第1章 ちいさな箱に人生を詰めて

09 The Devil is in the Details.


「……お! お前がリデルだな?」

 照明の光を反射しているかのように輝く瞳が、その青の中にリデルを映す。整った顔立ちの中できらきらと目立つそれに見つめられると、不思議と身動きが取れなくなってしまって。突然現れた謎の人物への警戒心もあったけれど、それ以上に、その瞳には人を惹きつける不思議な魔力があるように思えてならなかった。
 知り合いかとでも聞きたそうな視線を向けてくるマグレヴァーに、リデルは必死に首を横に振ってみせる。
 ……こんな人は知らない。けれど向こうはこちらを知っているのだという。その事実に身をすくませていると、彼は一度髪をかきあげた。淡い色の前髪が、さらさらと指先の間を流れていく。そして次の瞬間、まるで瞬間移動でもしたかのように距離を詰められる。なにかを確認するかのようにリデルの顔を覗き込んだ彼は、人懐っこい笑顔を浮かべた。

「よかった、お前に会いたかったんだ!」

 よろしくな、と差し出された手を見つめる。大きな手はとても色が白い。その白さの理由は、太陽にあたっていないから、という理由には思えなかった。
 向けられた手に戸惑いつつも、リデルは少しだけ肩の力を抜き始めていた。それは、うまく言葉にできない安心感を感じているからなのかもしれない……と、解かれ始めた警戒の隙間で考える。けれどただ単に、その笑顔が底なしに明るかったから、というだけかもしれない。最近のリデルは少し絆されやすくなっていたものだから。

「…………えっと」

 握手を求められた手と彼の顔とを少し見つめて。へらりと笑顔を返そうとしたリデルを、「おい」と低い声が引き留めた。その声色からも睨みつける瞳からも敵意を隠さないマグレヴァーにも怯んだ様子はなく、青い瞳は楽しそうに笑う。

「……なんなんだよお前」
「ああ、自己紹介が遅れたな。オレはアーガスト! よろしくな、お前も……」
「そうじゃねえよ。……どうやって入ってきた。鍵がかかってたはずだろ」

 その言葉に、アーガストは一度目を瞬かせる。なにかを考えるかのような表情を見せた数秒後、思い至ったかのように顔を上げた。

「鍵なんか。人間のために作った魔除けもしていないドアくらい、オレにとっては関係ないし」

 なんてことのないように、彼はそうつぶやく。その顔には変わらず笑みが浮かんでいたけれど、どこか「人間」を見下ろしているかのようだった。
 確かにアーガストが入ってきた……というよりも現れたとき、鍵を開けるような音はしなかったはずだ。そもそも彼は玄関を通ってこのリビングにやってきたのではなく、文字通り突然現れたとしか表現しようのない登場を披露して見せたのだ。その意味を聞くよりも先に、アーガストはにかっと笑顔を浮かべた。邪気も悪意も感じない明るい笑顔だというのに、その風貌はどこか同じ人間とは思えない異質さを放っている。

「それより、さ! オレ、リデルと話してみたかったんだよ」
「え、な、なんで……」
「マリーから聞いたんだ、おもしろい奴がいるって! マリー……ああ、マリーゴールドと会っただろ?」

 知っている名前にリデルは小さく頷いた。魔術なるものを愛好するマリーゴールドは、それはそれは不思議な少女だった。どうやら不思議な人というものは、交友関係まで謎に満ちているらしい。

「魔力もないくせに、あいつの家に近付けた人間だって。そう聞かされた」

 家、というのは。あの摩訶不思議な屋敷のことだろう。すべてが魔力によって駆動する、あの屋敷。マリーゴールドも、リデルが自力であそこへとたどり着いたことへの疑問をこぼしていた。
 けれどリデルには魔力なんてない。魔法も魔力も理解している父親がそう言っていたのだから、間違いないはずだ。……それならなぜと聞かれるなら、こっちだって知りたいとやけになるしかない。

「……魔力、本当にないんだな? お前はどうやってそれを知ったんだ?」
「…………それは……し、知るもなにも、魔力なんて……もう現代の人の体からはとっくになくなっているって……。それに今まで一度も魔法なんて使えたこと、ないし……」

