番外編

煙に巻く前に奪ってみせて


「……そういえば、明日は誕生日らしいな」

 書類から目をあげないまま、リードはそうつぶやいた。ひとりごとにも似た言葉が向けられた先であるミカエルは、少しだけ意外そうにその美しい瞳を瞬かせる。

「おや、あなたが覚えていてくれたなんて」
「そんなわけがないだろう。お前のところのガキが騒いでいただけだ」
「……ああ……なるほど。ふふ、可愛かっただろう?」

 突き放すような言い方も気にせず、甘い声が響いた。同意を求めるような言葉は無視して、リードは書類へと意識を戻す。
 ――生徒たちを帰したところで、教師の仕事というものは終わらない。それは世間一般、ありとあらゆる教師にいえることだろう。リードの仕事は多少特殊なものではあるけれど、この一点においては普通の「先生」との共通点だ。
 とはいえ、リードの「先生」としての仕事は他のそれとでは相違点の方が多かった。あげればきりがないけれど、今彼の頭を悩ませている一点としてはその組織体制だろう。
 言うなれば訳あり、いわくつきのこの学校は、通う側も管理する側もなにかと問題を抱えていた。厄介なことに、問題のすべてはおおかたリードに押し付けられる。他に同僚もいなければ、この場には上司もいないのだから。
 そんな上から突然降ってくる厄介事をどうにか柔らかくまとめあげて、学校まで持ってくるのがミカエルだった。学校関係者でもなんでもない彼が関わってくる理由について、リードはあまり考えないようにしている。以前聞いたその理由は、たいして愉快なものでもなんでもなかったから。

「知らん。……あいつはどうにかならないのか、騒がしい」
「ふふ、まあまあ」
「まあまあではないが」

 ミカエルが現れるときは、特に理由を明らかにしないことの方が多い。けれど、今日はしっかりとした大義名分があっての――半ば仕事にも近い訪問だった。
 いつもは意味もなく訪れることが多い彼のことだからと投げかけようとした不満は、差し出された茶封筒によって止められた。仕事に関係することならば仕方がないと割り切ることは、一応責任のある大人としての義務だろう。

「そうだ、先生。今日もお疲れなのではないかな。よければ……」
「いらん」
「なにも言っていないのだけれど。今日は引き下がっておこうかな」

 優雅に微笑んで足を組む姿は、まるで絵画のようだった。少しだけ目を細めてこちらを見つめるミカエルには、言葉にできない高貴さが漂っていて――リードは改めて、目の前の男はこれまで関わったことのない性質の人間だとため息をつく。
 リードと彼の関係性は、なんともいえない不思議なものだ。
 顔を合わせたきっかけは仕事。かといって同僚ではなく、取引先という言い方もしっくり来ない。雇用関係なのかと聞かれたら、そんなこともなく。歳も離れていれば、重ねてきた人生にも共通項はない。けれど関わりを絶つことはできず、人として信用はしている。そんな関係に、明確な名前だなんて。
 この話を投げかけたら、きっとミカエルはなんの迷いもなく「友人」と答えるのだろう。
 ――わざわざ断るまでもないことだけれど、自分たちはもちろん友人などではない……と、リードは考えている。

「……おや」

 隣から向けられる視線が、いつもの癖で取り出した煙草を見つめていることにふと気が付いた。その意図が読めなくて、リードも思わず自身の手の中を見つめる。
 これまで、ミカエルが煙草に興味を示したことはなかった。初対面のときに喫煙者であることは話したけれど、それだけ。煙草を好んではいないけれど忌避するわけでもない彼は、リードがいつどこで煙草を取り出してもなにも言わなかった。ごくまれに、吸い過ぎは体に悪いよだなんて忠告されることがあるくらいだ。

「……これか?」

 パッケージをちらりと見せると、綺麗な瞳がそこに書かれた文字を追う。そして、懐かしいねとひとりごとのような言葉を落とした。
 先生、と呼びかけられた声は、いつもより静かだった。

「もしよければ、一本もらえないかな」
「別にいいが……。お前は吸わないのかと思っていた」
「そうだね、今はあまり。可愛い姪と会う機会も多いものだから」

 言葉の先は濁されていたものの、その意図はわかりやすいものだった。あの少女と両親は、煙草の匂いも煙もそこまで好んではいなそうだ。それを理解していながらも、リードは彼女の前でも煙草を手放せないのだけれど。
 ――あの清廉潔白な両親はともかく、姪の方は。ミカエルが煙草を吸うのならば、煙もなにもかも愛しそうなものだ。
 呆れと少しの困惑を含みながら、リードはそんなことを考えた。おおよそ親戚に向ける重さではない類の感情を向ける少女も、それを甘く受け止めるミカエルも、彼にとっては理解できないものだったから。
 普段は煙草に触れないであろうミカエルの手は、案外器用に火をつけた。あまり想像できないけれど、以前はそれなりに吸っていたのかもしれない。

「……昔は…………」

 ゆっくりと吐き出された煙は、薄暗い灯りに照らされて溶けていく。
 あまりにも暗いものだからそろそろこのランプも寿命を迎えるのでは、なんて会話をしたことを覚えている。遠い昔のことだと錯覚してしまうけれど、日付を数えてみれば最近のことだった。

