第2章 ミニアチュール=レゾンデートル

16 Playing with Fire.


 青空のような瞳が揺れる。ありえない、信じられないとでも言いたげに。
 男子生徒にしては可愛らしくて、誰にでも明るい印象を与える彼の風貌は、今に限っては歪んでいた。雲を知らないその青は、一点の陰りも宿らないままに目の前の状況を見つめている。

「せんせ?」

 それはまるで、たとえるなら。
 そんなことを考えては見たものの、ラファーユの思考回路はそこで停止した。無理矢理詰め込んでいる知識の中には、こんなときのお手本になる比喩表現だって山ほどあるはずなのに。一瞬で記憶喪失になってしまったかのような感覚に襲われている彼は、瞬きすら忘れていた。もし自分が本当にすべての記憶を忘れているのなら、その原因は頭を強く殴られたショックだろうな、なんてことが頭の隅で浮遊する。

「おはよー」
「…………は? ああ、お前か……」

 思いもよらないところからした声に驚いたのか、古びた椅子がかすかに音を立てる。その様子が愉快だとでも言うように、どこか意地悪にも聞こえる笑い声がした。
 椅子の足に体を預けるように、床にぺたりと座り込んだ幼馴染。こちらに背を向け、椅子に座るこの部屋の主に声をかける彼女の表情を窺い知ることは出来ない。けれど予想くらいなら立てることが出来て、それが外れていればいいと思った。
 ほんの少しだけ……本当に微かに上機嫌な幼馴染が、職員室へと足を向けたときからラファーユの胸中には嫌な予感が広がっていたけれど。どうかそれが勘違いであればいいと願った小さな願いは、完璧に打ち砕かれていた。

「ねーせんせ、あたしお礼言いに来てあげたんだけど」
「そうか、それはご苦労なことだ。必要ないから出ていけ」

 頭の上から冷水をかけるような言い方は、いつものリードだった。
 自身を見上げる生徒には目もくれないその姿に、ラファーユはほんの少しだけ冷や汗をかく。なぜって、彼のとても可愛い幼馴染は少々短気でプライドが高い。話しているときに自分に注目しない人間は漏れなく許せないし、片手間にあしらわれるだなんて以ての外。その結果怒り出すか黙り込むかはその日の彼女次第ではあるものの、どちらにせよ不機嫌を露わにすることに変わりはない。

「……えー……」

 これはラファーユの、なんとも勝手で失礼な偏見ではあるけれど。
 リードは、そんな子供のご機嫌だなんてまともに取り合わない人のような気がした。その結果、先に待つものはおそらく、八つ当たりのように目についたものすべてに噛み付く少女の牙だ。

「なにそれ。なんかせんせーって……」

 教師と仲良くしてほしいわけではないけれど、だからといって不和を望んでいるわけではない。リードのことだって欠片も好きではないものの、彼が不機嫌をぶつけられるような理不尽を良しとしているわけでもなかった。どうにか間に入ろうとラファーユが足を踏み出すより先に、ターリアが口を開いた。

「冷たいんだね。あたしのことキライなの?」

 ――その声は、長年の付き合いの彼女が発したとは思えないほどにフラットで、静かなものだった。
 ラファーユの稚拙な語彙力では、そう言い表すことしかできなくて。静かなだけではなくて、どこか弾むような声色。けれどそこに込められた感情の意味も、うまい表現も、少年の引き出しには入っていなかった。

「ああ。ガキは嫌いだ」
「なにそれ、ひどー」

 普段の彼女であればすぐさま着火するような言い回しを差し向けられても、ターリアの表情は変わらない。

「そんなにあたしのことキライなら、今はばいばいしてあげる」
「……」

 呆れたのかなんなのか、リードは自身に向けられた不遜な物言いに反応する気はないようだ。無視をされているはずなのに、ターリアはなぜか満足気な笑い声を漏らす。
 けれど、「じゃ、行くよ」と幼馴染に向けた視線と声はひどく平坦で。普段ならその気を遣われていない態度が嬉しいはずなのに、なぜかラファーユの心は荒れていた。

「……待て」

 ふと低い声がかけられる。一度扉の方へと向けられた少女の視線は、再びリードの方へと戻った。
 なあに、せんせ。そんな短い返答は、やはりラファーユが知っている幼馴染の湿度ではなかった。

