番外編
ありきたりな夢
不自然なくらい暑い夏の日だった。
体の内側から蝕むかのようなじっとりとした熱が体を包んでいた。じんわりと滲む汗に皮膚が塗りつぶされて、かすかに通り抜けているはずの風の温度を感じられなくなった。ぐらぐらと脳を焼く湿度は幻覚さえも見せるようで、遠い道路が歪んで見えた。自らの手をかざして作った小さな日陰は頼りなくて、なんの助けにもならなかった。腕が熱されて焦げていくのを感じるだけで、失敗したと思った。
「……ねえ」
こんな日でも、彼女は相変わらずの服装だ。
生地の厚いグレーのセーター。まるで彼女の体を隠すようなそれを見ていると、こちらの体温があがっていくような気持ちになる。だけど彼女はいつだって涼しそうで汗一つかかないものだから、そんなところも好きだと思った。
「ねえ、聞いてんの?」
「ごめん、えっと……ちょっとぼーっとしてた。暑いから」
本当は彼女に見とれていただけだから、これは嘘。だけど完全な嘘とも言えなかった。だって今日は本当に、どうかしているとしか思えないほど暑いから。
これが自然のつくりだす暑さだとは到底思えない……思いたくないような熱と直射日光が、今も降り注いでいる。思考回路さえ焼き切ろうとするようなこの日差しの下、いつも通りを保つのは難しい。少なくとも、ボクにとっては。でも、彼女は昨日となんら変わりはない。
「は?」
ふわりと三つ編みを揺らして、彼女はボクを見つめた。
――前言撤回だ。彼女が昨日と変わりない……わけがない。昨日も彼女は特別だったけど、今日の方がもっと特別で可愛い。これは恋は盲目なんていうものではなく、ボク以外の誰の目から見ても絶対にそうに決まっている。
甘いお菓子を連想させる濃いピンクの瞳は不機嫌を訴えていて、その飴玉がボクだけのものであればいいのにと思った。
「帰んないって言ったの」
とん、と靴音が鳴る。これは彼女が苛立っているときの癖だ。
「パパが出かけるまで」
そう言ったきり、彼女は口を閉ざす。あのお父さんが何時に帰ってくるのかとか、ボクがそばにいていいのかとか、どこに行きたいのかとかは、なにも教えてくれなかった。
相変わらず降り注ぐ日差しは暑すぎるほど暑くて、ボクの思考はぼやけて溶ける。
「……あのさ、つまんない話するけど」
本能と理性の境界線すら照りつける熱に溶けて、境目をなくしていくような気がした。
だから、だろう。
「あたしが、アンタに……パパのこと殺してって頼んだら、どーする?」
「やる。それがキミの望みなら」
普段なら理性で押し込めて否定してみせるような本音が――本能が、口をついて出たのは。言葉にした途端、随分と楽になったのも、たぶん。
常識、規則、法律。かくあるべしとボクを縛るこの世のすべてが邪魔だった。その理由は簡単で、こうしろと教えられた善行にも禁止事項にも、たいした意味を感じていなかったからだろう。
「バカじゃないの。捕まるでしょ」
「それでもいいよ」
自分で言い出したのに、彼女は冗談交じりに笑って言った。細められたその瞳の奥、ボクはどう見られているのか、そんなことがずっとわからない。
「キミが嫌なら、逃げよう。殺して、死体なんてどこかに埋めて、誰にも見つからないところまで」
「……なにそれ……」
――決まりというものは、罰則というものは鎖だと思う。
人間社会に法律があるのは、社会の破綻と人間の破滅を防ぐためなのかもしれない、と考えたことがある。倫理観なんてものがない人がいたって、自身にとって不利益な未来が待つのなら衝動を抑えるだろう。その不利益は罰金であったり、懲役であったり、色々。
ボクにとっても法律は鎖だ。一般的に考えて、未成年であるボクが人を殺したらどうなるか。そう考えたとき頭に浮かぶのはただ一つ、現代の倫理や法律と照らし合わせた彼女に嫌われるに違いない、それだけ。
「そんなことしたら、探されるよ。ずっと」
「そうかもしれない。でも、キミはお父さん殺してほしいんだろ。ならやるよ」
「……でも、そーだね。いいじゃん」
軽い足音と共に、彼女はまるで踊るように距離を詰めてきた。
わざとらしい上目遣い、長いまつ毛に隠れる瞳の光、弧を描く口元。白い肌。学校に行くようなときは、日焼け止めだけで済ませていると聞いた。無造作に結ばれた制服のリボンが揺れている。次の言葉を紡ぐために吸った息の音。
「もしホントにそんな日が来たら――」
◆
「…………」
視界がぼやけていた。それはさっきまで見ていた暑さで揺らいだ地面とは、まったく違う……ただ焦点があっていないだけのものだった。
さっきまで頭を預けていたせいか、痺れている腕が着ているのは見慣れた長袖。外を見ても日差しはどこにもなくて、窓ガラスはひんやりとしていた。むしろ肌寒いくらいの気温に、季節が変わりかけているのだと認識した。
「…………なんだ」
一階からボクを呼ぶ声がした。夕食の時間。つまらない現実。灰色の、ただやることをこなしていれば終わる時間。
返事もしないからだろう、もう一度名前を呼ばれた。ひどく空虚なものだった。