番外編
指先に夜空
「そう、ね。まあ。……でも、アタシは君のこと、別に大好きじゃないよ」
怪しげな嗜好品が散らばる部屋の中、ネイルポリッシュ特有の匂いが広がる。
換気のために開けた窓からは夜の風が吹き込んできて、黒いレースが施されたカーテンを揺らした。足の踏み場すらなかった床に無理矢理作った空きスペースは、おおよそ客を迎える場所ではなかったけれど、彼は文句を言わなかった。彼はいい人……なのである。物事のいい面を見ていて、素直で、明るい、いい人。
……ただ。
彼はこと自分についてだけ、ものさしにだいぶ依怙贔屓が入る性格ではあるので。また何か言われるのかも、と思った。このオレに興味を持たないなんて、くらいは。適当にかわそうと思いながら、彼女は目の前に座る彼の様子をうかがう。
夜の闇の中輝く彼の瞳は、色付いていく自分の爪から目を離さなかった。そして、彼にしてはめずらしく、静かに言ったのだ。
「オレはそういうお前のことが好きだぞ、マリー」
◆
「……んー、気持ちは嬉しいけどー」
――時間は少しだけ前に遡る。
いつからか懐いた野良猫の頭を撫でながら、マリーゴールドはなにか考えるように目線を空へ投げた。
「別にいいよ、誕生日とか。女の子に祝われたし、もう満足かなー」
「そうなのか? オレのときは付き合ってもらったし、何か出来ればと思ったんだが」
「それは嬉しいけど。あれはアタシが行きたかっただけだし、気にしないでよ」
マリーゴールドがそう言うと、アーガストは「そうなのか」と呟いた。壊れかけの電球と月明かりしかないこの暗闇のなかでさえなぜか目立つ彼は、残念そうに眉を寄せる。
「お前にとってはたいしたことないかもしれないが、なにか礼をしたかったんだ。誕生日ならちょうどいいかと思ったんだが。なんでもするぞ? オレ」
「なんでもって言ってもねー……」
「なかなかないぞ、このオレを好きに出来るのは!」
「男を好きにしてもなー。ほんとに気にしな…………あ、そうだ」
半ば面倒そうにしていたマリーゴールドだったが、ふとあることを思い出した。そういえば、アーガストを見る度に思っていたことがあったのだ。普段は言い出すタイミングもなかったけれど、今がそれを実現するいい機会かもしれない。
「ほんとになんでもするの? 時間かかってもいい?」
「ああ、なんでもするぞ!」
アーガストは相変わらずの、自信満々の笑顔で堂々と言った。それを受けて、野良猫を抱き上げて立ち上がったマリーゴールドは笑う。
「じゃ、アタシの家まで来てよ」
マリーゴールドの家は、学校をはじめとする彼女たちの生活圏とは少しだけ離れた静かな場所に位置していた。街路樹が立ち並ぶ中にひっそりと建つ素朴な一軒家の庭先には、いくつかの鉢植えが置かれている。
「親いないし、あんまり気遣わなくていいよー」
「ああ、邪魔するぞ」
「とりあえず、アタシの部屋に案内するから。あとでお菓子とか用意するねー」
マリーゴールドの部屋は、廊下の突き当たりに位置していた。素朴で平凡で、あたたかみのある扉に手をかける。冷蔵庫の中身について話しながら、アーガストは部屋の中へと視線を動かした。
「気にしなくていいぞ、オレは菓子とかは別……に」
そして、時が止まったかのように制止し。目の前に広がる光景が信じられないとでもいいたげに、ぱちぱちと瞬きをした。
「どうしたの? 入ってよ」
「……物置?」
「えー、失礼だなー。アタシの部屋!」
軽く笑いながら言ったマリーゴールドに対し、アーガストは乾いた笑いを返すだけせいいっぱいだった。こんなことはアーガストの人生で初めてだった、と彼は後に回想する。特に何も考えずとも回る口と頭が、こんなにも動かなくなるのは。
「……や、だが、……足の踏み場がないんじゃないか? これ」
「え? うん、ないけど。……あーでも、人呼ぶにはちょっと散らかってる?」
ちょっとどころではなく、かなり散らかりすぎているのだけれど。床には適当――本人としては規則性が一応存在している――に教科書だとか日用品だとか、彼女の趣味である魔術に使われるものだとかが散乱している。机やベッドまわりは他と比べれば整理整頓されているものの、それにしてもめちゃくちゃだった。
「ごめん、片付けるからちょっと待ってて」
「あ、ああ」
アーガストを廊下に残したマリーゴールドは、足元に転がっている、いつなんのためにどうして買ったのかもいまいち思い出せないものたちを見下ろした。
「とりあえずクローゼットに入れとけばいいかなー? ……え、これなんだっけ……まあいっか」