 曖昧に、聞いた話を継ぎ接ぎにしながら言葉を紡ぐ。
 間違っていないはずだ。あの屋敷に招かれた日、ターリアが口にしたその言葉に誰も反論はしなかった。つまりそれが、森の外での常識のはず。それなのにアーガストは、不可解とでも言いたげに眉をひそめている。

「ふうん……まあいいや。お前はなにも知らないってことだな」
「……えっと……ごめん」
「謝る必要はないだろ? ……知らないみたいだから教えてやるが、人間にとっての魔法はそう簡単に使えるもんでもないぞ」

 その言葉にリデルは思わず顔を上げた。記憶の中の父親は、いとも簡単に魔法を操っているように見えていたものだから。食いついた様子にふふんと笑みを漏らしたアーガストは、ひらりと手を振る。

「人間の魔法は祈りなんだよ。強い祈りがないなら、魔法は使えない。だから魔法を使ったことがないからって、お前に魔力がないとも限らない」
「……祈り……?」

 あまりぴんとこない単語だった。祈り、と頭の中でそれを転がす。
 確かに、リデルにはなにかに祈りを捧げた経験なんてない。なにかを成したい、叶えたいと強く願ったことも。彼の言うその単語の指すところが理解できなくて、けれどリデルが言葉を重ねるよりも先に、アーガストが口を開く。

「リデル、オレはお前のことが気に入った!」

 それは会話ではなく宣言だった。目を点にする目の前の人間たちの反応をよそに、彼は続ける。

「魔法も魔力も知らないくせに、魔術を見透かす人間……こんな変な奴に会ったのは初めてだ!」

 まっすぐにこちらを見つめる瞳は、部屋の照明を反射してぎらぎらと輝いている。楽しそうなアーガストとは裏腹に、リデルはどうしたらいいかわからずあっけにとられるばかりだった。それを気に留める様子もなく、アーガストは我が物顔で室内を歩いていく。椅子へ向かっていく彼をぼんやりと目で追っていたリデルは、その瞳を見開くこととなる。
 丁寧にテーブルと向かい合っていたはずの椅子が、アーガストを迎え入れるように勝手に向きを変えたのだ。それを当たり前のように受け入れ、彼は古びた意匠が施された椅子へと座った。
 ものが勝手に動く。今までなら信じられなかっただろうけれど、リデルはその不思議な現象の理由に心当たりがあった。マリーゴールドが見せた、あの――。

「……アーガスト……も、魔術が使えるの?」
「いや? これは魔法だぜ。そんなに驚くなよ、人間」

 きっととても間抜けな顔をしているであろうリデルをからかうように、アーガストは笑い混じりに言った。

「……その人間・・ってヤツやめろ。腹立つ」

 彼の口にした「魔法」の真意を確かめるより前に、それまで黙り込んでいたマグレヴァーが話し出した。その声はとても冷たく刺々しく、出会ったばかりの頃を思い出させる。

「そうか? なら控えるが……」
「大体んだよその呼び方。まさかお前は人間じゃないとでも言うつもりか?」
「そのまさかだが。……ああ、そういえば話していなかったな」

 アーガストはつぶやくと、丁寧にセットされた前髪をかきあげた。足を組み直す姿は、人目を惹く容姿も相まって様になっているように思える。

「……いいか? このオレ、アーガスト・ブルーシャーフは……」

 すっとアーガストから笑顔が消える。真剣な表情からはどことなく威圧感が感じられて、思わずリデルは背筋が伸ばしてしまう。その反応に満足したかのように、薄く微笑んで。彼は高らかに言った。

「――純血の吸血鬼だ!」

 よく通る声でそう言い、得意げにこちらに視線を投げてくる。けれど二人は、アーガストが期待したようなリアクションはおそらく……とれていなかった。

「は?」

 呆れと怒りが半々になったかのような、マグレヴァーの声が投げられただけだったのだから。

「あんまりふざけるなよ、なにが吸血鬼だ……」

 その反応の薄さにきょとんとしているアーガストの様子にさらに苛立ったのか、冷たい罵倒を飛ばすマグレヴァーの声を聞き流しながら。リデルはやけに落ち着いている頭を整理していた。
 吸血鬼――それは物語の中の存在だと思っていた。存在していると考えたことなんて一度もなかった。もちろんその姿を目にしたことだって。けれど、だから信じられないと切り捨てることはできなかった。リデルは死体が動く瞬間を山ほど見てきたのだ。ネクロマンサーも吸血鬼も、外から見れば似たようなファンタジーの住人に違いない。そう思えば、吸血鬼と言われようと納得してしまう自分がいる。

