番外編

日々は回る


「遊園地に行きましょう」

 ――なんてことのない放課後だった。
 ハインリッヒにとってなにごとも起きない平和な一日というものはそれはそれは貴重で、近頃の彼にしてはめずらしく上機嫌だったのだ。トラブルが起きず、喧嘩もふっかけられず、そしてなにより、ドロシーが問題を起こさない。普段より大人しい彼女に少しの不安を覚えながらも、なにもないのはいいことだと帰ろうとした矢先の、この一言だった。
 いつもハインリッヒを巻き込むトラブルそのものの少女は今、彼の眼前に二枚のチケットを突き出している。

「……遊園地?」
「はい。遊園地というものは、大型の娯楽施設だそうですね。チケットを用意させました」

 誰に、とは言わなかったが、おそらくいつも彼女を見ているあの大人だろう、と察しがついた。ハインリッヒは彼女の周りにいるらしい怪しげな大人たちについて詳しくはなかったけれど、ドロシーの語る故郷の思い出からは、なんとも非現実的でだいぶ突飛な仮説が立つ。ただ、今はそんなことを考えている場合ではない。
 この遊園地のチケットを、どうにかかわさなくては。
 ハインリッヒはそんなことで頭がいっぱいだった。

「……いいじゃないか、遊園地。ドロシーは行ったことがないだろうし、仲がいい人を誘って行っておいで」
「はい、なので行きましょう」
「僕と?」
「はい」

 ずい、と差し出されるチケットに、ハインリッヒは目の前の少女に気付かれないように眉をひそめた。
 ドロシーはなぜか、ハインリッヒに懐いている。彼としては苦手というかなんというか、どうにも扱いにくいというのが本音だ。けれど訳があって、ハインリッヒは彼女を気にかけざるを得ず――その中でわかったことと言えば、この少女には常識というものがまったく備わっていないということのみ。何事にも興味を示し、無遠慮に指を指して「あれはなんですか」と説明を求めてくる様は赤子を連想させる。質問に対し事細かに教えれば納得し引き下がるものの、その事細かに教えるという行為が面倒で仕方がない。そんな赤子と遊園地なんかに行った日には、片っ端から仕組みやら設定やら構造やらを尋ね続けられるだろう。
 面倒だな、と思ったのだ。少しだけ。

「ありがとう、ドロシー。気持ちは嬉しいけれど、予定をあけるのが難しそうだから……」
「嘘をつかないでください」

 ドロシーはそれだけ言うと、深くて暗い紫色の瞳を向けた。無感情に思えるその暗闇の中はどこか空恐ろしくて、自分のなにもかもが見透かされているかのような心地に陥る。
 確かにハインリッヒは嘘をついたのだ。予定なんてない、ただ学校に行くだけ。それをどうしてドロシーが知っているのかはわからないし、わかりたくもなかった。ただわかったのは、どうにか逃げようとしたところでさらに面倒くさいことになる、ということだけ。長い前髪に隠れていない方のドロシーの瞳は、どろりとした色をたたえてハインリッヒを見据えている。
 ハインリッヒは、面倒なことは嫌いだった。面倒なこととさらに面倒なことの二択を迫られた場合、どうにか楽な方を選ぶタイプであったので。

「……わかったよ。遊園地についていけばいいんだね?」
「はい」

 ――仕方がない、と。一日くらい我慢をすればいい。そのくらい、なんてことないのだから。そんな考えをやわらかく綺麗な笑顔に隠し、ハインリッヒは頷いたのだった。


 ◆

 
 そんな経緯があり、休日。
 ハインリッヒはチケットを握りしめたドロシーの横で、開園待ちの列に並んでいた。

「……人間がたくさんいますね」
「そうだね。ドロシー、はぐれないように気を付けて」
「わかりました」

 開園を待つ人たちは皆、それぞれ楽しそうにしている。そんな周囲とは対照的に、ドロシーはいつもと変わらず無表情だった。行きたいと言い出したわりには大人しいその姿に、もしかしたら今日はいつもの質問攻めもないのかもしれない、なんてことを考える。……そんな考えが甘い考えは、二人が園内に足を踏み入れた瞬間に打ち砕かれたのだけれど。
 
「……あれはなんですか? なぜ皆さん動物の耳が生えているのでしょうか」
「ああいうカチューシャが売っているんだよ。この遊園地のマスコットキャラクターを模していて」
「どうしてそんなものが?」
「君がどうだかは知らないけれど、来園者の気分は盛り上がるんじゃないかな。ほしいなら買っておいで」

