番外編

ネームレス・パラダイスで目を閉じて



 家から数秒、他人のベッド。そこがあたしの眠れる場所パラダイス

 あたしのご近所さんは、どうやらあたしのことを好きらしい。
 好きならご勝手にどうぞと思うけど、にしたって重ったい。いつもはマジメでお行儀よくしてるいい子ちゃんのクセして、恋愛ごととなるとアイツはびっくりするくらい重たくて扱いやすくて、都合がいい男だ。
 そう、たとえば。アイツの家はママが厳しいから、ちょっとそこまでお菓子を買いに行くにも――そもそもたぶん、お菓子だなんてそうそう買わせないご教育をしているのだろうけど――親に一言お断りを入れないといけない。日が落ちてからひとりで外に出るなんてもってのほかだし、あと、食事中にテレビとかを見るのも許してくれない、と、聞いた。それを素直に受け入れるアイツはとてもいい子で、もちろん暗くなったら家でおとなしくお勉強をしているし、日付が変わる前にはおやすみなさい。だというのに、あたしが午前一時だとかなんだとかに気まぐれに電話をすれば出るし、来いと言えば来る。こんなことしてアンタのママ怒るんじゃないのと聞くと、「そうかもしれないけど、キミの方が大事だから」と言ってのけた。
 好きにすれば、と思った。そうしたいなら。重くてちょっと気味悪いけどあたしに不都合はないし。あたしはいつもやりたいことだけをやっているし、いつも窮屈そうなアンタにもしたいことがあるなら、好きなようにすればいい。

「ラファーユ」

 今日も机に向かってお勉強している偉くて賢いご近所さんの名前を呼ぶと、ぱっと目を輝かせてこっちを見てくる。いつもこうだけど、なんか、犬みたいだなって思う。

「アンタも食べるでしょ、これ」

 くちあけて、と言いながらお菓子のパッケージを開く。期間限定の味、らしい。限定と聞けば試したくなってしまうものだけど、マズイものは食べたくない。

「ど?」
「……うーん……キミの好きな味じゃないかも」
「そう。じゃ、あげる」

 少し考え込んだ後に告げられた答えは期待はずれで、あたしは彼の勉強机にお菓子を置いて、新しいモノを開けた。
 隣接したベランダから移動すれば数秒で入れるこの部屋に、あたしはいつも入り浸っている。家にはいたくないし外出もしたくない。そんなときに都合がいいのが、このご近所さんの部屋。頭痛くなるような文字ばっかりのモノがあるこの部屋はやることがないけど、別になんかするためにいるわけじゃないし。学校が終わってラファーユのママが帰ってくるまでの数時間、あたしはココでお菓子を食べて眠って、それからたまに勉強をして。でも今日は、何かしたい気分だった。

「なんか読むもんないの? アンタの部屋つまんないんだけど」
「えぇ……? ごめん」
「参考書ばっかじゃん。でもま、マンガなんか置いたらアンタのママすっごい怒るだろーし、ムリだよね」
「うん……それはそうだけど。漫画はダメだけど小説なら買えるよ。これ、前話した先生の新刊で」
「ミステリーでしょ? あたしアンタみたいに頭良くないから、そーいうのわかんない」
「そんなことないだろ。ターリアは頭がいいのに」

 ジョーダン言わないで。そう思いながらあたしはベッドに突っ伏した。
 あたしのベッドとは全然質が違うマットレスと枕。いい睡眠が取れるようにとラファーユのママが選んだらしいそれに寝転んでいる時間は、おそらく愛しの息子よりもあたしの方が長い。
 ごめんね、って思ってる。成績もダメ家庭環境もダメ、礼儀もマナーもダメ、ダメダメ尽くしのあたしを嫌う、ラファーユのママには悪いけど。息子さんはお勉強はとことん仕込まれたみたいだけど、どうやら女を見る目は養えなかったみたいで……ママが愛情込めて整えた環境を、なんのためらいもなくあたしに明け渡す。

「……眠い?」
「眠くない。けど、寝るの。昨日も寝てないし」

 気が付けばペンを置いたラファーユは、ベッドサイドに座っていた。布団にくるまると、そっと髪を撫でられる。
 ……ホントは、他人に触られるのなんか大嫌い。特に男は。その視線から、言葉から、指先からダダ漏れの下心は気持ち悪くて、鳥肌が立つ。けどラファーユは、あたしのことが好きなコイツは、ただひたすらにあたしのことを好きで、ただそれだけだ。だからだいじょうぶだと、思っている。

「……ねえ」
「なあに?」
「アンタはあたしのことが好きなんでしょ」
「うん、大好き。キミがいないと生きていけないくらい」

 なんの照れもためらいもなくこんなことを言えるだなんて、やっぱりラファーユはよくわかんない。打算も何もないし見返りも求めてない、ヘンなヤツ。あたしのためならなんでもするなんて、いつもそう言って。でも、言うだけなら誰にだって出来るクセに。そんなことを考えるほど、なんだか、今日のあたしはイライラしていた。

