第2章 ミニアチュール=レゾンデートル

19 The apple does not fall far from the tree.


 ターリアが目を覚ましたとき、最初に感じたのは不快感だった。その理由は、ベッドが狭いからでも固いからでも、枕がいつもと違うからでもない。気を許したわけではないのだからと眠らないようにしていたというのに、気付けばまどろみの奥底へと沈んでいた自分への怒りのせいだ。

「おはようございます」
「……なんの用」
「いけません。人間の健やかな一日は挨拶からと聞きました。まずは朝の挨拶をしましょう、おはようございます」

 そして、なぜかベッドの横に立ち、静かに見下ろしてくる少女の存在のせいだった。ターリアは上から降り注ぐ視線というものが大嫌いだったから、今の状況はとにかく腹立たしい。けれど、怒りに任せて飛び起きるほどの気力はない。大変不本意ながら、布団にくるまってドロシーをにらみつけるほかなかった。

「……うざー……。なにしにきたのって聞いてんの」
「起こしにきてあげました。起床してすぐにこの私を見られたこと、光栄に思うといいですよ」

 かっちりと制服に身を包み、ドロシーは言い放った。一体この自己肯定感はどこから来るのかと思いかけて、ターリアはすぐに思い直す。神を自称するような変人なのだから、いちいちそんなことを考えても意味がない。

「さあ、朝食を食べて学校に行きましょう」

 少女の手が差し伸べられる。ターリアはぼんやりとした頭でその意図をつかもうと、黒手袋に包まれた手を見て、ドロシーを見て、それからもう一度こちらへ向く指先を見て。そうして、今すぐ起きて準備をしろと言われているのだと理解する。

「行かない」

 布団を頭からかぶりながら、そう言った。
 目に痛い朝日から遮断された小さな世界はとても心地が良くて、ターリアはぎゅうと縮まった。相変わらずシーツの触り心地は最悪だったけれど、許容してあげないこともない。ずいぶん古びた学校の寮なのだ、設備だって大したことがなくても大目に見てあげよう……そんな考えが、薄い布団と共にターリアを包んでいた。こんなにも心優しく寛容になったのはいつぶりだろうと自問してみたものの、昔の記憶はぼやけていて思い出せない。もう長いこと意図的に他者を傷付けようと立ち回ってきた彼女にとっては、そんな幼い頃の些末な日々がはるか昔のことのように思えた。

「なぜですか」
「なんで? あー……ほら、制服ないし、家の鍵もないし」
「制服。ああ、私たちが生徒であるうちはこれを着なければいけない規則でしたね」

 明らかに拒否の姿勢を示した彼女に動じることなく、平坦な声が降ってくる。行かないって言ったんだからさっさとどっか出てってよと、ターリアは布団の中で苦々しく顔をゆがめた。この明らかな不満の表情が見られていれば、きっとドロシーはなにか口を出してきたに違いない。このいらだちが声に滲む前に追い出そうと、ターリアは布団から顔を出した。

「そ。わかる? あたしはとーってもマジメないい子だから、ルールは守るわけ。だから行かないーってか、行けないから」

 我ながらそれなりの言い訳だ、と思った。鍵がないというのは嘘だったけれど、常識のないドロシーはそこには引っかかりを覚えなかったらしい。バカな田舎者で助かったと考える。
 けれど制服に着替えられないというのは本当で、ゆゆしき問題だった。ターリアは、昨日学校に駆け込んだときと同じ格好なのだ。雑に下した髪の毛に、楽なスニーカー。そしてもちろん私服、当たり前のことながら着替えはない。
 彼女自身は規則になんの興味もないけれど、この状態の人間を今すぐ起こして学校へ向かわせようとする人間はいないだろう。そうしてドロシーたちが寮を出たあと、悠々自適にサボってしまえばいい。そんな算段を立てていたターリアの耳に届いたのは、意外な言葉だった。

