番外編
三文の空白
「ドーナツにはなぜ穴があいているのですか?」
ドロシーはそう言って、一口分欠けた甘ったるい輪を掲げた。
丸くあいた穴の中で瞬く暗い瞳と目が合って、リデルは同じようにぱちぱちと瞬きをしてしまう。寮の共用部。向かい側に座っているはずなのに、なぜかどこか遠い異空間から得体のしれないなにかに覗かれているかのような居心地の悪さが身を包む。
「さ、さあ……?」
シンプルなドーナツを食べながら、そう言って首を傾げるしかなかった。なぜと言われても、知らないのだから答えようがない。
そもそもリデルは、ドロシーと同じように今初めてこのドーナツなる甘くて丸くて穴のあいた甘味を食べたのだ。その理由は知らないし、見当もつかない。他の誰かに助けを求めるようにそろそろと視線をさまよわせたが、返ってきたのは冷たい拒絶だけだった。
「は? 知らねえ。んなこと気にしてどうするんだよ」
隣に座るマグレヴァーは、そう吐き捨てると残りを一口で食べてしまった。
今の問いで機嫌を損ねたのか貧乏ゆすりをする彼に、リデルはソファーの大半を占領されている。横では二人分の領土のほとんどを奪われ、正面からは答えを待つ静かな視線。肩身が狭いとはまさにこのことだ。不満を不規則なリズムで伝えてくるマグレヴァーに小さく謝って、リデルは両手で持ったドーナツを見つめた。
穴があいている意味。正直なところ、リデルは食べることに夢中で考えたことがなかった。自分が鈍いのかドロシーが鋭いのか、どちらなのだろう。よくわからない。
「ていうか。あたし、そんなに食べていいって言ってないんだけど」
また別の苛立ちを含んだ声に顔をあげると、長い袖に隠れた指先がもう一つのドーナツを皿から取り上げているところだった。見ているだけで胸焼けするような量の砂糖でコーティングがされた輪っか。最早何個目かわからないそれをかじりながら、このドーナツを寮に持って帰ってきた少女――ターリアは不満そうに眉を上げた。
「あたしがぜんぶ食べるつもりだったのに。なんなの?」
「貴方が?」
ドーナツの穴を通してあちこちを眺めていたドロシーが、ふと口を開いた。その紫の瞳は相変わらずなにも映してはいない。深淵のように暗い瞳に見つめられて、ターリアは「なにが言いたいわけ」と苛立ちを隠さずに牙を剥いた。
「人間の適正な食事量にしては多いようですが、すべて自分で?」
「は? 文句あんの?」
「いいえ、供物と同等の量なので。貴方はただの人間だというのに、どうしてこれほど用意する必要があるのですか」
「クモツ? ド田舎のよくわかんない風習やめてくれる?」
冷たく言い放たれたその言葉に、ドロシーがかすかに眉をひそめた。表情の変化に乏しい彼女だけれど、不快と不満だけは案外しっかり表していることにリデルは最近気が付いた。そして、彼女が顔に出すほどの不機嫌は大体厄介だということも。
「よくわからない風習ではありません。れっきとした信仰に基づいた行為です」
「はいはい出た出た、カミサマはエライねー。で? クモツもらってどーするわけ?」
ターリアはため息をつきながら言った。ひらひらと振られた片手は、まるで虫でもはらおうとしているようだ。その間も彼女はもぐもぐとドーナツを頬張り、そしてすぐにその手は新しいものへと伸びていく。
まともに取り合おうとしない様子に、ドロシーはまた不愉快を浮かべた。そして静かに言い放つ。
「当たり前でしょう、願いを叶えます。天災を止め、病気を治し、作物を育てるのです」
「は? 天災?」
「はい。以前は大雨を治めました」
ターリアが露骨に嫌そうな顔をした。その表情には「コイツなに言ってんの」と書いてある。
神様を自称しているドロシー。共に生活し共に学ぶリデルたちの中に、その発言を素直に受け入れ信じている者はいない。当たり前だ、彼女はどこからどう見ても人間なのだから。田舎から出てきて世間知らずで、なのにいつだって態度は大きく、そのすべてを「自分が神だから」と説明する。決して普通とは言えないけれど、強大な能力だなんて持っているようには見えない、そんな女の子。
「バッカじゃないの。できるわけないじゃん」
「出来ましたよ。私は神様ですから」
それでも「出来た」と言い切る彼女を見ていると、本当にドロシーは神様なのかも、雨くらいどうにでもなるのかもしれないと思ってしまう……のは、どうやらリデルだけらしい。