「また同じようなことがあれば、寮は好きに使え」

 からかうような調子はすっかり抜け落ちて、ターリアは肯定とも否定ともとれない曖昧な相槌を口の中で転がした。彼女にしてはめずらしく、空中に言葉を探すかのように視線を惑わせる。

「ねえ、あのさ……」

 まだあまり見たくない会話は続くようだと、少しだけ身を引いたラファーユの服の裾がつかまれる。それは勝手に動くなという意味なのか、それともいつも通りただの気まぐれなのかはわからない。

「昨日のこと、言った? ウチの親に」

 少しの沈黙のあと、そんな声が職員室に響いた。それがターリアが探していた言葉なのかは彼女しかわからないけれど、違うのだろうとラファーユは考える。ほんの少しだけ掴まれているセーターが引っ張られて、袖が伸びる。手を離すことを恐れているかのような仕草からは、不安と後悔が感じ取れた。
 ラファーユの予想が正しければ、ターリアが知りたいのは両親・・への報告の有無についてではないのだろうと、そんなことを考える。張り詰めた空気を、緩慢な煙草の煙がぼかしていく。

「いや。俺にそんな義務はないからな」
「や……えー……あるでしょフツーに……せんせってホントに先生? こんなんで給料出んの?」
「さあな。とにかく、寮は自由に……ああ、大喧嘩はするなよ。手は出してもいいが物は投げるな」
「あのさ、あたしがそんな暴力すると思う? でもいーよ、叩くまでにしといたげる」

 わざとらしい軽やかな物言いに、リードは呆れたかのように視線を逸らした。なにかまだ言いたいことがあったようだけれど、それは投げ捨てることにしてらしい。煙草の香りを漂わせながら、彼は代わりの言葉を紡ぐ。

「……それから、一応言っておく。次は忍び込んでくるな」
「はーい。でもだいじょぶだよ、せんせ。次とかないから。よかったね?」

 向けられた言葉を軽く冷たく笑い飛ばして、ターリアは今度こそ背を向けた。その途端長い袖が彼女の口元を隠し、形のいい眉はきゅっとひそめられる。
 この数秒で不機嫌になったのではないことくらい、ラファーユはよくわかっていた。そんな仕草をしてみせることが彼女の防御法であることなんて、ずっと昔から知っている。あえて機嫌が悪いのだと誰にでもわかるようにしてみせて、だから近寄るなと突き放しているだけだ。そのくらいのこと、幼馴染である自分が一番、誰よりもよくわかっている。

「行くよ」
「う……うん」

 わかっている、というのに。自身を見上げた幼馴染の瞳がすっかり冷え切っている事実に、体温が下がったのは気のせいではなかった。
 ついぞラファーユの方を見もしなかった教師の背に、なんの意味もなく小さく頭を下げて。ゆるやかな三つ編みの少女に続いて、そっと職員室を出る。なぜか解放されたかのような気持ちになって、思わずため息がこぼれ落ちた。足を止めた幼馴染のことなんて気にも留めないターリアの背を追いながら、重たいスクールバッグを肩にかけ直す。

「……ねえ、あの、さ」

 なんだっていいからその足を止めてしまいたくて、次に続く言葉も決まらないままにラファーユは囁くような声を落とした。前を行く彼女の足が止まって、ゆっくりとこちらへ視線が向けられる。

「大丈夫、だった?」
「なにが」
「えーっと……色々」
「ハッキリ言ってっていつも言ってんじゃん。あたし、アンタの言いたいこと汲み取ってあげないよ」

 わかってる、わかってるよ。そんななんの繋ぎにもならない相槌を打ちながら、少年の頭はかつてないほど回転していた。どんなに難しい応用問題を出されたとしても、今ほど必死にはならないに違いない。あれも違う、これも違う、と頭の中の引き出しを開けては閉めて。将来は数学の公式なんかよりも、こういうときにスマートに相手を気遣った言葉を出せる大人になりたいと思った。

「……でも、ほら……先生って、大人の方だし……」

 結局繰り出せたのは、そんな要領を得ない言葉だった。
 きっとまた「言いたいことあんならちゃんと言って」だなんて突き放されてしまうのだろうな、なんて思っていたのだけれど。その予想は外れたようで、ターリアの視線は足元へと向けられた。

