第2章 ミニアチュール=レゾンデートル
17 When it rains, it pours.
――確かに、嫌なこともいっぱいあるけどさ。
その言葉とは裏腹に、彼の声は明るいものだった。
青い瞳は今が幸せで仕方がないという風に輝いていて、本当に嫌なことなんてあるのかだなんて意地悪なことを問いたくなってしまう。けれど過保護な母親に束縛される彼の苦労なら、外野である彼女の目にも明らかだった。過保護、心配性。そんな言葉で表現されている彼の親は、教師たちにとっても悩みの種らしい。当の子供は無害も無害、大人しい良き生徒であるというのに。
度の強い眼鏡の奥で、まっさらな光が少女を見つめている。
「だからって、全部を諦めちゃうのはもったいないと思うよ」
「……そーかな」
彼が規律正しく身に纏っているブレザーが、爽やかな風に揺れる。案外強い風によってはためいて膨らんだ後ろ姿は、まるでその背になにか別の生き物でも飼っているかのように見えた。
対する彼女はといえば、入学した日と比べるとずいぶんスカートが短くなった。校則と生徒指導の教師との瀬戸際を攻めた丈は好きだけれど、これのせいだろうか、なんて考えてしまう。
「ボクも、えっと……大変なっていうか……しんどいなーってときもあるから。……いや、ボクの苦労なんか、全然足りてないんだけどさ……」
痛みを誤魔化すような自虐混じりの笑いに、なにも返すことができなかった。幼馴染だなんて大層な名前はあるけれど、思春期に足を踏み入れたあたりから二人の関係性は希薄なものとなっていたから。
「でも、その分……っていうのも変だけど。辛いけど、それが全部じゃないって思うんだ。世界は綺麗なんだなって、思えることもいっぱいある。……なんて、大袈裟だって自分でも思うけど」
照れたように笑うのと同時に、少しぼさついた金髪が風に揺れた。
せっかく陽の光を閉じ込めたかのような綺麗な髪なのに、彼がそのあたりに無頓着なのはなぜなのだろうと。誰とも話そうとせず、教室の隅で小さく固まる彼の背を見て思ったことがあった。
手を伸ばしかけて、丁寧に色付けた指先が止まる。自分勝手で自由だと評される彼女だけれど、この歳になって他人も同然の同級生男子に触れることは躊躇われた。あたしたちが仲のいい幼馴染のままだったら、なんて叶わないたらればを夢想する。
「親身になってくれる人も、好きだなって思えるような人も、きっといっぱいいるよ。キミは素敵な人だし、絶対……そんな人が、たくさん現れるに決まってる」
「……ん」
すらすらと語られるのは綺麗事。いつもなら一蹴するような話だけれど、彼があまりにもよどみなく語るものだから、本当にそうなのかもしれないなんて勘違いしてしまう。
「誰かに嫌なことされたからって、この世の人がみんな意地悪なんだってわけでもないと思うんだ。難しいかもしれないけど、他の人のことは信じて、嫌だなって思ったことは聞いてもらう……とか……」
そこで初めて、彼の言葉尻が曖昧に消えていく。傷付いているとも怒っているとも言えない表情に、どうしたのと聞くと、彼は途端に慌てだした。
「……いや! なんか、陰口勧めてるみたいだったかな!? 相談ってことだから!!」
「そんなのわかってるよ」
よくわからないところで、よくわからないことを気にする人だと思った。幼馴染といっても、もうすっかり他人になったのだと実感する。
遠くで、少女の名前を呼ぶ声がする。
ぬるくなった風に乗ってきたそれに気付いたのも、反応したのも、少年の方が早かった。
「あ、それじゃあ……えっと、話せて嬉しかったよ」
「え、もう行くの」
「え? うん。だってほら、友達来てるだろ」
「待たせても……ちょっと!」
少女の静止もふりきって、彼は重たいスクールバッグを肩にかけ直し走り出した。どうせ家で開かないからと教科書もなにもかも置きっぱなしの少女とは真逆で、彼はいるものもいらないものも一緒くたに、毎日勉学と暮らしているのだろう。