「いえ、問題ありません」
「は?」
「私ほどではありませんが、貴方は幸運の持ち主ですね。貴方の母親であるらしい人間が、迎えに」

 淡々とした言葉の意味を理解していくにつれて、急速に脳が冷えていくのを感じた。なにそれ、どういうことと問い詰めようと口を開こうとして、それが叶うことはなかった。慌てたような声色で、自身の名が呼ばれているのが聞こえたから。
 先ほどまでの緩慢な態度も忘れて上半身を起こすターリアを横目に、ドロシーは静かに続けた。

「……来ています」
「なんで先に言わないわけ!?」
「まずは挨拶だと聞きましたから。起きるのであれば、朝食を――」
「それどころじゃないから! どいて、ジャマ!」

 乱暴に押しのけられたドロシーが、眉をひそめるのが見えた。けれど、今はその様子に構っている場合ではない。寝起きで突然動いたせいか少し重い体をどうにか引きずって、ターリアはぎしぎしと嫌な音を立てる廊下を進んで玄関先へ向かう。一歩一歩足を進める度に、焦っているような泣いているような悲痛な声が鮮明になっていって頭痛を覚える。
 ターリアはどうしたのか、元気なのか、事情は。宥めて話を聞こうとする声を無視して質問を繰り返す声は、彼女がよく知るものだった。

「……ママ! なにしにきたの!」
「ターリアちゃん!」

 娘の声に反応して、黒髪が揺れた。ターリアを見つめるその顔立ちは、親子としての繋がりをあまり感じさせないものだった。丸い瞳に下がった眉、飾り気のない服装と雰囲気。共通点といえる箇所といえば、身長が近いくらいだろう。リデルを前におどおどしている女性と強気な少女では、性格もなにもかも合うところはないけれど。それでも彼女はターリアの母親だった。

「おはよう、えっと……」

 要領を得ない母親の対応をしていたらしいリデルが、様子を窺うようにターリアを見つめた。遠慮がちに親子の間を行き来する視線にさえも怯えている母の様子に、ため息がこぼれそうになるのを我慢する。

「いい。どっかいってて」
「……うん」

 心配そうにもう一度視線を泳がせたリデルは、「それじゃあ失礼しますね」と小さく声をかけてその場を立ち去った。温厚そうに見える少年にすらろくに応対が出来ない様子は見慣れたもので、それはそれは苛立つものだ。閉塞感に満ちあふれた家の様子を思い出して、ターリアは自身の機嫌がねじ曲がっていくのを感じていた。

「で? なんでここに来たの」
「ターリアちゃん、あのね、ターリアちゃんがいなくなっちゃったから、どうしたんだろうと思って。ママはあなたが行きそうなところなんてわからないから、ご近所とか探したんだけど、見つからなくて。お泊まりできるお金も持ってないだろうからって、ずっと探して……ターリアちゃんが入れそうなところって思って……あとはここしか思いつかなくて……」

 弱々しく、けれど口を挟む暇もなくそう言った母親は、すぐさまぱっと顔をあげる。冷え切った両手でターリアのそれを包むと、それよりもと言葉を続けた。

「いじめられてない!? なんだか、こわそうな子がいたから。ターリアちゃんはいい子だから、ママ心配」
「別になんもないよ」

 一応配慮しているのか、小さな声でその「こわそうな子」の特徴をあげていく母親の声を、ターリアは軽く聞き流していた。話に出た容姿の特徴を聞くに、マグレヴァーとドロシーだろう。後者には不快な思いをさせられたものの、行為だけでいうならこっちがいじめた側……なんてことを考えて、結局言わなかった。同級生に手をあげたなんて知ったら、この気弱な母親は卒倒してしまうだろうから。

「……別に、ほんとに、だいじょぶだから」

 嫌味や文句の一つや二つ言ってやろうと思っていたターリアだったけれど、細い体を震わせる母親を見ているとそんな棘は次第に鋭さを失ってしまった。それは決して母を思う気持ちなどではない、小さなその姿は見ていられないほど情けなかった。ただそれだけのことだ。手を振り払って、この居心地の悪い空気を変えてしまおうと口を開く。

