第2章 ミニアチュール=レゾンデートル

12 “Gott ist tot.”


「私はドロシー。ドロシー・マグリステリーカ」

 どこか生気の抜け落ちた印象とは裏腹に、少女の声はどこまでも不遜なものだった。深い闇のように暗い瞳は教室を見回して、一瞬なにかを見咎めるように細められる。けれどそれは一瞬のことで、少しぱさついた少女の茶髪が揺れた。
 ドロシーと名乗った少女は、自身を誇示するように一歩前へ出た。片目を隠す長い前髪と、目に入った実像を無感情に映す瞳は、彼女の感情を読み取ることを困難にしている。まるで演説でもするかのように教卓に手をついて、ドロシーは言葉を続けた。

「――神様です」

 そのとき、教室は確かに不思議な緊張感に支配されていた。相対する一人一人の顔をゆっくりと見回して、ドロシーは小首をかしげる。なにかを確かめるように動いた瞳は、リデルにも向けられた。
 ぱちりと目が合って、少女は一つ瞬きをする。そんな些細な動作だけで、リデルは自分のなにもかもを見透かされているかのような感覚に陥った。常識的に考えて、それはただの錯覚だ。なのに、最近は常識外れなことばかり起きるからだろうか。それとも、ドロシーの放つ静かな威圧感のせいだろうか。錯覚だと捨て置くことができなくて、思わず小さく息をのむ。
 他の生徒がどのような面持ちで、どのような感情を抱いていたのかはわからないけれど、そのすべてを一瞥し――ドロシーは無表情のまま口を開いた。

「私はなにもかもを知っています。貴方たちのことも、なんだって。貴方たちの人生、置かれた環境もその苦痛も。もし救済を望むのなら私が救ってあげましょう。この私を信じ、愛し、祈りを捧げるのであれば」

 それは演説によく似ていて、けれど、こちらに訴えてくる堂々としたそれとは少し異なっていた。
 きっと言葉にするならばこれは、天啓というものなのだろう。リデルは直感的にそう感じていた。からっぽの信心では彼女の言葉に酔うことはできないけれど、堂々と語る声に乗せられた不思議な重みに心は揺れる。

「私は神様ですから」

 ドロシーがそう言い切ったあと、教室は物音一つしなかった。彼女の視線を向けられると、なぜだか神経が張り詰めてしまう。そうなっているのが自分だけなのかどうか、リデルが確かめる前に、煙と共にため息が吐き出された。

「それが自己紹介か? 終わったならさっさと座れ」

 煙草の煙が、空気を弛緩させる。ぴんと張った糸が緩んで、リデルもその煙に合わせるように息を吐いた。
 まだなにか語ろうとしていた様子のドロシーは、水を差してきた男の方へと視線を動かす。「リード」と教師の名を呼んだ彼女の声は、先ほどと同じく無感情だった。

「私は神様ですよ。そのような物言いは不適切だと思いますが」
「神だろうとなんだろうと関係はない。布教はよそでやれ」
「ですから、そのような物言いはこの私に相応しくないと言っています。リード、貴方は私について知っている人間でしょう。ならば」

 リードのぶっきらぼうで吐き捨てるような口調に負ける様子もなく、ドロシーは淡々と言い返す。その様子を見ながら、リデルはようやくこれまでの少女の言動をかみ砕いていた。
 もはや日常となった学校での一日の始まり。リードは「新しいのが増える」とだけ言った。言葉足らずなのか説明する気がないのか、情報の抜けたその言葉から数秒の後、静かに扉が開いて。
 そうして姿を現したのが彼女――ドロシー・マグリステリーカだった。注目を浴びながら入ってきたドロシーはそうして、神を名乗ったのだ。リデルたちの前に姿を現した瞬間から、堂々とした態度でこちらを見定めるような視線を投げてきた彼女は、特別な存在に思えた。

「いいか、今ここでのお前はただの無力なガキだ。それは教えられてきたと聞いていたが」

 そんなドロシーは、呆れるように吐かれたリードの言葉にふと動きを止めた。教えられたことを思い出すように、彼女はやけにゆっくりと口を開く。

「そうですね。人間の、学生の真似事をするのだと言われました。ままごとをしろと」

 ドロシーは一瞬黙り込んで、リードから視線を逸らした。そして、「いいでしょう」と視線を上げる。その声色は相変わらず淡々としていたけれど、多分に含まれていた冷たさは薄れているように思えた。

