第1章 ちいさな箱に人生を詰めて
07 Seeing is Believing.
放課後の賑わう街に、四つの足音が響いていた。
リデルはどうしようもない気まずさに襲われているというのに、先頭を歩くマリーゴールドはスキップでもするかのような足取りだ。後ろから小さなため息が聞こえる。それはきっと、強引に腕を引っぱられていた三つ編みの彼女のものだろう。
マリーゴールドが語った魔術、それに興味があるらしいハインリッヒ。そしてなぜかご指名を受けたリデルと、随分抵抗していたものの口説き落とされた様子のターリアは、どこか剣呑な空気のまま歩いていた。この居心地の悪さは、ターリアの纏っている不機嫌さのせいであることは間違いない。
「……ちょっと。先行けば?」
リデルたちを見守るように最後尾を歩くハインリッヒに、刺々しい声がかかった。親の仇でも見るような敵意のこもった視線を向けられてたじろいでいる様子の彼に、ターリアは容赦なく冷え切った態度をぶつける。
「のろのろ歩いてないで……て、うわ、近寄んないで」
「……ごめん、驚かせるつもりは……。……それなら、先に行かせてもらおうかな」
戸惑った表情を浮かべつつも先を行く背から、彼女はすぐに顔を背ける。
なんとなくだけれど、ハインリッヒはこんな風に手厳しい態度を手向けられたことは少ないのかもしれない、なんていうことを考えた。その言動にはどこか、路地裏でマグレヴァーと言葉を交わしたシャーロットと似たものが滲んでいるように思える。……シャーロットのようにわかりやすくはないけれど。
「アンタもなんだけど」
少女の鋭利な切っ先が、突如リデルにも向けられた。威圧感は感じさせない可愛らしい容姿をしているのに、なぜか圧し潰されそうな感覚に襲われてしまう。
「さっさと先行って。早く」
先ほどよりも強い言葉で、追い払われるように急き立てられる。口を開こうとしたのを目敏く察知したようで、なにも言っていないのに「うるさい」という一言で黙らされた。そんな様子に、振り返ったマリーゴールドが笑う。
「なんかご機嫌斜めだねー」
「アンタのせいなんだけど。なんであたしがこいつらと、意味わかんない話聞くことになってるわけ?」
「それはもう話したでしょー? アタシが君と一緒にいたいんだよ。ただのお散歩よりは楽しませてあげるから」
「……うるさい。じゃあとっとと終わらせて、コイツら帰してよ」
リデルとハインリッヒを睨みつけながら、スクールバッグを盾にするように身を縮こませる。どちらかといえば小さなターリアのそんな姿は、ハリネズミのようだ。
「はいはい、仰せの通りに」
「はあ……てか、どこに向かってんの? この先ってなんかあったっけ。アンタの家の方でもないでしょ」
それはリデルも気になっていた疑問だった。三人を引き連れ、ご機嫌にヒールを鳴らして歩く姿についてきたものの。人通りの多い道を抜けた先、今歩いているのはなんの変哲もない家々が立ち並ぶ住宅街だ。マリーゴールドの家がこのあたりにあるのかもしれないと思っていたものの、今の言葉を聞く限りそうではないらしい。
「んー? 秘密。もうすぐだから、ね」
ぱちりとウインクをしたマリーゴールドの言葉通り、
「……これは……」
前を歩くハインリッヒの足が止まった。眉をひそませて文句を紡ごうとしていたターリアも、間もなく動揺した様子で立ち止まる。
――見覚えがある。昨夜、オルゴールの音色に誘われた先で見た屋敷だ。夜闇の中、光にぼんやりと浮き上がっていた姿とは違って、今はその大きさも外壁に絡まる蔦もすべてをはっきりと視認することが出来た。
相変わらず住宅街には不釣り合いで目立つ姿だ。きょろきょろと落ち着きなく周囲を見回して、前をまったく気にしていなかったから気がつけなかったけれど。リデルの胸中には昨夜と同じような不思議な感覚が芽生えていて、手入れされていない庭にも躊躇なく足を踏み入れてしまう。
「ちょっと、先行ってよ」
「…………いや……うん」
同じ感情を抱いているであろう揃いの声色のターリアとハインリッヒは、多少の足踏みと探るような短い会話のあと、錆びた門を抜けた。