「あのさ、せんせとかに聞いてみたらよかったんじゃないの」

 あたしが言うことじゃないけどと付け足すと、母親はわかりやすく肩を震わせる。彼女には、まともに頼れる人間なんていない。母親が困っているときに善意で手を差し伸べてくれる人なんていないに等しい。そんな奇特な人間がいたとしても、彼女は外部に助けを求めることだなんてできない人だった。だからこそ、一人で娘を捜して走り回る羽目になったのだろう。
 ターリアはそんな母親の性質を嫌と言うほど理解していた。突発的な家出を敢行したのも、学校関係者や警察が出てこないとわかっていたからだ。

「それは……そうだったかもしれないけど……でも……だって…………」

 気が動転していただろうこの人に、誰かに連絡するという発想も勇気も出るはずがない。それをわかっていてあえて口を出したのは、母親を多少困らせたいという感情のせいかもしれなかった。

「だって、あの人こわいんだもの……」
「いや、せんせが知ってて、連絡とかくれたかもしんないじゃん」
「そ、そうなのかなあ……。もしかしたら、昨日来てた電話って先生だったりしたのかなあ……そうだったら、謝らないといけないよね。でもママ、こわくて……」
「…………あたしが言っといてあげる」

 そう言ってしまってから、ターリアはすぐさま後悔した。母親の望みなんて察して聞いてあげる必要なんてないというのに、どうして提案してしまったんだろう。いつもだったら無視しているのに。
 でも、と。誰に言うでもないというのに、次々と言い訳が思い浮かぶ。
 でも、このままうじうじ悩まれてもメーワクだし、電話がほんとなら謝った方がいいし。それに、どうせママにはせんせに話しかけることなんてできないんだから、あたしが代わりに。それが話しかける機会になるんだったら、そのくらい。途中から脱線しているような気がして、ターリアは小さく首を横に振った。

「あのね……それで……痛いところとか、悲しいこととかない? あのね、ママがなにかしちゃったんじゃないかと思って……」
「なんもない。別にママのせいじゃないし、もうへーき」
「じゃ、じゃあ……おうちに帰ってきてくれる?」

 おそるおそる、母親が小さな声でそう言った。顔を合わせたときから、この言葉を言うタイミングを窺っていたのだろうとなんとなくわかっていた。
 目を伏せて考える。頼れない母親、散らかった家、放置された書類、怒号、床に落とされた空の酒、暴力の痕跡。すべてをそれなりに整った清潔な一軒家の外観に隠している、名目上の家族。

「……わかんない」

 素直にそうつぶやくと、母親は表情をさらに曇らせる。けれど取り乱すことはなく、「そうだよね」と声を漏らした。ターリアの返答をわかっていたような口ぶりに、この人はどこまで知っているのだろうと少しだけ不安になってしまう。
 それを聞くことは出来なくて、少しだけ強い口調で「でも」と続けた。

「今は……戻るよ。着替えもないし」
「ほ、ほんと?」
「ん。先出てて」

 途端に明るい笑顔を浮かべ、感謝や朝食のメニューについて饒舌に喋り出す母親を半ば無理矢理外へと押し出す。たいしたものは持ち歩いていないものの、使った部屋に置きっぱなしのバッグを取ってこなくてはならない。そうわかってはいるけれど、足取りは重かった。母親と共に戻ることが嫌だからではなく、同級生と顔を合わせるのが面倒で仕方がなかった。
 ターリアが共用部の扉を開けるのと同時に、「戻ってきましたね」と静かな声が響く。最初に動いたのはドロシーで、見慣れたバッグを持ち近寄ってくる。

「貴方の荷物ですよね、持ってきてあげましたよ」
「ん」
「……この私が手ずから渡してあげたのですが」
「頼んでないし」

 半ば奪うようにバッグを受け取ると、ドロシーは不満げに眉をひそめた。感謝をするべきという旨をつらつらと喋り出す彼女を、静観していたリデルが宥めている。付き合っていられない。

