番外編
わるいこ
誕生日おめでとう。
それは少女にとって、特別なお祝いでお
生まれてきてくれてありがとう、私たちの可愛い子になってくれて。こうして、元気でいてくれて。感極まって泣き出しそうな母親を見たときはさすがに少し焦ったけれど、それほどまでに想われているというのは幸せなことだ。
外出どころかベッドから出ることすらできなかったシャーロットが、こうして陽の光を浴びているのは奇跡だと誰もが語る。それは言われるまでもなく、彼女自身が誰よりも理解していることで……だから、これ以上を望むべきではないとわかっていた。
ただ呼吸をしているだけでも茨の棘が突き刺さるこの体は、なにをするにも周囲に心配をかけてしまうから。たとえなにか望みができたとしても、両親や親戚、使用人たちが少しでも心を砕いてしまうのであれば、それは口にすべきではない。知らないうちに深く根ざしたその考えは、次第に彼女の背筋を伸ばす規律へと変わっていった。
我儘を言ってはいけない。
今、こうして生きていることが奇跡なのだから。この奇跡は両親の苦労から成り立っていて、二人の時間もお金も心もなにもかも、娘の自分にすべて注ぎ込まれていて、だから。
幸いなことに部屋の外のすべてはまばゆくて特別なものだったから、これ以上なにかを求めることだなんて。
「シャーロット?」
考えられない、はずだった。
ふと立ち止まったシャーロットをいぶかしむように、穏やかな声が彼女の名前を呼ぶ。
「どうかした? ……疲れた?」
「……なんでもないの。ごめんなさい、その……今日は……」
呼び出した割に曖昧な返答をするシャーロットに、リデルは優しく微笑んだ。見慣れた制服ではない姿は新鮮で、それだけなのに少女の心は不思議と踊ってしまう。
「……今日、は……」
今日はわたしの誕生日だから、あなたに会いたくて。
そんな言葉が胸をよぎって、言葉にならずに溶けていく。一瞬の逡巡の後、シャーロットは顔をあげて微笑んだ。
「いいえ……ただ少し、あなたのお時間をいただけたらと思って」
咄嗟に嘘をついた理由は、たいしたものではない。ただ、自分でも自分の気持ちがよくわからなかっただけ。
両親からのお祝いが、今も心に灯っている。常日頃から心配をかけてしまっている二人が、なんの憂いもなく笑っていたから。親族……叔父に会えたことが嬉しかった。シャーロットは彼のことがきっと誰よりも大好きで、顔を見られるだけで嬉しくて、そんな人が自分のために祝福をくれることが幸せだったから。
――それならリデルは?
彼は同じ学校に通う男の子だ。もちろんシャーロットはリデルを好いているし、共に過ごした時間は短いものの詰まっている思い出は濃い方だという自覚はある。
けれどそれは、他の級友にも言えること。それでも誕生日という特別な日に会いたい、だなんて感情を抱いたのはリデルに対してだけだ。その思いがどこから来るのかシャーロットには見当もつかなくて、そのせいか少しだけ居心地が悪かった。
「お忙しい時期に連絡してしまって、ごめんなさい。本当はわたしが寮まで伺うべきなのだけれど」
「えっ、いや、気にしないで。全然忙しくなかったし……あと、寮は今散らかっていて見せられないっていうか……。とにかく、やることがなくて困っていたくらいだから」
「まあ、そうなの」
電話越しに寮までお邪魔すると告げたときの焦りようを思い出して、シャーロットは数度まばたきをした。年が明けてからしばらくは父の様々な知り合いとのご挨拶などで忙しなくしているものだから、リデルの語る困り事はうまく想像もできない。シャーロットは、ゆったりのんびり過ごす新年とは無縁だった。
「寮にいてもだらけるだけだから、外に出た方がいいんだろうけど……なんとなく動けなくて。だから、シャーロットが声かけてくれて嬉しかったよ」
「……そう言ってくださるなら……」
まだ少しだけ落ち着かないけれど、シャーロットはやっとそう言って微笑むことができた。
並んで歩く道はいつもと違って静謐なものだった。冬の空気は冷たく張り詰めていて、少しだけ残る雪が足音すらも消してしまう。
心配性の母親は、娘が寒空の下を出歩こうとするだけでなにか言いたげに笑顔を曇らせる。そんな母親をどうにかこうにか説き伏せて家を出てきた以上、そう長くこの時間に浸ってはいられない。
そもそもリデルにだって、突然会いたいだなんて言ってしまって。その時のやりとりを思い出して、シャーロットは一人息をついた。
――声が聞けたらと思って。本当にそれだけのはずだった。最初はこんな風に会うつもりだなんてまったくなかったのに。
「ええと……それで、ね。あなたさえよろしければ、お茶でもいかがかしら。以前ご一緒したカフェなのだけれど」
「ああ、前の……うん、行きたいな。なにか温かいものでも飲もう」
そう言って歩き出したリデルに続いて、半歩遅れて歩き出す。寒さには強い方だと語っていた彼は、その言葉通り防寒にはあまり気を遣っていないようだった。手袋をしていない手は、見ている方が勝手に寒さを感じてしまうほどだ。
「そういえばシャーロットは、新年は家で過ごしたの?」
「ええ。あなたは寮よね? にぎやかで楽しそうだわ」
「にぎやか……そうだね、少しにぎやかすぎるくらいだったけど」
なにかを思い出すように目線を逸らして、リデルは苦笑いを浮かべた。