「んー……そうだけど」

 めずらしく袖から覗いた柔らかい指先が、手持ち無沙汰に三つ編みをいじる。その爪が色を纏わなくなったのがいつからか、ラファーユはちゃんと覚えていた。

「キミが、大丈夫ならいいんだよ。でもさ……」
「……わかんない」

 ターリアは、そっと後ろを振り返る。
 丸くて意志の強い、可愛らしい瞳。ラファーユが隣を見ればいつだって、その甘い色の中でしゅわしゅわと弾ける世界を見ることが出来て。きっと誰にも伝わらないだろうけれど、だから、彼は世界を綺麗だと思っていた。今だってそうだ。学校だなんていうなんの感動も感傷もない大きいだけのつまらない建物も、ターリアがいれば夢の国の甘い甘いお菓子のお城へと変貌する。
 だけど、と考える。だけど、もし、彼女が。

「わかんない、けど」

 彼女のひとりごとのような声は次第に小さくなり、続きは声になることなく溶けていく。

「……バカみたいだけど。せんせい、は……」

 緩やかに、夢を見るかのように伏せられていく彼女の視界に広がるものが、あんなに嫌がっていた学校の姿ではなかったら。その中心にいるのが、もしも――。
 その先を脳内に浮べることさえ拒否したくなるような想像に、ラファーユは無理矢理にでも幼馴染の視線を奪いたい衝動に襲われる。その手を引いて、どこか遠くのなにかを見つめている彼女の瞳に、自分だけを写すことが叶うなら。けれどどこまでも従順な彼では、そんな革命を起こせるような勇気も知恵も持ち合わせているわけがない。
 彼女と同じような動きをしてみただけのラファーユの瞳に映るものは、古びた薄暗い廊下だけだった。


 ◆

 
「……わたしね、喧嘩はよくないと思うわ」
「うんうん、そうだねー」
「けれど、どうしたってわかりあえないこともある……と、思ったの。そんな方々に無理に手を取り合ってもらうのは、きっと本人たちにとっても苦しいことよね」
「まあ、ね。人と人には、それぞれお似合いの距離感っていうものがあるわけだし?」

 ちゅんちゅんと愛らしい小鳥の歌声、静かに風に揺れる木の葉の囁き。そんな麗しい午後には不釣り合いの、ほんの少しだけ沈んだ少女の姿があった。
 ほっそりとした指先は思い悩むように頬に添えられ、その意識はめずらしく目の前の紅茶にもお菓子にも向かっていない。いつだって甘い煌めきと夢を宿して、ふんわりと優しい世界を見つめる彼女――シャーロットの瞳には、めずらしく困惑と戸惑いが渦を巻いていた。

「……マリーゴールド?」

 シャーロットの少し震えた声が、話し相手である級友の名を呼ぶ。名前を呼ばれた彼女の深紅の視線になぞられて、少女は初めて緊張を知った。そんな様子さえ愛でるように、マリーゴールドの白い手がシャーロットのそれと重なった。お行儀よく膝の上に乗せられていた手の輪郭をなぞられて、指先でくすぐられる。

「なあに? あ、マリーでいいよー」

 そんないたずらをしかけているマリーゴールドは、なんてことのないように言葉を返す。その軽さにまた一つ戸惑いを積み重ねて、けれど、シャーロットの声は淑やかさを保っていた。

「そ、そう。マリー、お話を聞いてくださってありがとう。わたし、こうしてお友達とお茶ができてとっても嬉しいの。けれど、けれど、ね、あのね……」

 ぐるぐると混乱する彼女をからかうように、重ねられていた手がそっと握られる。その行為に声にならない声をあげかけて、それは上品ではないと無理矢理喉の奥に押し込んだ。

「す、少し恥ずかしいかもしれないわ……!」

 半ば叫ぶかのように、シャーロットはとうとうその言葉を伝える。照れと緊張で息も絶え絶えという彼女に見上げられても、マリーゴールドはつかめない笑顔を浮かべているだけだ。「そうかなー?」と返された言葉は軽いもので、ふと近付けられた猫のような瞳への反論を失ってしまう。

「そ、そう、よ……。どなたかに見られていたら、わたし……」

 決してあなたのことが嫌だなんてわけではないのよ、という弁明を付け加えずとも、彼女にはその意図は伝わっていたらしい。ただただ照れてしまうというだけだということは、口にせずともわかっているようだ。
 それでも。マリーゴールドは自身より小柄な級友を――膝から下そうとはしなかった。