「優しいママとのお喋りはもういいのかよ、ターリアちゃん?」

 明らかな揶揄が込められた言葉に、ターリアは「うるさい」と返す。無害そうなリデルはともかく、マグレヴァーにあの母親を見られたのは失敗だった。いかにも性格が悪そうな彼はこの手の隙を見逃さないタイプなのだろうと、なんとなく予想がつく。馬鹿にするかのような言い方が不快で、なにか言いたげに黙り込んでいる赤い瞳の方へ視線を逸らした。

「なんでさっさと言いにこなかったわけ」
「……その……色々……休んでいるところに行くのもどうかな、と、思って」

 手遊びをしながらそんなことを言うリデルは、どこか居心地が悪そうだった。混乱していた母親の相手をしていたのだ、なにか余計なことを聞いていなければいいのだけれど。親のことだとかこれまでの家出だとか、もし母親が口走っていたのだとしたら……そう考えると頭が痛くなる。
 言葉を探している様子のリデルに話しかける前に、嘲笑が飛んできた。

「よく言う。顔合わせたくなかっただけだろ、こいつすぐキレんだから」
「ウザ。人を短気みたいに言わないでくれる?」
「自覚ねえのかよ」

 片目が意地悪に細められて、長い前髪に隠れている瞳がターリアを見つめた。舌打ちの一つでもしそうになるのを我慢しようと思って、けれど、苛立ちを抑えることができない。マグレヴァーがこんな風に嫌味を言ってくるのは、ターリア個人に特別な嫌悪があるからというわけではないのだろう。ただすべてが気に入らなくて、他人の弱みを突くことが好きというだけ。……あたしとおんなじだ、とターリアは密かに思った。
 ――けれど、同類であることと見逃してあげることは別だ。喧嘩を買おうとしたとき、「やめなよ」という呆れ混じりの声に遮られた。

「僕はそんなこと思ってないよ……。えっと、それで、学校……どうする?」
「どーするってなに」
「制服もないし……疲れているみたいだし、大丈夫かなって。もし休んだり家に帰るなら、僕から先生に言っておくよ。あの、迷惑じゃなければ」
「あー……」

 二重三重に気を遣っている様子の言い方は、少しだけ気持ち悪いものだった。けれど、さすがのターリアもこの場面で罵倒する気は起きない。善意や気配りというものの受け取り方がまだよくわからなくて、居心地の悪さを誤魔化すように視線をさまよわせる。

「せんせに用あるから、てきとーな時間に行くって言っといて。帰って着替えなきゃだし」
「うん、わかった。えっと……」
「まだなんかあんの? じゃ、あたし帰るから。よろしく」

 わざと冷たく言い放って、ターリアは背を向ける。帰り道はママがうるさいんだろうなと考えながら、重たい扉を開けた。


 ◆


「せんせーおはよー」

 間延びした声と共に扉が開かれたのは、生徒たちがもう全員帰ったあとのことだった。

「もう夕方だが」

 書類から目を上げたリードの言葉に、少女は軽い笑い声をあげる。かわいらしく結われた三つ編みに、いつも着ている大きなセーター。手がすっぽり隠れてしまうほどのオーバーサイズのそれに身を包むターリアは、小さなあくびをしながらゆったりと歩を進めた。

「いーじゃん別に。あたしさっき起きたんだもん」
「……後で来る、とは聞いていたが……。今が適切な時間だとでも思っているのか」
「うん。帰って、ごはん食べて、ごろごろして、寝てきた」

 悪びれる様子もない姿からは、昨日見せた脆さはどこにも見当たらなかった。
 相手の都合や迷惑を気にする様子もなく、ターリアは机に腰かける。空いている椅子があるにもかかわらずわざわざ机を占領するのは、おそらくなにかこちらからの小言を期待しているのだろうと察しがついた。悪戯が成功した子どものような表情は彼女のそんな心理を物語っているけれど、リードはそんなお遊びの相手をしてあげるほど優しくはなかった。