昨夜見た姿となんら変わらない庭だ。雑草が生え放題なのに、家具が置かれている一部だけは整えられていて。けれど今日のマリーゴールドはそちらへは向かわず、まっすぐと屋敷の方へと向かっていった。屋敷に近付くと、その劣化ぶりがよくわかる。きっと昔は荘厳で立派な建物だったのだろうことを感じさせるけれど、今ではもう汚れた古い廃墟でしかない。外観からその内装も予想できてしまって、さすがにリデルも足が竦んだ。
「……マリーゴールド……えっと、その、中……」
「んー? あ、大丈夫だよー」
おそるおそる声をかけると、軽く返事をされる。なにが大丈夫なのかはまったくわからないけれど、扉に手をかけるマリーゴールドを止めることはできなかった。
「はあ!? こんなきったないとこ入んの?」
後ろから追いついてきたターリアが、リデルが気を遣って言わなかったことを容赦なく口にする。「だから大丈夫だって」と笑って開けられた扉の先、きっとやってくるであろう埃だとかそんなものに備えたのものの……リデルたちを包んだのは、清潔で暖かい空気だった。
その寂れた外観からはまったく予想できない、どこかの貴族の屋敷を思わせる立派な家具の数々。落ち着いた色合いでまとめられた内装は、マリーゴールドによく似合っていた。埃ひとつなくすべてが完璧に整えられている玄関を抜けて案内されたのは、こちらもまた中世の貴族を思わせるような応接間だった。なにこれ、と事態を飲み込めていないターリアのつぶやきは、二人の感想を代弁していた。
「まあ座ってよ。お茶でも飲まない? お茶菓子まだ残ってんのかなー、探してこよっか」
「ま、待ってくれ。……この場所は一体……これも、君の言う魔術……の力、なのかな」
「……そうだね。君は随分興味があるみたいだし、先に話そうか? どっちにしろ座ってよ、ほら。別に取って食うわけじゃないからさー」
その言葉に、最も大きくて柔らかそうなソファに向けてターリアが倒れ込んだ。どうやらそこは彼女が占領するらしい。それならば、と隣のソファに腰掛ける。ハインリッヒも少し離れた一人がけの椅子に座ったのを見てとると、マリーゴールドは話し出した。
「じゃ、はじめよっか。さっき君が言っていた通り、これは全部魔術の力。家具とかもそうだけど……近付くまで、こんな大きい建物があるなんてわからなかったでしょ? それも魔術。魔力がない人は近寄れないし見つけられない、そういう風になってるの」
マリーゴールドの手の中に、先ほどまでなかったはずのマグカップが現れる。ココアの甘い香りが部屋を満たした。
「ここの家具もマグカップも全部、魔術の力。廃墟みたいだったここを、こうやって人を呼べるくらい綺麗にしたのもそうだよ。アタシがただここでちょっと魔術を使うだけで、掃除も重い家具を運ぶ必要もなくこんな空間ができるの。すごいでしょ?」
「……それは……それが本当なら、すごいことだ。今の飲み物を出したのも、魔術の力?」
「そうだよ。あ、そうそう……知ってるかもしれないけど、魔法と魔術は別のものなの。魔法は人間が体内に持ってた……らしい、魔力がないと使えないんだって。まあ、アタシたちには関係のない話だけどねー? もう魔法なんて使えないんだから。……魔法は、なんでも出来たって聞いたよ。たとえばほら、こうやってものを取るとか」
昨夜のように、マリーゴールドが指を動かしてみせる。するとマグカップがふわりと浮いて、意思を持っているかのようにふよふよと彼女の手元へと向かっていく。手の中に納まったと同時に、マリーゴールドは軽くウインクをしてみせた。
「ね。あとはー……」
今度はぱちんと指を鳴らして。なんだろうと思ったのも一瞬のこと、興味を欠片も示さず寝転がっていたターリアの上に突然カップケーキたちが現れ、ころころと彼女に降り注いだ。
「わ、何」
「あはは、プレゼント。どういう仕組みかはわかんないけど、思い浮かべてできないことなんてなかったって。昔は家事とかもぜーんぶ、魔法でやってたみたいだよ」
目の前で起きたことを理解できないと言いたげに、ハインリッヒは眉をひそめた。魔法が身近であったはずのリデルも、マリーゴールドの行う「魔法」は見慣れないものだった。