「反応が薄いな。純血だぞ?」
「……それはよくわからないけど。僕は信じるよ、吸血鬼……」

 そう言ったリデルに向けられる、文句を言いたげな隣からの視線に「だって」と言葉を続ける。

「さっきの……勝手に椅子が動いたのもそうだけど。アーガストが急に……えっと、出てきた、とき。あれは人間に出来ることじゃないと思うし……」
「だからって、吸血鬼なんかいるわけねえだろ」
「それじゃあマグレヴァーは、普通の人間にあんなことが出来ると思う?」

 あんなこと……なにもない空間を切り裂いて現れたアーガストを思い出したのか、マグレヴァーは色違いの瞳を憎々しげに細めて黙り込んだ。あれは明らかに人間のやれることではない、と思う。そしてなにより、当たり前のようにこぼした「魔法」の言葉。
 吸血鬼のなんたるかは知らないけれど、アーガストがただの人間ではないということだけは確信できていた。

「吸血鬼なんて言われてもっていうのは同じだけど、僕たちには本当のことはわからないし……。アーガストがそうだっていうなら、そうなんだって信じておこうよ」

 宥めるように笑顔を浮かべると、小さな舌打ちが返ってきた。けれどそれ以上なにかを言うつもりはなくなったらしく、リデルはひそかに息をつく。目の前の不機嫌を気にする様子もなく、アーガストは「話し合いは終わりか?」と明るく声をかけてくる。

「う、うん。それで、えっと、吸血鬼っていうのは……。そうだ、さっき言っていた純血って……」
「ああ、そこだ! いいか、吸血鬼っていうのは三種類いる。一つは吸血鬼と人間の間に生まれた混血、もう一つは吸血鬼によってあり方を変えられた元人間、疑似吸血鬼。そして最後が……」

 ずいぶんともったいぶった様子で、アーガストは口を閉ざす。

「……さ、最後が?」

 なんとなくここで聞き返すことが正解な気がして、先を急かすように聞き返す。なんともへなへなとした声色だったけれど、彼は満足したようだった。

「最後が純血! 人間の血も疑似吸血鬼の血も入っていない、特別強い力を持つ奴らだ!」
「そ、そうなんだ。えっと……? す、すごいね?」
「……食いつきが悪いな。マリーは乗ってきたのに……」

 どこか消化不良の様子でつぶやいたアーガストは、次の瞬間には切り替えたように笑った。

「オレたち純血が、お前たちが想像するような吸血鬼のはずだ。吸血の方法とか太陽に弱いとかな。今は人間に混ざって生きているが、本来の純血は暗闇で生きる高貴な種族なんだぜ」
「なら出てくんなよ。勝手に暗部で生きてればいいだろ」
「言い方が悪いな! あのなあ、人間が好き勝手開発だーとか言って住処を広げてくるから、オレたちが譲歩してやっているんだが!?」

 それまで上機嫌な様子を崩さなかったアーガストが、途端に噛みつくように言った。噛みつくといっても人懐っこさは消えず、獣のそれというよりも大型犬がじゃれてくるようなものだったけれど。どこか呆れたように一瞬視線を下げて、彼は気を取り直したらしい。顔を上げたアーガストは、ご機嫌な空気を纏っていた。

「まあ、それなりにうまくやっているからいいんだが。人間の生活も悪くないしな! ……生活といえば、お前たちは学校に行っているんだろ?」

 それをどこでと言いかけて、すぐにマリーゴールドの存在を思い出した。アーガストと彼女がどういう繋がりで、なにを語ったのかはわからないけれど、自分たちが学生であるということを告げていてもおかしくはないだろう。
 そういえば、とリデルは考える。目の前の吸血鬼は何歳なのだろう。吸血鬼は長命だなんて話をどこかで聞いたことがあるような気もするけれど、それはアーガストにも当てはまるのだろうか。もしそうだとしたら、十代にしか見えない彼も実は何百、何千と生きていてもおかしくはないのかもしれない。

