第1章 ちいさな箱に人生を詰めて

11 Faith can move mountains.


 わたしの毎日は、わたしの体は……死んでいるようなものでした。
 呼吸をしているだけの死体のようなものだったのです。いいえ、大袈裟などではありません。治療さえ意味をなさなかったわたしの体は、日に日に悲鳴をあげては腐り落ちていっていましたもの。けれど……医師は、死力を尽くしてくださっていたと…………わたし、信じていますわ。……今でも。
 あら、話が逸れてしまったわ。
 そんな日々の中でわたしの心臓を動かしたものが、愛だったのよ。ええ、あの春の日、わたしはようやく生を受けたの!
 ……なんて、ごめんなさい。あまりはしゃいではいけませんわね。
 きっかけ……は、些細なことですわ。世界にとっても、彼にとっても。それでもわたしには、なによりも大切な宝物ですから。宝物は独り占めしたい質ですの。あの日のことは、秘密にさせてくださいね。
 ……あまりにも些細なことでしたから、ある日言われてしまいましたのよ。「そうしたのが自分ではなかったとしても」……と。
 そうなのかしら、どうかしら。今はもうわからないわ。他でもない彼だったから恋をしたのか、あの優しさを向けてくれるのならば誰にでも恋をしたのか、なんて。……けれど、ね。わたしの周りにはたくさんの人がいたわ。それでも、あんな風に優しく起こしてくれたのは彼だけだった。
 わたしの人生の中で、彼しかいなかったのよ。
 ――きっとそれを、運命と呼ぶのでしょう?

 
 ◆


 のどかな午後だった。
 その温暖で優しい気候と風を受けていても、リデルの脳内は穏やかではなかった。
 悩みの種は、かなりの頻度で寮に訪れては夜明けに姿を消す吸血鬼……ではない。最初こそ心配していたものの、蓋を開ければ彼はとてもいい友人だった。リデルには持てないような明るさと自信を兼ね備え、いつでも元気な笑顔を見せる彼の存在は、光と呼んでも過言ではない。マグレヴァーとも案外うまくやっているようで、寮にはこれまでになかった明るさがもたらされていた。
 問題はアーガスト自身ではない。彼が当たり前のように使う魔法だ。
 彼は、いともたやすく魔法を使う。息をするのと同じように、なにか特別な意識をしている様子も見せずに。
 リデルの記憶の中では、父親はかなり仰々しい儀式のようなものを経てあの力を使っていたはずなのに。日常のなにげない動作と死者蘇生では労力も違うのかもしれない、なんて仮説も立ててはみたものの、その答えを誰かに聞くことなどはもちろんできない。そのためすっかり行き詰っていた。
 それに、気になることはそれだけではない。
 ――魔法は祈りの力。
 何度も頭を駆け巡るその言葉が、再びリデルの思考を滞らせる。
 その仕組みもよくわからないけれど、そもそも祈りというものがよくわからなかった。祈らなければ魔法は使えないというのであれば、父親もそうだったのだろうか。
 神なんて信じていなそうな人だったけど、とリデルは小さく息を吐く。
 けれど父親が行っていた儀式のようなものが、なにかに祈りを捧げるために必要だったのだとしたら。すべて憶測でしかないものの、なんとなく繋がっていくように思えた。死者を蘇らせてほしい、それが彼が祈っていたことなのだろうか。思い返せば結局、なぜあそこまで死者の蘇生に執着していたのかもわからないままだった。

「……はあ」

 何度目かのため息が漏れる。考え込んでいるとつい暗い方に行ってしまうからと外に出てきたものの、どこにいようと頭の中がごちゃごちゃと錯綜していくのは変わらないらしい。
 そのときふと、視界の端に華やかな赤色を見つけた。
 どこか見覚えのある公園に、丁寧に巻かれた髪とリボンが見える。ベンチに腰かけているのであろう人影は、ゆらゆらと揺れて。リデルの足は、その頭がかくんと船を漕いだ瞬間に止まった。