「大きな物体が空を飛んでいます」
「ジェットコースターだね。これは……ほら、今あの乗り物が急降下しただろう? ああいうスリルを楽しむものなんだよ」
「…………あんなに高いところから落ちたら、人間は死んでしまうのでは……」

「ハインリッヒ、あれは」
「ああ、コーヒーカップだね。乗るとわかるけれど、中央にあるハンドルを回してカップを回転させるんだよ」
「さっきのジェットコースターといい、皆さん叫ぶことがお好きなんですね」

「皆さんが食べているものはなんですか? 私もお腹が減りました」
「ポップコーンとか、チュロスとか……。軽いものでいいなら、僕が買ってくるから座っていて。絶対に動かないで」

「馬がたくさんいます。硬直していますけど」
「……言っておくけれど、本物の馬ではないからね。馬の形をした乗り物だから」
「馬の乗り物が回っているだけなのに、人気なんですね」

「この大きなぬいぐるみは、遊園地のマスコットキャラクターのものですよね」
「そうだね。他にも色々グッズがあるから、なにかほしいものがあるなら……」
「私、これがいいです」
「……それは今から買って持ち歩くには、少し大きいんじゃないかな……」

「列が長すぎるのでは」
「待機列はどこもこうだよ」

「あの建物はなんでしょうか」
「……お化け屋敷。…………僕は入らないから、行きたいなら一人で行ってきて」

「あの列はなんですか?」
「写真が撮れるみたいだけれど……。あ、君が買ったぬいぐるみのキャラクターと撮れるみたいだよ。せっかくだし、一枚撮ってもらってきたら?」

「…………」
「ドロシー? これ以上ぬいぐるみを買っても、僕は持ってあげられないからね」

「もう暗くなりましたね」
「…………そうだね」

 ようやく今日の終わりが見えてきた、とハインリッヒはため息をついた。
 ただでさえ人でごった返し、騒がしい遊園地。その中を他人のお守りをしながら乗り切るというのは、色々と消耗するものだった。
 ドロシーのことが嫌い、というわけではない。
 娯楽がなにもない村に生まれ育った彼女にとって、ここにあるものすべてが目新しい未知のもので、その一つ一つがどうしようもなく彼女の目を引くであろうことくらいわかっている。それに、いつも何を考えているのかまったくわからない彼女の瞳が、遊園地というものをとらえている様は、それなりに――それなりに、普通の少女に見えたので。
 この子がずっと、こんな風にいればいいのにと、ハインリッヒは思わずにはいられなかった。
 知られたくないこと、知らなくていいこと、知っているべきこと。そのすべての区別がつかないままに大人たちからただ情報を詰め込まれているだけの彼女よりも、今日こうして自ら外に目を向ける彼女の方が、ハインリッヒは好きだった。

「ハインリッヒ。あれはなんですか?」

 ふとドロシーの視線が上に向く。指さしたのは、立派な観覧車だった。
 この遊園地のシンボルともいえるそれは、暗くなったことによりライトアップされている。ゴンドラ一つ一つにつけられた装飾は、暗い夜空によく映えていた。

「観覧車だよ。ああやって、ゆっくり回転しているゴンドラに乗って……景色を楽しむ乗り物」

 へえ、とドロシーは声を漏らした。その反応から、あまり興味をひかれてはいないのだろうと判断する。彼女はジェットコースターやコーヒーカップなんかという、それなりに激しめのものばかりに乗っていたものだから。観覧車について尋ねられたときからなんとなく、ハインリッヒは予想がついていた。
 ――ああ、けれど。
 綺麗だろうな、と思った。夜の遊園地はどこもかしこも華やかに、美しくまばゆく照らされていて……きっと、とても綺麗なのだろうと。そんなことを考えたものの、今のハインリッヒにはドロシーを説き伏せてこの長蛇の列に並ばせるほどの元気は残っていなかった。それでもなんとなく名残惜しくて、ぼんやりと観覧車を眺めてしまう。

「乗りましょう」

 その時、ぐいと手を引っ張られた。体勢を崩しかけるハインリッヒを気にせず、ドロシーはなにを考えているのかわからない表情で進んでいく。口をはさむ前に最後尾におさまった彼女は足を止め、再び彼を見上げた。

