番外編

こわれないものたち


「やあ先生! 誕生日おめでとう!」
「帰れ」

 なんの前触れもなく開いた職員室の扉に目もやらず、リードは冷たく吐き捨てた。
 もう子どもたちは家に……帰っていない者もおそらくいるけれど、とにかく下校はした時間。なにかと面倒な書類だとかなんだとかを片付けようとしていたリードの元に、嵐が突然現れた。
 今日はリードの誕生日である。一応。
 誕生日ではあるものの、もう何十回と歳を重ねてきた身としては、今更なんの感情も湧いてこなかった。とにかくいつも通り仕事をして、いつも通り帰って明日を迎える、そのつもりだったのだ。生徒たちはリードの誕生日を知らないし、この街に誕生日を祝ってくるような知り合いはいない。――ただ一人を除いては。その人物のことも、日中はしっかり警戒できていたのだけれど。こんなにも暗くなったのだしと気を抜いていたのが悪かったのだろうか。
 知り合いの中で唯一、誕生日を祝ってくるような性質の男――ミカエル・キャルスパークは、人当たりのいい笑顔で職員室に入ってきた。

「聞こえなかったか? 帰れ」
「そんな寂しいことを言わないでくれたまえ、先生! 友人の生まれた日なのだから、祝いの一つくらいは、ね」
「お前は他人だ。帰れ」

 ぱちりとウインクをしたミカエルを無視して、リードは書類に視線を戻した。いつも通りの冷たい態度にもめげることはなく、ミカエルは隣の椅子に腰かける。

「そう言わないでくれ。ただ、プレゼントをと思ってね」
「いらないが。……大体、この歳になって誕生日なんて祝うものでもないだろう」
「そんなことはないよ。いくつになっても変わらず、誕生日というものは特別なものさ。あなたが生まれ、今日まで積み重ねてきた日々のすべてを祝福するための日なのだから」
「……大袈裟だな」
「そうかな?」

 ちくりちくりと刺すような口調と視線にも怯まず、ミカエルは穏やかに笑う。
 リードにとって、誕生日というものはそう大したものでもなかった。目の前の男は祝福とかなんとか言っているものの、ただ自分がこの世に生を受けただけの日に感傷はない。そんなものへの祝いなんて無駄なことだし、そもそも――自分が生まれたことも生きていることも、大して喜ばしいことではないのだから。
 言い添えておくと、これは彼自身についてだけであり。妻子の誕生日などは、それなりに祝ってはいたのだけれど。その機会すらなくなって、リードは誕生日というものにすっかり冷めていた。

「それに、あなたも慣れない環境で大変だろう? 気苦労も多いだろうし」
「……」

 その言葉にリードは返事をしなかった。けれど時折、沈黙は最大の肯定となるものだ。ミカエルは切れ長の瞳を細めて微笑んだ。

「だというのに、なかなか気を緩めてもくれないからね。ふふ、誕生日という口実があれば、素直に労われてくれるかと思ったのだけれど」
「残念だったな。その目論見は失敗だ。何を持ってきたのかは知らないが、俺は受け取らない。帰れ」

 そうして書類に目を戻そうとしたリードを、相変わらずゆったりと「待ってくれたまえ」と呼び止める声がする。普段なら無視するところだけれど、今日に限ってはミカエルの態度が気にかかった。彼は馴れ馴れしくはあるものの、人付き合いはそこそこうまい方だ。適度に押してみて、相手がその気でないのならばさっと引く、そんな人物であるはずなのに。

「……なんだ。しつこいな」
「きっと楽しんでもらえると思うんだ。……ほら」

 そう言ってミカエルが取り出したのは、艶やかな黒い円盤だった。大ぶりで薄いそれは、部屋の明かりを静かに吸い込んでいる。

「レコードか。随分古いものを……」
「私も偶然見つけたのだけどね。素敵な出会いもあるものだ」

 どこでいつ、とはミカエルは言わなかった。聞く気もないのだから構わない。
 リードは目の前の男のことをほとんどなにも知らない。年齢と趣味、それからここに至るまでの経緯を少しだけ。以前耳に挟んだ彼の育ちを考えれば、こうした古びたものを知っていてもおかしくはない。けれど、自分よりもずっと年下の容貌をした彼が自分と同じようにこの手のものを懐かしむ様は、少々アンバランスに見えた。

「たまには音楽でも聴きながら、ゆっくり話でもしないかい? なにか急ぎの用があるならば、今日はお暇するけれど」

 そう投げかけられて、リードは少し思案する。
 いつもの自分ならば、「なら帰れ」と返していたところだろう。仕事とは便利なもので、片付けなければならないものがあるからなんて言えば、大人の会話はそこで打ち切り。今日だって忙しくはないけれど、適当な言い訳を見つけて帰せばいい。頭ではそう考えているはずなのに、リードの手は静かにペンを置いていた。

「勝手にしろ」
「……! 先生!」

 どこか幼い子どものように瞳を輝かせるミカエルを見て、やはり断るべきだったなんて考え浮かぶ。けれどそれは、向けられる好意を飲み込むために必要となる、形式的な後悔でしかなかった。その美しい瞳に見つめられるのは居心地が悪くて、リードは目を逸らしつつ口を開く。

「……それで、ここで再生できるものなのか?」

 ずいぶん古めかしい様相のこの学校ならば、年季の入ったレコードプレイヤーの一つや二つ見つかりそうだ。少し冷めたコーヒーに手を伸ばしながら、リードは職員室を見回した。無駄に広いだけのこの場所を探す気はない。そういうことは、ミカエルの趣味だから。

