第2章 ミニアチュール=レゾンデートル
13 Let sleeping dogs lie.
もしも神様が本当にいらっしゃるなら、お聞きしたいことが山ほどあるの。あなたはどう?
そうね……わたしは死んだ身だけれど、神様にはお会いできていないの。幼い頃、恨み言を繰り返してしまったせいかしら。……なんて、冗談よ。きっと中途半端にあなたの中をたゆたっているせいなのでしょうね。
わたしがこうしてあなたとお話していることは、きっとよろしくないことだわ。死者が生者の世界に手を伸ばすなんて、褒められることではない……そうでしょう? わかっているの。それでもわたしがここにいるのは、あなたがわたしだから。そしてなにより、この醜い執着を手放せないせいなのでしょうね。
ええ、執着なの。あまりかわいくないのよ、だから、誰にも言わないでくださる? わたし、彼には綺麗なところだけ見せていたものだから。すべてをさらけ出すことも素敵だけれど、そんな形の愛はわたしには合わなかったみたいなの。
……そう、ありがとう。
焦がれて、求めて、しがみついて。そこに彼がいることを知っていて、もしもを期待して。きっとわたしだけが一人、こんなところにいるわけだけれど。もしまた……彼と、話せるのなら……わたしはきっと、なんてことのない顔をして言うのよ。
お久しぶり、こんなところで偶然ね……って。
◆
「おはようございます」
「うわっ!?」
起きたリデルの目の前に広がっていたのは、仮面のような笑顔だった。
手にフライパンを携えた男……村長が、昨日も見た割烹着に身を包んでこちらの顔を覗き込んでいる。寝起きの思考回路は働こうとせず、その状況を理解するだけで精一杯だった。
「おはようございます。いい一日は、早起きと健康的な朝食から始まるものです。食事の準備が出来ていますので、よろしければぜひ」
誘うような言い方だけれど、その声色はこちらが断ることを想像してはいないようだ。
一体、いつどうやって入ってきたのだろう。リデルは他人の気配や物音に敏感な方ではあるはずなのに、意識が浮上するまで彼の存在に気がつけなかった。恐怖を隠しきれない面持ちで村長を見ても、彼はまったく意に介してはいない。
「ドロシー様をあまりお待たせしないように。それでは」
長身を不気味なほど静かに動かして、彼は扉の向こうへと消えていく。その姿をぼんやり眺めていたリデルの心は、彼が口にした「朝食」という言葉でいっぱいだった。……それから、部屋の鍵はかけていたはずなんだけど、なんていうぼんやりとした恐怖。
ゆるやかに覚醒する思考回路は、じわじわと恐ろしさに染まっていく。そんなリデルの脳内に割って入ってきたのは、聞き慣れた怒号だった。
「……だから!! 俺はいらねえ! 勝手にしろってことになっただろ」
その声にびくりと体を揺らして、慌てて朝の準備を済ませる。部屋を出た先で聞こえたのはマグレヴァーの怒鳴り声と、それに対する静かな返答だった。
「貴方が自由に行動する許可は与えますが、こちらも自由に行動します。それだけです。この場で私の意志に反したいのであれば、相応の反抗をすればいいのですよ」
怒鳴り声を歯牙にもかけず、ドロシーはそう言って見覚えのないマグカップを手にした。どうやら朝食の席でもめているらしく、その原因はマグレヴァーの拒絶にあるようだ。
「……ですが、貴方が私よりも優位に立てることはないでしょうから、大人しくしているべきだと思います。貴方に反抗の心得があるとは思えません」
「はあ?」
挑発するかのような物言いは、彼の逆鱗に触れたらしい。今にも掴みかかりそうな怒りように思わず前にでかけたリデルに、背後から「大丈夫ですよ」と落ち着いた声がかかる。
「……え、えっと……?」
振り返ると、村長が底知れない笑みを浮かべて立っている。その言葉の意図を測りかねていると、彼はもう一度「大丈夫です」と繰り返した。仲裁に入るのかと思ったものの、彼はゆったりと手を組んで微笑んでいるだけだ。今にも喧嘩が始まりそうなこの状況の、どこが大丈夫だと言うのだろう。浮かんだ疑問を見透かしたように、村長は口を開く。
「彼がドロシー様に無礼を働くのであれば、私が罰しますので」
「罰するって、あの……」