「…………」
「……ドロシーは、あまり興味がないと思っていたけれど」
「はい。ですが貴方は違うようなので」

 ドロシーはそれだけ言うと、はるか彼方の乗り場を眺めて眉をひそめた。
 この子にそんな、他人の感情を察することなんて出来たのか。多少失礼な考えを抱きつつ、相変わらず無表情なドロシーを見やった。初めて会ったときから、喜怒哀楽を表に出さない……どころか、喜怒哀楽があるのかすらわからない彼女だけれど、どうやら今日は楽しんでいたように見えた。ぼんやり列の前方を眺めながら立っているドロシーは、何を考えているのやらわからない。

「……長いですね、列」
「そうだね。もう閉園が近いし……最後に乗りたがる人も多いんじゃないかな」
「それはよくわかりませんが。ハインリッヒは、遊園地が好きですか?」
「……どうだろう、あまり来たことがなかったから。……嫌いではないよ。君は? どうだったかな、初めての遊園地は」
「私は……そうですね。私も、嫌いではないと思います」

 二人は決して仲がいいわけではないけれど、だからといって沈黙を苦にするような間柄ではない。ハインリッヒは、ドロシーのことは好きでもなんでもない。けれど、今日一日は案外苦痛ではなかった。お守りで疲れたものの、それが嫌だったかと言われれば。
 お次でお待ちの方、というスタッフの声ににこやかに頷いて。乗り込んだあと扉が閉められれば、遊園地の騒がしさだなんてどこかに消え去っていった。

「思っていたより狭いですね」
「はは、そう? まあ、座って景色を見るだけだしね」

 向かい合って座っているにもかかわらず、ドロシーは遠慮なく足を伸ばしている。こういうところだよな、だなんて思いつつも、ハインリッヒはなんとなく黙っていた。

「…………遊園地、は。楽しいところだと聞きました」

 ゆっくりと視界が広がっていく。適当に相槌を打ちながら、美しくライトアップされた園内を眺めていた。正直、疲れ切っていたものだから。

「非日常体験ができるのだと、現実を忘れることができると。私には、それはよくわかりませんでした。ここは現実で、今日はいつも通りの昨日と明日に挟まれただけの一日で、確かに今日はいつもと違うことをたくさんしましたけど……貴方が隣にいるなら、いつもと変わらないと思いました」
「そっか。非日常がよかったなら、がっかりした?」
「いいえ、私はそんなものに興味はありません。ただ、失敗したと思いました。私は、貴方が――いつも、日常を疎んでいる貴方が、現実を忘れられるものと思っていたので」

 ゴンドラがてっぺんまで登った。
 ――遊園地に来たところで、何も変わらなかった。いつも通り、目を離すと彼女は見知らぬものの方へ寄っていき、気が済むまで質問を浴びせられ、それに辟易して。今日はおまけに荷物持ちまでさせられた。大きなぬいぐるみにポップコーンバケット、それからこまごまとしたお菓子におもちゃにお土産。どこに行ってもなにも変わらない厄介で面倒な同級生の前では、どんなに特別な非日常をうたう遊園地の輝きさえも曇ってしまう。

「……せっかくだけれど……僕も、あまり普段と変わらなかったかな。君が隣にいると、いつも君のことばかりに意識がいって。何か迷惑をかけるようなことはしないかとか、そんなことばかり考えて、楽しむどころではないから」
「本当に失礼な人ですね」

 ドロシーは珍しく感情をあらわにして、不満そうにじとりとにらみつけてくる。ごめんねと謝ると、ふいと顔を背けられた。神様を自称する少女にとって、普段よりも天に近いこの景色はどう見えているのだろうか。

「僕が言いたいのはね、ドロシー。君がいるせいで、せっかくの遊園地もいつも通りの一日だったけれど……君がいると、余計なことを考えている暇はないっていうことだよ」
「どういう意味ですか」
「僕は確かに、君の言う通り日常は好きじゃないし、嫌なものもたくさんあるし、暇さえあればそのせいで頭が痛くなる。……けれど、そうだね。今日は君がいるおかげで、そんな嫌なもののことなんて、一回も思い出さずに済んだよ。……ありがとう」

 ぱちぱちとまばたきをして、ドロシーは一瞬顔を伏せた。そうして。

「そうですか。どういたしまして」

 そうして、やわらかく目尻を下げた。
 ゴンドラが一回りして、地上が見えてくる。そうしたらすぐに閉園の時間だ。閉園前、最後に打ちあがる盛大な花火を見て、大勢の人と同じように家に帰る。そして、明日からもまた、今日と同じようにこの厄介で面倒で、それからどうしようもなく無垢な同級生の面倒を見て――そんな風に、日々が回っていくことを。
 ハインリッヒは願っている。
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