「ええ、以前見かけたんだ。先生、少し失礼するよ」

 便宜上のこの部屋の主に短く許可をとり、ミカエルは荷物の山に視線を滑らせる。
 リードにとっては邪魔ながらくたにしか思えないこれらは、きっと見る人が見れば宝の山なのだろう。歴史にも骨董品にも大した興味がない者には、その気持ちは一生理解できないものだ。
 いつも以上に機嫌がいいミカエルを横目に捉えつつ、雑にコーヒーを足す。昔は少しこだわりもあったけれど、今では飲める程度の味ならばどうだってよくなっていた。そのきっかけは十数年前のある日だ。コーヒーだけではない、あの日を境にリードの見る世界というものは随分薄暗くなっていた。古びた板が鳴らす音階の塊なんてものに、まったく心が踊らないくらいには。薄暗い回想の中へと投じそうになった思考を押しとどめたのは、歌うような声だった。

「先生、準備が出来たよ」

 そうかと相槌を打つのと同時に、円盤の上に針が落とされた。
 消耗していく。音溝を傷付けて、そして音が鳴る。レコードというものは、きちんと管理をしていればいつまでだって……なんて話を聞いたことがある。けれど、雑音混じりのどこか不格好な音を鳴らすこれは、そう大切にはされていなかったのだろう、と。鳴る音への感情も意識も頭の端に追いやって、リードはそんなことを考えていた。

「……いいものだね」
「人の趣味は否定しないが、これはそう高品質なものでもないだろう。ノイズもひどい」
「ふふ、おそらく放置されていたものだからね。仕方がない。……けれど私はそれも好きだよ。多少古びてしまったとしても、音楽は思いを伝えてくれるものだ」

 相変わらずだ、とリードは考えた。このお綺麗な感性を理解することは出来ないものの、以前と比べればミカエルのこの手の賛美も美徳だと思えるようにはなっていた。

「…………そんな感傷は、本来の用途ではないだろう。レコードはただ、音楽を再生することが役目だ。ならばノイズは邪魔なだけではないのか」

 けれどその考えを認めることと、共感することは別だ。柔らかい音色を壊すように放たれたリードの言葉に、ミカエルは美しく微笑んだ。繊細な芸術品のような彼に静かに見つめられるのは落ち着かなくて、誤魔化すように煙草を手に取った。

「それにこんなもの、いつかは壊れる。そうすれば……」
「壊れないよ、先生。なぜなら私が覚えているのだから」

 めずらしく人の話を遮って、ミカエルはそう言い切った。普段通りの甘い声には、どこか固い意思が感じられる。

「せっかく見つけた誰かの思い、そして貴方との時間だ。大切にするよ……一生」

 彼の言う一生は、文字通りの言葉なのだろうとわかった。普段から大袈裟な物言いが多い彼だけれど、彼の語るすべての言葉は紛れもない真実だった。
 真摯な言葉と空気は苦手だ。軽く咳払いをして、リードから話題を振った。

「……しかし、お前がこの時間に来るのは珍しいな。俺はてっきり、昼間にでも邪魔しに来るかと思っていたが」

 ミカエルはお祝いごとを好む性格だ。彼の愛する姪と、そのいとこまでを祝うのは、リードだって理解出来る。けれどこの男は、姪のクラスメイトの誕生日にだって、ご丁寧にプレゼントを携え祝うのだ。だから、少し前わざわざ誕生日を聞かれたときに、これは面倒なことになるのではなんて考えていて。
 子どもたちへの対応に重ねるのであれば、ミカエルがやってくるのは学校がある時間……それも大体、お昼頃。そんな警戒は意味のないもので、結局この時間にやったきたのだけれど。

「おや、そちらをお望みだったかな。それなら来年はシャーロットに話を通して、学校で盛大に祝うとしようか!」
「絶対にやめろ」

 叔父であるミカエルの影響なのか、それとも全体的にそういう勢いを持つ血筋なのか。だいぶはしゃいだお金持ちである生徒の一人の顔を思い浮かべる。きっと教室で、パーティじみたことをするにちがいない。収拾がつかないであろうその場を思い浮かべるとぞっとする。

「ふふ、それは冗談だけれど。来年はもう少し誕生日らしいこともいかがかな。食事でもどうだい?」
「やめろ。お前とは食の趣味が合わない」

 ミカエルの好むようなお高いコース料理は、リードの肌には合わない。 あの手の高級料理だなんて、そんなに食べる機会があったわけでもないけれど。
 逆に、リードの好むような大衆的でお手軽な食べ物には、向こうは触れてきていないだろう。――というのはおおよそ建前で、リードとしては単純に、そういう付き合いが面倒なだけだった。

「手厳しいなあ。気が変わったらいつでも言ってくれたまえ」

 そんな日は来ないので、特に返答もせず受け流す。言葉のない返答にミカエルは困ったように微笑んで、そうしてゆったりと立ち上がった。

「……少し長居してしまったかな。それでは、私はこれで。また来るよ!」
「来るな」

 そうして、職員室は静かになった。けれど雑音を混じえながら音楽を鳴らす黒い円盤は、静かに回り続けている。
 これはいつかは壊れて動かなくなる。そのいつかはきっとそう遠くはないのだろう、とリードは考えた。音を奏でることを忘れ、物言わぬ板となり人々の記憶から消えていく。ミカエルとは違って、なによりも大事だった思い出すらも忘れかけている薄情な自分のことだ、きっとすぐに――そんな風に自嘲して。
 あの男は違うのだろう、と。この音のことを忘れたことすら忘れて死んでいくリードに代わって、彼が覚えているのなら。
 そんなことを考えながら口をつけたコーヒーは、久々に味がした。
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