第2章 ミニアチュール=レゾンデートル
18 Bittersweet.
ペンの落ちる音さえも響いてしまうような静寂だった。
幼い嗚咽が落ち着いていくにつれて、室内は静謐なものになっていく。いつまでその状態が続いたか、正確な時間はわからない。表情を隠そうとするように揺れた髪を鬱陶しそうにはらって、ターリアはゆっくりと顔を上げた。
どこかぼんやりと光がなかったその表情は、すぐさま捉えた視界の先にいた人物への警戒へと染まっていく。
「せんせ……誰コイツ」
ほんの少しだけ身を寄せて、ターリアは囁いた。リードの予想通り、彼女は知らない男への不快感を隠そうとせず、赤い目で鋭く睨みつけている。駆け込んできた先の職員室で、普段校内で見ることのない謎の大人がいれば、誰だって身構えはするだろうけれど。
「俺の友人だ。それから、カーレンの親戚……叔父でもある」
「じゃ、これがウワサの『叔父様』?」
「……そうなる」
一体なにが噂なのかは知らないものの、リードは頷いた。シャーロットとあまり関わりのなさそうなターリアにさえ、その存在を知られているだなんて。夢を見て恋でもしているかのようなあの語り口を思い出して、ほんの少しだけ呆れてしまう。
そんな彼の胸中など知らず、少女の視線はミカエルへと滑っていく。頭の先からつま先まで、まるでゆっくりと観察するように見つめて、それから、ほんの少しだけ視線が逸れる。先ほど自分が入ってきた扉がまだ開け放たれていることを確認して、ターリアは冷たく口を開いた。
「せんせの、ともだちなんだ」
「――ああ、名乗るのが遅れてしまったね。私はミカエル・キャルスパーク。……君は、シャーロットのお友達かな」
「別にともだちじゃない。……オジサマは、なんでここにいんの?」
「俺が呼んだ」
リードの言葉に、少女の訝しむような視線がほんの少しだけ和らぐ。そうなんだというつぶやきには、どこかほっとしたような響きが込められていた。そんな彼女に優雅に微笑んだミカエルは、目線を合わせるように膝をつく。
「けれど、そろそろお暇しようかなと話していたところなんだ。今日は失礼するよ」
きっと誰もが絆されてしまいそうな綺麗な笑みにも、ターリアは小さく頷いただけだった。ふいと視線を逸らした彼女にはそれ以上言葉を重ねずに、軽い会釈をリードに向けて。
「それでは先生、また」
「ああ」
ミカエルが立ち去って、職員室は再び沈黙を取り戻す。
床にぺたりと座り込んだままのターリアは、扉が閉まるのと同時に視線を下げてしまう。「座るか」という問いかけには首肯も返答もなかったけれど、引かれた椅子に視線を向けて、彼女はゆっくりと立ち上がった。
「なにか飲むか。コーヒーしかないが」
「甘いのにして。砂糖がいい」
「…………そんなものあったか……?」
机の上で散らかった私物や書類を乱雑に寄せながら、リードは机上の波をかきわけていく。
ブラックコーヒーをただ流し込んでいるだけの彼には砂糖もミルクも不要ではあるものの、確かミカエルがなにかを持ち込んでいたはずだ。ここに置いておくという言葉を、自分には必要ないからと聞き流したような記憶が薄らと存在している。持ってきた割には使っている様子も見ないから、どこにあるか把握はしていないけれど……几帳面な彼のことだから、きちんと一箇所にまとめてあるはずに違いない。
整理整頓された机の一角を荒らしつつ砂糖を見つけるのと、インスタントコーヒーが出来上がるのはほとんど同時だった。
ターリアは机に突っ伏しながら、目線だけをあげてコーヒーカップを捉える。「あたしがいいって言うまで入れて」という言葉に、自分でやれと突き放しはしなかった。
さらさらとした砂糖が泥沼に落ちていくのを眺めて、少女は口を開く。
「あたし苦いのキライ」
「そうか」
「こどもっぽいって思う?」
「知らないが、お前はガキなんだからお似合いだろう。……おい、まだ入れるのか」
