番外編
たかが過去、されど愛。
今日はドロシー・マグリステリーカの生誕祭、だ。
空が黒く塗りつぶされた頃。ハインリッヒの部屋の向こうに突然現れた彼女は、窓から押し入ってくるなりそう言った。
誕生祭ではない、というのが本人の意見だった。なぜなら自分は神様ではあるものの、一度は死んだ身。ならば自身を祝う日の名は生誕祭が相応しい、と。私は偉人のようなものですしねという言葉は、ハインリッヒは聞こえなかったふりをして無視をすることにした。
目の前に立つのは、まぎれもなく普通の女の子だ。けれどそんな女の子――ドロシーの正体を暴こうとしても無駄だということを、ハインリッヒはよくわかっていた。君は神様ではなくてただの人間に見えるけれどなんて言ってしまえば、藪をつついて蛇を出すようなもの。長々としたご講釈を避けるため、賢い彼は黙って話を聞いていることにする。
「生誕祭ですよ。言わなくてはならないことがあるのでは?」
「……誕生日おめでとう」
「生誕です」
「そうだね。おめでとう。……もう少し早く言ってくれたら、みんなが祝ってくれたと思うけれど」
みんなが。そこを強調して伝えると、ドロシーは小首を傾げた。光を映さない瞳は、相変わらずなにを考えているのかわからない。
「祝われましたよ。祈りというものは、彼らに言わせれば時間も距離も超えて届くそうですからね」
「……ああ……村の人たちではなくて、学校のみんなだよ」
「学校の。ええ、ですからこうして貴方に教えて差し上げたのですが」
やり取りはできているけれど、微妙に会話が成立していないような気がする。
いつものことだと慣れかけている自分に気が付いて、ハインリッヒはため息をつきたくなってしまった。それを見咎められれば、目の前の少女が騒がしくなるだろうと我慢する。
「貴方は知りたいかと思いました。私の生まれた日を」
「…………それは……随分と……突飛だね。どうしてそんなことを?」
ドロシーとハインリッヒは、特別仲がいいというわけではない。
生徒の少ない学校という、それはそれは狭いコミュニティに属しているのだから、それなりに会話はある方ではある。それでも、わざわざ誕生日を伝え合うような仲ではないはずだ。
――いついかなるときも寄り添うような幼馴染でもなければ、放課後の夜の街で親しくしているというわけでもない。お互いに微かな恋情を滲ませているだとか、運命的ななにかを感じているわけでもないのだ。自分と彼女はただの級友だし、そうありたい……というのがハインリッヒの願いだった。ドロシーの方はそう思っていないのか、距離を詰めてくるのが厄介なところだけれど。
「なぜ、ですか。……そうですね」
ドロシーは少しだけ言い淀んだ。理由を聞かれるとは思っていなかったのだろうか。
それもそうだろう、だなんて考える。これまでは、彼女がわざわざ理由を言語化し口に出す必要性はなかっただろうから。ドロシーが黒と言えば白も赤も青も虹も黒であり、その意味や理由を尋ねる者などいなかったのだ。
ドロシー様が黒と仰るのならば黒。彼女は常に、明朗な結論と救済を求められていた。
「貴方の故郷では、誕生日というものを特別視しているのでしょう」
「……ああ、あったかな。そんなことも。よく知っているね」
懐かしい話を振られ、ハインリッヒは心底忌々しそうに答えた。
確かに彼の故郷では、誕生日というものはなによりも特別なものだ。生きとし生ける者は皆、望まれて愛されて生まれてきたからこそ、生きることを諦めてはならない。それがあの極寒の地の信条だった。一年をそうして生き抜いた自分自身と、あなたを愛する隣人のために――誕生日は豪勢に祝うものなのだと、あそこに住む子は聞かされて育つのだ。
今思うと、いともたやすく人を殺す厳しい冬と戦って土地を開拓し、繁栄してきた歴史があるからこその考え方なのだろうと納得できるけれど。当時のハインリッヒにとっては、ただただ鬱陶しい説教でしかなかった。
「私は神様ですから、もちろん知っていますよ。なので、貴方も私を祝いたいのではないかと考えました」
「せっかくだけれど。僕は、昔からそういったことは興味がなかったんだ。確かに昔は、国の習慣に則って祝っていたし……形式的には……祝われてもいた。いい習わしだとは思うけれど、今もあれを行おうとは思わないかな。わざわざ来てもらったのに、ごめんね」
来てもらったというか、押しかけられたというか、無理矢理押し入られたというか。ひそかに込めた裏の意図は、「そうですか」と無感情な返答をするドロシーには伝わらなかったらしい。彼女に言外の感情を読むだなんて無理だろうとは思っていたけれど。
そういえば、彼女の故郷ではどのように誕生日を過ごしていたのだろう。ここからは随分と遠いところに存在している小さな村。一人の少女を神と崇める閉ざされたその場所で、彼女はどう祝われるのだろうか。この世界の当たり前をなにも知らない彼女の様子を見ていると、豪勢なバースデーケーキとプレゼントというハインリッヒの知っている祝い方ではないような気もする。そんなことを考えて、はたと気が付いた。
「ごめんねドロシー、君が今日誕生日だったことも今知ったから。プレゼントもなにも……」
「構いません。私は供物を必要とはしない神様です」
供物って、とハインリッヒは苦笑いを浮かべる。誕生日だからなにかしろと言われるのかと想像していた彼は、そっと肩の力を抜いた。