思わず身を乗り出しかけたリデルとは異なり、マグレヴァーは小さく舌打ちをし、ターリアは「あっそ」と適当な相槌を打っただけだった。どんなときでもぶれない二人を見ていると、自分はとくべつ流されやすいのかもしれないと少しだけ反省する。そんな薄い反応に眉をひそめた「神様」だったけれど、その意識はすぐに始めて見たお菓子であるドーナツへと戻ったようだ。
黒い手袋をしたまま甘味に手を付けたことを厳しく指摘するものは、ここにはいない。リデルが控えめに言った「取った方がいいと思うけど」は、特に聞き入れられなかった。様々な理由を並べ立てて彼女の手を包む黒を剥がそうとする者は、きっといるにはいるのだろう。だけれどリデルたちの暮らすこの寮の均衡と比較的穏やかな時間は、誰もそう迫らないことによって成り立っている。誰も彼もが無責任だった。自分に不利益が落ちてこない限り、自分の持つ柔らかく壊れやすいなにかに手が伸ばされない限り。見えない線を引いて、それなりの距離感を保つのだ。
――そしてその境界線をやすやすと踏み越える人物というのは、いつも決まっていた。
「ところで」
平坦な声が、再び静かな部屋に響いた。
「なぜドーナツには穴があいているのですか」
「……まだやんのかよ」
マグレヴァーはそうつぶやきながら、新しいドーナツに手を伸ばした。彼は甘すぎるものは嫌いなのか、先ほどからずっとオールドファッションドーナツだけを手に取っている。その指先を咎めるように、ふと声がかかった。
「アンタ食べすぎじゃない? あたしのなんだけど」
「別にいいだろ。細けえな」
「ウザ。一個だけって言ったでしょ、記憶そーしつ?」
ちくちくと刺されたマグレヴァーが返したのは、舌打ちだけだった。
喧嘩になったらどうしようとリデルの内心は穏やかではなかった。この寮で暮らす者は誰も彼も自分を中心に生活をしていて、相手には無責任で、自分に不利益がなければ干渉しない。ある意味で居心地のいい場所、なのだが――こうしてテーブルを囲む級友たちは、全員我が強く気が短かった。苛立ちが爆発するまでの導火線はとてつもなく短く繊細で、かすかな不機嫌という火花は一瞬で山火事のように膨れ上がっていく。
心地よい不干渉の上に成り立つ薄氷の平和は、そんな誰かの怒りという炎で簡単に溶けきって。止めに入ろうと腰を浮かしかけたときには、安寧もリデル自身も不機嫌で沸騰しきった海の中で溺れて口を挟める状況ではなくなっている。いつものことだ。
「……ケチくせえな。こんな買ってんだから一個も二個も変わらねえだろ」
「変わるんですけど。ていうかそれが人にモノもらう態度? アンタっていつもそーだよね」
「説教かよ。これだから……」
「これだから? なに? 言ってみれば?」
「くだらない会話をしている暇があるなら、私の質問に答えてください」
テーブルを挟んで白熱しだしたターリアとマグレヴァーの会話に、ドロシーが生身で突っ込んでいった。だからといって二人が止まるということはなく、むしろ彼女を燃料にしてさらに止まらなくなっていく。
始まった、と。リデルは誰にもばれないようにため息をついた。
少し穏やかに時間が過ぎていくと思っていたらこうなる。言い争いに用いられる刃の鋭利さは、これでもまだましになった方なのだからおそろしい。巻き込まれないように小さくなって気配を消しながら、リデルはドーナツを頬張った。口の中に広がる柔らかい甘さを感じると同時に、ふと先ほどのドロシーの言葉を思い出す。
ドーナツにはなぜ穴があいているのか、と。
そんなこと、リデルは考えてもみなかった。こういうものなんだなと、ただそれだけ。彼女が口にした疑問がなければ、その形状をこうして眺めようとなどしなかったに違いない。食べかけのドーナツを見つめてはみたものの、特になにも思いつかなかった。調理過程も製法も歴史も知らないのだから、仕方がないといえば仕方がないのだが。
この場にはいない他の誰かならば、もしかしたら正解を知っているのかもしれない。そしてまた別の誰かに尋ねれば、不正解であってもなにか回答をしてみせるのかもしれない。たとえば……かわいいからだとかおもしろいからだとか、はたまた理由なんてないんじゃないの、だとか。
ふと、それが羨ましくなった。疑問が思いつくこと、答えが組み立てられること。そのどれもが自分にはできないことのように思えたから。
少しだけ沈んだ思考を誤魔化すように、リデルはぱくりとドーナツを食べ進めた。なぜか先ほどより一口が大きくなった、ような気がする。口の中の水分を奪われていく感覚に襲われながら、今だ続く三人の言い争いに再び意識を向けた。止めた方がいいんだろうなあと思いつつ、どう止めればこちらに刃が向かないのかがわからない。疲れるまで戦っておいてもらおうかなと諦めかけた、そんなときだった。
