番外編
ミラーボールをとかして
誕生日である。
この世で最も輝かしく、喜ばしく、祭りに限りなく近く、本来であれば祝日であろうともなんらおかしくない、誕生日である。
誰の誕生日なのかと聞くような人間は、この街の月夜を好む者の中にはいないだろうけれど……それでも一応言い添えておくと。文武両道にして性格も文句なし、そしてなにより顔がいい、世にも珍しい本物の吸血鬼――アーガストの誕生日である。そう、完全無欠にして最高にかっこいい男、アーガストの! 誕生日だ! 古典的な吸血鬼たる彼の性質上、彼の友人は昼よりも夜に多かった。特にこんな月夜に外を出歩く人々は皆アーガストの友人で、彼のことを好ましく思っている。これは決して勝手な思い込みでも自画自賛でもなく……そもそも、アーガストはこの自画自賛、という言葉自体に疑問を持っているのだけれど。なぜなら、彼が滔々と語るものは自分への賛美などではなくただの事実の羅列でしかないのだから。つまりアーガストがかっこいいことも、彼が皆からとんでもなく好かれていることも、それはこのプレゼントの山から導き出せることも、ただの、純然たる事実でしかないのだ。
――さすがオレ!
ちょうどよく暗い飲食店にて、アーガストはうんうんと満足気に頷いていた。
今日という日は本当に素晴らしい日であるという事実から、もちろん盛大に祝われるであろうことは予見していた。だがしかし、彼の友人たちはその更に上をいっていたのだった。かくしてこの一年に一度の特別な日、友人たちと……そしてなにより、昨年もそのかっこよさにより徳を積んだ彼自身によって、今年も素晴らしく完璧でかっこいい一年のスタートを――。
「あ、今日誕生日なんだ」
そんなアーガストの自己陶酔は、そんな一言によって打ち破られた。
「えー、言ってよ」
「言っていたが?」
プレゼントの山を見ながら、そうだっけと首を傾げるマリーゴールドと先ほどまでの輝かしい独白との落差に、アーガストは少しだけ息をつく。
マリーゴールドは、この世で吸血鬼と同じくらい珍しい、アーガストに特に興味を示さない人間だ。彼女の興味はどちらかといえば同性、それもとびきり可愛い同性へ向いているらしい。最初こそ驚愕を隠せなかったアーガストだが、このおもしれー女、どうやらアーガストの顔がいいこと自体は理解しているらしい。それなら、彼は満足だった。
「マリーは女にしか興味ないからな。オレが女だったら、お前もオレのこと大好きだっただろうけど」
「……どうだろ? 君って女の子になっても可愛い系じゃなさそうだし、アタシのタイプじゃないかもー」
向かいの席に座ったマリーゴールドは、手馴れた動作でメニューを取り出した。
アーガストと同じように、マリーゴールドも夜を闊歩するうちの一人だ。同じ学び舎に通う者同士ということ、そしてお互いの性質が奇妙な噛み合いを果たして……二人は、顔を合わせればこうして雑談を共にする仲となったのであった。
「…………確かに、女になってもこのオレのかっこよさは消えないかもしれないが……可愛いもいけるんじゃないか? オレなら」
「その自信何? そんなことより、食べたいものある? なんか奢るよ。誕生日なんでしょ」
そんなこととはなんだと言いたいところだけれど、マリーゴールドは元よりこういう性格である。彼女の興味を引くところの、魔術だとか可愛い女だとかそういうもの以外への応答は適当なのだ、彼女は。アーガストは珍しく――それを許容していたし、マリーゴールドのそういうところを好ましくすら思っていた。
「学校のみんなは知ってんの? 誕生日」
「ああ、一か月から言っておいたからな!」
「ふーん。頼むもの決まった?」
「ああ、いや……ここは人間の食いもんしかないなと思って……」
「何その――ああ、そうね。そっか、忘れてた」
物語にでも出てきそうな吸血鬼であるアーガストには、人間と同じような味覚というものは備わっていない。その良さも悪さも感じることがなく、ただ咀嚼する。そんなオレも絵にはなると言うが退屈そうにしているし、輸血パックにストローをさしているときに「食の喜び」を得ていることは、マリーゴールドの目にも明らかだった。
「じゃあ、食べ物はやめる? なんかあったかな、あげられるもの」
「いや、気持ちだけで十分だ。ありがとな!」
「んー……でも他人じゃないでしょ。なんもあげないっていうのも、なんか……」
普段飄々としているくせに、変なところで律儀だ。アーガストはそんなことを考えながら、髪をくるくるさせながら迷うマリーゴールドを見つめていた。気持ちだけで十分だと言ったのはもちろん彼の本心だけれど、祝われるのであれば祝われたい。なぜなら、再三になるが今日はとてつもなく素晴らしい日なので。
そして、彼女は顔を上げて。
「アーガスト、これから時間ある?」
そう言って、悪戯っぽく微笑んだ。
◆
「……で、どこまで行くんだ?」
「そう焦んないの。アーガストって意外とせっかち?」
「別に……ただ、あまり遠くまで行くと帰るのが大変だろう? マリーは人間なわけだし、明日も朝に起きるだろ」
「さあ? それはどうだろ。明日ちゃーんと朝に起きるかどうかは、明日のアタシが考えることだから」
――がらがらの車内にふたりきり。ひらひらと手を振ったマリーゴールドに連れられて、アーガストは行先も告げられぬまま電車に乗っていた。なにやら楽しげなマリーゴールドの鼻歌と列車の揺れる音が混じって、置き去られていく。
