第1章 ちいさな箱に人生を詰めて
00 Dead men tell no tales.
家が燃えた。あっけなく。
森の中、周囲の木々を巻き込み赤々と燃え続けた家はやがて崩れ落ち、物言わぬ黒い塊に成り果てた。
……その光景は、いまだ少年の網膜に焼き付いている。生まれて初めて見る森の外の景色に目を凝らしても、列車のガラス窓に数時間前の炎が反射しているような気がして。あんなにいつかと願った外の景色も最新型の列車も、どれもこれも煙に歪んで落ち着かない。それはやはり、唯一の帰る場所を失ったからであり、数週間までいたはずの父親が見つからないからでもあり、そしてなにより……向かいの席に放火犯が座っているからであった。無遠慮に煙草を吸う放火犯の男は、少年と目を合わせることもなく手元の書類をめくっている。書類を読む視線が左から右へ動いていくさまを気取られないように観察しながら、少年は数時間前の出来事を整理しようと努めていた。
――家が燃えたのだ。正確に言えば、燃やされたのだけれど。
父親が行方不明になってからの数週間、少年は生ける屍蔓延る我が家にて、どうにかこうにか生き延びていた。ネクロマンサーであった父親が作り出した
「……お前は、リデル・ネーヴァルレンドで間違いないな」
そう淡々と告げられた言葉は、まさしく少年の名前であったのだ。つまり、放火犯に個人情報を握られているというわけで、だから。その後、「来い」と短く命じられても、反抗する勇気も断る力も振り絞ることができず……少年――リデルは、おとなしく男の後ろにつき、これまでずっと住んでいたこの森から足を踏み出したのだった。
そういう経緯があり、今。リデルは男に言われるがまま切符を渡され、列車に乗っている。男は四十代だろうか。少し疲れた様子を感じさせる男の手元からゆるく立ち上る煙草の煙をぼんやりと眺めていると、ふと、彼が顔を上げた。
「おい」
「は、はい」
「お前は、街に出るのも初めてだと聞いたが」
「えっと……はい」
誰に聞いたのか、とは言えなかった。リデルにとって、目の前の男は相変わらずおそろしい放火犯であることに変わりはなかったから。書類を乱雑に鞄へと流し込んだ男は、新しい煙草を取り出して窓の外の景色を見やる。外の見慣れない明るさは、リデルの目には眩しすぎる。……それなら、男の煙草で煙たい車内に視線を落としていた方がましだと思えるほど。
「……父親も行方不明らしいな。いつからだ?」
「数週間前から……あの」
「一応、警察に話をしておく。あまり期待せずに待っていろ」
「え? あ、ありがとうございます、あの、えっと……」
なんだ、と向けられた視線は鋭かった。生まれて初めて向けられた冷たい光に、思わずひるんでしまう。リデルの頭の中には、相変わらず炎を無表情に見るこの男の姿と、その足元に転がっていた空のガソリンタンクがこびりついていた。つっけどんな物言いもこわくてたまらない。けれど。
「あ、あの……名前……とか、って」
「…………ああ」
どうにかこうにか絞り出した小さな声を意外にも聞き届けた男は、「名乗る必要はないと思うが」と前置きのようにつぶやいた。
「だが、お前が知りたいのなら教えてやろう。リード・マクウェルだ。……覚えなくていい」
「そう、なん、ですか」
列車が停まる。他に誰も乗っていない列車に、アナウンスが響く。先ほど乱雑に書類を入れた鞄を持ち、リードはホームへと向かう。
「降りるぞ」
それだけ言って先を行く彼において行かれないよう、リデルは慌てて立ち上がった。
◆
――気付けば、公園に差し掛かっていた。
初めての列車であれば初めてのホームであり、ついでに初めての街中であったわけだけれど……リードはそんな少年の好奇心だなんて歯牙にもかけず、大きな歩幅で歩いていくものだから。リデルはそれについていくのに必死で、正直、街の風景に意識を向けている余裕はなかった。ただ前を歩く背中だけを追うことに、疲れてきた頃。
ふと。それまで無言で歩いていたリードの足が止まり、大きなため息が聞こえた。
「あれは……」
にらみつけるように投げられた視線の先は、公園内のベンチの……そこに座る、何者かに向けられていた。後ろ姿しか見て取れないが、ベンチに腰掛ける人物は少女のようで――丁寧に二つに結われ巻かれた髪を束ねるリボンが、静かに風に揺れている。そうして、その頭がかくん、と舟を漕いだ瞬間、リードの舌打ちが聞こえた。
「おい、少し寄るぞ」
「は、い……」
足を止め方向転換したリードは、苛立ちを隠さず公園に入っていく。そうして、あの誰かが眠るベンチへと向かった。その後ろをおとなしくついていっていたリデルだったが、その少女の姿をただしくみとめた途端、なにか嫌な予感に駆られた。その正体は、きっと。リデルの家にはよく漂っていた、あの死臭に似た、何か。
――死んでいたら、どうしよう。
そんなことが頭に浮かんだ瞬間、体が自然と動いていた。
大きな樹が影となって、まるで死んでいるかのように静かに眠っている少女とリデルを太陽から隠す。あまり外を知らないように感じさせる少女の白い肌は、落ちた影と混ざって不健康に揺らいでいた。
まるで、死体のように。
「大丈夫、ですか……!」
自分で思っていたよりも切羽詰まった声が出て、どこか悲痛に響いた。生まれて初めて出した声に、自分でおどろいてしまう。その声に答えるように、美しく長いまつげに縁どられた瞳がゆるやかに開いて。固まっているうちに、きらきらと輝く少女の瞳と目が合った。
「……あら、あなたは……」
