番外編

ドリーミン・バースデー


「……おっ、お誕生日、だったの……!?」

 めずらしく静かな放課後。罪人のような青い顔でエラは声をあげた。大きな声を出し慣れていない彼女が発した驚愕はずいぶんと震えていて、今にも崩れ落ちてしまいそうだ。

「そっ、そう、だ……ったんだ……ご、ごめんね、わ、わたし、いつもの……お礼も……お祝いも……」
「……いい。祝うようなもんじゃねえし」

 萎れた花のように小さくなっていくエラに対して、マグレヴァーはいつも通りぶっきらぼうだった。その様子を見て、エラはもごもごと黙り込む。
 そんなことないよ、お祝いがしたかったよ、なんて言葉が思い浮かんだけれど、それを口にすることはできなかった。なにか考え事をしているらしい彼の邪魔をしたくなかったし、誕生日にそう感情を傾けていないのならこれ以上続けるのは迷惑だと思ったのだ。
 それに、もし自分に祝われたくないだとか、そもそも誕生日を知られたくなかっただとか考えているとしたら……そんなネガティブの波に襲われて、脳内は不安定に揺れる。

「……お前は」
「えっ」
「誕生日」

 暗い不安に取り込まれそうになった頭の中に、低い声が入り込む。短い言葉は相変わらず優しくて、少しだけ呼吸が楽になるような気がした。

「あ、う、うん。あの……わたし…………えっと……十月なん、だ。十月の……えっと」

 誕生日を意識するだなんて、ずいぶん久しぶりに思える。去年はどう過ごしていたのかが思い出せなくて、きっとそれほどまでに普段通りの忙しなくて難しくて泣きたくなるような日だったのだろうと考えて。

「十月、ついた……ち…………」

 エラの声が次第に小さくなっていくのは、口にした日付に小さな引っかかりを覚えたせいだった。そしてそれは話を聞いていたマグレヴァーも同様だったようで、彼の視線は教室の壁にかけられたカレンダーへと移動する。同じようにそこに書かれた数字を確認したエラは、なんとも間の抜けた声をこぼした。

「…………あれ? ……今日?」


 ◆


「……そっ、……そ……そんな、わ、わるいよ、わた……っ、し、お、お誕生日、なんて……!」

 マグレヴァーの歩幅は大きくて、エラのもたついた足取りではすぐに置いていかれてしまいそうだった。街中に誰かといるというだけで踊ってしまう心とは裏腹に、エラの足取りは重い。それはただ単に、喜びだけでは誤魔化しきれない疲労によるものだった。
 体力がない上に疲れきっている体では、すぐに置いていかれてしまいそう。そんな焦りを浮かべながらかけた声は細くて震えていたけれど、どうにかマグレヴァーに届いたようだ。きっと届いたのではなく、彼が拾ってくれたのだろう、と考える。
 ――マグレヴァーくんは優しいから、と。
 本人からも周囲の級友からも否定されているけれど、エラはその度に控えめに首を横に振っていた。マグレヴァーは優しい。あの日からずっと。

「……別に」

 今だって、歩くペースを落としてくれていて。履き潰された彼のスニーカーが、ほんの少し戸惑うように足踏みをして、やがてぴたりと立ち止まった。
 制服のポケットに手を突っ込んだまま、長い前髪の隙間に隠れた瞳がこちらを見つめる。身長が高い彼に見下ろされても、エラが威圧感を感じて怯えることはなかった。それはきっと、マグレヴァーがいつもこちらの様子をうかがうかのように慎重な視線を寄越してくるからだろう。
 確かに彼は、いつだってにこにこと愛想のいいタイプではない。それでもいつだって向けてくれるさりげない優しさのことは、この鈍い頭でも理解できた。

「悪いとかじゃねえだろ……こういうのは。お前が嫌ならやめるけど」
「い……っ、いやとかじゃ、ないよ、ないというか、あの、嬉しい、うれしい、けど……あっ、けどじゃないんだけど……」

 とてつもなく鈍感でどんくさくて、人の望みを察することなんて出来なくて。そのくせ自分に向けられる善意にだけは敏感だなんて、泣きたくなるほど自分本位で……だからエラは、そんな自分が大嫌いだ。
 数歩分の距離を保ったまま、エラも立ち止まった。本当はもう少しだけでも近くにいけたら嬉しいだなんて思うのに、サイズの合わない汚れた靴では後ろを着いていくだけで精一杯だった。

「……わ、わるいよ……そ、そんな、嬉しいけど……お返しとか、できないよ……」
「返すもんでもねえし」
「そ、そう、そうかな……」

 エラが誰かを祝う立場ならば、同じようなことを口にするだろう。せっかくのお誕生日、年に一度のこの日へのお祝いに、そんなことを気にしないでほしいと。お返しなんて考えなくていいと言えるはずだ。
 けれどそれは、普通に生きていられる人の話。たとえば、そう、目の前にいる彼を始めとした、いつだって素敵な級友たちだとか。自分が同じ空間にいるだなんて恐れ多くてもったいないほどの彼らの姿を思って浮かれた心は、けれどすぐに引き戻される。
 普通に生まれて、普通に生きて。そうしていける人たちには価値があるけれど、お前は違うと突き放されたことを思い出す。まるでその記憶が人生の始まりかのように、鮮烈に残っている日のことを。
 所作一つ、家事一つうまくこなせずに迷惑をかけるばかりの自分が、人並みに尊重され大事にされようとするだなんていけないことだ。植え付けられた価値観は重りとなって、今も足に縛りついている。