父親は実験のためなら惜しげなく魔法を使ったけれど、日常生活においてはそのような仕草は見せない人だった。料理に洗濯、その他諸々だって、ぐちぐち不満をこぼしながら自らの手で取り組んでいた様子をよく覚えている。家事は苦手らしい父親が機嫌を損ねた時の矛先は、いつもリデルへと向かっていたものだ。ふと思い出された実家の記憶に背筋が冷えるけれど、飄々としたマリーゴールドの声にすぐに現実に引き戻された。
「で、その魔法を模して作られたのが魔術。アタシも詳しくはないんだけど……魔法が廃れてく中で、アタシみたいな物好きはそれなりにいたみたい。色々と研究されて……ちょっとの道具さえあれば、ぱぱっと不思議なことができる力が生まれたんだ」
それが魔術だよ、と笑って、マリーゴールドは1度そこで言葉を切った。
思い描けさえするのならばすべてが意のままになる魔法と、マリーゴールドが語った魔術。話を聞く限り、二つはかなり似ているように思える。教室でターリアがこぼしていた「魔法の真似事」、それは案外適切な表現だったのかもしれない。
「……どうして、魔術を作り上げる必要があったのかな」
それまで黙って話を聞いていたハインリッヒが口を開いた。視線を下げて熟考している彼からは、いつもの笑顔は消え失せている。
「魔法が失われたのは、魔力を用いる度に疲弊する魔法よりも、機械を求める人々が多くなったからだと聞いたけれど。……文化の保護……いや……」
「君ってほんとに難しいことが好きなんだねー? そんなの決まってるでしょ」
半ばひとりごとのようになっていくハインリッヒの言葉尻を遮り、マリーゴールドは得意げに微笑む。
「――魔法はロマンだから、だよ。面倒でも疲れても大変でも、そこにしかない喜びがあるの。便利に賢く生きるより、手間がかかっても好きなことを優先したい人ってたくさんいるものだよ」
「……ロマン……」
煌めいた感覚的なその言葉は、どうやらハインリッヒにはぴんと来ていない様子に見える。眉をひそめて咀嚼しようとして、けれど結局失敗した様子で「そういうものなんだね」と微笑んだ。かくいうリデルにもよくわからない感覚だ。魔法はロマン、そうなのだろうか。
「で? そのマジュツってヤツはどーやって使うわけ?」
ふとターリアが口を開く。突然聞こえた声に、思わず体がびくりと反応してしまう。ぼんやりと天井を見つめている様子の彼女が、話を聞いているとは思っていなかったものだから。
「魔力って、あたしたちのひいおばあちゃんくらいのときにはもうなかったんでしょ? 魔法の真似事なのに、魔力いらないわけ?」
「そうだね、魔力は必要なんだけど……言ったでしょ? 道具があればって。ただの人間になったアタシたちは、もう体内が魔力を受け付けられなくなってるんだって。だから、こうするの」
そう言ってマリーゴールドは、顔の横の髪をかきあげた。彼女と出会って初めてあらわになったそこには、キラキラと輝くシルバーのピアスが並んでいる。耳たぶから軟骨まで、銀色が鈍く白い肌を飾る。たくさんのフリルやレースを従える甘い服装とそのピアスのギャップに、リデルは思わず言葉を失った。
「これにね、魔力がたーくさん入ってんの。アタシは元々ピアスあけてたし簡単に身に付けたかったからこれにしたけど、触れられるものならなんだっていいって聞いたよ」
「へー、なにそれ。特注?」
「ん、まあそうだね。なあに、ほしい?」
「別に。色々楽できそーって思ったけど、特注なら高いんでしょ?」
「高いのは、まあ、そうだね。そもそも今の時代に魔力をどうこうするの自体が結構大変みたいだし、手間の分お金はかかるんじゃないかなー。ほしいならあげよっか」
「は? 高いんでしょ? そんなの、簡単に渡すもんじゃないと思うけど」
「別にいいよ。お金なんか使いきれないし、むしろなにかプレゼントしたいくらいだし?」
軽い調子の声に、ターリアの眉がかすかに動いた。可愛らしいけれど無愛想な目が、信じられないものを見るかのように細められる。「アンタも金持ちなわけ?」と半ばあきれたようにつぶやかれる言葉に、マリーゴールドはゆるやかに首を横に振った。黒髪が揺れて、ピアスが輝く耳元を隠す。
「んー、家は別に普通なんだけどね。ただ、親が家出ていったときにお金ほぼ置いてってくれたから」