「学生というものは、教師の言うことには従うものだそうですね。今は貴方の言うことを聞いてあげます。教師は貴方の役割ですからね」
「……いいから席につけ」

 リードが視線だけで指し示した先の空席へ、ドロシーはつかつかと歩み寄った。そのときリデルの目に入ったのは、彼女の足に巻かれた包帯。雑に巻かれたそれは、彼女のなにを隠しているのかはわからない。けれどその白は、彼女を縛るかのように巻き付いていた。
 彼女の黒手袋が、静かに椅子を引く。
 三つの空席のうち一つが埋まる。いまだに空いている席の片方は、どうやら休んだらしいマリーゴールドのものだ。今日も彼女がいないのはいつも通り、「ただ起きたときに気分がのらなかったから」なのだろう。そして今、どこかぎこちなくドロシーが腰かけて――残りの一つは誰なのだろう。まだ知らない同級生の姿に思いを馳せかけたリデルの思考は、相変わらず気怠そうな声で始まった授業へとゆるやかに移行していった。

 
 ◆


「神様、なあ」

 寮へ帰る道の中で、マグレヴァーはめずらしく笑顔を浮かべた。
 嘲るような色を浮かべている彼は、きっとドロシーの語った言葉を信じてはいないのだろう。それはマグレヴァーだけではなく、他の誰しもがそうに違いない。リデルだって、堂々と名乗られた「神」を飲み込めずにいるのだから。そもそもリデルは神とはなんなのかがよくわかっていないのだから、仕方がないかもしれないけれど。

「……本当なのかな……」
「んなわけないだろ。どう見たってただの女じゃねえか。大体、本物なら学校なんか来るわけねえだろ」
「そう、かも、まあ……」

 マグレヴァーの言うことはもっともで、リデルは曖昧に頷いた。世間知らずなリデルだけれど、人間と共同生活を送る神だなんてありえないことは知っていた。ましてや普通の少女の姿をして、学校生活を送る神なんて。普通の人間だとしても、それがどうして神を自称することになるのかはわからない。

「……俺には関係ねえし、どうでもいい話だろ」

 だからこの話は終わりだとでも言いたげに、マグレヴァーは切り捨てた。
 リデルはまだドロシーのことが気になっていたのだけれど、これ以上彼に話を振ってもまともな返答は戻ってこないと判断して。そうだねと笑って、疑問は胸の内へとしまうことにした。実際マグレヴァーもリデルも、あの不思議な少女と話すことはそう多くはないだろう。リデルはただでさえ、自分から誰かに話しかけることすらまだ不慣れなのだから。
 ドロシーと一日共に机を並べたわけだけれど、彼女は誰とも話そうとはしなかった。それは決して、彼女が他人を拒んでいたからではない。初対面の刺々しさでいえば、マグレヴァーに比べれば大したことはなかった。それでも声をかけるどころか視線すら合わなかったのは、彼女はどこか特別な存在に思えたからだ。「神様」宣言のせいだけではない、他者を畏怖させるなにかを纏っていたから。少なくとも、リデルはそう感じた。

「そういえば、ドロシーはどうして今……」

 今急にやってきたのかなという疑問は、扉から覗く暗闇の中へと溶けていった。
 リデルたちが立ち止まったのは、寮の前だった。今ちょうど、この場所へと帰ってきたのだ。それなのに扉はかすかに開いて、生暖かい空気が手招きをしている。一瞬もはや顔馴染みとなった吸血鬼の姿が浮かんで、すぐに打ち消された。太陽を拒絶している彼が、扉を開けたままにしているとは思えない。そもそもあの吸血鬼は、正面玄関から入ってきたことなどないのだし。

「……どうなってんだよ、防犯」

 そんなもっともなぼやきと共に、足がのばされた苛立ちをぶつけるように、マグレヴァーが扉を蹴る。乱暴なその動作に押されるがままに開いた先――。

「こんにちは」

 まるで待ち構えていたかのように、抑揚のない声が飛んできた。
 暗い室内に、闇を閉じ込めたかのような瞳がある。規律を守られた制服と、目立つ包帯。ドロシー・マグリステリーカは、我が物顔でそこにいた。

「遅いですね」

 そう言うと、ドロシーはふいと背を向ける。リビングまで歩を進めた彼女は、静かに椅子に腰かける。驚きで固まるリデルが絞り出せたのは、どうしてここにという疑問だけだった。

「私は列車というものに乗ってここまでやってきました。その期間は二週間です」

 規律正しく背筋を伸ばして、ドロシーは口を開いた。まるでスポットライトでも当たっているかのように、彼女へと視線が誘導されていく。今は電気すらついていないというのに。
 少女はこちらを見ようともせず、テーブルの上に飾られた花に向けられている。それが好意ゆえのものなのかなんなのか、リデルにはわからない。

