第2章 ミニアチュール=レゾンデートル
15 Birds of a feather flock together.
翌朝は静かで、昨夜の出来事なんてなかったかのようだった。
ターリアは早朝には静かに出ていったようで、リデルが起きた頃にはその痕跡はどこにも見当たらない。その代わりに見つけたのは、リビングのソファに座って包帯をいじっているドロシーだけだ。
「おはようございます」
「……おはよう……えっと、いつの間に帰って……」
「午前三時です。貴方たちは眠っていたようなので、話しかけませんでした」
既に制服を着ている彼女は、真新しい包帯に遊ばれているようだ。手元でぐちゃぐちゃと絡まるそれに眉をひそめながら、黒手袋が強引にその端を引っぱる。
どこか不慣れに見える動作が気がかりで、リデルは少し離れたところでその様子を見守っていた。人のことは言えないけれど、ドロシーは世間と常識から隔絶された場所で暮らしていたように見える。どこか生活が覚束ない彼女を赤の他人だとは思えないのは、境遇に親近感を感じているからだろうか。
自分を見つめる視線を気にせず、ドロシーは危なっかしく包帯を取り替えようとしている。ふと古い包帯が取り払わられたとき、思わず声を上げた。
「その傷……」
「なにか……ああ、これですか。問題ありません。痛くなどありませんから」
はらりと落とされた白の下から現れたのは、鬱血痕とあざに塗れた素肌だった。少女の肌に濃く残された痕はどうしたって過激な暴力を連想させる。その色からして新しいものではないようだけれど、それでもリデルの心は傷んだ。
「三千年前の古傷です。私は神様ですから、この程度大したものではありません」
その言葉はあまりにも突拍子がなかった。どう見てもリデルと同年代の彼女の体に、そんな大昔の傷跡が残っているわけがないのだから。けれどそんな理性とは裏腹に、リデルは「それならいいんだ」なんて肯定を本心から口にしていた。
本当に彼女の傷は三千年前につけられたもので、長い時間が経っているから今は痛くもなんともないのだと。そんなシナリオに、心の底から納得している自分がいた。馬鹿げている、そんなわけがないと理屈ではわかっている。だというのにドロシーの口から語られる言葉は、すべてが引っかかりなく脳に心地よく染み込んでいく。
洗脳でもされているようだ、と考えてしまう。
ドロシーがそう言うのならば、カラスだってきっと白くなる。彼女に常識を書き換えられることを受け入れて、それに一片の疑問も抱かせないような――彼女の静かな声のせいなのか、あふれている確固たる自信のせいなのか、判断はつかないけれど。
「それよりも、昨夜はターリア・モールメーテルがここに来たそうですね」
リデルの返答に満足したのか、ドロシーは次の話題を口にする。手元は相変わらず、包帯に弄ばれていた。
「そ、うん……なんで」
なぜ知っているのかと投げかけそうになって、リデルはすぐに口を噤んだ。きっと、明確な答えは得られないに違いない。返される言葉は、きっと先程と同じだ。
――神様ですから。
その言葉を脳内でなぞるのと、平坦な声が一言一句違わず口にするのは同時だった。なんでも知っているのも、ひどい様子の怪我がなんてことないのも、すべては己が神だから。神の存在も、これまで数多の人によって積み重ねられてきた信仰の歴史もなにも知らないリデルの理性としては、つい首を傾げたくなる言葉だ。
神とはそれほどまでに全知全能なのだろうか、と。
信じていないというよりは、なにもわからないという方が正しかった。信仰だろうと不信だろうと、知らなければ身の置きどころすら決められない。リデルはこれまで神に助けを求めたことも祈ったこともなかったけれど、それはなにかの信念による行動ではなく……そうした行為の存在を意識する環境にいなかったからだ。
「私に分からないことなどありません。私はすべてを知っていますよ」
そう付け足したドロシーは、再び包帯と格闘し始める。不器用に戸惑うような手元からは、彼女が語るような全能性も威厳もあまり感じられない。そう思ったことを告げれば、淡々とした声色を感情的に染めて怒るのだろうか。手伝おうかとかけた声は、「人間の手助けは不要です」と断られてしまった。
「ドロシー、なんでターリアにあんなこと……」
リデルの言葉にあの日の出来事を思い出したのか、ふとドロシーの手が自身の頬に添えられる。そこに叩かれた形跡はもう見られないものの、だからといって記憶と事実が消えるわけではない。
一瞬目を伏せた彼女は、頬が受けた痛みを気にする素振りもなく淡々と口を開いた。
「私が、救うべき人間だと思ったからです」
それは随分と要領を得ない返答に思えたけれど、ドロシーの中ではすべてが正しく繋がっているようだ。リデルが口を挟む間も与えず、彼女は続ける。
「救うべき相手でないのなら、私があんなにも親身に接する理由なんてないでしょう」
「し、親身?」