「いいよなー。オレも一応学生なんだけどさ、行ったことないんだよ」
「は? 行きゃいいだろ」

 マグレヴァーは相変わらず刺々しかった。そしてアーガストの方も相変わらず、その敵意を気にする様子もなく首を横に振る。「行けないんだよ」と返された言葉の意味を測りかねている様子のマグレヴァーを見上げて、彼は言う。

「だってさ、昼だろ。学校」
「……それがなんだよ」
「お前伝承には興味がないタイプか? さっきも言っただろ、オレは吸血鬼……それも純血だ。――太陽を浴びたら、消える!!」

 快活に言い切った彼の鋭い牙がぎらりと輝く。八重歯というには鋭利すぎるそれは、本能的な恐怖を感じさせるものだった。

「太陽だけじゃないぜ? にんにくも十字架もダメだ。……まあ、少しは欠点がある方が可愛いしな」
「か、かわ……?」
「そ。かっこいい上に可愛い、オレって完璧だろ?」

 自信満々に笑うその姿に、リデルは返すべき言葉を持っていなかった。吸血鬼の彼は自画自賛で忙しく、曖昧に笑うリデルと呆れたような視線を投げるマグレヴァーを気にする余裕はないらしい。心底楽しそうな様子に水を差すこともできず黙っていると、アーガストがふとこちらへ視線を投げる。

「学校まで行かなくとも、お前みたいなおもしろい奴に会えたんだからいいけどな! なあ、お前たちはここに住んでいるんだよな」
「うん。そうだけど……」
「じゃ、時々遊びに来るからな」
「は? 来んなよ。お前本当に何様……」
「ははっ! 来るなと言われても、お前たちにオレを阻むことはできないだろ?」

 喧嘩腰のマグレヴァーの言葉を軽く笑い飛ばして、アーガストは笑い声をあげた。
 自信にあふれたその姿に、入ってきたばかりの彼の言葉が思い出される。「魔除けもしていないドアくらい」……きっと、簡単に通ることが出来るのだろう。魔除けだなんて、もしそんなものがあるのなら自分も魔としてはねのけられそうだ、なんてことを自嘲するように考える。ネクロマンサーなんて、どう考えても除けられるべきものなのだから。

「そう怒るなよ。オレはお前とも仲良くしたいと思っているんだぜ? お前の名前も教えてくれよ」
「……うるせえ」

 距離を詰められたマグレヴァーは、心底忌々しそうに目線を逸らした。長い前髪の隙間から覗く瞳は、心の底から関わりたくないと言いたげだ。それに気が付いていないのか、わかった上で気にしていないのか、アーガストは「そう言うなって」といたずらっぽく微笑む。

「ま、こういうのは信頼関係が必要だしな。また話そうぜ」

 そう言ってマグレヴァーから距離を取った彼の瞳が怪しく輝く。ふわりと生暖かい風が吹いて、聞き覚えのある蝙蝠の声が響いた。か細い一匹だったはずの鳴き声は次第に増えていく。いくら周囲を見回しても、その姿を見つけることはできなかった。惑う様子を楽しむように眺めていたアーガストに名前を呼ばれて、リデルは彼の方へ向き直る。

「じゃあなリデル。次に会うときは、おもしろいもんを見せてやるよ」

 聞き返そうとしたリデルだけれど、その意識はアーガストの背後へと吸い込まれていった。彼が現れたときと同じように、虚空を切り裂いて闇が現れる。その亀裂はやがて、アーガストを包むような大きさにまで変化する。

「…………二度と来んなよ」

 暗闇に支配されるリビングの中、マグレヴァーはそれだけをつぶやいた。この短い会話の中で、彼はずいぶんこの吸血鬼を警戒しているらしい。けれどその言葉にも楽しくて仕方がないと言いたげな笑顔を見せ、アーガストは笑った。

「ははっ、嫌なら次までに聖水でも用意しておくんだな! またな!」

 その言葉を残して消えていったアーガストの立っていた場所は、まるで何事もなかったかのように静謐に戻っていた。それでもこちらを向いている椅子だけが、確かにそこに吸血鬼がいたことを示していた。
10/12ページ
スキ