「…………それなら。もしあたしが、あたしのお父さんもアンタのママも学校もなんにもない場所に今すぐ連れてってって言ったら、どうする?」
「いいよ。キミがそうしたいなら、どこか遠くに行こう。飛行機……は、さすがに今日は無理だから……列車で行けるところまで」
「は? いいよって、わかってんの? そんなことしたらアンタのママ怒るし、捜索願い出されてケーサツ沙汰だよ、たぶん」
「わかってる。でも、ターリアはそうしたいんだろ。キミのしたいことなら、なんでも手伝うよ」

 意味がわかんない。相変わらず。
 コイツはあたしのことが好きで、向けられる好意の重さはかなり気持ち悪い。でも、あたしはこの世に山ほどいる男の中で、コイツだけはだいじょうぶで、そんなあたし自身のことも、あたしは。
 財布の中身を思い出して勘定を始めるラファーユに、あたしは「ウソだよ」と言ってやった。

「えっ」
「いい。そんなことしても、どーせすぐオトナに捕まるんだから」
「……ボクがもっと大人だったら、そんな風に諦めさせなかったのかな。ごめん」
「バカなこと言わないで。アンタがもっとオトナだったら、あたし、アンタのことなんかキライだったから。……寝る。アンタのママが帰ってきたら起こして」

 布団を頭から被ると、あたしのじゃない匂いがする。
 混ざっていく。あたしとアイツの匂いとか、意識と眠気の狭間とか、考えたくないモノとか色々、全部。混ざって、眠りの世界に溶かされる。
 ――ココじゃないと眠れない、なんて。ホントにサイアクでめんどくさい。それでも、全部が他人の男……ラファーユのモノにあふれた空間で、あたしはようやく、目を閉じた。


 ◆


 守られることに息苦しくなる夜がある。でも、キミがここにいる限り、この部屋はボクの生きる場所パラダイス

 こんもりとした布団の中から、静かな寝息が聞こえる。小さく丸まって眠っている幼馴染を起こさないように、ボクは勉強机に向かった。
 少し前、深夜に電話がかかってきたあの日から、ターリアはボクの部屋で眠るようになった。それ以前から、暇なときに隣のベランダから入ってくることはあったけど。あの日からその頻度は増えて、気が付けば学校が終わると毎日、ボクの部屋にやってくるようになって。
 ――そっち行くから。
 ある夜電話をかけてきてそれだけ言ったターリアは、寝ぼけているボクの返事も待たずに電話を切った。困惑しているうちに、窓が叩かれたことを覚えている。……あんな風に深夜に起こされることは初めてじゃなかった。でも、電話越しに話されるのはいつも他愛のないことばかりで、あんな風に切羽詰まった声を聞いたのは初めてだった。

「ど、どうしたの、突然」
「なんでもいいでしょ。アンタには関係ない」
「関係ないことないよ……心配するだろ、急に……」
「うるさい。部屋にいたくない。朝までここにいる。てか、ここで寝る」
「えっ」
「は?」

 思わず声を漏らすと、ターリアは不満げに睨みつけてきた。「嫌なの?」と言いたげな瞳に首を横に振るけど、その意図はつかめないまま。ターリアがそうしたいなら、別に朝まで部屋にいようとここで何をしようとなんだっていいんだけど。いいんだけど、単純に、突然そんなことを言われる理由がわからない。……彼女は、枕が変わると眠れないはずなのに。

「アンタは寝てただろーし、眠いよね。……ん」
「え? 一緒に寝るの?」
「他にないでしょ」
「そうだけど、狭いと思うよ」
「ガマンするの」

 我が物顔でベッドに寝転ぶ彼女が指し示すままに、隣に寝転んだ。当たり前だけど、シングルベッドは二人で寝るにはとても狭い。ターリアはしばらくもぞもぞと動いてどうにか納得のいくスペースを確保したようで、小さく丸まって口を開いた。

「アンタのママに見られたらヤバいよね、これ」
「そうだね。でも、最近はあんまり部屋に入ってこなくなったから」
「……ヤバ……。いつも何時に起きてんだっけ。それに合わせてあたし戻るから」
「六時くらい……起きられる?」
「ムリ。けど起こして。あたしはもう寝るから、黙ってて」
「……わかった。おやすみ」

