番外編
雨宿りをする日
雨が止まなければいいと思った。雨粒が作る分厚い壁のその向こう、ずっと二人でいられたのなら。
◆
「今日はいっしょに帰ったげてもいーよ」
大きな瞳を細めて、ターリアはそう言って笑った。
七月も後半へと差し掛かっているというのに、彼女は相変わらず生地の厚そうなセーターを着込んでいる。教室に入り込む日差しと熱気を孕んだ空気と、それから幼馴染の姿を見比べて。暑くないのかなだなんて心配していたラファーユの意識は、一瞬でその一言に支配された。
「……ほ、本当に?」
あまりはしゃぎすぎないように。彼女は騒がしいのも大袈裟な感情表現も、好きではないから。そう思って興奮を抑えたはずの声は、喜びを隠しきれず震えていた。
「ん。ちょっとウチに取りに行くものあるから」
「……なにを?」
「服」
そうなんだ、と。どうにか口にした相槌の冷たさに、ターリアが気が付かなければいいと願った。けれどすぐ、無駄な心配だったと自嘲する。
自分たちの距離感を気にしているのはラファーユばかりで、ターリアの方は大して意識すらしていないに違いないのだ。自分たちに与えられた幼馴染だなんて名前も、少しずつ変わり行く関係の形も、そしてなにより、ついていくばかりの少年のことだなんて――きっと、なにも。
「寮に持ってくやつ?」
「そ。なんか文句あんの?」
「いや、文句とかはないよ……」
文句はない。あるのはただ、みっともない独占欲だけだ。それを口にすることは出来なくて、ラファーユは青い瞳をさまよわせながら別の話題を探した。
ラファーユとターリアは家が隣で、気がついたときには二人でいた。それがいつからのことなのかはよく覚えていない。彼の中で確かなのは、ただ隣にいる少女へのこの焦がれるような想いで……それさえあれば、他のことはなんだってよかった。
「は? ある顔してるでしょ。なに?」
少し不機嫌な声が、矢継ぎ早に言葉を重ねる。あからさまな苛立ちを匂わせる声色だけれど、それほど怒ってはいないことをラファーユはちゃんとわかっていた。
「本当に文句はないよ。ただ……ターリアは、もう、寮で……なら、寂しいなと思っただけ」
「なんで? どーせここで会うじゃん」
「まあ、うん、そうだけどさ」
曖昧に頷いた幼馴染に、ターリアは不満そうだった。それでもさらに追求することはせず、「どーでもいいけど」とつぶやく。
詳しい事情は知らないけれど、ある日ターリアは家に帰らなくなった。それ自体なら今まで幾度もあったものの、今回はこれまでの不良少女の家出とは異なっているようだ。
どうやら彼女は今、学校が所有する学生寮で暮らしているらしい。先生からの許可が降りた状態で、誰にも阻害されない一人部屋を持って。それはつまり、彼女は安寧の帰る場所を得たということで――そして、ラファーユはろくに彼女のためになれなかったことを意味していた。
「でも、これまでは行きも帰りも一緒だったから……」
「…………」
大きな愛らしい瞳が、呆れたようにじとりとラファーユを見つめる。
「アンタさあ、子供じゃないんだから。一人じゃお外出られないわけ?」
投げかけられた言葉は冷たいものだった。けれどもしかしたら、寂しいだなんて可愛らしい言葉で誤魔化した本心を見抜かれているからこそ、突き放されるのかもしれない。
「そ、そんなことはないけどさ……ただ、キミがいないと楽しくないというか、毎日つまんないし……生活する気力も出ないというか……」
「……趣味とか見つければ?」
その声は、ターリアにはめずらしく心配を含んでいた。無気力そうに見える彼女には、意外にもたくさんの好きなものがあることをラファーユは知っている。買い物や食事から始まり、おしゃれだって楽しんでいて。その分嫌いなものもはっきりしているターリアの日々は、かなり充実しているようだ。