マグレヴァーの言葉遣いはそれなりに無礼な気もするけれど、大丈夫なのだろうか。そもそも罰とはなんなのだろうか。なにをどう聞けばいいのか思案しているうちにも、二人のやりとりは続いていく。
「人間らしく、規則正しく生活しましょう。そうするべきです」
「うるせえ! お前に指図される理由はねえし、大体……」
「私の言うことを聞かないのであれば、天罰を与えます。先日と同じ目に遭いたい様子ですので」
マグカップを置いて、ドロシーはぱんと手を叩く。それを合図にしたかのように、村長が一歩前に出た。彼の不気味な笑みが深められ、その表情にひるんだようにマグレヴァーは顔を強張らせる。かすかな逡巡の後渋々と席についた様子に満足そうに頷いて、黒手袋がポットを掴んだ。
「飲み物をどうぞ。私が直々に注いであげましょう」
「おいすげえこぼれてんだけど」
飲み物を盛大かつ豪快にこぼしながら、ドロシーは村長に短く「下がりなさい」と指図する。その言葉に頭を下げて、村長は足音も立てずに離れていった。
神を名乗る少女も十分不思議な存在だけれど、付き従う村長もなにを考えているのかわからない不気味な人だ。わかることといえば、彼はドロシーと同じ村の出身で、彼女を崇めているのだろうということだけ。
「つか、お前はマジで神なのかよ」
考え事をするリデルの耳に入ったのは、幾分か不機嫌さが和らいだマグレヴァーの声だった。その言葉にドロシーは一つ首を縦に振る。
「愚問です。物覚えの悪い貴方のために、もう一度名乗って差し上げましょうか」
そんな喧嘩腰としか言葉を添えて。それに大きな舌打ちを返して、色違いの瞳が怪訝そうに細められた。
「じゃ、んで学校なんか来てんだよ」
「さあ。そうすることを望まれたので、私はここにいるまでです。理由は知りません」
「言いなりかよ。神なら人間くらい従わせればいいだろ」
「わかっていませんね。彼らはこの私に従属しています。だからこそ、私は主人として要望を聞いてあげているのです」
その言葉は、マグレヴァーにはあまりぴんとくるものではなかったようだ。話を聞いていたリデルにとってもよくわからないものではあったけれど、確かにと村長の様子を思い出す。
自分よりもずっと年下のドロシーに対して、彼はとても畏まって接していた。彼女に害が及ぶならば、その原因を自ら罰するのだという。それは人と人との間に交わされる情に由来するものではなく、忠実な番犬とその飼い主という言葉がふさわしいように思えてならない。
「それに、捧げられた愛と信仰に応えるのも神様の役目ですから」
淡々とした言葉だけでは、彼女がなにを考えているのかはわからない。けれど太陽の光を反射する片目には、かすかな満足が浮かんでいるようにも思えた。
◆
「えー? なにこの子、かわいーじゃん」
むに、とドロシーの頬がつつかれた。不満げに表情を引き攣らせる彼女の頬は意外と柔らかいようで、綺麗な指先がその感触を楽しむように頬を撫でている。
教室にやってきた「神様」は、昨日と変わらず静かに席についていた。そんな彼女に話しかけようとする人なんて、相変わらず誰もいない……はずだった。軽やかな朝の挨拶と共に、数日ぶりに姿を見せたマリーゴールドを除いて。
眠いだなんてつぶやきながら入ってきた彼女は、ドロシーに目を留めると宝物を見つけた幼い子どものように目を輝かせて。そして遠慮や緊張の欠片もなく、異質な少女に触れたのだ。不遜な拒絶もお構いなしに、マリーゴールドは楽しそうにかわいいかわいいをと茶髪を撫でる。
「女のシュミわっる」
弄ばれて不満げなドロシーを見て、ターリアは意地悪に口を挟んだ。気怠そうな声色はいつも通りだけれど、瞳の輝きはこの状況がおもしろくて仕方がないと語っている。どこか楽しそうな表情を横目にとらえて、猫のような瞳も笑った。
「そお? そんなことないよ。アタシは君のことも大好きだし?」
「うわ、なおさらサイアクじゃん」
そんなやりとりを黙って聞いていたドロシーは、虫でも払うように自身を遊ぶ手を振り払った。
黒手袋に追いやられたマリーゴールドは、動じた様子もなく「やだった?」と囁く。それに返事をすることはなく、暗い紫の瞳はマリーゴールドを見上げる。友好的ではない瞳に見つめられても、彼女は微笑んでいた。なによりも愛おしい恋人を見つめているかのように、甘やかな色を宿して。
「マリーゴールド・ルメース。貴方は神経質な人間だと聞きましたが」