「よっ。なにしてるんだ?」
ぽすりと頭が重くなって、そして背後に人の気配。ひんやりと身を包むような空気と共に、頭に乗った大きな手が気まぐれに髪をかき混ぜてきた。明るくからっとした声に答えるより先に、ぱっと手が離れて後ろから顔を覗き込まれる。
「なに食べてるんだよ」
「あ、アーガスト……!」
楽しそうに観察してくる涼やかな瞳に見つめられ、リデルは少しだけ身を引いた。
吸血鬼である彼の、前触れも理屈もない突然の登場にはいつまで経っても慣れない。出会ったばかりの頃は、部屋が暗くなって蝙蝠の鳴き声がして空間が引き裂かれるように歪んで……などといった前兆と共に現れていたというのに。最近では急に姿を見せてはずっとその場にいたかのように話しかけてくるのだ。以前初対面の頃のことを尋ねたら「派手でかっこよかっただろ?」と笑って言われた。あの頃の怪しい現象は、どうやらすべて演出だったらしい。
「お、ドーナツ?」
「うわ出た。あげないから」
身を乗り出して――正確にはふわりと宙に浮いて、ドーナツが山のように乗った皿に手を伸ばしたアーガストの手が、ぺしりと軽い音を立てて叩かれた。多少の痛みはあるだろうに特に気を悪くした様子もなく笑って、彼は手を叩き落としてきたターリアに視線を向ける。
「いや、いいけどさ。なにお前ら、また喧嘩?」
「ケンカっていうか、あたしはナンクセつけられてるだけー」
「難癖なんてつけていません。私の質問に答えない貴方が悪いのです」
「は? ウザ」
また始まった。ドロシーとターリアの言い合いに口を挟むとそれなりの火傷を負うと経験上わかっているリデルは、そっと身を引いて背もたれに体を預けた。ふと隣を見ると、相変わらずソファーの大部分を占領し足を組む隣人の機嫌は相変わらず悪いらしい。
「……んだよ」
「い、いや別に……」
にらむように細められた色違いの瞳を前に、リデルは答えに窮した。不機嫌だなあと思っていましたと言えば、火に油を注ぐ。
「ただ……ドーナツなんて初めて食べたから」
「は? あー……」
苦し紛れに口にした話題に、マグレヴァーは少しだけ毒気を抜かれたようだった。
そして彼は、なにかを考えるように視線を逸らす。その些細な仕草と一瞬が、リデルにとってはまるで永遠のように感じられた。長い前髪の奥で眉をしかめて、やがて大きな舌打ちをした。組まれた足は相変わらず不機嫌なリズムを刻み、それだけで殺されそうなほど鋭く尖った視線が投げられる。
「……え。えっと……?」
進んでも戻ってもまた舌打ちの一つでもされそうだ。ソファーに座る二人の空気だけがやけに張り詰める中、先に動いたのはマグレヴァーだった。
「おい、手」
出せということだろうかとリデルが咄嗟に両手を差し出すと、その上にドーナツが置かれる。今までリデルがもそもそと食べていたシンプルなものとは違う、トッピングが山ほど乗ったいちご味。
「食えば」
「え、でもこれ……」
ターリアが買ったものなのに、とは言えなかった。先ほどまでのマグレヴァーは、そのことで彼女と言い争いになっていたのだから。
元々このドーナツの時間は、ターリアが自分用に買ってきたものを特別に少しだけ分けてあげる……という形で始まったものだったのだ。その施しを素直に受け取って一つのドーナツを少し少し食べていたリデルとは異なり、他の二人は遠慮なく次々と手を伸ばしていたのだけれど。
その懸念を見透かしたように、マグレヴァーは軽く笑った。そんな制約を課したターリアと、律儀に守っている目の前の少年を両方まとめて嘲るように。
「気付かねえよ、あいつ馬鹿だし。ヒスられたくなかったらさっさと食え」
渡されたドーナツを戻すわけにもいかず、リデルは慌てて頷くと口を開いた。砂糖といちごとトッピングのチョコレートの甘い味。甘いものは好きだ。これまで食べる機会がなかったものだから、それに気付いたのは最近のことだけれど。思わずおいしいとつぶやいて、リデルはもう一口と食べ進めた。輪っか状のそれを食べて、食べて。手元になにもなくなって、ふと思った。
物足りない。
それは決して、ドーナツが小さいだとか中身がないだとかそういうことではなくて。ただ、もう少しだけ食べたかったなと、そう思っただけだ。輪っかの真ん中、空白にも甘味があればもっとたくさん食べられたのにと、それだけ。あまりにも突然強欲と食い意地が滲んできた自分に、リデルは内心困惑していた。