……自分とは違って。そんな言葉が心の薄暗いところから響いてくる。
「趣味……とかは、多分、楽しむ時間ないから。許してくれないだろうし」
「ま、そっか。アンタのママはタメになることしかさせてくんないしね」
同情的に響くターリアの声に、曖昧に頷いた。彼女の言うことも間違いではない。実際ラファーユの母は子供の娯楽に寛容ではなく、学びに繋がらないものに時間を費やすことには眉を顰める人だ。娯楽も興味も、親の顔色を見て諦めてきたものの数は両手でも足りない。
「そう……だね。だからいいんだ、趣味とかは。キミがいてくれさえすれば」
口にした言葉は、嘘偽りのない本心だった。
喜びも楽しみも達成感もなにもかも、抱いた次に浮かぶのは「彼女に話したい」だけ。けれど夢想するほど世界はうまくは回っていなくて、その度に孤独と虚しさに襲われて。
あえてあげるのならば、今こうしてターリアと過ごす時間――それが唯一の趣味なのだろう。そんなことを言ったら、きっと「キモい」と切り捨てられるのだろうけれど。
「ふーん……じゃ、帰るよ」
生返事のターリアは、お菓子の空箱を捨てると立ち上がる。深刻に捉えられていないことに安心するような、寂しいような。そんな不思議な心地がした。
◆
「なんで傘持ってきてないの!? バカ!」
「ご、ごめん!」
二人が突然の大雨に見舞われたのは、ちょうど学校と家の中間地点だった。
気まぐれにぽつぽつと落ちてきた雨粒に気を取られているうちに、空は急激に暗くなり、やがて大きな音を立てて雨が降り注いで。髪も制服も足元も、たちまち濡れていく様子に機嫌を損ねた様子のターリアに提案したのが、閉店したばかりの店の軒先での雨宿りだった。
「なんで今日持ってないわけ!? 家出る前に天気くらい確認するでしょ、フツーは!!」
今日に限って折り畳み傘を忘れてきたラファーユに、ヒステリックな叱責が飛ぶ。
かく言うターリアは折り畳み傘も持っていなければ、これまで外出前に天気を気にしたことなどないけれど。二人の間では、それは当たり前のことだった。荷物を持つのも買うのも、面倒なことはなんだってラファーユのやることなのだから。外から見れば横暴な少女に振り回される少年に映るものの、実際の構図は真逆だった。
一人でさっさと先に行く少女を引き止めて、あれもこれも尽くさせてほしいと頼み込んではなにもかもを差し出して押し付ける少年。これが真実だ。少なくとも、二人にとっては。
「ごめん、多分昨日使って家にそのままだ……」
予報にない雨は止む気配を見せず、むしろどんどん強まっていくようだ。ここ最近の不安定な天気への懸念は今朝も頭の隅にはあったものの、朝はあまりにも晴れていたものだから。まあいいかと家を出てきたのが仇になってしまった。
「はー……いいけどね。この雨じゃ折り畳みなんかじゃどーしよもないし」
天気は悪くなる一方で、雨だけに留まらず強い風まで吹いている。ターリアの言う通り、これでは折り畳み傘なんてすぐに使い物にならなくなってしまうだろう。
この雨のせいか時間帯のせいか、はたまた場所柄か、人も車もまったく見当たらなかった。
「……早く帰りたいのに」
ため息とともに、沈んだ声が吐き出される。その言葉に、雨が落とす空気の冷たさとはまた別の寒さがラファーユの背筋を凍らせた。
「そっか、そうだよね、キミは……ごめん。ちゃんと傘持ってたらよかったんだけど」
「アンタもそーでしょ? 帰るの遅いとママ怒るじゃん」
「うん……でも、風邪ひかれる方が嫌みたいだから。まだそんな怒られないと思うけど」