アーガストにとって、列車は新鮮なものだった。彼に必要なものは、深夜の居場所と時折の学校と、家だけだったものだから。わざわざ人波をかき分け、太陽の光を切り抜けて遠出する用事だなんて、持ち合わせてはいなかった。マリーゴールドのヒールが、たん、たんとリズムを刻む。窓の外の景色は真っ黒で、どこを走っているのかもわからない。だからだろうか。ついたよ、なんて声を聞いたとき、柄にもなく安心したのは。
「……なんだここ。なにもないが」
「ちょっと歩くの! 行くよー」
誰も通らない道に、マリーゴールドのヒールの音が響きわたる。闇夜に溶けそうな彼女を追っていけば、ふと。
「……この音、」
ざざん、という耳馴染みのない音がした。
「こっち。階段急だから気をつけて」
多少劣化している階段をおりると、アーガストの足に伝わる感覚は、コンクリートのそれとはまったく違っていた。
足が沈む。コンクリートとも芝生ともフローリングとも違う感覚と、強い塩の匂い。それから、先ほどから静かに押し寄せ続けるこの音。
「……海……」
なんの光もないこの場所で、そのありようをみとめることは難しい。アーガストが話に聞いた夏の楽園とはかけ離れているけれど、それは確かに海だった。もう三月になったとはいえど、風はいまだ冷たい空気を運んでくる。ゆるやかに髪を撫でていく風に、これが潮風とかいうやつか、なんて考えた。
「来たことないんでしょ、海」
「まあな。海の季節は日差しが強いだろ? だから、さ」
ふーん、と気のない返事をするマリーゴールドを見やれば、ゴシックな装飾のついた厚底靴を脱ぎ捨てていた。これまた装飾の付いた総レースの黒い靴下も脱いでしまうと、それまで暗闇に紛れていた白い肌が現れる。
「浜辺は裸足で歩くものなの。アーガストもどう?」
「……どうと言われても。そういうもんならそうするが……」
後ろ手に靴と靴下をまとめ歩き出すマリーゴールドの後ろを、同じように裸足で歩いていく。
人通りがなく、聞こえるのは波の音だけ。話に聞いていたように、本当に絶え間なく聞こえるその音は他のなににもたとえようのない、知らない音だった。
「少し冷えるな」
「あはは、そうだねー。……ん」
ぱしゃり、という音がした。気付けば波打ち際に足を踏み入れていたマリーゴールドは、軽やかに波を蹴りあげて。
「……うわっ、なんだ急に」
ゆるやかに目の前を踊った水が、アーガストの服にかかっていく。
「海っていうのは、こうやって遊ぶの」
「……そうなのか……? なにが楽しいんだ……?」
アーガストは心底不思議そうに眉を顰める。海での遊び方の流儀だなんてなに一つ知らない彼としては、「そういうものだ」と言われればそうなのかとしか言いようがない。あまりおもしろくはなかった。こんなものが楽しくなってしまうほど、人間にとって海とは特別なものなのだろうか。
「マリーはよく来るのか? 海」
「んー、人並かなー。親と住んでた頃は、たまに来てたけど……でも、夏の海は人が多いからあんまり好きじゃないの」
「へえ……なにがそんなにいいんだろうな、海は」
「さあ、なんだろうねー」
引いては寄せていく波が素足をくすぐって、それは少しだけおもしろかった。けれどそれだけ。正直なところ、アーガストは自分以外のものへの感傷も喜びも、あまり持ち合わせてはいなかったから。
「でもアタシ、夜の海は結構好きだよ。静かだし人いないし。みんなが海に遊びに来る時期はさー、ほんとに騒がしくて」
「へえ。そんなに賑わうんだな」
そんな他愛のない会話を重ねながら、波打ち際を歩いていく。
海には、あまり興味がなかった。昔から。それは太陽が嫌いだから、というのもあったけれど……陽光を受けて輝く水面の話にも、ビーチで仲間とはしゃぐことにも、たいして魅力を感じなかったから。だからきっと、他の人間に連れられてきたのだったら、もっと適当に返事をして、適当に相手をしていたに違いない。喧騒と人の中心と音楽と、それから人工的なネオンライトを好む彼には、静かな黒い海は少しばかり退屈だった。
けれどマリーゴールドのことはそれなりに好いているので、こうして大人しくついて歩いているというわけだ。
「……あ」
ふと、マリーゴールドが海の方へ視線を投げた。そのまま軽くスカートを持ち上げて、音を立てながら海へ入っていく。
「おい、服濡れるぞ」
「いーの」
いつだったか自分で作ったのだと話していたスカートが重たくなっていくさまを、アーガストは他人事ながら少しばかりはらはらして眺めていた。そんな彼に構わず、マリーゴールドは振り返って笑う。
「ほら見て。海、綺麗でしょ」
月が、暗い海に溶けている。輪郭をぼやかして、深い黒と混ざりあってゆらめいている。それはただ、月が海に反射しているだけ。それだけ。アーガストはあまり情緒的な方ではないから、そんな風に考えている。考えているはずなのに。
「……ああ、そうだな」
猫のような目を細めて、楽しそうに笑う彼女越しに見た景色は。
「――綺麗だ」
いったいどうしてなのか、自分でもよくわからなかった。けれど確かにそのとき、引いていく波を追うように一歩、海の方へと足を踏み出していた。
「君は、あんまり外出ないでしょ。昼間は大変なんだろうけど、……でも、夜には綺麗なものがたくさんあるから。探しに行っても楽しいよ」
背後で、マリーゴールドの笑い声がする。
月が綺麗だと思った。生まれて初めて。何度も何度も飽きるほど見てきた近すぎる友人の姿は、大きくてまばゆかった。
「アーガスト。誕生日、おめでと」
完璧な世界が崩れ去る音がする。その代わりに、世界が広がる予感がした。