「はい。ですが、私にとってすべての人間は救うべきものですから、冷たくすることなどありませんが」
親身。彼女に親身になられたことなどあっただろうか。そんな疑問が浮かんで、すぐに腹の奥へと飲み込んだ。きっとマグレヴァーだったら、そのまま直接ぶつけてしまうのだろう。
「でも、ドロシー……」
「リデル・ネーヴァルレンド」
心配とお説教の混ざった消えかけそうな声色は、堂々とした声にさえぎられた。それがあえてのものなのか、リデルの声が耳に入っていなかっただけなのかはわからない。
「貴方に言いたいことがあります。神様からの言葉ですよ、しっかりと聞くように」
一度包帯を置いた暗い瞳が、こちらをじとりと見つめてくる。吸い込まれてしまいそうな深淵のその紫は、なにも映っていないように思えてしまう。虚ろな空洞を覗いた先、そこから目が離せないのはなぜなのだろう。心地いい暗闇に身を委ねかけたとき、ドロシーが口を開く。
「私たちは思考を奪われたままの、平凡な死体ではありません。脳みそが動いているのならば、縋るものも救うものも自分で選択しなければいけません」
全知全能らしい神から受けたのは、そんな言葉だった。きっとこれに少しでも心を動かされていたのなら、単純な自分はきっとこの瞬間に神の信徒になっていたのだろう。そんなことを冷静に考えるくらいには、リデルにはぴんと来ない教えだった。
流されるな、と言いたいのだろうか。確かにその忠告は間違っていない。
父親とまともに言葉を交わさなかったあの頃から始まり、すべての濁流に足を取られ続けた結果が今の環境だ。そこにリデルの意思が介在したことなどなく、あれほど望んだ家の外での生活でさえ自発的につかんだ現実ではない。心のどこかに疑問と不安をはびこらせたまま学生生活は進んでいて、自ら不安へと目を向けようとしたことはなかった。もしかしたら、そんな弱さを叱責されているのかもしれない。一体どうして、それを目の前の少女が指摘してくるのかはわからないけれど。
「貴方と私はとてもよく似ています。この私と血を分けたといえるでしょう。貴方の今の態度は、言うならば……私の血にふさわしくありません」
ドロシーが語った内容は相変わらずよくわからなかった。それでも、どうやらこれが先ほどの
置かれた環境に近さこそ感じるものの、リデルとしては自分たちが似ていると考えたことなんてなかった。背丈も容姿もどこも似ていないし、もちろん性格だって。そして言うまでもなく、リデルには親の他に血縁などいないのだ。だから、「血を分けた」という言葉には首をひねるばかりだ。
困惑を隠そうともしない様子に、ドロシーは小首をかしげる。あまり栄養状態がいいとは言えない、ぱさついた髪が揺れる。
「ですが、構いませんよ。そんな貴方のことも、私が救ってあげましょう。私に縋ったって構いません。貴方たちが、それを選択するならば」
だって私は神様ですから、と。朝の空気に、何度聞いたかわからないセリフが溶けていった。
◆
「……カミサマ、ね」
バカみたい。少しの諦めと多分な疲れを含んだ声が、住宅街に響いた。
いつだって物静かでお行儀のいい通りに、気まぐれな靴音だけが鳴っている。その足音の主も目的地に着いたようで、朝の空気は再び沈黙に包まれた。大きな家々を囲む塀の中には、よく手入れされた花が咲く庭。綺麗な表札に可愛らしいだけの置物。今はきちんと鍵がかけられている扉は、あと数十分もすれば出勤だとか買い物だとかをする幸せな住人の手によって開かれる。
――そんな幸せな人々が暮らすここに、自分が不釣り合いなことを彼女はよく知っている。
外から見える家庭の姿が、そのまま内情を表しているわけではない。彼女の瞳に映る幸せな家族が、家の中でもそうであるとは限らない。そんな当たり前を何度繰り返してみても、今日は感情が落ち着かなかった。
たとえ内側がどうであったとしても。取り繕えているだけ、まともで頭のいい人たちに違いない。少なくとも、自分の親よりは。そんな風に考えて、少女は自身の家の姿を睨みつける。見た目だけならば、なんてことないこの周辺の生活水準に見合った一軒家だった。視線を落としたその先に、自身のローファーが目に入る。苛立ちをぶつけるかのように地面を蹴ったつま先が痛い。
「…………ターリア」
きい、と静かにきしんだ音を立てて家の扉が開かれた。それまで警戒を振っていた自分の家から意識を逸らし、隣の家へと視線を向ける。見開かれた青い瞳の少年――ラファーユに、ぴしゃりと文句を浴びせた。
「遅い」
「ご、ごめん。……いないと、思ってたから」
その言葉に、きっとまた彼は隣家の明かりを気にしていたのだろうと思い当たる。そして、一晩結局暗いままだったターリアの部屋を見て、なにかを考えていたのだろうとも。他の男ならば気持ち悪くて仕方のない話だけれど、彼に限っては不思議と気にならなかった。
「なに、悪い?」
「悪くない、嬉しいよ!」
「あっそ。行くでしょ、学校」