そんな雑談を交わしながらも、ラファーユの視線はターリアに注がれていた。雨に濡れた前髪を気にしている様子のターリアから、なぜか目を離せなかったから。
自身の髪から滴る雨を適当に手の甲で拭いながら、すぐに内心自嘲する。なぜか、だなんて。鈍感なふりをする必要なんてないくせに、と。
ぺたりとおでこに張り付いた前髪を気にしては、長い袖に隠れた指先でそっと髪を梳いたり、撫で付けたりを繰り返す彼女。曇り空をにらみつけたかと思えば、店の軒先に放置されたままのベンチに腰かける。大きな瞳が雨粒をなぞって空を見上げて。ラファーユはあの大きな瞳に見つめられるだなんて羨ましい、と乾いた心で考えた。
「……なに?」
直に濡れて冷えたのか、スカートから伸びる足を気にしながら声をかけられる。短いその言葉だけで、雨音さえも遠くなった。
「いや……」
ゆるゆると首を横にふったラファーユは、自然な動作でポケットへと手を入れた。まるで、最初からこう伝える機会を窺って見つめていたかのように。
「ハンカチ、使う?」
「ん」
ここで指先同士が触れて甘い火花でも走るのならば、可愛いものだけれど。二人の間にはそんな偶然はなかった。ターリアの指先は相変わらずセーターの中だったし――そもそも今日は、そんな火もしけってしまうような雨が降っているのだから。
ベンチに座って悠々と足を伸ばす彼女を、ラファーユは立ったまま見つめていた。
何分でも、何時間でも、きっとこうしていられる。そんな確信が浮かんで、ターリアはそんな時間は望まないだろうなと息をつく。
「これ明日返すから」
「そんな……気にしないでいいのに」
「さすがにでしょ、濡れたまんまは」
雨と風の隙間、彼女の声が心地よく響く。
地面を打つ雨の音が邪魔だなと思って、けれど、雨がなければこの時間は存在し得ないのだったと思い至って。やけに短絡的な自分に嫌気がさして、ラファーユは視線を落とす。
ローファーも制服も濡れてしまった。家に帰ったときに待つのが労りかお説教か、母のご機嫌次第だ。
ふと、雨音が弱まっていることに気がついた。ばたばたと責め立ててくるようだった雨足は弱まっていたようで、静かな小雨へと変わっている。突然降ってきて突然去っていく気まぐれさが、今はただただ憎らしくて仕方がない。
雲が切れて、明るい光が差し込んでくる。残ったのは雨の香りと、まとわりつくような湿気を含んだ空気と、自分たちだけ。
「……ターリア」
「なーに」
晴れてきたね、と言いたくなかった。夢のようで幸せな二人だけの時間に、自分で終止符を打ちたくなかった。
「雨、止んできたみたいだよ」
けれど、そのような我儘は通すべきではない。醜い嫉妬も独占欲も、愛する彼女には見せたくなかった。汚い男を包み隠して、綺麗な幼馴染でいたいから。
「あー……帰んない」
「……? でも、さっき」
「帰んない。座ったらめんどーになったから」
駄々をこねるようにそう言い捨てて、ターリアは大きく背伸びをした。その仕草と声からは、ラファーユが自分に反対してくるだなんて考えていないことが読み取れる。彼が自分を置いて帰ることもないだろうという確信も、そこには含まれていた。
「今帰んのヤだ」
「そ、……うん、ボクも……」
気を抜けば思いが溢れてしまいそうで、ラファーユは数度深呼吸をした。けれど結局、うまく喜びを抑えることはできなくて。
「ボクも、帰りたくないと思ってたから」
そう告げると、ターリアは大きな瞳を瞬かせて目を細める。
「……だったら、よかったんじゃない」
「うん、ありがとう」
なんのお礼なの、それ。軽く馬鹿にするような笑みを含んだ言葉は、静かな空に溶けていく。
「座れば?」
「……いいの? それじゃあ」
――雨のあと。空は、晴れ渡っていた。