注ぎ込まれ続ける糖分に半ば引いている言葉に、こくりと小さな首肯だけが返された。当たり前でしょとでも言いたげに曇りのない瞳に見つめられ、リードは自分が失った若さというものへの尊敬の念を抱いてしまう。……これは年齢の問題ではなく、ターリアが異常なほどの甘党というだけな気もするけれど。
きっともう、この泥のような飲み物の中で砂糖は溶けていないのだろうと考える。この一杯だけで、ストックしてある砂糖をすべて持っていかれそうだとも思って――それで別に構わないと思い直した。ここに座る大人は誰も使わないのだから、むしろここで大量に消費されていることはありがたいと言ってもいいだろう。リードはそう考えて、健康が心配になる量を注いでいることには目をつぶる。
「……あたし……って、こども?」
少しの間、無言で砂糖の滝を眺めていたターリアが、ふとつぶやいた。
目元にはまだ泣き腫らしたあとが残っているものの、声色はずいぶん落ち着きを取り戻しているようだ。普段通りと言って差し支えない、ダウナーな声で紡がれた質問の意図がリードにはわからなかった。
「は?」
質問への明確な返答でもなんでもない、ただの困惑。そんな返事が聞こえているのかいないのか、ターリアは小さく息をついた。長い袖で目元をこすると、再び力なく机に身を預ける。
「今日、もうオトナなんだからっていわれた」
「……なんだそれは」
「だから。こどもじゃ、ないんだっていわれたの。オトナなんだから、ちゃんと……」
「…………お前、いくつだったか……十六……いや……」
「歳? じゅーごだよ」
でね、せんせ。続きだけど。
泣いたせいか少しだけ掠れている声が、静かな室内に響いた。声色は淡々としていて、そこから感情を窺い知ることはできない。
「あたしは、もう、オトナなんだから、当たり前なんだって。……おんなじ、オトナに……好かれるのも、受け入れるのも。それはいいことなんだから、あたしが知らないだけで、そしたらきっと、嬉しいって……もうこどもじゃないんだから、しってなきゃダメだって…………いわれた」
けれど、その声はやがて平静を失っていく。なにかを誤魔化すように、緩慢になっていく口ぶり。吐き出される息は次第に重みを増していって、再び鮮やかな色をした飴玉の輪郭がぼやけて、溶けて。
「……ママの、しってる人だったの。…………ずっと……あたしのこと……いいって……思ってたって」
ターリアがそう言うのと同時に、室内はすっかり静かになってしまった。
それは、もうなにも考えず注ぎ込まれていた砂糖がついに底を尽きたせいだろう。言われるがままに最早手元を意識することすらなく注ぎ込んでいた糖分が、彼女の望んだ量になっているのかはわからない。もっと足せと言われても、これ以上は用意がないのだから諦めてもらうしかないけれど。
とてつもない量の砂糖が溜まっているはずのコーヒーは、それほど甘ったるいものには見えない。リードが普段飲んでいるそれと変わらないような色ではあるものの、実際に口にしてみれば簡単には飲み込めないほどの甘さになっているはずだ。
飲もうと思えば飲めるだろうけれど、自ら喜んで口にしようとは思わない――若い頃も、今も。そんなことを考えながら、リードは少女の前にカップを置いた。
「……」
かたん、と小さな音を立てて置かれたシンプルなカップに目をやるだけ。ターリアは、それに手を伸ばそうとはしなかった。
「……お前はガキだ。何歳から大人かなんて、そう簡単に決められるものでもないが……お前はまだ未成年だろう。精神的にも法律的にも、まだ守られる年齢だ」
甘い色をした瞳が、リードを捉える。散らかった机に預けられていた体がのろのろと起き上がって、「でも」と小さくつぶやいた。けれどその先の言葉を見つけられなかったようで、きゅっと眉をひそめるだけだった。
「でも、せんせい……」
「でも、ではない。大体、子供に『受け入れる』ことを求める大人はどうかしている。まあ、お前のようなガキを好く奴に、そんな倫理感はないのかもしれないが」
吐き捨てるような言葉に、ターリアはいまだ涙が残る瞳をまたたかせた。