なんてことなさそうな、明日の天気の話でもするかのような口調で発せられた言葉は、リデルの頭に衝撃を与えるには十分だった。そしてそれはハインリッヒも同じようで、なにか助けを求めて惑った視線は、なんとも言えない表情をしている彼を捉えた。そんな二つとは裏腹に、ターリアは相変わらず溶けた姿勢のまま口を開く。興味のなさそうな相槌のあと続けられた疑問により、リデルは今度こそ固まった。
「どっちが出てったの?」
それはとてもプライベートでデリケートな部分なのではないだろうか。気になったところで、軽率に踏み込んでいい場所ではないはずなのに。リデルが知らないだけで、二人はそんなところに触れられるような関係なのかもしれないなんて考えて、それにしてはターリアは距離を保っているように見えると思い直した。静寂にきりきりと胃が痛くなっていくのがわかる。自分は直接関係はないのに、視線の交錯にはらはらとしてしまう。
「あはは、聞いてよ。それがさー? 両方なの」
永遠にも感じられた一瞬もない静寂の後に発せられたのは、先ほどと変わりがない明るい声だった。けれどその内容は衝撃的なもので、だらりと力を抜いていたターリアは「は?」と声を上げながら起き上がった。予想外だったのか、目を瞬かせる彼女の様子に軽い笑い声を立てて、マリーゴールドは続ける。
「いやー、なんて言うんだろ。駆け落ち? されたんだよね」
「ふ、夫婦で……? それは駆け落ちというより、失踪……ではないかな……?」
「よくわかんないんだけど、ある日起きたら愛のために家……てか、街から出て二人きりで生きるって書き置きだけあってさー。ほんとにどこにもいないの。じゃ、駆け落ちじゃない?」
こちらもまた困惑した様子のハインリッヒに向けられた軽い流し目は、この話を深刻に捉えているようには見えなかった。先ほど魔法や魔術の話をしていたときのほうが、よほど真剣に言葉を選んでいたと思えてしまうほどだ。
「まーそこらへんはあんまり気にしないで、要はさ、行方をくらまして、その原因が恋愛だってこと。そこの理由はよくわかんないけど、なんかアタシ置いてかれてさー? ひどいよね、可愛い娘になーんにも言わないの」
「じゃ、今アンタ一人暮らしなの?」
「そうだよ。いつも言ってるでしょ、親いないからいつでもうち来ていいからねって」
「マジでいないとは思わないじゃん。……でも、ふーん。アンタもそうなんだ」
ゆるく編まれた髪をいじりながら、次第にターリアは姿勢を崩していく。それに伴うように小さくなっていく声はリデルにはよく聞こえなかったけれど、少しだけ緩められた表情は、それまで見ていた不機嫌そうなそれとは別物だった。またベンチに横になったターリアは、足をふらふらと揺らしながら手を振った。
「ジャマしてごめん。続けて」
「うん。でも、アタシが知ってることはこのくらいなんだよね。あんまり力になれなかったと思うけど」
肩をすくめてハインリッヒを見やったマリーゴールドに、彼は優しく微笑んでみせた。
「そんなことはないよ。とても参考になった、ありがとう。……僕はあまり、魔法やその周辺のことは詳しくなくて」
「やっぱりアタシは、君が知りたいような話はわかんないかも。でもなにかあったら聞いてよ、君よりは詳しいし……調べる方法とかも、あるかもだし」
「ありがとう。またなにかあれば。……そろそろお暇しようかな」
「そ? リデルくんはどうする?」
ふと向けられた言葉に、リデルは慌てて頷いた。どうして自分がこの場にいるのかもよくわからないままだったし、帰るなら声をかけられたこの場が1番だろう。そそくさと帰る準備を整えるリデルとゆったりと荷物に手をかけるハインリッヒを、赤い瞳が楽しそうに見ている。ターリアはソファから動く様子はなかった。……彼女はこの場に残るのだろうけれど、声をかけるべきだろうか。
「……ねえ。アンタ。リデルって言ったっけ」
決めかねていると、向こうから声をかけられた。こちらを見る様子もなく、高い天井に視線を上げたままの彼女の声はとても硬い。
「う、うん」
「アイツは違うみたいだけど、あたしはアンタのこと信用してないから。……いい? ラファーユに変なこと、吹きこまないでよ」
