番外編

やけどぎみスイートハート


 それはリデルが街中に容赦なく照りつける太陽の暑さを知らなかった頃、一月の寒い日のことだった。

「あなたのお誕生日はいつなの? お祝いしたいわ。教えてくださらない?」

 シャーロットはそう無邪気に笑って、細い指を祈るように組んだ。なにかをお願いするときの彼女の癖であるらしいその仕草にも、学生生活にも慣れてきたある日の、何気ない質問。

「…………」

 それは世間話で、そしてお返しなのだろうとすぐ想像がついた。
 シャーロットの誕生日に祝いの言葉をかけた記憶もまだ新しく、きっとあの日のお礼も含めてリデルの生まれた日も気にかけているに違いない。だから日付くらいさっと答えて、でも気持ちだけで十分だよとでも言ってみせるべきだろう。
 そんな無難な返しは頭に浮かんでいるのに、なにも言えずに視線をさまよわせてしまう。そんなリデルに不安を覚えたようで、シャーロットの眉が下がった。そんな表情をさせたいわけではないのにだなんて思いつつ、うまい返しが思いつかなくて。

「……リデル? ごめんなさい、わたし、その……なにか、気の進まないお話をしてしまったかしら」
「い、いや、ううん。違うんだ、そういうことじゃ……なくて……」

 いつもよりも緩慢な返答で時間を稼いでも、彼女に気を遣わせない言い訳はなにも出てこない。だから結局、真実を口にするしかなかった。
 その事実はなぜか重く感じて、静かな教室の空気の中に無遠慮にごとりと落ちるようで。あまり深刻にならないようにと浮かべた下手な笑みの効能は、たいしたものではないらしい。

「ただ、その。僕の誕生日……って、いつだろうと思って」
「……まあ」
 

 自分の誕生日がわからない、と。
 シャーロットと共に訪れた職員室で告げた言葉に、リードはめずらしくその無愛想な顔に感情をこぼしていた。信じられないものを見たかのようなおどろきと、それからかすかな悲痛。自身の生まれた日を知らないだなんて、他の生徒からはまず出てこない疑問をぶつけられれば、さすがの彼も驚愕を隠せないようだ。
 「……そうか」と無理矢理ひねりだしたらしい相槌以外にもなにか言いたそうだったけれど、結局言葉は続かなかった。視線を逸らすリードの姿に、リデルもなぜだか気持ちが落ち込んでしまう。

「ですから、ね。先生」

 二人の間に流れる沈んで停滞した泥のような空気に、甘く清らかな声がそっと入り込んだ。リデルの半歩後ろで、赤いリボンが揺れる。

「先生でしたら……書類上だったりとか、そういったもので目にされたのではないかって。もしご存知でしたら教えていただきたくて」
「そ、そう……なんです」

 本来ならば自分で話すべきことだったけれど、あれほど事前になぞったセリフがなぜかここではなにも出てこなかった。シャーロットの説明に乗っかっただけの一言すら不自然に硬くて、誤魔化すように視線を泳がせてみる。

「八月三日」
「えっ」
「……だから、お前の誕生日だ。書類のどこかで見た覚えがある」

 煙草に火をつけながら、リードは冷たく言った。
 シャーロットの予想通り、先生が知っていてよかった。それが最初に出てきた感想だった。これで彼もわからない、知る術がないとあれば、気まずくなることは必至。リードはそのあたりを気にする性質には見えないけれど、これ以上心優しい友人を悲しませたくはなかったものだから。
 それにしても、とリデルは考える。八月三日。それが僕の生まれた日、というものだったんだ。
 どこか他人事のように聞こえる、なによりも自分事のはずの数字。八月といえば夏真っ盛りで、暑くて、今年ももう過ぎ去った日の方が多いことを示していて……と、なんとも一般的な感想しか浮かばない。
 それも当たり前だ。今まではなんでもなかった、祝われた記憶すらない日を「この日があなたの特別な日です」だなんて突然手渡されても、どう反応したらいいのかわからない。

「もう満足か? ならさっさと出ていけ、俺も暇ではないからな」

 もやもやと渦を巻き出したリデルの内心を叩き切るように、リードの冷たい声が響く。その言葉に意識は浮上したけれど、実際の心はまだ冷たい水底に沈んでいるかのようだった。

「す、すみません。ありがとうございます。……えっと、じゃあ」
「ええ。先生、ありがとうございました。ですが、あまり根を詰められてもよくありませんわ。叔父様が以前……」
「ガキが気にすることでも、あの馬鹿に関係のあることでもない。用が済んだら戻れ」
「まあ! 先生ったら。叔父様のことをそのように仰らないでください」

 シャーロットは少しだけ幼く頬を膨らませて、「怒っています」とでも言いたげな態度だった。けれどその仕草にたいした迫力はなく、リードは気にかける様子もなく彼女を手で追い払う。邪険にされたことに困ったように微笑んで、それ以上戯れは重ねずにスカートとリボンが翻った。

「それでは先生、ありがとうございました」
「失礼します……!」

 二人のお行儀のいい挨拶には、いつも通りなにも返ってこない。
 扉が閉まる瞬間ふと振り返ったリデルの目には、少し疲れた調子で煙草の煙に包まれる「先生」の姿が映っていた。
 