「それで。用件は」
「んー……。せんせーさあ、うちに電話した?」

 冷たく本題に入ると、ターリアは不満そうにじとりと目を細める。とはいえそれは一瞬のことで、その表情はすぐにいつも通りのからっとしたものに戻った。

「ママがもしかしたらって言ってた」

 長い袖を手持ち無沙汰に揺らしながら、彼女は静かに目を伏せた。あまり気にしていない、雑談の延長だとでも言いたげな態度だけれど、その体はかすかに強張っている。
 ――ターリアは、親に自身の状況を知られることを避けているように思えた。それは昨夜を含めた彼女の態度から推測できるものだった。
 心配をかけまいとしているのか、折り合いが悪いのか。リードには詳しいことはわからないけれど、おそらく後者なのだろう。泣くほどのつらい出来事に見舞われたとき、彼女が助けを求めようとやってきたのは出会ったばかりの他人であるリードの元だったのだ。
 それならば、彼女の所在はあまり家に伝えない方がいいのではないかと考えた。考えたけれど、人の親として、我が子の身の安全すらもわからないという恐ろしさだって理解できるもので。ターリアはきっと「先生」と親がコンタクトを取ることをよく思わないだろうし、彼女の保護者がどのような人間なのかわからない以上……と、思っていたのだけれど。

「……」
「やっぱいい」

 口を開こうとした途端、鋭い声に遮られた。怒っているとも機嫌が悪いとも異なった声色に自分でもおどろいたのか、ターリアは一瞬次の言葉に詰まったようだった。

「……せんせがそうした方がいいって、思ったなら。それでいいから。別に聞かなくていいや」
「どういう風の吹き回しだ。俺のことは気に入らないのかと思っていたが」
「…………わかるでしょ」

 否定も肯定も返さず、リードは飲みかけだったコーヒーに手を伸ばした。「なんでなんも言わないの」と苛立ったような声がかけられたけれど、それも無視する。経験上、この手の人間はここで返事をしても噛みついてくるのだ。どうせ文句を言われるのならば、自身の労力が少なくて済む方を選んでおく。
 少しの間不満そうに黙り込んでいたターリアは、小さく息をつくと勢いをつけて机から降りた。リードから背を向ける形になった彼女は、そのまま少し静止して。様子を窺うように、視線だけを投げてくる。

「……あたし、寝ちゃって、あのせっまい部屋で。いちおう、人がいるとこで。いつもはムリだから」

 それまでの無愛想な口調からは一転して、ぼそぼそと言葉が紡がれる。

「だから。……ありがと……って、それだけ」

 静かな室内にそれだけが落とされて、ターリアは気まずそうに目を逸らした。彼女がどのような表情をしているかはわからないけれど、なにかを誤魔化すように三つ編みをいじっているのがわかった。沈黙に耐えられなくなったようで、「それで!」とやけに大きな声を出して振り返る。

「あたし、家、ヤなとき、あるから。……ママも、いいよって言ってたから。だから、出来たら、昨日……みたいに……って、おもってるんだけど」
「――そうか。ならば俺が止める理由もない。好きにしろ」
「うん……うん、ありがと」
「礼を言われることはしていない」

 リードのその言葉は、本心から出たものだった。感謝されるようなことなんてなにもない。自分がしたことはただの義務であって、ターリアを助けたいという思いがあったわけではないのだから。それをわざわざ彼女に言うことでもないと思って黙っていると、「変なのー」と気の抜けた笑い声が返ってくる。

「じゃ、あたし帰るね」

 どこに、とは言われなくとも想像がついた。今は落ち着いている様子だけれど、すぐにまた新たな同居人たちとのトラブルを持ってくるのだろうということも。それでも今に限っては、そんなことを言って水を差す必要はない。黙って見送ろうとしていたリードは、ふとあることを思い出して口を開いた。