その割に、だなんて笑い声を聞いたことがある。
一体彼のなにが気に入らなくて、そんな嘲りが飛び出したのかは知らないけれど。目立たない彼への嘲笑に不思議と苛立って、めずらしく話題を切り裂いたとき、揶揄の調子はこちらに向けられた。なんであいつを庇うんだと笑われ、好きなのかと問われて。少女はこう答えたのだ。
「そんなんじゃない。幼馴染とかいったって、家が近いだけの他人だし」
久々に交わした二人だけの短い会話でも、彼に対してなんらかの特別感が湧き上がることなどなかった。距離が遠くなった寂しさも、後悔も、安心感も、なにもない。それでも自分の元から離れていく彼の姿だけが、網膜を焼き尽くす。
――青空の下。所属を示すだけの揃いのネイビーが、今も脳裏から離れない。
「……辛いけど、それが全部じゃなくて。他の人のことは、信じて……バカみたい」
散らかった部屋で、少女は一人笑う。帰ってきたばかりの彼女は、制服から手早く私服へと着替えていた。甘い顔立ちとラフな服装はほんの少しだけ不釣り合いだけれど、それが彼女の愛らしさを際立たせてもいた。
大きなパーカーと、地味な色合いのスカート。足元は適当なスニーカー。全身鏡で自身の姿を確認して、彼女は呆れたように目を細めてみる。とびきり着飾ることがあんなに好きだったはずなのに、それを避けるようになってしまったのはいつからだろう。
どうせいいとこに行くわけでもないんだし、会うのもママの知り合いだし。誰にするでもなくそんな言い訳を並べ立てつつ、少女は曇り空へと歩を進めた。
◆
「最近はいかがかな、先生」
ミカエルは優雅に足を組むと、にこりと微笑んだ。
その言葉の意味するところはわかっていたし、それに対する返答も持っているけれど、リードは一度無視をすることにした。いつものように突然やってきては半ば定位置となった椅子に腰かける彼を受け入れ始めている自分に、大人気なくも苛立ってしまったものだから。
「……なんの用だ」
「用という用はないけれど、あなたに会いに来たんだよ。友人と話したいという気持ちに、理由が必要かい?」
「友人ならば必要ないだろうな。だが俺たちは他人だ」
冷たい言葉にも、ミカエルはおやおやと笑うだけで気分を害した様子は見せない。
いつだって穏やかで綺麗な笑みを浮かべる貴族のような彼と自分とでは、友人関係を築くことなんて不可能だというのがリードの考えだった。同僚でも取引先でもないけれど、仕事を介した結びつきといえばその通りで。このなんとも言葉にしがたい関係値でなければ、きっとミカエルのような人間とここまで関わることはなかっただろう。
一つのため息をつきながら、リードは話し出す。
「最近といっても、特に変わりはないな。いつも通りガキどもは騒がしいが……まあ、慣れてきたところだ」
煙草の煙と共に、そんなことを口にする。
――近頃の様子を尋ねられたとき、リードの頭になにも過ぎらなかったといえば嘘になる。
いつもこちらを見ようともしなかった少女と、お互い随分不本意ながらも会話をしたあの日。不信と敵意を隠そうともしなかった彼女の態度は刺々しく……だからといって、彼がなにかを感じることはないのだけれど。
彼らのような時代なんてとうに過ぎ去った父親として、そして、教師というものが大嫌いだった元不良学生として、リードは生徒たちに干渉する気はなかった。世間一般でいうところの教師と生徒の関係ではないのだから、必要以上にすくい上げる義務もない……というのが、彼の考えだった。
「……お前が知りたいのは、いつもの『可愛い姪』のことだろう。……俺には、心身共に問題ないように見えている」
「今日はあなたにお困りごとがないか、知りたかっただけだよ。けれどよかった、あの子を気にかけてくれて嬉しいよ」
「…………誰のせいで……」
「ふふ、私のせいだね。ありがとう、リードさん」