「二週間。つまり、私は人間でいうところの家という場所に辿り着くまで、二週間かけなければならないということです」

 彼女の声は、不思議な引力に満ちていた。飛び抜けて美しい声というわけでもない、通るわけでもなければ大きいわけでもない。それなのに、ドロシー・マグリステリーカが話している間は口を挟んではならない――傾聴しなければ。そんな意識を持たせるような、堂々とした声色だった。
 天啓だ、と思った。再び。

「学校というものは、毎日行われるそうですね。そしてこの場は、毎日家に帰っていては不都合が起こる人間が暮らす場所だと聞きました」

 淡々と言葉が並べられていくにつれて、リデルはひやひやと視線を泳がせていた。
 ――マグレヴァーが不機嫌になっている、気がする。
 それは予感ではなく、きっと真実なのだろう。余韻を保ったドロシーの語りの最中に、随分遠慮のない舌打ちが聞こえたから。

「……で?」
「わかりませんか? 貴方は随分と頭が悪いのですね。私も今日からここで生活します、と言っています」

 そうしてドロシーはようやくこちらに視線を投げる。黒手袋の中で、見慣れた鍵が音を鳴らした。寮の鍵であるそれは真新しく輝いてその存在を主張する。リデルたちの目線を確認すると、ドロシーは捕えるように鍵を握り込んだ。

「私と共に暮らすことを喜んでもいいですよ。村の誰もが望む栄誉ですから」

 横柄に言い切って、ドロシーは立ち上がった。足に巻かれた包帯が少しずり落ちている。その下になにがあるのかは、暗い部屋ではわからない。
 こちらへの興味をなくしたように視線を逸らし、彼女はぱんと手を叩いた。その音はほとんど手袋に吸い込まれてしまったけれど、そのかすかな音を拾った存在がいたようだ。

「お呼びでしょうか、ドロシー様」

 ドロシーの向こうの暗闇で、なにかが動いた。なにかというほど得体のしれないものではなく、それは実際のところただの人間なのだけれど――リデルは咄嗟に不気味だ、と思った。
 長身がゆらりと揺れて、腰にまで届く茶髪がその動きに追随する。片目を隠す前髪と仮面のように張り付いた笑顔が浮かび上がって、にこやかな表情はリデルたちを見下ろす。飾り気のない黒い服は、その体躯を隠すかのように闇に溶け込んでいた。

「私の部屋へ」
「かしこまりました」

 突如ぬるりと現れたその人物に、ドロシーは動じていないようだった。その体格と声色から、大人の男性であろうことがうかがえる。けれど、それだけだった。ドロシーは一度こちらへ背を向けかけて、それからなにかを思い出したように振り返る。「言っておきますが」と口を開いた彼女に従うように、男もこちらへ向き直る。

「私の部屋に入ろうなどと思わないように。勝手なことをしたら天罰を下しますよ」
「入んねえよ。おい、それよりそっちの……」

 刺々しく、けれど少しの恐怖を伴ってマグレヴァーは言った。さすがの彼も大きくて不気味な大人はこわいんだなんて考えて、場違いにのんきな横道に我ながら呆れてしまう。そんなリデルの耳に、低く怪しい声が響いた。

「私ですか。私は――」
「この人間の名を知る必要はありません。貴方たちがこの人間と話す理由もありません」

 突然、ドロシーが男の言葉を遮った。男は笑顔を張り付けたまま、一瞬ドロシーへと視線を落とす。それまでリデルたちへと向けていたものとはまったく違う、恍惚とした陶酔を伴って。眉を寄せる彼女を見つめたあと、彼は再び口を開いた。

「……ドロシー様がそう仰せですので、私の名などご放念ください。そうですね、もし呼び名が必要な場合は……役職名に則り『村長』とでも」
「私は今から部屋へ向かおうとしていました。邪魔をしないでください。それでは、食事の時間にまた会いましょう」

 言いたいことだけを言ってしまうと、ドロシーは今度こそこちらへ背を向けた。残されたのは、禍々しくも暗い空気。なぜか息が詰まるこの感覚はしばらく味わいたくはない……そう思ったリデルの願いは、には聞き届けられなかったようだった。