「誕生日というものには興味がありません。たかだか百年を生きて死ぬ人間にとっては、一年がめぐったというのは大事なのかもしれませんが。私は悠久を生きる神様ですから」
「……それなら、お祝いされることにも興味はない?」
「そうですね。人間が祝いたいというならば受け取りますが」
彼女らしい考え方だ。ハインリッヒの知る限り、ドロシーという少女個人の欲求や願望というものはそう色濃いものではない。彼女を突き動かすものはいつも、人間へ施さなければならない、救わなければならないという使命感のように見える。
施しの一種なのだろう。勘違いに終わってしまったけれど、ハインリッヒが誕生日というものを大事にしているのではと考えて。その思考に至った理由はわからないものの、ならばきっとドロシーの誕生日も祝いたいはずだろうと、彼女なりに気を利かせて教えて
そう考えると、不思議で迷惑な行動もほんの少しだけ愛らしいものに思える……ような気がした。
「ハインリッヒ、雪ですよ」
ふと、ドロシーが窓の外を指さす。その声に視線を窓の方へ向ければ、確かに真っ暗な空の中に白いものがふわりふわりと舞っていた。
「本当だね。外は寒くはなかった?」
その問いかけに、ドロシーはこくりと首肯した。寒くはありません、神様ですから。そんな言葉が続けられ、それならいいんだと曖昧に微笑んだ。
いくら本物の神様だろうと、夏は暑いし冬は寒いのではないだろうか。それとも神というものは、そんな五感すら超越した存在だとでもいうのだろうか。ハインリッヒにはわからない。彼は神については考えないようにしていたし、目の前にいるのはただの人間なのだから。
「忘れているようならば言っておきますが」
神とはなにか。そんな深く終わりのない思考に陥りかけた彼をすくいあげたのは、静かな声だった。快も不快も滅多に感じられないその声は、脳細胞を支配していく。
「私も寒さには慣れていますよ。貴方が一番よく知っているかと思いますが」
「――何の話? 君の故郷も、寒いところなのかな。……もし慣れていたとしても、寒いものは寒いと思うけれど」
浮かべてみせた笑顔は、ずいぶん白々しいものになったのだろうと。あからさまな不満を宿した深淵の紫の反応に、そう理解した。けれど、これ以上自分の話をするつもりはない。
「なぜそのようなことばかり言うのですか。ハインリッヒ、なぜ忘れたふりをするのですか」
「忘れたふりもなにも……。僕には、わざわざ人に話すようなことはなにもない。それだけだよ」
「……それほど……それほど、忘れたいことですか」
ドロシーの声色が変わったような気がして、ハインリッヒは息を飲んだ。
いつもの演説じみた話し方とはかすかになにかが違う、少女らしい躊躇いを宿した声。けれど、その表情に、立ち振る舞いに宿るのは神の姿。光を知らない瞳と視線が交わったとき、自身の像がその暗闇に溶けていくのをみた。
「それはまだ、私のことが憎いからですか」
――降り積もる雪の音と、それを踏みしめる人々の靴音が聞こえてくるかのようだった。
外には誰もいない。ここから見える景色は屋敷の庭なのだから、敷地内をこんな時間に踏み荒らす者などいるはずもない。記憶の中のものなのだとハインリッヒが気が付く頃には、彼は震える声でどうにもならない言葉を口にしていた。
「……憎いだなんて。そんな……」
「いいえ、返答は必要ありません。帰ります」
「ドロシー、待って」
けれど少女は、問いかけの答えを知ろうとはしなかった。実のある返事が来ることはないと見たのか、焦れたのか、はたまた他の理由かはわからないけれど。ドロシーは来たときと同じように、無遠慮に窓を開け放つ。
「さようなら。また学校で会いましょう」
暖房で温められた部屋に、凍てつくような冷気だけを残して。彼女の姿は、窓の外の闇へと消えていく。
「…………」
からっぽになった部屋と開け放たれた窓を、ハインリッヒはぼんやりと見つめていた。放心状態なのは、突然現れて去っていった彼女への怒りのせいでもなければ、呆れているせいでもない。
――私のことが憎いからですか。
その言葉が、脳に響いて消えてくれない。
「……そんなわけがないだろう」
二人の間に横たわるものは、冷たいだけの過去だった。
今日のような雪が積もる夜の記憶、それだけ。どうしたって変えられるものではなく、いくら思い悩んだところでどうにもならないようなつまらない過去。今更どうしようもできないのだから、今の自分でどうにかやっていくないのだと。眠りから覚めたあの日、ハインリッヒは確かにそう誓ったはずだった。実際は誓いだなんて大層なものではなく、絶望が生んだ諦念だったのだけれど。
それでも、うまくやっていけるはずだった。彼女さえいなければ。
「憎めるわけがない……僕はずっと、君を……」
諦めたはずの後悔も、薄れたはずの痛みも、所詮はただの過去だ。もう戻ることはできないし、たらればを重ねたところであの日には戻れない。失敗に塗れた昔話だなんて誰もすすんで話そうだなんて思わないし、聞きたいと手を上げる変わり者もいないだろう。
たかが過去。
そう思っているはずなのに、どうしてドロシーのことは忘れられないのだろう。本当はとっくにわかりきっている答えには気が付かないふりをして、ハインリッヒは彼女が開け放っていった窓とカーテンを閉めた。
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