上品に笑ったミカエルは、シンプルなコップに注がれたコーヒーを飲んだ。その何気ない姿さえ絵になっていて、重ねようとしていた文句を忘れてしまう。インスタントコーヒーを常飲するリードの元に、この不思議な男が立派なコーヒーメーカーを持ち込んだのも随分前のことに思えた。
「そうだ、先生。これは聞き流してくださって構わないのだけれど……おや」
ふとミカエルが顔をあげて、扉の向こうへと視線を移す。それに釣られるようにリードの赤い瞳がそちらを見つめた瞬間、足音が遠くから響いた。
追い立てられているかのような一つの足音がばたばたと鳴って、次第にこの部屋へと近付いてくる。乱暴だけれど重たくはなくて、怒りを踏みしめているようにも聞こえないその音。
「先生?」
音の主の検討がつかない様子のミカエルに、リードは「お前は口出しするな」と短く伝える。彼の胸中にある予想はなんの根拠もないものの、それでも不思議な確信が宿っていた。そしてリードが思い描いている通りの人物がやってくるのなら、きっと。
彼女は、見知らぬ男の存在を決して歓迎しないだろう。
そんなことを考えながらゆっくりと立ち上がった、そのときだった。
大きな音を立てて扉が開け放たれる。古びた扉は、壊れてしまうのではないかと心配になるような悲鳴をあげて……けれど、二人の意識にはそんなものには向けられていなかった。
飴玉のような瞳が、呆然とそこにいた。自分がなぜここにいるのかわからないと言いたげに、大きな瞳が散らかった職員室を見回している。
いつものぶかぶかのセーターではなくて、シンプルな私服に身を包んで。髪も下ろしている飾り気のない姿だったけれど、ビッグシルエットのトップスにスカートというスタイルは変わらない。肩で息をしている様子を見る限り、先ほどの足音の原因はどうやら彼女だったようだ。
「…………っ」
息を吸って、吐いて。
不機嫌そうに黙り込んでいるか、すらすらと子供っぽい嫌味をなげかけてくるかの彼女は、リードと目が合ってもなにも口を開かなかった。開かなかったというよりは、言葉を発することができなかったという方が正しいのだろう。なにか話し出そうとしては怯えるように視線を泳がせて、赤くなった目元が歪む。
そうして耐えきれなくなったかのように、くらりと小さな体が揺れた。
咄嗟に扉に手をついたようだけれど、それは大した支えにはならなかったようだ。力が入らない様子のターリアは、硬い床に膝から座り込む。
要領を得ない言葉が、呼吸の隙間から吐き出される。苦しげな息遣いと真っ赤になった頬の理由は、ただ単にここまで走ってきたからではないのだろう。
「おい、どうした」
つい手を差し出しかけて、リードは数秒躊躇った。きっと人から――自分のような男性から向けられるものはなんであれ、彼女にとって好ましくはないのだろうとわかっていたから。けれど、中途半端に宙に浮いた手を引っ込めることはできなかった。
ぎゅう、と。
めずらしく袖口に隠れていない彼女の小さな手が、煙草の煙を纏った腕を掴んだから。溺れそうな人がやっと掴んだ藁を手元に引き寄せるように、座り込んだターリアは同じ目線にリードを引っ張ろうとする。その弱々しくも逆らえない力に抵抗することもできず、やがてリードは膝をついた。
「…………おい」
困惑に揺れる声に、返事は返ってこなかった。
長い袖が乱暴に目元を拭って、それでも顔をあげることは叶わなかったらしい。息を吸おうとして、結局うまくいかなくて、漏れ出るのは悲痛な嗚咽だけ。そんな自分の発する音にすら怯えたように、ターリアはスーツの腕を掴む力を強める。
腕に爪が立てられて、少女とは思えないほどの力で手を掴まれて。縋るかのようなその仕草と手の力に、リードはめずらしく思考が固まってしまう。いつもならゆるやかに編まれている髪は肩口からぱさりと落ちて、彼女の表情を隠していた。
震えた吐息と、繰り返される泣き声。リードの腕に頭を預けて、ターリアはようやく言葉を発するための息を吸えたらしい。
「…………た……」
今にも切れてしまいそうな細い糸にも似た声が、ようやく絞り出される。
「……たすけて、せんせい……」