そこに宿るのは、相手の言葉を咀嚼しようとする真剣さと――それから、めずらしく感情を顕にしているリードへの驚き。普段の彼女ならば「なんかおしゃべりだね」なんて言ってみせただろうけれど。今日の彼女の口から飛び出るのは鋭い意地悪ではなく、弱々しい本音だった。
「そ、かな……でも、あたしのこと、すきって言ってたよ」
「だからなんだ」
「だ、だから……? だって……なんでって……」
「……結局、そんなふざけたことを言った人間は、お前をなにも考えていないガキだと思っているのだろう。大人ならばこうだと並べ立ててみせれば、子供は言う通りになると思っている……ただの馬鹿だ」
視線をさまよわせているターリアは、怒気を覗かせる言葉に戸惑いながらも耳を傾けていた。机の上でぎゅっと握られていたはずの指先は気が付けばほどかれて、所在なさげに遊んでいる。そわそわとした仕草と下げられた眉は、迷子になってしまった幼い子のようだった。
「それに、受け入れることが当たり前なわけがない。どれほどの好意を向けられても、それが不快であるのならば……立場や年齢にかかわらず拒否をするべきだ」
落ち着かない様子のターリアは、その言葉にふと顔を上げた。相変わらず濁るような怯えが潜んでいる瞳に、かすかな光が宿る 「……それじゃあ」と、小さな声をあげて。そうして、また黙り込んで。古びた時計の短針の音だけが鳴り響いていた。
数十回目の針の音と共に、ターリアは小さな声を漏らす。
「……それ、じゃあ……あたし、ムカついてよかったの?」
「いいに決まっている」
「なにそれー……そんな、じゃあ……」
あはは、と乾いた笑い声がした。
それは少女が普段周囲に向けている嘲笑に似ていて、どこまでも内罰的な笑み。なにかを耐えるようにぱちぱちとまばたきをしたターリアは、ぎゅっと眉根を寄せる。またすぐ泣き出してしまいそうに揺れる瞳から、再び感情が溢れ出ることはなかった。一度静かに息を吸って、吐いて。
そうして、少女は呟いた。
「せんせい、あたし、ヤだった、よ……」
「ああ」
喉が渇いただろうと、リードはターリアの前に置いたカップを指し示す。
許容量を超えた砂糖を注ぎ込まれたその飲み物は、最早甘すぎるお湯と言って差し支えない味になっているのだろう。カロリーも味も、きっと普通の人であれば躊躇するような重たいそれに、彼女は当たり前のように口をつけた。
「……ん。ちょーどいいよ、このくらいが」
そうつぶやいて、もう一口飲んで。
散々泣いて喋って、やはり喉が渇いていたのだろう。コーヒーを一気に飲み干してしまったターリアは、けろりとした顔でカップを置いた。ほんの少しだけいたずらっぽい微笑みが、リードに向けられる。
「やっぱあたし、ブラックコーヒーってだいっきらーい……せんせーおかわり」
「砂糖はそれで在庫切れだ」
当たり前のような顔で要求された二杯目は提供できないと言われれば、彼女は特に気にする様子もなく「そーなんだ」と机に突っ伏す。
「普段甘いの飲まないの?」
「……そうだな」
砂糖もなにも入っていないコーヒーと一緒に、リードは言いかけた言葉も飲み込んだ。
たとえなにか甘いものを足した飲み物を好んでいたとしても、ターリアが望む量は異常だ……なんて。調子を取り戻してきた様子の彼女に言ってしまえば、どれほどの反撃を受けるかわからない。そもそもリードにとってコーヒーは趣向品と呼べるものでもなく、ただカフェインを取るための液体でしかないのだから。それの味が苦かろうと甘かろうと、たいした問題ではないのだ。
手持ち無沙汰にコーヒーカップの輪郭をなぞっていたターリアが、ふと口を開く。
「ねーせんせ、人を好きになるって、どんななの?」
「……俺に聞くな。それは、お前が自分で見つけることだ」
「さんこーにさせてよ。せんせ結婚してんでしょ? どこが好きになったの? いつ好きになったの? 告白せんせからしたの? プロポーズとかってやっぱ指輪出してさー、ひざまずく? 感じなの?」