「わかってるよ。恥ずかしいんでしょー? でもさ、せっかく誘ってくれたんだし、仲良くなりたいなーって思うじゃん」
「ええ、ええと……それは、ありがとう。わたしもあなたと仲良くなりたいわ……けれど、ひ、必要かしら……? こうした……」
「必要ないんじゃない? やだっていうならやめるけど、恥ずかしいだけならこのままでいたいなー」

 どうにか言葉を選ぼうとする少女の姿をかわいがるように、マリーゴールドはくすりと笑い声を漏らす。
 どうしてこうなったのかだなんて、正直なところシャーロットはもう覚えていなかった。きっかけは簡単でそう特別でもないものだった、はずだ。自分ではどうすることもできない悩みごとを抱えていた自身の心境を目敏く察知して、話くらいなら聞くよと気さくに声をかけてくれただけ。
 初対面のときから、マリーゴールドは好意的で明るくて……シャーロットとしても、ぜひ話してみたい相手だったものだから。喜んで頷いて、提案したのは静かな植物園に隣接した小さなカフェ。放課後ならばあまり他の客もいないし、なによりテラス席から見える景色が素敵だから。そんな理由を並べてみると、彼女は楽しそうに了承してくれた。
 そこから先がどうなっていたかというのは、今の状況への衝撃ですべてが吹き飛んでしまっている。けれど覚えているのは、ふと向かいに座る彼女のそばへ呼ばれて席を立ったら……ぽすり、と膝に招かれていたことだけだ。

「そ……っ、それに、こういったことは! いけないと思うわ! 好意を向けるお相手にだけするような、親密な行為だとは……思わなくて?」
「えー? アタシ、君のこと好きなんだけどなー」
「……!? そんな……! いいえ、ごめんなさい、わたし、好きな人が……いるの……!!」
「あはは、失恋しちゃった」

 ペースを乱されているシャーロットとは対照的に、マリーゴールドは楽しそうに黒髪を揺らしている。失恋だなんて言いつつも、その表情に痛みは感じられなかった。からかって楽しまれているだけであろうことは予想がつくのに、甘くて優しい言葉だって向けられ慣れているはずなのに。どこか夜の危ない空気を纏う彼女に触れられていると、不思議とそわそわとしてしまう。
 いけないわ、と。シャーロットは「好きな人」のことを考える。
 いつだってとびきり優しくて、甘やかで、かっこよくて。少女にとっての王子様のようで、魔法使いであるあの人のこと。光であり、そして日常の象徴でもあるような彼のことを考えると、目の前の級友に乱された心は次第に落ち着いていく。それと比例するように、少しだけ体温はあがってしまうのだけれど。

「ていうか、好きな人とかいるんだ?」
「え、ええ。……好き……といっても、そうね。たとえば、お付き合いだとか結婚だとか……そういう意味ではないのだけれど」

 勘違いされないようにと一応言い添えてみたものの、シャーロットはあまり彼について深く話すつもりはなかった。自分の中でも整理のつかないこの親愛がどれほどの大きさなのか、うまく言葉にできる気がしなかったものだから。そんな態度から胸中を読み取ったのか、マリーゴールドは「そうなんだ?」と目を瞬かせるだけだった。

「あ、話戻っちゃうけどさー。さっきの、距離感の話ね」

 ふと、いたずらっぽい光は鳴りを潜めて。マリーゴールドは少しだけ落ち着いた声色で口を開く。

「くっつくのだけが正解じゃないって、アタシは思うよ。やなことされたなら離れるべきだし、それは周りとか相手になにを言われようと曲げるものじゃない。大事なのは、結局自分がどうしたいかだし? あの子たちだって自分の考えがあるんだから、そこを変えようとするのは……アタシならやらないかな」
「……そうよね」

 名前を伏せて始めた相談の前提は、彼女にも当たり前のように共有されていたらしい。シャーロットの手を握っていた指先が一瞬離れて、またすぐに重ねられる。

「でも、相手がなに考えてるかなんて聞かなきゃわかんないよ。アタシたちから見て仲悪そうでも、本人達は案外……仲良くなりたがってるのかもしれないし? 二人に聞いてみなくっちゃ」
「…………」
「……でも、まあ、そんな話して冷たくされて、こーんなかわいい子が悲しむところは見たくないけどなー」

 真面目な声色はすぐに変わって、そっと引き寄せられる。丁寧に整えられた髪型が崩れないようにと優しく抱き寄せられても、今度は胸が騒がしくなることはなかった。教室で見るたびに心が痛む光景を思い出して、ざわめく心には蓋をして。シャーロットは微笑んだ。
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