 そう言って静かに目を閉じたけど、眠ってはいないんだろうな、と思った。なにかがあったのだろうということも。でも、なにかに怯えるように目を閉じるターリアは、どうやらそれを言いたくはないようだから。それならそれでいい、キミがそうしたいなら。
 ……それにしたって、本当に。もしもこんなことが母さんに知られたら、今度こそ怒られるどころじゃないだろう、なんてことを考えた。けど、不思議と怖くはなくて――それはたぶん、ボクがターリアのことを好きで、彼女のことが一番大切だから。キミの言うことならなんでも聞くし、その結果怒られたとしてもどうでもいい。ボクはキミのことが誰よりも、何よりも好きだから。……こんなことを言ったら、きっと呆れるんだろうけど。
 あの日の翌朝、いつも通り寝起きで不機嫌な彼女をどうにかベッドから起き上がらせると、「部屋にいたくない」なんて言っていたことが嘘みたいにベランダから帰っていった。
それからだ。学校が終わってから、そして時には夜が更けてから、ターリアが突然ボクの部屋にやってきて「ここで寝る」と言い出すようになったのは。最初こそ理由が気になっていたものの、もう慣れたもので……それじゃあベッド使っていいよなんて言わずとも、ターリアは当たり前のようにボクのベッドに潜り込むようになった。

「……んん……」

 ターリアのちいさな寝息に、どこかへ飛んでいた意識は目の前のノートに戻った。
 真っ白のそれは、勉強が少しも進んでいないことを突き付けてきている。相変わらずターリアは、あの日なにがあったのかを教えてはくれない。言いたくないのなら言わなくたっていい、と思う。ターリアがそう決めたことなのであれば、それが一番いい判断に決まっているのだから。
 母さんが帰ってくるまでにはまだ時間がある。それまでに今日の分の勉強を終わらせて、そのあと寝起きの悪い彼女を起こさなければならない。勉強は嫌いではない方だ。得意ではないけど、だからこそ、母さんがボクの将来を考えてくれていることはわかっている。……それでも、ボクより自由な周りを羨むこともあるけど。でも。
 この場所にターリアがいる。それだけで、ボクは。


「……ターリア、起きて」

 そっと布団をめくると、ターリアは不機嫌そうな声をあげてさらに小さくなった。差し込む光を避けるように、枕に顔を押し付ける。相変わらずの寝起きの悪さにめげずにしつこく声をかけていると、ようやく不満げな様子で目をこすった。

「…………なに……」
「そろそろ母さんが帰って来るから。起きられる?」
「……ムリ」
「うん、ごめん。でも、ばれたら今度こそキミが怒られるかもしれないし」
「…………そーね。アンタのママ、怒るとめんどーだもんねえ……」

 そう言いながら伸びをしたターリアの意識は、ゆるゆると覚醒してきたらしい。「まだ時間あるでしょ」という問いに頷くと、少しだけ乱れた前髪を直しながら手招きされる。指し示された隣に腰かけると、二人分の体重を受けてベッドが軋んだ。

「……アンタはさ、あたしのこと好きだけど……ヘンなことしないよね。あたしのオトモダチと違って」
「変なことって……。どういうことだかはわからないけど、キミの嫌がることはしないよ」

あの日以来、ターリアは深夜に外出していることも多いようだ。ボクの部屋にやってきて眠る日もあれば、どこかをふらりふらりとさまよっている日もある、らしい。外で知らない誰かと会っているターリアのことを、ボクは知ることはできなくて……彼女も話そうとはしない。けど、あまり楽しんでいるわけではないことはなんとなく口調からうかがえる。ターリアの言う「オトモダチ」には、どうやら男が含まれているらしいというところまでは話に聞いたものの、それ以上のことには、彼女は口をつぐんでいた。

「ふーん。ま、でも、アンタはそーだよね」

 ターリアは満足そうに薄く笑う。めずらしく、どこか楽しそうな表情で。

「あたし、そろそろ帰るね。夜も来るから課題写させて」
「わかった。待ってる」

 ひらりと手を振って、身軽にベランダから帰っていくターリアを見送る。
 そういえば、と思い出した。ターリアが持ってきたお菓子は、勉強の合間に少し食べただけでまだ残っている。隠しておかないと、帰ってきた母さんになにを言われるかわからない。それから、ベッドも直しておかないと。
 ――…………それなら。もしあたしが、あたしのお父さんもアンタのママも学校もなんにもない場所に今すぐ連れてってって言ったら、どうする?
 手を動かしていると、ふと、眠る前にターリアが言っていたことを思い出した。
 どこかへ行こう、と言ったのは本気だった。子どもの持っているお金で行ける場所も逃げられる日数も、たかが知れていることくらいわかっている。現実はそこまでボクらに優しくなくて、彼女の言う通り警察沙汰になって終わりだ。それでも、ターリアの望みならと、子どもじみた逃避行の真似事の算段を立てようとしているのだから――ボクはきっと、彼女への想いの名の元に目を閉じているのだろう。
 それでいい。それが、ボクの生きる理由なのだから。
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