適当に床に散乱したものを手に取り、乱雑にぽいぽいクローゼットに突っ込んでいく。不安定に、けれど確実に積み重なっていく謎のアイテムたちを山積みにしていくと、少しすれば床が見えてきた。幸い散らかっていたものさえ隠せば見れるものにはなり、マリーゴールドは満足そうに瞳を細める。
「片付けたから。入っていいよー」
「もう終わったのか? 早いな」
「まあね。床で悪いけど、座って」
先ほどまでの面影がない、ある程度片付いた床を見て、アーガストは感心したような声をあげた。そうして、床に腰かけようとしたとき。
どんがらがっしゃん、がらがら、がこん。
クローゼットの方から派手な音が響く。おおかた、無理に積み上げたものたちが崩れたのだろうけれど。初めて見るようなアーガストのぽかんとした顔に、なんとなく、なにも言うことができなかった。
「…………」
「…………」
「……見えないところに移動させることは片付けとは言わないぞ、マリー」
やがて言いにくそうに、やけに気を遣った表情でアーガストは口にした。
「今ここが散らかってないんだから片付いてるのよ。ほら、いいから座って」
「大丈夫か? 掃除した方がいいんじゃないか? オレも手伝うぞ」
「いいのいいの。それより、アタシの言うこと聞いてくれるんでしょ」
だが、とさらに言いつのろうとするアーガストを制止し、マリーゴールドは部屋の惨状とは打って変わって整理されたドレッサーに向かう。ピアスにコスメにヘアアクセサリー、それからネイルポリッシュ。丁寧にわけられ大切にしまわれているそれらの中から、一つのボトルを取り出した。少しだけ傾けてみせれば、中に入った夜空が重たく動く。黒とネイビーが混ざったその色の中で、贅沢にちりばめられた星が輝いていた。
「なんだそれ、何に使うんだ?」
「見たことない? ネイル。これを爪に塗るのよ」
そう言うと、目の前の液体と時折色付いているマリーゴールドの爪が繋がったらしい。アーガストは感心したような相槌を打つと、まじまじとボトルを眺める。。そんな彼の様子に、マリーゴールドは楽しそうに微笑んだ。
「これ、塗らせてよ。それが誕生日プレゼントってことで。いい?」
「もちろん。じゃあ、頼む」
そうして差し出されたアーガストの手は、大きくて角ばっていて、白かった。夜の色に染まっている彼の手は、どことなく人間とは違う何かを感じさせた。実際人間ではないのだから、当たり前と言われれば当たり前だけれど。するりと指先に触れて、形のいい爪を撫でる。
「……ネイルケアとかなんにもしてないんだよね?」
「ああ、特には」
そんなものがあるのか、とでも言いたげな表情のアーガストに、わからないように息をつく。この男はなにもしていないくせに、文句のつけようのないほどきれいなのだ。アーガストの自画自賛を適当に流しているマリーゴールドだったけれど、容姿に限って言うのであれば……彼の自身への褒め言葉も、あながち大げさでもないと思っているのだ。本人には教えてあげないけれど。
片膝をついて座り、おとなしく自分の爪に塗られているベースコートを見ているアーガストは、どこか楽しそうだった。
「マリーはたまにやってるよな、ネイル」
「そうねー。気が向いたときにだけど」
薄く塗られたベースコートは、少し薄暗い部屋のライトを受けてつやつやと輝いている。それだけでも、アーガストは「すごいな」とつぶやいた。
「色のついているやつはまだ塗らないのか?」
「それはこれから。最初と最後はこういう透明なのを塗るのよ。これがないと、きれいに発色しなかったりするから」
「へえ……時間かけてるんだな」
そうして再び黙ったアーガストは、物珍しそうに自分の爪を眺めている。
「そういえば、どうしてネイルなんだ? 楽しいからいいんだが」
「大した理由じゃないけどね。ただ、前から爪きれいだなーって思ってたから。なんでもしてくれるって言うなら……」
隠すことでもないから、と前々から思っていたことを口にした。
手元を見る度に目に入る、まるで特別なケアでもしているのではないかと思うほどのきれいな爪。それを見るたびに、きっとネイルも映えるのだろうなと手持ち無沙汰に考えていた。なんでもしてくれるという今日という日は、そんな密かな想像を叶えるのにちょうどよかった。そんなふうに続けようとしたとき、目の前に座る彼がどこか上の空であることに気が付いた。正確に言うのであれば上の空などではなく、これは――。
まずい、これはもしかしなくても。思うより早く、アーガストの満足気な笑い声が響いた。