「……幼馴染、だったか。お前のことを随分と心配していた」
「あー……」

 出て行こうと扉に手をかけていたターリアは、その言葉でぴたりと立ち止まる。今日一日の幼馴染の彼の様子といったら、「心配」だなんてかわいらしい言葉で収まるものではなかったけれど。リードの目には、憔悴や不安といった言葉の方がよほど似合うように見えたほどだ。
 その彼と比べると、ターリアの返事は宙に浮くような軽いものだった。親しくしている友人の異変を聞かされても、特に気にしている様子は見受けられない。明日の天気を聞いたかのような反応は、端から見れば冷たいと言われても仕方がないものだった。「そっか、わかった」とだけ言って受け流した彼女は、今度こそ帰ることにしたらしい。軽く手を振る姿は、幼馴染のことだなんて気にしていないように見えた。

「ばいばいせんせ、またあした」

 
 ◆


 柔らかい光とあたたかい空気が、ラファーユを出迎えた。普段ならば、こんなことはなかなかない。自分が帰る頃には母親が家にいて、夕飯の準備をしているなんてことは。

「…………はあ」

 なにかを焼いているような音が、少年のため息をかき消した。
 仕事で忙しい母親は、いつもラファーユより帰宅が遅かった。疲れているだろうにそんな様子は微塵も見せず、家でもいつもてきぱきと動き回っている人だ。ドアを開ける音に気が付いたのか、料理の音が消えた。代わりに響くのは、こちらへ近付いてくる足音。
 靴を脱ぎながら、ラファーユは数度瞬きをした。息を吐く。小さな儀式だ。
 今日はただでさえ憂鬱な一日だったというのに、これ以上は勘弁してほしい。そう願いながら、この祈りが届くはずがないのだと少年はよく理解していた。

「ねえ」
「母さん、ただい……」
「隣の子が家出したみたいだけど」

 顔を合わせるなり、母親は息子の声など聞こえないとでも言いたげに話し出した。完璧な挨拶をしようと覚悟を決めていた声帯も、口も、そして心も行き場をなくす。

「夜になっても帰らないと言って、昨夜うちにも聞きに来たのよ。あなたは勉強に集中していたから気付いていなかったと思うけど」

 そうだったんだ。ラファーユは、母親の言葉を邪魔しないように薄い返答を返す。内心、あんな大声で追い返していたことに気付かないわけないだろ、だなんて思いながら。
 音楽を流していいタイミングさえも管理された自室という独房は、いつも様々な音を拾っている。それを知らないのは、目の前の母親だけだ。

「少し考えたら、うちにあんな不良の子を入れるわけないって気付くでしょうに。あのお母さん、あまり頭が良くないのね」
「大変だね」

 自分の間延びした声が耳障りで、その音さえも洗い流そうとラファーユは洗面所へと向かった。水を出す、手を濡らす、石鹸をつける。

「あなたはあんな風になっちゃだめよ。いえごめんなさい、あなたはお母さんの自慢の息子だもの、そんなことしないわね。学校にだって変な子はいるでしょう、影響されないようにね。頭がいい子と付き合いなさい」
「他の子の成績よく知らないや」
「そうなの。なにもテストの点だけがいい子と仲良くなりなさいって言っているわけじゃないからね。問題が解けるだけで行儀がなっていない子もやめて。そうよ、あなた勉強はそこそこになってきたけど、マナーはまだ完璧じゃないし。お金持ちの子はいないの?」
「うーん……」

 泡を流す。水を止める。
 心底薄ら寒い――けれど、きっと母親にはそうは見えていないのであろう笑みを浮かべて、ラファーユは「まだみんなのことそこまでわからないよ」と告げる。
 きっと間違ったことは言っていないはずだ。だって、どれほどコミュニケーションに長けた人間だって、たいした関わりもない級友の学力や家の事情なんて知れなくて当たり前だろうから。どうやら母親もこの言説には納得したようで、それ以上は追及せず「友達は選びなさい」と付け加えた。

「ねえ、それよりもただいまは? お母さん、あなたを挨拶も出来ない礼儀知らずに育てた覚えはないけど」
「うん、ごめん。ただいま、母さん」

 満足そうに頷いた母親は、ようやくキッチンへと戻っていく。ラファーユは笑顔を浮かべ、その姿には背を向けて自室へ向けて歩き出した。
 ばかばかしいな、と思いながら。
8/8ページ
スキ