「それでは、どうぞお召し上がりください」

 健康的な夕食の時間。寮の食卓は初めて彩られ、湯気を漂わせていた。十代の健やかな成長に必要な栄養素と量がただしく並ぶテーブルの上を見て、新たに増えた椅子を見て、再び並べられた食事を見て。リデルは数度瞬きをした。
 ――ここに来てからというもの、こうもまともな食事を摂ったことはなかった。
 リデルがどうにかこうにかこなしていたものの、別に料理ができるわけではない。同じ屋根の下で過ごすマグレヴァーに、食事に対する意欲はみじんもなかった。だからいつも、焼いただけのなにかか既製品を食べていたのだけれど。目の前にあるものは、あたたかな手料理だった。

「……えっと、これ……」

 なんと声をかければいいのか戸惑っていると、男――村長が笑みを深める。

「ドロシー様のためのものですが、お二人も。ご安心ください……なんてことない、ただの家庭料理です」
「…………」

 マグレヴァーの舌打ちが聞こえた。いつも適当な時間に適当な食事をしていた二人にとって、こんな経験は初めてのものだ。突然部屋をノックされたかと思えば、「夕食が出来上がりました」と告げられて。廊下にいたのは、にこやかに割烹着を着こなす村長だった。大人しく従ったリデルとは異なりマグレヴァーとはひと悶着あったものの、首根っこを掴まれて出てきた彼は村長に負けたようだ。不機嫌なぼやきを聞き取る限り、純粋に腕力に敗北したらしい。
 料理を見つめるリデルたちに、村長は笑う。

「お気持ちはお察ししますが、怪しいものなどはございません。ドロシー様のお口に入るものですから、味も保証いたします。どうぞ」

 不気味な笑顔で言われても信じられないものの、その笑顔でじっと見つめられ続けるのも居心地が悪い。急かすような物言いに、リデルは意を決してスープを一口分すくう。いい香りだった。

「……おいしい、です」

 あたたかくて、おいしかった。思わずこぼれた言葉を拾って、村長は仰々しく手を広げる。その声色は弾んでいて、喜んでいることがうかがえた。

「ええ、ええ、そうでしょうとも! なぜならこれは、お――」
「消えてください」

 なにか喜びを表現しようとしたらしい村長を遮って、ドロシーが短く言った。それまで大袈裟なほど喜びにあふれていた彼は、それを聞いて感情を納める。笑顔はそのまま、滲み出ていた感情だけが抜け落ちていた。

「かしこまりました。それでは……ああ、お二人も食器はどうぞそのままで構いませんので」

 そう言い残して、彼は姿を消した。訪れた静寂を気にする様子もなく、ドロシーは機械的に咀嚼していた。

「……おい」
「何か?」
「んだよアレ」

 アレという言葉の測りかねるように、ドロシーはじっとマグレヴァーを見つめた。時計の秒針が響く中で不機嫌に落とされた「あの男」という補足に、彼女は話題を理解したようだった。

「あの人は、私の村の者です。長を務めています」
「んなのもうわかってんだよ。で? その村長がどうしてここにいんだよ」
「私は神様です。昔から、私の身の回りの世話はあの一族が行っていました。私が村から出ても、そのしきたりは変わりません。あの人は、私の世話のためついてきました。明日から食事はあの人に用意させますから」

 どこか不器用に食器を扱いながら、ドロシーは言い切った。リデルたちより先に食べ始めていた彼女の食事は、どうやらもう終わるらしい。最後の一口を飲み込むと、彼女は席を立った。その様子に吐き捨てるように、マグレヴァーはつぶやく。

「……俺はいらねえ」
「そうですか。ならばご自由に」

 簡素なやり取りだった。それはマグレヴァーと二人きりの頃よりもずっと冷え込んだ空気に、先ほどはあんなにほっとしたスープの温もりすら褪せていくような気がして。リデルは憂鬱に息をひそめていた。

 
 ◆
 

 リデルは、自室でようやく息をついていた。
 怒涛だ、と思う。ドロシー・マグリステリーカという少女は、逆らうことのできない大きな流れのような存在だった。けれどあの不思議な少女は、他人と関わる気はあまりないように思える。マグレヴァーのような敵意から来るものとは違うものの、確かな拒絶がそこにはあったから。
 帰り道にマグレヴァーも言っていたように、自分とはあまり関わり合いを持たないのかもしれない。そう思って背伸びをしたときだった。

「こんばんは、リデル・ネーヴァルレンド」
「うわあ!?」

 突如名前を呼ばれ、思わず声をあげる。びくりと揺れた体が椅子から落ちそうになって、リデルはめずらしく鼓動が早まるのを感じていた。

「なにをそんなに驚くことがありますか」

 声の主はそんなリデルに対し、怪訝な視線を投げてくる。片目が変なものでも見るように眺められて、かすかに心が傷付いた。それは情けない反応を見られたせいでもあるけれど、視線に込められた憐れみのようなものを感じ取ったからだ。
 訪問者であるドロシーは、小首をかしげてリデルを見ていた。