「そうか! 意識したことはなかったが、オレは指先までも完璧なのか……さすがオレ!!」
「言わなきゃよかった」
「なぜだ! オレは今、最高に気分がいいぞ!」
一度こうなると、この男はなかなか止まらないのだ。マリーゴールドはため息をついて、滔々とした自画自賛を聞き流すために爪先に意識を集中させた。少しすると満足したのか、アーガストは再び静かに彩られていく自分の爪を見つめていた。
「……すごいな、色が付くだけじゃないのか」
「ラメのこと? かわいいよね、これ」
小さいながらもきらきらと輝き存在感を放つそれは、深い闇のような色によく映えていた。そして、アーガストの肌にも。そうして、片手を塗り終えた頃。彼のポケットから、無機質な呼出音がなった。
「電話? 出ていいよー」
「ああ。ありがとな」
未だ色のない片手で器用に通話を始めたアーガストを眺めながら、なんとなく手持ち無沙汰になってボトルを手の中で転がす。アーガストの声しか聞こえないけれど、通話の相手はどうやら友人のようだ。いくつかの会話を交わし、それじゃあまた、と通話を切って。
「悪い、待たせた」
「別にいいけど。なにか用事だった? まだ時間かかるけどー……」
「いや、暇だったら遊ばないかってだけだ。急ぎじゃないからさ、続きやってくれるか?」
「そう? それならいいんだけど。……わざわざ連絡してくるなんて、好かれてるんだねー」
「まあな! オレだからな!」
得意げなアーガストに、適当に相槌を打つ。
アーガストのことは好ましく思っている。決して人を否定せず、どんなことにも興味を示す姿は付き合っていて好ましいものだし、彼と話していて退屈をしたことはない。だから、そんな彼と共に過ごしたがる人が多いことには頷ける。だから少しだけ、疑問に思っている。
「君さ、友達多いんでしょ。なんでわざわざアタシのところに来るわけ?」
「ん? だってマリーもオレのこと好きだろ?」
間髪入れず返されたそれに、一瞬言葉を失う。相変わらずの自信だけれど、決して間違ったことは言っていないところが少しだけ癪だった。
「そう、ね。まあ。……でも、アタシは君のこと、別に大好きじゃないよ」
アーガストのことは嫌いではない。その容姿にこうして用がある日もある。けれど、彼を取り巻く友人たちのように彼そのものに大して興味はないし、正直なところ、共通の話題なんて一つもない。アーガストと話していて退屈したことはないけれど、もっと彼と話が合う人なんて、それこそ山のようにいるはずだ。それなのにアーガストは、度々夜中の街でマリーゴールドを探している。それが不思議だった。
「オレはお前のそういうところが好きだぞ、マリー」
「そういうところって?」
「オレに興味がないところ!」
明るく笑ったアーガストは、今度は静かに視線を落とす。爪先はもうほとんどが夜に染まっていた。
「オレはかっこよくて文句が付けようのないほど完璧な存在だが……」
「あーうん、そうだねー」
「だからこそ、だな。このオレが素晴らしいあまり、遠慮や諍いも生まれてしまう。仕方のないことだがな! オレは特別な存在なのだから!」
「諍いって。大袈裟じゃない?」
「だがマリーは、あまりオレを特別扱いしないだろう。……持て囃されるのは気分がいいが、人間の争いに巻き込まれるのはごめんだからな」
いつもうるさいくらい大きな声は、今日だけはひそめられていた。それは夜だからなのか、人の家だからなのかはわからないけれど。ちょうどネイルを塗り終わったマリーゴールドは、小さく笑った。
「特別もなにも、アタシにとってはただの友達だもの。他の……学校のみんなも、そう思ってるでしょ」
「……そうだな。だからオレはお前たちのことが好きだぞ‼」
「あんまり動かないで、よれるから。……って言っても、すぐ落とすでしょ? ならいっかー……」
「え、そうなのか?」
「え。違うの?」
「オレはてっきりこのままかと……。せっかくこんなにきれいにしてもらったし。何より、思い出になるからな!」
「なにそれ。ならそのままでいいけど。……あ、でも、そのうち落とすからね」
そんな会話をしながら、先ほどまで使っていたネイルポリッシュの輪郭をなぞる。
ネイルをさせろと言ったのはただの気まぐれだったし、どうせ明日には彼の爪も何事もなかったかのように戻っていて、今日のこともたいした記憶には残らないと思っていた。けれど。
「……忘れらんなそー……」
きっとこのネイルポリッシュを見る度に今日のことを思い出すのだろうと、そんな確信が芽生えていた。