「あれって、もしかして……」

 以前もこのようなことがあった気がして、リデルは足早に公園へと入る。相変わらずとても静かで人気のない小さな公園にひっそりと置かれたベンチで、少女は目を閉じていた。なんとも懐かしさを感じる状況だ。近寄ると思った通り、シャーロットが眠っていた。
 ――やっぱり、作り物みたいだ。
 人形のよう、と言うべきなのだろう。人形作家がその心血を注いで作り上げた、世界に一つの特別なお人形。本来は動かないはずなのに、なにかの奇跡と間違いからキャビネットを抜け出したような。
 そんな言葉を並べ立てようとしても、リデルの脳内に真っ先に浮かぶのは「生きているとは思えない」だ。その先に続く比喩も、初めて彼女を見たときと変わりはない。白い肌は不健康で、四肢は細く頼りなくて。いつも穏やかに微笑んでいる姿にも、どこか生気を感じられなかった。
 もちろんシャーロットは生きているのだし、こうして呼吸だってしている。それに、こんなによくしてくれる相手に「死体みたい」だなんて。置かれていた環境のせいなのか、物々しい表現ばかりが浮かぶ自分に嫌気がさしてくる。

「……シャーロット、起きて」

 そんな思いを振り払うように、静かに声をかける。深い眠りの底から引き上げるには足りない声量だったけれど、彼女の瞼はゆっくりと開いた。

「まあ……」

 寝起きだからか、どこか緩慢な声色だった。
 か細く息を吐きだして、少女はかすかに視線を泳がせる。ここがどこなのか、今まで自分がなにをしていたのかを確認するかのようにそっと周囲を見回して、ようやくその視線はリデルを捉えた。いまだ夢の中にいるかのようにぼんやりとした影を落とす瞳は、静かなまばたきの後に普段の輝きを取り戻す。

「ごきげんよう、リデル。……わたし、眠ってしまっていたのかしら」
「そう……みたい。おはよう」
「ええ、おはよう。起こしてくださってありがとう」

 そんなやりとりも、どこか既視感のあるものだった。
 思い出すのは、リデルがこの街にやってきたばかりの日のことだ。ふと浮かびかけた過去と未来への不安から目を逸らすように、リデルはどうにか会話を繋ごうと話題を探す。思いついたのは、ここでなにをしているのかという問いだけだった。

「わたしはお散歩よ。少し休憩しようと思ったのだけれど……あなたは?」
「……僕は……なんだろう、少し考えたいことがあって……。頭がこんがらがってきたから、気分転換でもしようかなと思って」
「まあ、悩み事かしら」
「悩み……というほどでもないんだけど……うーん、時間があると色々考えて止まらないというか……なんというか」

 曖昧な返答をしたリデルを心配するように、シャーロットは眉を下げた。「もしあなたさえよろしければ」と、少しためらうような声がかかる。

「わたしに聞かせてくださらない? ……一人で大切にしたいことだったら、ごめんなさい。けれど、話すことで気が楽になることもあると思うの」

 それは純粋な優しさから来ているのだろうとわかった。これがたとえば寮や学校で起きた問題だったら、リデルだって一抹の申し訳なさを抱えながらも相談したかもしれない。家のことだって、もしかしたら。けれど魔法のことだなんて、聞かれたところで誰もうまく答えようがないのだから困らせるだけだ。
 せっかく寄り添ってくれたのに突き放すのも悪いけれど、話したってどうにもならないことだから。そう考えているはずなのに、不思議とその旨を伝えることはできなかった。

「シャーロットは、……魔法って、今の人でも使えると思う?」
「……魔法?」

 シャーロットは目を丸くして、その単語を繰り返した。そんな反応をされるであろうことは予想がついていたはずなのに、つい焦って「変なこと聞いてごめん」と口走ってしまう。魔法を今でも使えると思うか、なんて、普通の生活を送る人々にとっては聞くまでもないことだろう。昔は使えた、けれど今は不可能――それが常識なのだから。
 言わなかったらよかったかもと考えるリデルを諫めるように、シャーロットは静かな声で答えた。

「使えると思うわ」

 一瞬真剣な表情を見せた彼女は、すぐにいつもの柔らかな笑顔に戻る。

「魔法はあると思うの。魔力もそうよ。なくなったと言われているけれど、すべての人に確かめたわけではないでしょう? きっと秘密にしているだけで、魔法を使える人もいるのではないかしら」