ゆるやかに向けられた勝気な瞳は、警戒と嫌悪に染まっていた。変なことなんてと言いたくても、気圧されてなにも言うことができない。そんなリデルの様子に眉をひそめて、ターリアは「わかった?」と苛立ったように口にする。こくこくと頷いたのを見て取ると、ふいとそっぽを向かれてしまう。
「……じゃ、さっさと帰れば」
突然敵意を向けられたかと思えば、今はもうすっかりいないものとして扱われている。どうすればいいのかと戸惑っていると、ハインリッヒとなにか話していた様子のマリーゴールドが口を開いた。
「あ、そうだ。忘れてた。聞きたいことあったんだ」
くるりと振り返った彼女の瞳は、真っ直ぐにリデルを向いている。少し身構えた体に、緊張を解くように優しく「リデルくん」と話しかけられた。
「最初にも少し話したけど。ここはね、普通の人には見つけられない場所……そうだね、認識できないとこなんだよ。だから、聞きたかったんだー」
先ほどとなんら変わりのない、からりとした明るい声がリデルに向けられる。底知れない深淵を湛えた瞳には、相変わらず敵意も悪意も存在していない。ただ純然たる興味だけが光っていた。
「リデルくんは昨日、どうしてここに来られたの?」
どうしてと聞かれても答えられなかった。
マリーゴールドは語っていた。ここは、魔力がない普通の人間には訪れることができない場所だと。今日ここに辿り着くことができたのは、魔力を持っている彼女のおかげなのだろう。もちろんリデルはそんな不思議な力なんて欠片も持っていない。父ができるのだからと実家にいた頃やらされたことはあったけれど、どうやらリデルには才能もなければ魔力もまったくないと結論付けられたのだ。そのときの失望を隠さない父の表情といったら、今でも時折フラッシュバックするほどだ。
「わ、わからない……。僕はその、魔力なんか全然ない……んだけど……」
「……」
よろよろと頼りない返事を受けて、マリーゴールドは黙り込んだ。出会ってからというもの、常に悪戯っぽい微笑みを浮かべている彼女の静かな表情は、どことなく迫力があった。一瞬の後、ぱっと明るい笑顔が戻る。
「ま、わかんないよねー? アタシもよくわかんないし! ごめん呼び止めて。またいつでも遊びに来てよ。アタシも、昼間ならアタシの友達もいるからさ」
どうやらこれ以上追及するつもりはないらしい笑顔に、そっと肩の力を抜く。それにしても、マリーゴールドの友達、とはどのような人なのだろう。……彼女と似た、どこか不思議なつかみどころのない人物、なのだろうか。そんなことを考えながら、会釈をして屋敷を出ようとしたときだった。
「そうだ。付き合ってもらったし、帰してあげるね」
ひらりと手を振った彼女に、まさかと昨夜の記憶がよぎった。日常を生きていれば味わうことは決してない浮遊感と、少しの乗り物酔いに似た感覚を伴うあれを、まさか。拒否をしようとしたときには既に遅く、聞き覚えのある指を鳴らす音がした。足が浮いて、生暖かい風に包まれて、思わず目を閉じた刹那。太陽の光と高い鳥の声に目を開けると、昨夜と同じように寮の前に立っていたのだった。
「……」
――街を一望できる位置に建つ、立派な屋敷。個人宅というよりも城や宮殿といっても差し支えがないような家の前に、ハインリッヒは立ち竦んでいた。
彼女の言っていたことは本当だった、なんて考えながら。不思議な屋敷で魔術の話を聞いた帰り際、マリーゴールドはなんてことのないように「家教えてよ。一瞬で帰してあげるから」と笑った。まさかとは思いつつも、常識では考えられない不思議な力を目の当たりにしていた身としてはその言葉を否定することはできなかった。
それならばと答えたのは、遠い実家からこの学校に通うためにお世話になっている親戚の家。ぱちんという指の音が聞こえたかと思えば、本当に話した通りの場所に立っていたのだ。
「……これが魔術か」
この街とはまったく違う雪国の中で生きてきた、日の光に透けるような手をゆるく握る。
「思い描くだけで不可能を可能にする、人間の常識を超える力。……ありえない話だと思っていたけれど、もしかして……」
そのつぶやきは風にさらわれていく。故郷とはなにもかもが違う都会の香りがハインリッヒの頬を撫でた。