少女は何かを思い出そうとするようにぱちぱちと瞬きをして、リデルを見つめる。
――まるで、時が止まったかのようだった。
白い肌に切りそろえられた前髪、細やかな装飾がたっぷりついた洋服と、作り物のように整った顔立ち。リデルにとっての「人」とは、あまり似ていない父親だけだったものだから……生まれて初めて、なにかを綺麗だ、と思った。暗い家に生ける屍、鬱屈とした森の中しか知らないリデルにとっては、なぜだかまぶしく感じてしまって。瞬きひとつすらも惜しいように思えて、何も言うことができずに少女に見惚れてしまう。
死体みたいだ、なんて。どうしてそんなことを思ってしまったのだろう。リデルは動かない頭の片隅で、そんなことを考えた。
「……おい。こんなところで寝ているんじゃない」
――頭の上から、リードの不満げな低い声が響いた。
リデルを見つめていた少女の瞳が、ついと上を向く。輝く瞳がリデルから逸れたのと同時に、固まっていた心身がようやく動き出すのを感じていた。立ち上がった少女は、穏やかに微笑む。
「先生、ごきげんよう。ごめんなさい、あまりにお天気がよかったものですから」
「……お前は知らないだろうが、この辺りは治安がいいわけではないからな。何か盗まれても知らないぞ」
「ご心配ありがとうございます、気を付けますね」
そんなふうにリードと少女との間で交わされる会話に、リデルはすっかり置いていかれていた。正直なところ、会話の内容だなんて今は関係なくて……彼が、「先生」と呼ばれていることに戸惑っていたのだ。人の家に火をつけるようなこの男が、まさか、そんな敬称をつけられる職業だなんてことがありえるのだろうか、と。リデルの頭はそんなことでいっぱいになっていた。
「……ところで、先生」
それまでリードを見上げていた少女の身体が、ぐるぐると思考の渦に囚われていたリデルの方へ向く。親しみやすい笑みは、相変わらずまばゆかった。
「こちらの方は? 先生のお知り合いですか?」
「ああ……そうだな。こいつは……お前と同じ新入生だ。今街に来たばかりでな」
「まあ!」
煙草の煙と共に吐き出された言葉にリデルが戸惑っているうちに、少女の軽やかな感嘆があがる。彼女の髪を結ったリボンが揺れて、ずいと距離を詰められる。その瞳は先ほどよりもずっと輝いていた。その輝かしい鏡に映る自分の像は、相変わらず困惑していて。リデルはどうすればいいやらわからなくなってしまったのだけれど。
「まだ入学する前なのに、こうして新しい学友に会えるなんて! なんだか素敵だわ」
ふふ、と心底嬉しそうな笑みをこぼした少女は、たっぷりとフリルがついたスカートのすそを持ち上げて。まるで貴族がするように、そっとお辞儀をしてみせた。
「はじめまして。わたしはシャーロットと言います。ここでこうして会えたのも、なにかの……運命、だもの。どうぞ、仲良くしてくれたら嬉しいわ」
木々の風に乗る花々さえも背景にして、彼女――シャーロットは微笑んだ。「よろしければ、あなたのお名前も教えてくださる?」と小首をかしげた彼女に、リデルは慌てて口を開く。
「えっと、僕は……リデル。リデル・ネーヴァルレンドと、言い……ます」
「ありがとう、素敵なお名前ね。そうだわ、リデル、」
「おい。俺たちはこの後やることがある。お喋りは次会ったときにしろ」
なおも話続けようとする彼女を、リードがそっけなく止める。真っ白い両手で自身の口を抑えたシャーロットに、彼はなおも続けた。
「それと。迎えが来ているぞ」
男が視線で指し示した先には、一台の車が停まっていた。車から降りてきたメイド服の女性は、心配そうに眉を寄せている。その姿に困ったように微笑んで、ベンチに立てかけられた日傘を開いたシャーロットは、リードに向かってお辞儀をした。そうして、再びリデルに向き直る。
「リデル。起こしてくださって、どうもありがとう。また今度、あなたのお話を聞かせてね」
「あ、ああ、うん」
思わず返してしまった言葉に、シャーロットは満足そうに笑みを深める。赤い靴を踊らせて去っていく後ろ姿をぼんやりと眺めていたリデルは、「行くぞ」という声に我に返った。リードは相変わらず、リデルを見下ろしている。煙草の煙も相変わらずで、おそろしいことに変わりはない。けれど、シャーロットの発した「先生」という呼びかけも、彼女とリードの間で交わされた「新入生」という言葉も、自身の今後に関わるような予感がして――震える声で、リードを呼び止めた。
「あ、あの。……僕、よくわからないんですけど。新入生って、……というか、先生、なんですか」
「……そのことか」
煙草の煙が、二人を隔てる。先ほどまでゆるやかに髪を撫でていた風はいつしか止まっていた。
「お前はこれから学校に通う。そのためにお前をここまで連れてきた」
リードの赤い瞳がリデルに向けられる。その色を、知っているような気がした。どこかで見たことがあるような、そんな既視感がしたけれど。彼から発せられた次の言葉のせいで、そんなことはすぐさま意識の外へと飛んでいった。
「俺がお前の担任だ。……まあ、気軽に『先生』とでも呼ぶといい」
「…………え」
リードはそれだけ言うと、再びリデルを置いて歩きだす。混乱する頭をそのままに、どうにか足を動かしてその背を追った。
――学校。森の奥、父親と二人密かに暮らしていたリデルが、ずっと憧れ続けていたその場所での暮らしの権利は、煤の匂いと共にやってきたのだった。
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