「こういったものを勧めてくれる知人がいてね。煙草もそうだけれど、酒も……私に色々と教えたがる人だった」

 ミカエルの年齢から考えれば、酒と煙草を覚えたのも教えられたのも、そのように語るほどの「昔」でもないだろう。
 そんな一般的な感想を思いついたけれど、リードはなにも言わなかった。一応目の前には片付けなければならない書類があったし、こうして自分のことを語るミカエルは、とてもめずらしかったから。

「彼女は私よりいくつか年上でね。『いつか別れても、お酒や煙草の味でわたしを思い出して』が口癖だった」
「……親しかったのか?」
「さあ、どうだろう。友人だったよ。彼女がどう思っていたのかは、私にはもうわからないけれど」

 そうか、とだけ相槌を打って。ミカエルも一呼吸置いて目を伏せる。
 再び顔を上げた彼の瞳にあるものは慈しみだけ。あんなにも懐かしそうに大切そうに語る姿に、その「彼女」への特別な愛情だなんてものは見つからなくて。本当に友人だったのだろうと思うと、顔も名前もなにもかも知らない女性に少しだけ同情心が芽生えてしまう。

「彼女の言葉通りに、時折思い出すんだ。私は特別愛煙家でも、酒好きでもないけれど……」

 きっと今も、煙草から連想するように彼女を思い出したのだろう。だからこうしてめずらしく昔話なんてものもして。
 いつもならそこまで触れてこないはずの煙草の話をしてきたのだって、きっとリードが取り出したものを見て、まつわるなにかを思い出したからなのかもしれない。もし本当にそんな思いがミカエルの中で渦巻いているのならば、彼女のたくらみは成功したといって差し支えない。
 会わなくなったのだとしても、煙やグラスの影で思い出されるのなら。リードにはあまり理解できない願いだけれど、可愛らしいものだと思った。

「……なんて、話しすぎたね。先生、仕事の邪魔になってしまったかな」
「いや。それよりも……めずらしいな。お前は過去は隠したいのかと思っていた」

 申し訳なさそうに眉を下げたミカエルにそう言うと、彼は意外だとでも言いたげな表情を見せる。とぼけているのか自覚がないのか、どちらにしても厄介な性質だ。

「隠そうと思って隠しているわけではないよ。聞かれたのなら、なんでも答えるさ」
「……どうだかな」

 人当たりの良さに反して、ミカエルは随分な秘密主義だった。
 たとえば出身、たとえば家族構成に幼少期、現在の住居や休日の過ごし方、果てには仕事のことだって。軽やかに答えているようではぐらかされて、いつも最後は誤魔化されて。職業は知っているけれど、いつからその仕事をしているかだなんてことは知らない。リードとしては別に知りたくもないのだけれど、ただ……。

「それなら、今の話も教えてやればいいだろう。お前のその、可愛い姪・・・・に。いつもお前に興味津々だ」

 その言葉に、ミカエルは姪の姿を思い浮かべたようだった。いつもの微笑みに込められている優しさとは少しだけ違う、甘い慈愛が浮かぶ。

「そうだね、もし知りたいというのなら……」

 他人の目から見ても彼女をとことん甘やかしているミカエルだけれど、だからといってその秘密主義を崩すつもりはないようだ。言葉を選ぶように目を伏せて、彼は笑った。

「ただ、あの子は『ミステリアスな叔父様』に夢を見ているようだから。しばらくは、夢の国の住人でいるのも悪くはないかなと思ってね」

 悪戯っぽい光を宿し、軽くウインクをして。
 優雅でどこか高貴なその姿には、煙草はあまり似合わない。けれどその煙さえも、彼の纏う秘密を飾っているようだった。
 美醜がどうだとか美しいとかなんだとか、そんなことには一切興味のないリードだって、一瞬目を奪われてしまうような。そんな感覚を誤魔化すように、一つ咳払いをして冷たい声を浴びせた。

「……もし俺に娘がいたら、お前のような男にだけは近寄るなと教えるだろうな」
「ふふ、手厳しいね」

 きっと誰もが見惚れてしまう笑みは無視して、リードは無言で書類を差し出した。いつまで経っても紙とペンですべてを管理したがる上の人間には、細々と書き込む下々の苦労など想像もしていないのだろう。中身を軽く確認したミカエルは、軽いねぎらいの言葉と共に立ち上がった。

「ありがとう。私はそろそろお暇するよ。あまり根を詰めすぎないようにね」
「ああ」

 投げやりなその返答は、助言を真剣に聞いていないであろうことを意味していた。リードとしては真剣に仕事をしているつもりなんてないのだから、的外れな助言でしかない。生返事に苦笑いをして、ミカエルは扉に手をかける。そして、振り返って口を開いた。

「それでは、先生。あなたの明日も素敵な日であることを願っているよ」

 いつものように投げかけられる挨拶には、いつもと同じように心が込められていた。その言葉を向けられる度、素敵な日なんてと嘲笑いたくなるけれど、なぜか結局言えずじまいだ。だからいつも通り適当な返事だけをして、さっさと帰れと追い出して、彼と話したことだなんて大体はすぐに忘れてしまえばいいのに。
 閉ざされていたミカエルの過去を、ほんの少しだけ覗いたからだろうか。不思議と先ほどまでの会話を反芻していた。
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