その笑顔は明るく、シャーロットはひそかに心を和ませた。知り合った頃のリデルは、人との関わりをおそれているかのような色を浮かべていることの方が多かったものだから。詳しい事情に踏み込もうとしたことはないけれど、彼が抱えている憂いが少しでも取り払われているのなら、一人の友人としてこんなに嬉しいことはない。
「ふふ、素敵ね」
あなたと仲良くなりたいの、と告げた日を思い出す。まだ出会ったばかりだった頃、彼の放課後に足を踏み入れた日。
あの時からリデルによく声をかけていたのは、きっと彼が目に入るものすべてに躊躇っているかのような瞳をしていたから。そしてその瞳から、突然部屋の外の世界が開けた自分に似たものを感じ取っていたからだ。けれど、あの日――彼の放課後に足を踏み入れた理由は、いまだに自分でもわかっていなくて、それが少しだけ心をざわつかせていた。
他愛ない会話を続けながらついたカフェは混みあっていて、リデルは少し気にするように周囲を見回した。ずっと父親と二人きりだったから、人が多いところにあまり慣れていないと彼が教えてくれたのはいつのことだっただろうか。
案内された席について注文を済ませて。冷たい風にあたった体が、香り高い紅茶のおかげでゆったりと温まっていく。一息ついたところで、シャーロットは行き場のない感情を持て余しながら口を開いた。
「リデル。今日は付き合ってくださってありがとう。突然だったのに……」
「全然気にしないで。さっきも言ったけど、やることなかったし……本当に」
コーヒーを飲みながら、リデルはゆるやかに首を横に振った。シャーロットが飲めそうにもないブラックコーヒーを、彼はいつもなんてことのない顔をして口にする。
「今日だけではないわ。わたし、いつも……あなたの前では、少し我儘になってしまって」
「え、そ、そう……かな。そんなことないと思うけど」
目を瞬かせながら、リデルはつぶやいた。シャーロットが口を滑らせている我儘は、きっと彼にとっては造作もないことなのかもしれない。それでも表情が曇ったままのシャーロットを見て、リデルはカップを置いた。
「我儘……が、僕にはまだよくわからないけど。シャーロットはもっと我儘を言ってもいいと思うよ」
「まあ。そうしたらわたし、ものすごく悪い子になってしまうわ」
「あはは……そんな。なってもいいのに」
「……そうかしら……」
その笑顔にざわめく心を宥めようと飲んだミルクティーは、不思議と味がしなかった。
我儘を言うような悪い子になっても、リデルはこうしてわたしと過ごしてくれるのかしら。その答えは見つからないけれど、シャーロットの心にはまた一つの我儘が生まれていた。
◆
「今日はありがとう。それじゃあ、また学校で……」
「ま、待って、リデル……!」
ゆったりとカフェで過ごした後。またねを告げられて、咄嗟に体が動いていた。曖昧な気持ちを抱えたままの指先が掴むことができたのは、自分よりも大きな彼のそれだけだった。
「…………ごめんなさい、わたし……今日は、あなたのお時間をいただけたらと……伝えたのだけれど」
誰にも話せない秘密ができて、甘えるような我儘を他人に向けて。これまでの自分なら考えられないような行動を起こす日の中心にいるのは、いつだって目の前の彼だった。きっと父親が眉をひそめるような、母親の過保護に拍車がかかるような、我儘と秘密。していることすら忘れるほどに体になじんだ我慢ができなくなるのは、決してリデルが悪いわけではない。
口を滑らせてしまうのは、自分でも制御しきれない感情のせいだとわかっている。
「……ほ、ほんとう、は……わたし……」
体の芯から冷えるような気温のはずなのに、今だけはそんなことは気にならなかった。
なぜだかリデルの顔を見ることができなくて視線を落とすと、弱々しく握った手が目に入る。手袋に包まれたシャーロットの指先にすべてを預けるように、リデルは身動ぎもしなかった。それを都合よく解釈しそうになって……困惑しているだけかもしれないと考えて、余計に顔があげられなくなってしまう。
「……わたし、今日あなたのお顔が見たくて、今日……が、よかったの……わたし、その……」
「……」
「…………誕生日……だから……」
きっとこのくらいのこと、みんなにとっては大したことはないはずだわ、なんてことを茹だった頭で考えていた。今日が誕生日なんだと伝えることも、それを祝うことも祝われることも。
わかっている。シャーロットだって目の前にいるのが他の級友であれば、世間話の一つとしてとっくに流していたはずの話題だ。どうしてリデルの前だとそれができなくなってしまうのか、何度考えたってわからない。
そうだったんだ、と降ってきた声はいつも通りの温度だった。
「シャーロット、誕生日おめでとう」
そう柔らかく告げられて、そしてようやく気が付いた。
きっと自分は、他でもないリデルにそう言ってほしかったのだと。この特別な日を、彼の声で彩ってほしかった。それはどうして、と考えそうになって、シャーロットは静かに目を伏せる。
「……ええ」
その理由がなんだっていい。今はただ、ひそやかに芽生えたこの気持ちを見つめていたかった。
「ええ……ありがとう」
誕生日おめでとう。
それは少女にとって、特別なお祝いでお
そしてその特別は今、ただひとひらの祝福によって確かに姿を変えていた。
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