「なあにそれ? アタシそんなの初めて言われたよー。人違いじゃない?」
その言葉に、マリーゴールドは笑ってドロシーの頭を撫でた。猫のように自由気ままで、好きなように生きて、時折思い出したかのように距離を詰めてきて――そんな彼女と、神経質だなんて言葉はうまく結びつかない。本人もその形容に心当たりはないようで、笑いながらも少しだけ不思議そうに瞳を瞬かせる。
人違いという言葉に眉を寄せて、ドロシーは「そんなことはありません」と言い切った。その声色はどこか不貞腐れているように聞こえる。
「貴方が覚えていないだけです。私は間違えません、なにもかもを知っています……神様ですから」
「神様なの? かわいー」
軽い笑い声と共に返したマリーゴールドは、目の前にいる少女が神様だなんて信じてはいないのだろう。ドロシーもそれを感じ取ったようで、ぐっと眉根を寄せて黙り込んだ。かすかに視線を下げた彼女は、すぐに再び顔をあげて口を開く。
「……私は神様です。三千年前この世界に誕生し、そして死に、復活を遂げた神様です」
「えー? 一回死んじゃったの? いつ復活できたのー?」
「……三ヶ月ほど……前……だったと聞いた……と、思いますが」
これまで堂々としていたドロシーの口調が、ふと揺らいだ。
自分は神だと、なにもかもを知っているのだと語ったときの様子とは程遠い、記憶を手繰り寄せているかのような声色。少しだけ不安そうな表情に笑みを浮かべて、丁寧に整えられた指先がドロシーの頬を撫でた。そのまま軽く顔をあげさせたマリーゴールドは、かわいいねと笑う。
「じゃあ現代三ヶ月目なの? 困ったことがあったら、アタシがどうにかしてあげるからねー」
その猫撫で声は、子どもの空想や冗談に付き合うためのものだった。そんな軽い返答に、今度こそドロシーは本格的に機嫌を損ねたらしい。開きかけた口から向けられるであろう不満を止めるかのように、もちもちと頬が伸ばされる。
「ちょ……っと、やめてくだひゃ、なんですか。私は神様ですよ、こんなことをして許されると思っているのですか」
「思ってる思ってるー。ね、君こんなにかわいいんだから、笑ったとこが見たいなー」
「私が笑わなければならない理由がありません。そもそも貴方にそのようなことを……マリーゴールド・ルメース、私の話を聞きなさい、ちょっと」
「もちろん今のお顔もかわいーよ? でもアタシ、もっといろんなかわいいとこ知りたいんだよ」
うるさいとしつこいとやめてくださいを混ぜて、ドロシーはもごもごもにょもにょとなにかを口にする。マリーゴールドの手に頬を揉まれて、その言葉が意味をなすことはなかったのだけれど。
分厚い壁を作っていた少女が級友に弄ばれる様は、不思議な光景だった。リデルはこのような交流は不得手なものだから、明るい人はすごいなあなんてことをぼんやりと考える。
もしかしたら、ドロシーは思っているよりも触れられない相手ではないのかもしれない。暗い瞳も不思議な言動も不気味な空気もそのままだけれど、不貞腐れた様子で抗議する今の彼女は幼い子どものよう。この場に現れたときから遠慮を含んだ視線を向けられていたドロシーは、今に限っては親しみを持って迎えられていた。
当の本人はずいぶんと不満そうだけれど、そんな表情すらも微笑ましい。なんとも愛らしい様子に、くすりとエラが笑みを漏らした。
「……なにか?」
その瞬間、ドロシーの視線が彼女の方へぎろりと動く。
発した言葉は、やけに刺々しかった。今まで見せていた幼い表情とは打って変わって、その瞳には明確な不快感が渦を巻いている。びくりとエラの細い肩が揺れて、彼女はもごもごと謝罪を口にしようとしている。緊張からなのか、それは意味を伴わない音の羅列でしかなかったけれど。
「――君は」
今にも泣きだしそうに震えた声を絞り出したエラを庇うように、ハインリッヒが言葉をかぶせた。話に割り込んでくるのも少しだけ硬い表情も、普段の彼らしくない。
「なにもかもを知っている、と言っていたけれど。それはどういう意味なのかな」
「どういうと言われましても、そのままの意味ですよ。ハインリッヒ・タートリマン。私は貴方たちの人生を、すべて知っています」
そういえば、誰もドロシーに自分の名前を名乗ってなどいないはずなのに。どうして彼女は、級友のフルネームを知っているのだろう。そんな疑問が浮かんだものの、リデルの意識は続いた声色の冷たさに向かっていく。
