデルは半ば感心してしまう。不満げな彼女をぼんやりと見つめていれば、「俺も」と声が上がった。あの、怖い隣席から。

「別にいいだろ、そういうのめんどくせえし」
「そーだよ。やりたい人が勝手にやればいいんじゃないの?」

 不満を隠しもしない二人の言葉に押されて、教室は再びあの冷たい空気に包まれる。口を挟むことを憚られる雰囲気の中、リードは「そうか」と短く相槌を打った。

「なら、帰りたい奴は帰っていい」
「はーい」

 普通であればかなり帰りにくい言葉を受け、三つ編みの少女はすぐさま立ち上がる。スクールバッグを雑に肩にかけ教室から出ようとする彼女は、「言っておくが」というリードの言葉で立ち止まる。

「うるさくは言わないが、サボりたいなら適度にサボれよ。卒業……進級できる程度には来ておいた方が、面倒なことにならない。俺もお前たちもな」

 それを了承したのかしていないのか、少女は派手な音を立てて扉を開く。それに焦ったように、それまで大人しかった金髪の少年が立ち上がる。

「ま……っ、待って、ターリア……!」

 それを一瞥し、ターリアと呼ばれたみつあみの少女は教室を出て行って。金髪の少年は、ばたばたと足音を立ててそのあとを追っていく。2つの足音が遠ざかって聞こえなくなって、ようやく時が動き出す。なんとなくいたたまれなくなって、1番前真ん中に座るシャーロットに手を伸ばしかけたけれど……それが叶うことはなかった。

「……ああ、これから寮で生活する奴は案内と説明があるから少し待っていろ。リデル・ネーヴァルレンドと――」


 ◆


「………………」
「……………………」

 ばたん、と寮の扉が閉まる音がする。
 こちらもまたアンティークな意匠が溢れる学生寮のリビングにて、リデルは視線を泳がせていた。ああ、なんだか凝ったレリーフがある。すごいなあ。そんなことを考えて、どうにか、隣から意識を逸らそうとして。

「…………おい」

 うまくいきそうだったその試みは、声をかけられたことによって失敗に終わった。

「は、はい」
「いいか。俺はお前と慣れ合うつもりはねえから。……無駄に話しかけるなよ」

 色違いの瞳に再び睨まれて、リデルはまるで刃物でも向けられたかのように震え上がった。
 ……家をなくしたリデルが、この学生寮で暮らすこと。それは、森の中から連れ出されたあの日に聞かされたことだった。彼としてはそれに異論はなかったし、むしろ街中で暮らせるだなんて少し楽しみだ、なんて浮かれていたのだった。けれど、こんなにもおそろしい同居人がいるだなんて聞いていない!

「いや、でもあの、料理とか。ほら、自分たちでやらないとって、先生が」
「は? そんなのそれぞれ勝手にやりゃいいだろ」
「えっ」
「文句あんのかよ」
「ないです」

 鋭く言葉を喉元に突き付けられ、リデルはふるふる震えることしかできない。そんな姿を見て大きな舌打ちをし、隣席にして同居人の彼は割り当てられた部屋へと去って行った。リビングの扉が閉まるのを確認して、リデルはその場に座り込む。
 ――マグレヴァー・カラトバ。リードに呼ばれていた彼の名を、ひそかに口の中でころがす。
 少しぼさついた髪と、鬱陶しそうに開けられたシャツのボタン。初日にしてネクタイをどこかへ置いてきたらしいマグレヴァーは、鋭利な氷のようだった。誰も寄せ付けなくて、触れた者を許さないとでも言うように凍り付かせる。そんな存在。

「…………はあ……」

 思わずため息がこぼれる。今は亡き実家で、生ける屍の相手をしていたときの方がよっぽど楽だった気すらしてしまう。
 ――仲良くしたいんだけどな。
 いくら怖い相手とはいえ、彼は机を並べる仲であり、これから毎日1日中顔を合わせると言っても過言ではない相手だ。仲が悪く……とも言えない状態で過ごすだなんて、寂しいと思ってしまう。
 ……彼は、今日の昼食と夕食はどうするのだろう。
 リデルの脳内に、父親との食卓の記憶が蘇る。父親は、あまりいい親、とは言えない人だった。なにかに憑りつかれているように死体を動かそうとする姿は、同じ屋根の下で息をしている息子のことなど忘れているかのように見えた。けれど。そんな父親だったけれど、毎日の食事の時間だけは――彼は、リデルの「父親」だった。彼は不慣れにキッチンに立ち、かなり豪快な一皿を作り、時折焦げている同じ料理を二人で食べて。
 家族と呼べるのかさえあやしい細い関係をどうにか繋いでいたのは、食事の記憶。だからだろうか。食事が、リデルとマグレヴァーを繋いでくれるような気がするのは。

「……よし、誘ってみ、」

 そう決意を込めて立ち上がりかけたときだった。リビングの扉の奥、それぞれの部屋の方から、なにかを投げるような音が響く。続いて、なにか硬いもの……たとえば、壁を殴るような音も。

「……はあ~~……」

 ふらり、よろよろと再びしゃがみこんで。今度こそ立ち上がる気力をなくしたリデルは、これからの生活を想像したのだった。……あまりよくない方向と、最悪の場合を頭に浮かべながら。

「大丈夫かな、僕……」
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