 どこか確信めいたように語る理由が、リデルにはよくわからなかった。夢見がちなところがあるシャーロットのことだから、この答えもその延長なのかもしれない。けれど、常識だと笑うことも突き放すこともせずに選ばれた彼女の答えは温かいものだった。

「案外身近にいて、こっそり聞いてみたら教えてくださるのかも。……リデルはどう考えているの?」
「僕、は……」

 聞き返されると言葉に詰まってしまう。実際に魔法を使っている存在を見た以上、魔法は今も使えるとしか言いようがない。けれど、この結論に至るまでの過程を伝えるならば言葉を選ばなくては。
 そう考えれば考えるほど、色々な単語や記憶が脳内で暴れ回る。頭の使いすぎにしては苦痛すぎる混乱の中でリデルが口にできたのは、言わない方がいいと強く思っていたはずのものだった。

「…………吸血鬼が……」
「……吸血鬼?」

 再び細い声が聞き返してくる。先ほどのものとは違い、困惑を多分に含んだ声色で。

「えっと、うん。僕もよくわからないんだけど、その、吸血鬼の人が、寮に来て。その人が魔法を使っていて……信じられないとは思うけど……」

 我ながら意味の分からない話だ。ショートした頭ではうまい言い訳も思いつかず、顛末をかいつまんでもこの始末。朝からずっと慣れない考え事をしていた代償なのだろうか。そうだとしたら、自分のキャパシティが頼りなさすぎて少し嫌になってくる。
 自己嫌悪に陥っているリデルを前に、シャーロットは少し目を伏せた。

「そうね、吸血鬼だなんて……物語の中の存在だと思っていたわ。けれど、物語に負けないくらい、現実だって不思議で素敵ですもの。そんな方がいたっておかしくないわね」

 明るい声には、その場しのぎの同調や憐憫は感じられなかった。本当に心の底から、リデルの話を疑っていない様子の彼女は、にこにこと笑っている。

「……そうかな……」
「そうよ。それに、あなたは吸血鬼さんに会ったのでしょう? それならわたし、信じるわ」

 疑いの余地などないとでもいうようにそう言い切られると、自然と心が落ち着いてくるような気がした。まさかこんなにも素直に信じられるだなんて思わなかった。けれど、それはシャーロットの優しさゆえのものだろうと思い直して、あまり他の人には言わないようにしようと気を引き締め直す。

「あの、さ。ついでにもう一つ聞いてもらってもいいかな」
「ふふ、なあに?」
「……吸血鬼の人が……魔法は、祈りの力だって言っていたんだ。強い祈りがないと、人間に魔法は使えないって。それで、なんだけど」

 祈らなければ魔法が使えない、それはもう考えたって理屈も関係性もよくわからない。シャーロットに聞くべきことでもないだろう。それよりも、リデルは祈りというそれそのもののことが知りたかった。
 祈りなんてよくわからない。だから、祈りの力で駆動するという魔法のこともよくわからなくなっていた。あんなにもリデルの近くに存在していたはずの魔法だというのに。それが少しだけ、嫌だった。

「……その、『祈り』がよくわからなくて。シャーロットは、そういうのって……わかる?」
「ええ、もちろん。わたしね、ずっとお祈りしていることがあるの」

 シャーロットはそう言って微笑むと、細い指を組んだ。賛美歌を歌うように、彼女は言葉を紡ぐ。

「――大好きな人の未来が、幸せなものでありますように」

 彼女の瞳の煌めきは、今まで見たどんな彼女のそれよりもまぶしかった。
 初めて会ったときから、その笑顔はいつも変わらなくて、とても綺麗だったから。だから、だろう。まるで祝福でも受けたかのような心地になるのは。
 シャーロットはただの人間の少女で、魔法が使えるわけではない。魔力だって持っているわけがない。それでも向けられた言葉が言い表せないほど優しくて、リデルはとある錯覚に陥ってしまう。

