番外編
嘘つきとお姫さま
子猫の鳴き声は、世間が持ち上げるほどかわいいものではないと思った。
庇護されることを期待しているかのような甘いその音はどちらかといえば不愉快で、服越しに感じる柔らかい体温は気持ちが悪い。
勝手に膝の上で丸くなる子猫の姿に、ふと足が不機嫌を刻みそうになって、やめて。苛立ちを外に出すことが出来ない不満のせいか出そうになった舌打ちも、どうにか抑えた。
それは決して、人の膝で寝入ったこの小さい不躾な生き物への配慮ではない。これは、ただ単に――。
「わ、わあ……寝ちゃったね……。ま、マグレヴァーくんに、懐いてるのかな……かわいい……」
「……ん」
いつも怯えたように目を伏せている少女が、めずらしく瞳を輝かせているから。それを邪魔するのは、ほんの少し気が引けるというだけのことだった。
そもそも動物嫌いのマグレヴァーがこんな野良猫の相手をしてやっているのも、子猫を愛おしそうに見つめる級友――エラに頼まれてのことなのだから。
相手のテリトリーに招かれている側である以上、滅多なことがない限り不満を露わにするようなことはしない……というのが、一応存在している彼の良心だった。なんて信念の割に自覚している数倍は怒りっぽい彼は、目の前にいるのがエラでなければ早々に苛立ちをぶつけてこの場を去っていただろうけれど。
「あ、えっと、あのね……っ」
ただでさえ細い声は、さらに吐息混じりに揺れている。周囲の木々にさえ声を聞かれることを恐れるようなその様子が一瞬不可解に思えて、けれどすぐに子猫のために声をひそめているのだと思い当たった。
猫に目線を合わせるため地面に座った彼女は、どこか不安そうにマグレヴァーを見上げていた。自信なさげな下がり眉に、今にも泣きだしそうにぼやける瞳の輪郭。この瞳に見つめられるたび、他者を気遣うことを知らない胸中にほんの少しだけ焦りが灯るような気がする。だからといって、どこかのお坊ちゃまのように優しい言葉をかけるだなんて到底できなくて――マグレヴァーはいつも、不用意なことを言わないように黙ることしか出来ない。
「あの、でも……う、動けなく、なっちゃったね……ごめんなさい……」
「別に。やることもねえし、気にしない」
それは半分本当で、半分嘘だった。
予定がないのは本当。こんな夜に外をふらついていたのは、なにか用事があるからではない。ただなんとなく落ち着かなくて、部屋にいたくなかったからだ。ぼんやりと過ごしてみても、いつものような現実逃避をしてみても、不思議と気分は悪いまま。行くあてもない怠惰な散歩だったものだから、むしろ暇が潰せて助かっているといえるだろう。
けれど、「気にしない」だなんて言葉は真っ赤な嘘だった。生暖かく気持ちが悪い子猫の体温はどうしたって不愉快で、ついその不快感が外へと出そうになってしまう。こんな小さな生き物ごときに動きを封じられて、正直なところ不快で仕方がない。
「……そ、そっか、えっと、ありがとう……」
もじもじとした手遊びのあと、下手な笑顔を向けられる。本来ならば涼やかな印象を与えるのであろう彼女の目元は、へたりと下がっているせいでいつだって幼く見えた。
いつもなにかに責められているように身を縮こませるこの少女、エラとマグレヴァーは同じ学校に通う同級生だ。それ以上でもそれ以下でもなく、マグレヴァーはたいして彼女のことを知らないし、向こうも同じだろう。そんな距離感は人嫌いの彼にとっては好ましいものだから、別に構わない。
「あ、あの、わたし、好きなんだ……猫ちゃんとか……」
「へえ」
「…………え……っと……ど、どう? マグレヴァーくんは……」
「俺も、まあ」
これは完全なる嘘だった。人間のルールも言葉も通じず、それが当たり前だとでもいう顔をしてペースを乱してくる動物なんてもの、マグレヴァーは大嫌いだった。特に、猫のような気ままな生き物は。
――マグレヴァーは、傍から見ていてもわかる大の人嫌いだ。だからといって動植物に心を癒されるのかといえばそんなこともなく、やかましいだけの動物も場所をとるだけの植物も大嫌いだった。
そんな彼がどうして他人と一緒に動物の面倒を見ているのかといえば、偶然と成り行きによるものだ。
偶然わたわたよたよたと歩くエラの姿を見つけただけ。だというのに、彼女がひっそり構っている捨て猫の住処までやってきているのは、知り合いと外で目が会った際の当たり障りのないフェードアウトの仕方がお互い身についていなかったせいだ。沈黙に慌てたようなエラの自己開示を止められず、こんなところまで着いてきてしまっただけ。
「……俺、動物の世話の仕方とか知らねえけど」
「……う、うん……あ、……あ、あの、あの……やだった、かな……えっと……」
「嫌とは言ってない。ただ……」
途端に暗い顔になるエラを横目に、これからどうしたものか思案する。どうするもこうするも、猫と彼女が満足するまで動けないのだけれど。今すぐ猫を膝から下ろして帰ることだって出来るものの、それをする気は起きなかった。猫はともかくとして、エラはぐるぐると気にして泣くだろうから。
「詳しいのも連れてきた方がいいんじゃねえの。あー……」
なるべく優しく、慎重に。言葉の裏を読もうとして、相手の相槌一つさえ擦り切れるまで探ろうとする彼女のために。
「マリーゴールドとか、いたら……。別に、俺になんか手伝えって言うんなら……やってやっても、いいけどさ」
「え、っと……そ、そう、だよね、……マリーゴールドちゃん、って、猫ちゃんの……お友達、いるし……」