突如始まった質問攻めに、リードは口を滑らせた過去の自分への後悔でいっぱいになった。妻子がいるのだと話の流れで明かしたときには、ターリアがこうもぐいぐいと話しかけてくるとは思っていなかったからと言い訳も連ねてみる。
「随分と古臭いイメージを……。おい、寄るな。言わないからな」
「してよー、コイバナ」
ねーねーと小鳥のようにやかましい少女を無視しながら、これだからガキは嫌いだと考える。最初こそ排他的でぶっきらぼうだったターリアは、案外お喋りが好きなのかもしれない、なんてことも頭の片隅に浮かんだ。
「つまんないの」という言葉とは裏腹に、ターリアの声は弾んでいて。先ほどまでのさえずりが嘘のように、彼女は上機嫌な笑みを浮かべて黙り込んだ。迷惑そうにしているリードの様子を見てか、それとも単に飽きたからなのか、彼女の考えていることはわからない。
「そんなことより、今日はどうするんだ。家には……」
「ヤだ。帰んない」
「そうか。行くところがないなら、また寮でも使うか」
「うん。せんせ、送って」
リードの提案に、ターリアは小さく頷いた。そうして伸びをすると、軽やかに立ち上がる。少しだけぼさついた髪を手櫛で直しながら向けられた視線は、早くしてとでも言いたげで。自分の提案が断られるとは思っていないその様子に、ため息の一つくらいつきたくなってしまうけれど。
「ああ、まあ……もう暗いからな」
すっかり暗くなって星の明かりすらも遠い空の下に、彼女を一人で放り出すわけにもいかない。
自分の思い通りになったことに気を良くしたのか、ターリアがどこか得意そうな表情を浮かべているのは癪に障るものの仕方がない。リードもゆっくりと立ち上がった。
随分な時間にはなっているものの、一応寮の方に連絡でも入れてやった方がいいだろうと考えて、おそらく電話に出るであろう生徒の顔を思い浮かべる。常識が通用しない自称神様と、不機嫌と理不尽の塊のような刺々しい子供に挟まれている彼は、リードの目から見てもそれなりに悲哀を誘うものだった。
電話に手を伸ばす視線の端で、長い袖でごしごしと目元をこするターリアの姿が目に入る。
「……あとで腫れるだろう。冷やすものはないが、顔でも洗ってくるか」
「んーん、いい。あたし、目が腫れてもカワイーし。せんせもそう思うよねー」
「知らん」
端的に突き放されて、少女はくすくすと笑った。いったいなにがそんなに愉快なのかだなんて、きっと聞くだけ無駄だろう。突然訪れた笑いの波が過ぎ去った様子の彼女は、息をつきながら「ねえせんせ」と口を開いた。その声色は静かで、そして、どことなく照れが混ざったものだった。
「歩きがいい、な」
◆
どん、とまるで地響きのような音がターリアの耳に届いた。
あのあと――学校で過ごしたあと。暗い夜空の下、わざと緩慢な足取りでもって寮までやってきたターリアを迎え入れたものは、どうすればいいか戸惑っている様子のリデルだった。ターリアとしては、そんな奴と話すようなことはなにもないので。学校を出る前に電話越しでしていたような説明や事情についてはリードに任せ、さっさと以前も使った寮の部屋へと引っ込んだのだった。一応、それなりに振り回した先生へのご挨拶は忘れずに。
他の寮生がどうしているのかは知らないけれど、また一人で静かに朝日を待つだけ。そんな風に考えていたターリアの思考は、突然鳴り響いた不愉快な音によって破られたのだ。
なにかが破裂したようにも、派手にぶつかったようにも聞こえる音は、扉の向こう側で鳴ったらしい。扉へ視線を向けたまま固まる彼女にかけられたのは「入りますよ」という平坦な声。なんとも忌々しい声色に拒否をぶつけるより先に、無遠慮に扉が開いた。
「こんばんは」
見たくなどなかった顔に、ターリアの表情が歪む。
きしんだ音ともに現れたのは、なにを考えているのかわからない瞳。暗く沈んだ片目は、あの日と変わらず目に映る像を濁して溶かしている。飾り気のない白いワンピースに身を包んだ彼女は、相変わらず腹が立つほどに静かだった。
「なんの用……てかなんなの? さっきの」
「さっきの。ああ、ノックですが」
「バカじゃないの!?」