「それは……どうして?」
「私は神様ですから。それだけです」
その言葉を聞いた途端、ハインリッヒの瞳が細められる。氷のような冷たさがちらついて、リデルは小さく息をのんだ。彼のその透き通るような瞳はいつだって、穏やかな親密さをたたえていたから。美しい彼の見せた突き放すような表情には、底知れないおそろしさがあった。
「神様、か。なるほどね」
嘲笑が混ざった声は、ひどく冷たいものだった。普段は親しみを感じさせる笑顔も、今に限っては高潔で尊大に思える。不快に思った様子のドロシーが言い返そうと口を開く前に、赤いリボンが静かに揺れた。
「いけないわ、ハインリッヒ。そのような言い方をしては」
「……シャーロット」
「なんだか意地悪よ。よくないわ」
ハインリッヒとよく似た甘い目元と長いまつげが、彼を見上げる。少しだけ毒気を抜かれたようで、彼は一瞬目を伏せて。そうして再び光を受けたハインリッヒの表情は、いつも通り穏やかなものだった。
「そうだね、君の言う通りだ。……ごめん」
向けられた謝罪に、ドロシーは返答をしなかった。けれど、どうやらなにかを言い返すつもりはなくなったらしい。ふいと視線を逸らしたドロシーと曖昧に微笑むハインリッヒの間を取り持つように、シャーロットは明るく口を開く。この学校のこと、街のこと、ドロシーの趣味や好きな食べもの……そんなとりとめもない話題は、不思議な「神様」には響いていないようだ。
「……ヤバ、あの女」
その様子を見つめていたリデルの耳に、馬鹿にするかのようなターリアのつぶやきが聞こえた。それを拾ったドロシーの興味は、その声の主に移ったようだ。「私は『やばく』などありません」と短く否定すると、そういえばと感情を感じさせないトーンで話し出す。
「貴方は両親との仲に不満があるそうですね」
「……あたしに言ってんの? それ」
「はい。村の人間が言っていましたよ、貴方は哀れだと。過去だけではなく今に至ってまで、あのような目に遭うなんて、不幸だと」
ドロシーは相変わらず、淡々とした調子で話す。その瞳は聞いた話を思い出すかのように、どこか遠くを見ていた。マリーゴールドの咎めるような呼びかけも、きっと耳には入っていない。
だから彼女は気付いていないのだろう。感情のない声が響くにつれて、その声を差し向けられている少女の顔が変化していることに。
ターリアの大きな瞳が揺れて、眉は不満げに鋭くひそめられる。その表情は、いつも彼女が見せるそれとはまったく異なっていた。倦怠を伴う不機嫌とはまったく違う、静かに火がついた怒りと恐怖だ。
「……ふざけないで、田舎者。テキトーばっか言って、アンタとそのお仲間が、あたしのなにを知ってるっていうわけ?」
「なにを? 全てです。私は全てを知っています。貴方の人生、貴方の両親、貴方がなにをされたのか。ですから、私が」
そんな言葉を遮ったのは、派手な破裂音だった。ターリアの手と、それに叩かれたドロシーの頬が赤く染まっている。見開かれた暗闇のような瞳は、叩かれたことへの衝撃も困惑も感じていないように見えた。
「……この……っ、……ぅ……」
逃げ場を失ったターリアの手が震えて、ぎゅっと強く握られる。なにか言いたそうに口を開きかけては閉じて、居心地の悪い空気に耐えかねるかのように視線を泳がせて。ドロシーが赤くなった頬にそっと手を添えた途端、彼女は今にも泣きだしそうな声で叫んだ。
「帰る!!!」
「ま、待ってターリア!」
机を乱暴に押しのけていく少女の背を追いかけて、金髪が揺れる。他に視線を向けることもなく、ラファーユは二人分の鞄を掴んで走り出した。
秒針の音さえも響く教室では、廊下のやり取りが響いている。待ってターリアどこ行くの、帰るっつってんでしょあたしあの女キライ、そうだね、ねえ帰るならお菓子とか買って、気分じゃない!
そんなやり取りに違う足音が近づいてきて、一瞬止まったかと思えば「うるさい死ね!!」だなんて甲高いターリアの声が強く響く。再び訪れた静寂を破ったのは、リードが教室の扉を開く音だった。
押しのけられた机、ぎこちない空気、不自然に赤くなったドロシーの頬。そんなものを眺めて、彼は眉間のしわを深くする。けれど言及する気はないようで、一つため息をつくだけだった。