背を向けられたことに焦ったのか、「ついていっていい?」と慌てた声が追いかけてくる。好きにすればと返せば、もう一つの靴音が隣に並んだ。ついていくもなにも、どうせ行く場所は同じなのだからとんだ茶番だ。そんなことを考えて、口にしかけて、ターリアは結局黙って歩いていた。
ターリアとラファーユは、家が隣同士の同じ年の少年少女だ。
その関係性は「幼馴染」だなんてもので表せるのかもしれないけれど、ターリアにとってその呼び名はなぜかしっくり来なかった。自分と彼の関係を表すならば、「お隣さん」……それが彼女の考えだ。気付けば自分の側にいたこの男子について、語れることは案外少なくて。それはターリアの性格と、ラファーユから向けられる重い感情の影響だろう。
「……昨日、さ……元気だった?」
「まあまあ」
恐る恐るかけられた疑問は曖昧で、だからターリアも曖昧に返事をする。昨夜なにがあって、どこで寝て、いつ起きたか。そんなことを相手が知りたがっているのは明白だったけれど、聞かれないのならば教えるつもりはなかった。いつだってそうだ、二人の間に横たわる不気味な暗闇に気が付かないふりをしている。
あの自称神様に手をあげた日から、まるで世界の色が変わったかのように思える。それは決して罪悪感などからくるものではなくて、踏みつけて見ないふりをしていた痛みを無理矢理差し出されたからだ。
これまで誰も踏み込んでは来なかった。そもそも踏み込みようがないのだ、ターリアが他人には話していない秘密なのだから。知っているのは当事者たる自分と両親、それからラファーユだけ。両親とは話したくもないし、隣を歩く男にも正直大した期待は寄せていない。幸い見て見ぬふりは得意だったから、このまま緩慢と、どうとでも。そう思って逃避を重ねていた日々を壊したのが、あの――。
「あのさ、ターリア」
「なに」
「……言っておいたから、あの……子、に。そういうのよくないって」
「アンタみたいのが文句つけたとこで、聞くようなヤツじゃないと思うけど」
固い誠実な言葉に返したのは冷たい嘲笑。
ドロシーに傷をえぐられて以来、家に帰る気も勉強をする気も起きなくて。広いようで随分と狭いこの街を意味もなくさまよっている間に、真面目な彼は形式ばったお説教をしていたのだろう。人を傷付けてはいけません、嫌なことを言ってはいけませんだなんて、そんなつまらない話をしている姿は容易に想像がつく。そして、聞き手にはそう響いていなかったのであろうことも。
「でも、そうだとしてもだよ。そういうのは傷付くって、教えないといけないし。知っててやったなら、それはよくないことだし。……それでももしまたああいうこと言うなら……」
「いいよそーいうの。アンタ怒んのヘタじゃん」
「へ、下手……だけど! 下手だから意味ないってわけでもないだろ! ……それに、ちゃんと怒れるよ。キミが嫌なもののためなら。なんだってできるよ。……ボクはキミに、幸せに楽しく生きてほしいんだ。そのためなら……」
ほんの少しだけ温度の下がった声色に、ターリアはまた始まったと居心地悪く視線を逸らした。
ラファーユが決まって口にするこの言葉は、ターリアにとって都合よく扱えるときもあればそうでないときもある。そして、今は後者だった。キミのためならなんでもするよと、キミの幸せのためならなんだってと言われたって、これを素直に受け取るのはどうにも難しい。へにゃへにゃと気の抜ける笑みを浮かべて向けられる、いつも通りの恋の発露であったのならば。快くその言質を盾にして、なんでもかんでもやらせただろう。お菓子買ってきてだとか今からでかけるからついてきてだとか、そんなかわいらしい我儘をぶつけてみせて。
けれどラファーユの口にするこの言葉は、時折ただのふやけた告白を超える。耳馴染みのいい男子の声が静かに沈んで、真夏の青空のような瞳に霜が降りるときがある。その度ひそやかに彼女の手に委ねられる愛で研がれた刃を制御するには、自分も相手も幼いことを彼女はよく理解していた。
「……だから、いいってば。幸せとか言われてもさあ……」
いつも通り否定と不満を口にしようとしたターリアの言葉が、ふと途切れた。不思議そうに少女の顔を覗き込もうとしたラファーユを制して、彼女は今思いついたかのように言う。
「あのさ、学校ついたらちょっと寄るとこあるかも。いいよね」
「……? う、うん。ボクが一緒でもいいなら、ついてくけど」
「別にそれはどうでもいい。来たいなら来れば?」
明確な目的ができたからだろうか。途端に少し早足になるターリアに慌てて歩幅を合わせつつ、ラファーユは「なんの用事?」と尋ねる。今日も愛らしく結われた三つ編みを揺らして、彼女は答えを返す。
「職員室!」
その弾んだ声は、突然あがった歩調のせいだ。いつも部屋の中の数歩すら面倒くさがり、移動だって気怠い彼女はそう体力があるわけではないから。だから、なのだと。
ラファーユはそう信じて、地面を蹴った。