それでも今、改めて思った。なぜ――。
「なぜドーナツには穴があるのですか」
頭の中で実像を持ってこぼれた疑問は、少女の声の形をして再び部屋に落ちてきた。先ほどまでは答える人などいなかったその問いは、だけれど今は拾われた。
「穴? 確か……真ん中に火が通らないからじゃなかったか?」
ドーナツを触れることなく空中に浮かせて、軽い声色でアーガストが答えた。
「中が生焼けになるのを防ぐために、真ん中だけ繰り抜いたって聞いたぜ」
その答えに、暗い瞳が瞬いた。そして納得したように頷いて、再び椅子に座り直す。リデルが知らない間に、彼女は立ち上がってまでなんでどうしてを繰り返していたらしい。ようやく静かになったドロシーを見下ろして、ターリアはわざとらしくため息をついた。
「やーっと静かになった」
「はは、お前も機嫌なおせよなー? ほら」
仕方がないなと言いたげな声色と共に、アーガストが宙に浮かせて遊んでいたドーナツがターリアの手に落とされる。どこか上からあやすように向けられた口調に不満そうな表情を浮かべていたけれど、彼女は結局なにも言わずにチョコレートで飾られたそれを頬張った。
「別に機嫌悪くないし。あのうるさいのが悪いんだし。あたしは相手してあげただけだし」
頬杖をついてそうつぶやきながらも、その手は既にもう一つのドーナツに伸びていた。次々と頬張っては胃の中に収め、そして次を口にしていく。いったいどこにそれほどの量が消えていくのかと不思議に思ってしまうほど、ターリアの食欲は底を知らず無尽蔵だった。
「……足りないかも。アンタたちが食べたからなんだけど?」
「大した量食ってねえよ。食い意地どうかしてんだろ」
ドーナツの山を切り崩しながら落とされた言葉に、マグレヴァーが馬鹿にしたように言った。何十個もあるドーナツのほぼすべてはターリアの胃におさまっているものの、それでもまだ足りないらしい。リデルも内心物足りなさを覚えているのだから、あまり人のことは言えないけれど。
「うるさ。……アンタはいらないよね?」
「オレ? ああ、いらない」
向けられた嘲笑を蹴り飛ばした彼女は、ふと楽しそうにこの場を眺めている吸血鬼を見上げた。
人間の生血を好む彼にとっては、人間の食べ物だなんてたいした味も喜びも感じないらしい。断られることは想定内だったようで、ターリアは軽く頷くと再びドーナツに手を伸ばす。その様子を見ながら、アーガストは笑ってつぶやいた。
「にしても、ものすごい量だな」
「そ? 持ち帰るのめんどーだから、減らしたんだけど」
「お前本当にすげーな」
「なに? 悪口?」
「いや、誉め言葉」
再び臨戦態勢に入りかけた少女の炎は、すぐに消えた。アーガストはすごいな、と思う。からかうような空気も声色もそのままに、いつも場をおさめている。今だってそうだった。
ターリアは両手に持ったドーナツを頬張り、マグレヴァーも少しだけ冷めたコーヒーに手を付けている。彼は相変わらず隣に人が座っていることなど気にもしていないようで、リデルは小さくならなければ座っていられなかった。そして気付けば、向かいに座るドロシーは大人しくなっていた。その瞳はなにも映していないように見えるけれど、きっとじっとこの場を見つめているのだろう。彼女には先ほどまでの言い合いも場の空気もなにも関係はない。ただ話したくなったら話して、言うことがなければなにも言わない。またなにか疑問が芽生えれば、答えを得られるまで質問を繰り返すのだ。
いつの間にか空いていた一人掛けの椅子に座っていたアーガストは、窓から差し込む日差しをちらりと見た。かと思えば、誰も触れていないのにカーテンが閉まっていく。今更おどろくことでもない、彼の不可思議な魔法の力だ。
誰も彼もが自分の領域で満たされたことにより、寮は束の間の平穏と静寂を取り戻す。今この瞬間だけは、疑問を口にすることも口喧嘩をする要因もなく、暗黙の了解である不干渉の元に引かれた境界線が静かに機能していた。どうせすぐに、誰かがなにか言い出して騒がしくなるのだろうけれど。
リデルはふと、先ほどよりも減った皿の上のドーナツを見つめた。あれほど山になっていたのに、今ではもうほぼ平地になっている。
物足りないな、と思った。真ん中にぽかりとあいた空白と静寂が。そう感じることがいいことか悪いことなのかは、よくわからなかった。
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