反射的に飛び出した罵倒に、ドロシーの表情が変わる。といっても、ひそかに眉を寄せる程度だったけれど。馬鹿だと言われて気分を害した様子の彼女は、ずかずかと部屋に踏み入りながら淡々と話し出す。
「私は馬鹿ではありません。人間には、馬鹿と言った方が馬鹿という通説があるようですが」
「うっさい!」
「……扉を叩いてほしいと言われたから、この私が叶えてあげたというのに。人間というものは我儘なものですね」
再び不満と罵倒が飛び出しそうになったけれど、賢い少女は我慢してあげることとした。
ドロシーの不満そうなつぶやきを聞く限り、きっとこの神様を名乗る変な女は最低限の礼儀すらも習わなかったらしい。扉を叩けなんて誰が言ったのか知らないけれど、回数と音量くらい自分の頭で考えればいいのになんて愚痴が飛び出しそうになる。
「で? なんの用? また叩かれにでもきたわけ?」
気を取り直すようにわざとらしくつっけどんな声を出して、ターリアはベッドに座り直す。喧嘩を売るかのような声色だったというのに、ドロシーは気を悪くした様子はない。「いいえ」と平坦に言葉を返すと、なんの断りもなく同じようにベッドに腰かけてきた。
このバカ常識もなければ距離感ってのも知らないわけ、なんて引いているターリアのことなど気にもかけず、静かな声が言葉を紡ぐ。
「以前の私の発言と貴方の行動について、話す必要があると思いました」
「へえ、謝んの? 土下座すんなら許すか考えたげるけど?」
「謝る? なぜですか。私は神様なので、私の行いがすべて正しいです。私に非はありません。なので、私が謝る必要などありません」
「ヤバ…………」
一点の曇りも揺らぎもなく堂々と発せられた言葉に、思わず飾り気のない本音がこぼれてしまう。
最近は意図的に相手を刺すような言葉を選び続けていたターリアにとって、咄嗟の素直な感想というものは随分久しぶりだった。信じられないものを見るかのような視線なんて気にも留めていないようで、闇を宿す瞳はなにも映していないように見えた。
「てか、謝るつもりじゃないならなにしに来たわけ? またおんなじようなこと言うつもりなら……」
「……ですが、人間を傷付けることは本意ではありません」
隣で話し出したことに気付いていないのかなんなのか、ドロシーの声が覆い被さってくる。そのことに不満を言ってみせてもよかったのだけれど、ターリアはそっと口を噤んだ。それはこの不気味な女とやり合う気が不思議と起きなかったから。そしてなにより、今まで演説でもするかのように展開されてきた声色が、かすかに沈んだように聞こえたからだった。
それまで正面のどこかを見つめていた視線が、ふとこちらに向けられる。
「それに、いけないことだと言われました。対話というのは、真実を言うから正しいのではないと。相手のことを考え、慮り、適切な思いを適切な表現で伝えなくてはならないのだと。私には理解できませんが、それが人間の常識だというのであれば多少は迎合してあげなければなりません」
教科書をなぞるかのような言い方だった。暗記した語句をそのまま読み上げているかのような口調は、ターリアにとっては随分となじみ深いものだ。
この神様はそういう風に言われたのだろうと予想がつく。いかにもなお説教の語句は、彼女にあまり響いてはいないようで――ほらやっぱりねと、ここにはいない彼のことを笑いたくなってしまう。
「……それさあ、アイツが言ったんでしょ」
なんとなく、肩の力が抜けてしまって。ターリアは少しだけ勢いをつけて、ベッドへと体を預ける。あまり沈み込まないマットレスは、以前ここに横になった日と同じく気に入らない。ベッドも枕もなにもかも、寝具はふかふかと柔らかくなければ眠れない。
そんな仕草を目で追いながら、ドロシーは小さく首を傾げる。
「あいつとは」
「いーよ、ひとりごと」
そう言いながら見上げたドロシーの顔には、あの日手をあげた痕跡などどこにも残っていない。当たり前だ。ターリアのような少女の力なんてたかが知れているし、数日後まで残るような傷にはならないのだから。