エラはまだ暗い表情のまま、ひとりごとのような声量で細々と言葉を連ねる。「猫ちゃんのお友達」だなんて語彙はマグレヴァーの辞書にはないものだったけれど、そこを突っ込むのはやめておいた。
「…………で、でも、あの……ね……き……」
もじもじとした手遊びがぴたりと止まり、かわりに表情を隠すように手が頬に添えられる。小さく息を吐いて、あのねと囁かれた声は今にも消えそうだ。
「……緊張、しちゃうから…………」
エラはまるで愛の告白でもするかのように、顔を真っ赤にして囁いた。細くて荒れた指先が隠した表情の奥、目が泳いでいる。
「……はなし、かけられないの。マリーゴールドちゃん、い、いつも周りに、だれか、いるし……」
「あー……」
彼女の言う通り、外で見かけるマリーゴールドはいつだって人に囲まれている。あんなにきゃあきゃあと周りで騒がれて、よく苛立たないものだと感心してしまうほどだ。いつも誰かが近くにいるか、一人でいてもすぐに誰かが声をかけているか。それがマリーゴールドの常なのだ。臆病な上に人見知りらしいエラでは、見知らぬ人と同席しなければならない可能性には耐えられないだろう。マグレヴァーも赤の他人との当たり障りのない会話は嫌いだから、なんとなくその気持ちは察することが出来た。
けれど、そうは言っても。マリーゴールドは遠慮はないものの、配慮にかけているわけではない。エラが望むのならば他人は寄せつけず、心ゆくまで猫の相手くらいしてくれそうなものだ。
「あ、あと、あの、ね……」
わざわざそんなアドバイスをしてやる必要もないのだけれど、マグレヴァーの脳内ではエラを怖がらせない言い方の最適解を模索し始めていた。あまりお行儀のよくない場に身を置いていた自分では、きっとどう言葉を選んでも……なんて考えは、小さな声に遮られる。
「あ、あの……め、迷惑だったと、おもうんだけど、最初は、マグレヴァーくんが、よかったの……」
「…………」
「……マグレヴァーくんは、優しいから…………あっ、あの、ちがうの、マリーゴールドちゃんが、そ、そうじゃ、違うって……わけじゃなくて、あの、優しくないって、そんな意味じゃなくて、あの……」
バカじゃねえのだなんて言葉が反射的に口から出かけて、目を逸らして飲み込んだ。
自分のどこにそんな優しさを見出したのか、まったくわけがわからない。相当な節穴かなにかを勘違いしているのか知らないけれど、どうかしているとしか思えない。
だってマグレヴァーは、これまでの人生で優しい心なんてもの一度も持ったことがない。そんな殊勝な心がけも、人に優しくする余裕なんてものも持ち合わせていなかったのだから。今も、気を抜くと飛び出しそうなきつく棘に満ちた言葉を我慢することで精一杯だ。
「……別に」
けれど、とマグレヴァーは考えた。なぜエラの前では、いつも通りの言動を避けようとするのだろうか。言葉を選ぼうとするあまり緩慢で低くなった声は、自分のものながら薄気味悪かった。
「…………優しくした……覚えは、ねえけど」
出来る限り語気も語調も柔らかくした発言は、相変わらず素直なものではなかった。
通常営業ならば、「俺のどこが優しく見えんだよバカが」か「頭お花畑かよ」程度は飛び出しているのだから、随分と気を遣った言葉と言えるだろう。そんな自分が心底気持ち悪くて、マグレヴァーは思わず子猫に視線を落とした。
「そ、そ、そんな……こと……」
一連の言動を謙遜かなにかだと捉えたのだろう。もごもごとした否定を口の中で転がしたあと、エラは結局黙り込んで項垂れた。
きっと彼女の頭の中では、様々な思いが渦巻いているのだろう。変なことを言わなければよかっただとか、謙遜はもっと素早く否定するべきだっただとか、その他諸々考えているに違いない。マグレヴァーにはあまり理解できない真面目さだ。
「……お前がいいならいいけど。この……あー……猫、ちゃんと世話すんなら他にも聞いた方がいいだろ」
「そ、そう、だね……あの、ありがとう……!」
エラに聞かせるべきではないような呼称が口から出かけて、一瞬背筋が凍ったような気がして。そしてすぐに、こんなことを気にするだなんて馬鹿げていると自嘲した。
確かに彼女は人畜無害で臆病な、マグレヴァーの害にならない貴重なクラスメイトだ。他の面々はどれも災害のように迷惑だけれど、エラに限っては違う。違うのだけれど、この程度の理屈が態度を変える理由になるような素直な性格ではないことは、自分が一番よくわかっている。
「……あ……」
そのときふと、膝の上の重心が動いた。それに先に気付いたのはエラの方で、いつもどこか曇り空のような憂鬱さをたたえる瞳がきらめく。
どうやら子猫が起きたらしい。にゃあにゃあみーみーと騒がしくなる様を想像して、マグレヴァーは頭が痛くなった。寝ぼけたままの小さな肉球に足踏みされて、ぞわりと鳥肌が立つ。
「わあ……」
そんな級友の内心なんて露知らず、エラは頬を染めて子猫を見つめていた。下がった目尻は、今に限ってはこぼれそうな涙を我慢しているものではないのだろう。
動物をかわいいだなんて思えない。けれど、エラを笑顔にするだけの価値がこの子猫にあるのだと考えると……不思議とそれなりの可愛げがあるように見えてくる。
「か、かわいいね……!」
「ん」
だから、今度は嘘ではなかった。本当に心から、かわいいと思えたのだ。
ふわふわとした毛に指先を埋めて、その柔らかい体温にかわいいねと綻んで。きらきらとした瞳に写っている子猫を見つめるふりをして返した同意の向かう先に、彼女はきっと気付いていないだろうけれど。