「ご、ごめん……えーっと、の、ノックとか……気付かなくて……」
「ノック? なんですか、それは」
「え、な、なに、部屋に入る前に相手に知らせるための……扉を叩く、やつ……」
「…………ああ、なるほど。あれは『ノック』……」

 まるで初めて聞いた言葉だという反応で、彼女はつぶやく。何の用かと尋ねたかったけれど、知らない概念を咀嚼しようとしているかのような少女を前に、リデルは口を挟むことができなかった。数秒黙り込んだドロシーの瞳には、なにか純粋な感情が宿っていた。

「それは、私もするべきものですか?」
「するべき? ど、どうだろう。してくれると助かるけど……」
「そうですか。ならば助けてあげましょう。私は神様ですから」

 どこか要領を得ないやり取りを経て、ドロシーは一人納得したように顔を上げる。再びリデルを見つめた彼女の瞳は、暗闇を溶かして濁っていた。そして、本題は唐突に始まった。

「リデル。私は貴方のことを知っています。なんだって知っていますよ。貴方の父親のことも」
「……!」

 父親。その言葉は、リデルの思考に鋭く突き刺さった。ずっと頭にあって、どうにか隅に押しやっていたその言葉を、初対面の彼女に口にされるとは思っていなかった。それはどういう意味なのかとか、そもそもなんだって知っているなんてとか、そういう問いかけが浮かんで、結局言葉にならずに消えていく。今は人に伝わるように喋れる気がしなかった。

「貴方は父親について知りたいそうですね。教えてあげてもいいですよ。消えた父親のことと、」
「ま……ごめん、待って…………」

 まだ続こうとしていた語りに押し入って、それだけをつぶやく。人の邪魔にならないことを意識しているリデルにとって、こんな行動は初めてのことだった。ドロシーは遮られたことに眉をひそめたけれど、意外にも大人しく口を噤む。
 ドロシーの視線に晒されている時間は、永遠にも感じられた。もはや時間間隔すらあやふやで、どれほど自分が黙り込んでいるのかわからない。規則正しく鳴る秒針は、何度一周したのだろう。
 彼女がなぜ父親のことをという些細な疑問は、今や遥か彼方へと投げ捨てられていた。まったく些細なことではない、ないのだけれど。父親という存在の前には、すべては些末なことだった。それは彼が行方不明だからでもあるし、彼がリデルの支配者だったからでもある。それまで世界のすべてで、ある日突然消えていった父親。なにも知らないリデルにとって、その存在は自分と世界を繋ぐ糸で、存在意義だった。

「……僕は、……えっと……」

 父親が消えた理由を知りたいという気持ちは、もちろんある。それだけを願っていたはずだった。その謎を解くことができるのであればなんだってする、そんな風に考えていたはずなのに。言葉が出ないのは、嫌な汗がにじむのは、一つの恐れからだった。
 ――もし、自分を捨てるためだったらどうしよう。それを言葉にされたなら。
 ありえない話ではない。むしろその可能性が高いと、リデルは数日前もこの部屋で考えていた。ネクロマンサーは居場所がないから人前に出るべきではないと言って、森の奥に閉じこもっていた父親。あの不便な家で一心不乱に魔法を用いた彼の試みは、牛歩ではあれど前進しているものに見えた。父親は、あそこでしか生きていけなかったはずだ。そのすべてを突然投げ捨てる理由なんて、リデルの知る限りは一つしかない。

「……ごめん」

 自分の声が震えていることに気が付いて、悲観的な思考が自嘲する。なにを怖がっているのだろう、答え合わせをするだけなのに。どうせもう帰る場所はなく、自分の家族はもういない。そもそも父親は、リデルを家族とは思っていなかっただろうけれど。

「……わからなくて……」
「知りたくないのならそれで構いません。知りたいのなら、いつだって構いません。いつになろうと、私と貴方は話すことができますから」

 ようやく絞り出した声に、ドロシーの冷静な声が返ってくる。どこか遠回しで含みのある言い方だったものの、そこに込められた意図を考えている余裕はなかった。

「もう寝ます。寝る時間なので」

 そう言うとドロシーは、入ってきたときと同じように素早く扉の向こうへ消えていった。彼女から発せられた「時間」という言葉に、リデルの視線は時計へと吸い込まれる。
 針は、ちょうど二十一時を指し示していた。
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