「リデル。あなたにも……とびきり幸せな未来が訪れることを、わたしは祈っているわ」

 今シャーロットから向けられたこの温もりが、魔法なのだと。


 ◆

 
  がたん、がたん。
 古びた列車が、なにもない道を走っていく。この列車に揺られているのは二人だけ。先頭から最後尾までどこを見ても、彼ら二人以外の乗客はいない。
 乗客の片方である男は、狭いボックス席に大きな体をもてあましていた。二メートルを超えているでろう長身は、このボックス席では窮屈らしい。にこやかに弧を描く目元は優しく親しみやすそうだけれど、どこか底知れない雰囲気を漂わせている。
 彼は大きな体を背もたれに預けることはなく、背筋を伸ばし美しく座っていた。それはまるで大人からの指導を愚直に守ろうとする子供のようで、実際に男はなにか言葉をかけられるのを待っているようにも見える。彼がいい大人ではなく、同乗者が別の人間であったのならば、なにかを投げかけられていたに違いない。その向けられる言葉が、男が望むものであるかはわからないけれど。
 ――もう片方の乗客である少女はといえば、靴を脱ぎ捨て椅子の上で膝を抱えていた。
 制服に包まれた体躯とはアンバランスに幼い仕草で、彼女は新品の教科書に目を通す。スカートから伸びる足を守るのは、無造作に巻かれた真新しい包帯だった。

「…………」

 彼女の周りには、紙束や本が無造作に散らばっている。黒手袋を鬱陶しそうにしながらも教科書をめくっては、暗い瞳が文字を追っていた。見開きのすべての文字を素早く拾って、また次のページへ。制服の少女と教科書という取り合わせに反して、周囲の空気は重く不気味なものだった。
 少女が窓の外へと視線を移すことはなかった。けれど頭の隅で、きっとならば興味を示すのかもしれない、と考えている。深い森の奥に閉じ込められ、それ以外のなにもかもをなくした彼ならば。印刷された紙の中で初めて見たその顔は、少女の記憶に一応保存されていた。
 ふと、男が立ち上がった。そうして少女に歩み寄り、長身を折り曲げて彼女に跪く。
 床に散らばった紙を目に留めていないのか、彼は飾り気のない靴でそれらを踏みつけた。先ほどまで少女が眺め、「覚えたから」と乱雑に手から落としたものだ。そこには少女がこれから関わることとなる級友の情報が記されていたけれど、そんなことを二人は気にしなかった。もう少女が見返すことはないものなのだから。

「ドロシー様。もうまもなく到着いたします」
「そうですか」

 ドロシー様、と呼ばれた少女は、無感情にそう返答をして。数式の書かれた教科書から顔を上げた。光の入らない片目と、長い前髪に隠された片目。無感情な瞳を向けられて、男は恍惚としていた。

「それでは『学校』も、もうすぐですね」

 彼女がこぼした言葉を受け、男は一転して眉をひそめる。
 学校。少女が不慣れに転がしたその単語が、彼の気を害したようだった。

「まったく。嘆かわしいことです! どうしてドロシー様に学生の真似事などさせられましょう! 貴方様は私の……」
「静かにしてください」

 ぴしゃりと口を挟まれ、男は言われた通りに押し黙る。その様子を一瞥し、少女は窓によりかかった。
 それまで無感情だった少女の眉が、不愉快そうにかすかに動く。この悪感情の原因が目の前で跪く男の言動のせいなのか、そもそも彼の存在のせいなのかは、彼女自身にもわかっていなかった。気にしていない、という方が正しいのかもしれないけれど。
 そっと窓へと視線を移した彼女の瞳には、なにも映っていない。置き去りにされる風景も、先ほどまで頭に入れていた文字と数字の羅列も、男の姿も。
 少しぱさついた彼女の髪が、窓枠に使われている木材の棘に引っかかった。

「そう声を荒げるようなことではありません。貴方たちが望むことであれば、私はそれが真似事だろうとなんだろうと付き合うだけです」

 窓の外は、少女の知らない景色だった。
 初めての列車、初めてのホーム、初めての街中。そんなものは、少女の興味を引くには足りない。この少女の目を奪うものなんて、この世界にはきっと存在していない。
 彼女に必要なものは、呼ばれる名前と背負うべき後光のみなのだから。それ以外は必要はない。
 なぜなら――。

「私はドロシー・マグリステリーカ。三千年前から貴方たちの祈りの象徴である、神様ですから」
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