 ◆

 
「お誕生日おめでとう、リデル!」
「えーっと……」

 目の前には、楽しそうに笑うシャーロットの姿。いつも少し不安になるほど色のない頬はめずらしく上気して、彼女の興奮を伝えている。
 ありがたいことだと、リデルはわかっている。
 まともに意識したことのなかった自分の誕生日。一度も自分から話題に出したことのないそれを気にかけてくれて、日付を知れば祝いたいと言ってくれた彼女には本当に感謝しかない。だからお祝いをありがたく受け取りこそすれ、その祝い方に口を出すだなんてあまりにもお行儀の悪い話だ。
 これが、世にいうところの「お誕生日パーティ」というやつなのだろう。
 普段はなかなか食べることの出来ない豪華な食事に、目一杯飾り付けられたテーブルと店内。お祝いごとにぴったりの様相だ。

「……シャーロット、あの……」

 リデルは深呼吸をしながら、所在なさげに視線を泳がせた。
 これがスタンダードな誕生日の祝い方なのだろうと自分を納得させるため、改めて店内を見回す。
 シャーロットに連れられてきたのは、高級そうなカフェだった。夏の空にフリルで飾られた日傘を揺らして現れた彼女は、めずらしく送迎の車を引き連れてはいなかった。あなたと長くお話したいからと告げてきた笑顔に、自分がなんと返したのかはもう思い出せない。
 案内された先では、指先一つ乱れのない従業員がシャーロットを待ち構えていた。ふかふかの柔らかい椅子は、場違いなリデルすらも優しく受け入れてくれて、丸めていた背を慌てて伸ばしてみる。世間知らずのリデルでも不思議と常識外れだとわかるこの状況を前に、そわそわとした手遊びがやめられない。
 騒ぐ心を納得させるために、自分が知らないだけに違いないと唱えてみる。親と暮らしていた頃は、誕生日パーティはおろか祝いの言葉一つを向けられたことすらなかったのだ。だから誕生日パーティの定石なんてものを知る術もない。世間では毎回こんなパーティを開いていて、だから、そう萎縮する必要もなく……。

「……ここ……なに?」

 ――と、思えるわけがなかった。
 我慢出来ず絞り出された問いに、シャーロットはその意図を図りかねるように首を傾げる。

「あの、お祝いって……言ってくれたけど」

 要領の得ない付け足しでは、リデルの言わんとすることは伝わらなかったようだ。数度瞬きを繰り返したシャーロットは、どこか地に足の付かない甘い声で「ええ、お祝いよ」と微笑んだ。

「お誕生日だもの。なにかプレゼントをと思ったのだけれど、わたし、あなたのほしいものがわからなくて……。以前、甘いものがお好きと聞いたから……」

 ふわふわと、彼女のワンピースを飾るリボンが揺れる。初めて見る白いそれは可憐さを際立たせていて、日差しの中のシャーロットはまるで天使のようだった。夢見るような瞳がリデルを映して、うっとりとした光に染まる。

「お父様が懇意にしているお店を、貸し切っていただいたの!」
「…………」

 ほんの少しだけもったいぶったような調子はきっと、こんなにも大きくて立派な場所を貸し切ったという満足感によるものではないのだろう。
 この程度彼女にとっては当たり前のことで、そう自慢するようなことでもない。貸切だなんて、彼女の中では帰りに寄り道をしてワゴンでスイーツを買うのと同じようなものだ。

「……本当はね、なにか……あなたが喜んでくださるものを差し上げたかったのだけれど」
「そ、そんな。いいのに……」

 忙しなく手を振りながら思い出すのは、あの冬の日。自分の誕生日がわからないという不可思議極まりない事情を深堀することはせず、シャーロットは愛らしく笑った。
 わたしが最初に、あなたのお誕生日をお祝いできるのね、なんて言って。
 級友の誕生日を祝う。それが彼女にとってどれほどの意味を持つかはわからないけれど、心底嬉しそうな様子を見るとなにも言えなかった。別に気にしなくていいのにだなんて思っていても、どこかくすぐったいような気持ちを抱えて笑い返すことしかできなくて。
 ほしいものを聞かれても、なにも思いつかなかった。物欲という物欲はないリデルにシャーロットは少し困っていたものの、すぐに「それなら当日を楽しみにしていてね」と笑って。それが確か、数か月は前のこと。意識して、期待をするだなんてばかげているとは思いつつも、リデルの心のどこかにはずっと、今日への甘ったるい期待が居付いていたのだ。

「……嬉しいよ、こんなに豪華なもの普段食べられないし」

 そして用意されたのは、この煌びやかで華やかな食事の席だ。
 よくわからない食材と調理法が融合しているらしい長い名前の料理が、目まぐるしく出てきては胃に納まっていく。どれもこれもおいしいけれど、そのおいしさのすべてを味わうにはきっと自分の舌では不足なのだろう……なんて、少し後ろ向きなことを考えていた。

「君がいなかったら、こんな食事も、誕生日も……知らずにいたと思う。あ、でも、今日だけじゃなくて、本当に色々……ありがとう」
「こちらこそ。わたしの好きなものをあなたと楽しめて、とっても嬉しいわ」

 最後のデザートとして運ばれてきたケーキも、豪華なものだった。ろうそくを吹き消しながらお願いごとを、なんて言われたけれど、今のリデルは満たされすぎていてなにも思い浮かばなくて。ただ、この時間が夢でなければいいと思っていた。
 冬の日を思わせる白くて綺麗なケーキにフォークを入れることができなくて、トッピングとして載せられた生クリームと苺をスプーンですくってみる。

「……甘いね」
「ふふ、お好きでしょう?」
「うん。……ありがとう、シャーロット」

 クリームは本当に甘く、ようやく素直に口に出せたお礼すらもその白の中へと溶かされていく。慣れない甘さはリデルの喉に詰まるようで、けれど、それはどこか心地いいものだった。
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