「叩いたのは、あんまよくなかったって思ってる。でも謝んないからね。アンタが悪いんだし」
「別に、あのくらい。私は気にしません」
「あっそ」
そして、会話が途切れる。
謝るつもりがないのならさっさと出て行ってほしいという思いを込めて睨みつけても、ドロシーが立ち去る様子はなかった。一体なんのつもりなのかと問いかけようとして、聞いたところでまともな返答は得られなそうだと諦める。
「……あたしとアンタ他人じゃん、会ったこともないヤツのことなんか、なんで全部知ってるっつったの」
「私は神様ですから」
なんの説明にもなっていないその言葉を深掘りする気は起きなかった。一般常識がなにも通用しない彼女にあれこれ聞くだけ無駄なのかもしれないと思いつつ、ターリアはさらに浮かんだ疑問をぶつけてみる。
「なんでも知ってるっていうなら、聞くけど。ラファーユのことは? あたしとアイツのこととかどこまで知ってんの」
「彼と貴方には、幼馴染という名前がつけられているそうですね。以前の貴方たちは、それほどの関係ではなかったようですが」
「……それしかわかんないの? じゃ、あたしのことなんにも知らないじゃん」
狭いベッドの上で、ごろりと寝返りを打って。わざと挑発を混ぜた笑みを浮かべると、ドロシーはその平坦な眉をきゅっと寄せた。他人の感情なんてなに一つわかりませんとでも言いたげな空気を纏っているというのに、今自分が嘲笑を向けられていることは察せるらしい。
「大したことないね、カミサマも」
そう言ってみせると、彼女は本格的に気分を害したらしい。叩かれるよりも馬鹿にされる方が不愉快だなんて、なにを考えているのかよくわからない相手だ。
「……失礼な人間ですね。いいですか、私はすべてを知っています。貴方の生まれた日から死ぬそのときのことまで、なんでも」
「へー、じゃ、あたしはいつ死ぬわけ?」
「なにを言っているんですか、私たちがそう簡単に死ぬわけがないでしょう」
「なんなの?」
答えになっていない答えに突っ込みたくなってしまうけれど、これ以上聞いてやるのも馬鹿らしくなってしまって。ターリアは口を噤んでベッドに身を預けた。黙り込んだ会話相手に合わせたのか、ドロシーも静かになって視線を逸らす。
背もたれのないベッドの上でもよくきっちりと背筋を伸ばしていられるものだと、かすかな感心がターリアの胸をよぎった。
「……ですから、私が救ってあげますと言ったんです」
「なにが?」
突然始まった語りに、ターリアはぱちぱちとまばたきをしながら聞き返した。
「そう簡単に死ぬわけではないから、という話です。今の貴方の人生に、不都合があるのなら。その苦しみも簡単に終わるわけではないでしょうから、貴方が望むのならば……私が救ってあげますよ」
このドロシーという少女の前には、文脈もタイミングも関係ないらしい。今自分がしたい話をしている様子にはどこか共感するものもあったけれど、それを認めるのは癪だった。
「言ってないじゃん」
「言おうとしました。そのときに、貴方に叩かれたので」
「……あっそ……。じゃー言ってないでしょ。てか別にいらない。そんなの。あたしカミサマ信じてないし」
「何故ですか?」
「なんでって。あのさ、そーいうの簡単に人に聞くもんでも話すもんでもないから」
まあいいよ、とため息をつく。ゆったりと起き上がると、髪が絡まっているのがわかる。いつもならば、我儘な髪質が言うことを聞くまで格闘するターリアだけれど、今に限ってはそんなことはどうだってよかった。壁に背を預けながら、窓の外に視線を向ける。
真っ暗な空は、少女が求めているものとは違っていた。いつのことかだなんてもう覚えていないのに、なぜか脳裏に焼き付いて離れないあの青空をずっと求めて、探して。そして。
「あたしが信じたいのは、カミサマのオコトバじゃないから。それだけ」
「……そうですか」
理解したのかしていないのか。ドロシーはそんな返事をして、ターリアの真似をするかのように空を見上げた。