「ほしいもんも別にないなら、いい」

 相変わらず短い言葉だったけれど、彼なりに断る理由を用意してくれているのだとわかった。
 それに一瞬ほっとして、勝手な我儘で人からの好意を無下にするだなんて傲慢だと気が付いて。けれど自分のような人間にお金と時間を使わせることは申し訳ないことだから……なんていう言い訳が飛び出しそうになる。どう転んでも迷惑と失礼を積み重ねることになってしまうと考えて、エラの脳内は混乱を極めていた。

「でも、あの……」

 何度口にしたかわからないぼやけた否定を繰り返しながら、エラは周囲を見渡した。助けの手なんて差し伸べられるわけがないのに、どこかでなにかがどうにかしてくれるのではないかと期待してしまう。
 なにか安くてほしいもの、それかうまく相手を不愉快にしないお返事。自分のようなどんくさい頭では、おそらくこの短時間に後者を見つけ出すのは無理だろうとわかった。だからといって、ほしいものなんて。ぐるぐると回る脳内ではなにも制御しきれず、次第に目の前すらおぼろげになっていく。
 そんなときだった。

「あ…………」

 ふと、エラの視界の隅にまぶしい光が目に入った。店先に置かれたワゴンの中、雑多に積み重なって詰め込まれた品物たち。その乱雑な様子からもわかるように、入れられているのは売れ残ったセール品らしい。
 きっと誰もが見落としてしまいそうなそこに埋もれているのは、チープに色付いたプラスチック。
 形としては、どこにでもある丸いコンパクトミラーだ。手のひらに収まる持ち歩きに向いたサイズで、きっと出先で身だしなみを整える際にでも使われるものなのだろう。エラとしてはあまり必要としないものだ。そうした身だしなみに気を遣う心の余裕も、時間の余裕もない。幸運なことに、自身の癖のない髪はあまり意識せずとも乱れることは少なく、そうした面でもミラーを今すぐ買う必要性はない。
 必要がないものには目を向けず、今最低限の生活を乗り越えるためになくてはならないもののことだけを考えて。そうして生きてきたはずのエラが、鏡なんてものに目を奪われてしまった理由は単純だった。

「……か、かわいい……」

 ――とてもかわいかったから。それだけ。
 その装飾はまるでお姫様のもののようにキラキラしるけれど、実際にそんな高貴で美しい人には不釣り合いにごちゃついていて。原色に近いピンクと、簡単に剥がれてしまいそうな金メッキで彩られているその鏡。きっと宝石とはまったく違うのであろう不自然に透けるような輝きが形作るのは、大きなハート。小さな女の子向けであろう鏡は、手に取るとおどろくほど軽かった。

「……それ」

 壁に寄り掛かりエラの不審な挙動のすべてを見ていたマグレヴァーが、口を開いた。その瞬間、まるで鏡で火傷でもしてしまうかのように手を放す。
 実際に、まるで熱を持っているようだった。その熱さが焦がれた輝きからきているものなのか、分不相応に燃えている思いからなのかは、鈍い頭ではわからない。
 行き場のない感情を手遊びで誤魔化しながら、エラは真新しい傷口が開かれていくのを感じていた。ちょうど今、不器用な指先がささくれを引っ掻いたのと同じように、その痛みはじわじわと広がっていく。

「……えっと……かわいいけど、あのね、もったいないよ……わたしみたいなのが、こ、こんな、かわいいの。それに……見た目なんか……わたしなんかが、気にしたって……」

 過去に言われたことをなぞる度に、深海に沈んでいくような心地になる。
 あまりにも卑屈だからか、それとも発言が要領を得ないからだろうか。マグレヴァーはあまりぴんときていないようで、不可解そうに眉を寄せてワゴンの中へ隠すように戻された鏡を見つめている。きっと彼はこんなことを気にしたりしないのだろうと考えて、自分の矮小さがまた嫌になった。

「あと……えっと……えっと、こどもっぽい……から……これ……」

 そんな言葉をひねり出しながら、エラはうつむいた自分の頬が熱くなるのを感じていた。
 それは「子供っぽい」ものに見とれているところを見られてしまったから……ではなくて、こんな風に大好きなはずのものを下げてしまう自分の弱さが恥ずかしかったからだった。自分の心を守る防壁というには張りぼてで頼りないけれど、これがエラにできる精一杯の防御なのだ。
 幼い子が好むようなものに惹かれてしまう自分の幼稚さなんて、自分が一番わかっているから。家族からの嘲笑に晒され続けた少女は、こんな方法しか思いつけなかったから。

「……」

 ぐるぐると自己嫌悪に陥って黙り込むエラを、マグレヴァーは静かに見つめている。大きくて角張った手が、諦めた輝きに伸ばされる。自分とは違って片手で簡単に掴みあげる様子に、空気を読めない心臓が密かに高鳴っていた。
 少しだけ荒れている大きな手は、触れたら暖かいのだろうか。その答えを知ることは叶わないに決まっているけれど、エラはいつもそんなことばかり考えている。

「いいだろ、別に」

 途方もなく長く感じた沈黙の中、マグレヴァーが口にしたのはそれだけだった。

「えっ、で、でも、でも……」
「もったいないとか、思わねえし」
「……そう、かな……」

 その優しさを受けても、動かない指先が情けなかった。それどころか、彼は早くこの時間を終わらせたいからお世辞を言ってくれているのでは、なんてことを思いついてしまう。けれど小さく短い肯定が返って来れば、エラの思考はすぐさま低い声の心地よさへと引きずられていく。
 手出せ、という言葉に従って両手を開くと、そこにコンパクトミラーが置かれる。子供っぽくてチープでごてごてとやかましくて、この年になって持つようなものではきっとなくて、見られたら家族になんと言われるかわからなくて、もったいなくて、そして――なによりもかわいくて、ときめいてやまない、その鏡。

「……ほらな」

 そう言ったマグレヴァーの声色は、めずらしく満足げで。エラは小さくうなずいてみせることしかできなかった。
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