第1章 ちいさな箱に人生を詰めて

06 Smoke and Mirrors.


 ――迷った。
 リデルは大きな袋を持ち直し、立ちすくんだ。こんなことならば、怯えていないで先生に送ってもらえばよかった……そんな後悔を抱えながらため息をつく。静かな夜だからか、その音はやけに大きく響いた。壊れたキッチンの代替として、小さなコンロを買ってもらった記憶は、もはや数時間も前のことに思える。実際のところはそう時間は立っていないのだけれど、重い荷物と棒になった足のせいか、随分時間が経っているような気がした。
 こうなった原因は、ひとえにリデルにある。どうにか終えた買い物の終わりに、重たい電化製品をリデルに持たせたリードは、考え込んだあと口を開いたのだ。「少し待てるなら車を出すから、送ってやる」と。それは、ここから寮までの距離だとか夜道だとかに気を遣ったものなのだろうし、大人しくその提案を飲んでもよかった。よかったのだけれど。リデルは考えるよりも先に、首を横に振っていた。遠慮したのではなく、ただ単にリードのことが怖いだけだ。

「……はあ……失礼だったかな……」

 怯えすぎているのかもしれない。けれど、やはり相手は自分の家を燃やした相手だ。初対面と比べれば、その印象はいくらか柔らかいものにはなっているものの、彼が恐怖の対象であることに変わりはなかった。幸いリードは素早い拒否に気を悪くした様子はなく、その場で解散となったのだけれど。そのあともリードのことを考えながらぼんやりと歩いていたリデルは、土地勘のなさも手伝ってすっかり迷子になっていた。あまり変わり映えせず続いていく道が、知らない道に変わっていることに気が付いたときにっは既に遅く、どこをどう曲がってきたのかすら検討がつかなくなっていたのだ。
 はあ、と何度目かわからないため息をついたとき、ふとかわいらしい音が耳に入った。
 鈴を転がすような音が重なって、やがて子供をあやす子守歌のメロディへの変わった。センチメンタルな星空を連想させるその音は、一定のリズムでこの暗い路地を満たしていく。どこか懐かしいけれど切なくなるその音調は、とても聞き覚えのあるものだった。そんなもの、あの家にはなかったというのに。

「……オルゴールだ」

 足が自然とその方向へ向かっていく。人がいるなら道を聞けるかもしれない、なんて口実を思いついたのは、その音の出処にかなり近付いてからだった。引き寄せられるように、その音を、音から感じる心地いい懐かしさを求めてしまう。
 やがてまぶしさに足が止まる。
 暗闇の中の電灯とも、家や店から漏れる明かりとも違う光。目の前にあるのがゴシック調の屋敷だということにも、その光がなければ気が付けなかっただろう。その外壁はぼろぼろで、庭も整備されている様子はない。けれど、庭の一角からは確かにオルゴールの音が響き、光の中には動く影が見える。ふと手をついた門扉が軋んだ音を立てるのと同時に、足元になにかの気配を感じた。

「……っ」

 暗闇の中で、金色の瞳が爛々と輝いている。それがじっとリデルを見つめて、にゃあ、と声を上げた。
 黒猫だ。暗闇を溶かしたかのような毛並みのせいで、すぐにその輪郭をみとめることは難しかったけれど。足元に擦り寄ってきた温かさは、生き物のそれだ。再び鳴いた黒猫は、先導するように歩いていく。それについていくと、ようやく、光を反射して輝くオルゴールを見つけた。
 ――それは、不思議な光景だった。
 光源はどこにもないのに、白い光があたりを包んでいる。草が生え放題の庭だというのに、その光が当たる箇所だけは綺麗に草は狩られて、家具が置かれている。ゴシックベンチに揃いのテーブル、そこに置かれたマグカップの持ち手は猫のしっぽの形だ。ベンチに寝転がっていた人間の元で、黒猫はお行儀よくお座りをした。

「……こんばんは?」

 伸びをしながら起き上がったその人――少女の口元が弧を描く。足元にいる黒猫と揃いの色の髪が、ふわりと風に揺れる。猫を撫でる指先には、きらきらと輝くネイルが丁寧に塗られていた。フリルやレースがあしらわれた黒いワンピースは、見とれてしまうほど彼女に似合っていた。

「こん……ばん、は……。あの、僕……」

 口を開きかけたリデルを止めるように、少女が「静かに」とでも言いたげなジェスチャーを送る。細い指先が形のいい唇に添えられる、それだけの仕草だと言うのにどこか蠱惑的だった。すっかり固まったリデルに赤い瞳を細め、少女は立ち上がった。月明かりさえも装飾品にしているような立ち居振る舞いに圧倒されてしまうけれど、顔立ちは少しの幼さを感じさせる。

「君、どうやってここに来たの?」

 夜空が、少女の広がった黒髪によって遮られる。夜風とも違う冷ややかな空気に包まれたかと思えば、一瞬で魔法のように距離を詰められる。そこで気が付いた。
 この少女は、リデルより目線が高い。美しい彼女が言葉なく見下ろしてくる緊張に耐え切れず、そっと視線を逸らした。その様子に笑みを漏らし、少女は高く細いヒールを踊らせて距離をとった。

「ここ、そう簡単に見つかんないはずなんだけどな」

 ぼやくように言った少女は、口調とは裏腹に楽しそうな表情をしている。

「ま、でも……そういうこともあるよねー?」

 髪をいじりながら、少女は言葉を続ける。その声はリデルを意識しているようにも、ベンチでくつろいでいる黒猫に向けられているようにも聞こえた。その場に立ち尽くしたリデルに、ふと視線が向けられる。猫のような瞳が細められ、「ね?」と繰り返される。そこでようやく自分に問いかけられていたということを悟ったリデルは、そうですねとそうだねの間のような言葉を口の中で転がした。

「あはは、なんか緊張してる? アタシ別に怖い人じゃないよー、それにさ、仲良くしようよ。おんなじ学校の生徒なんだから」
「えっ?」

 少女が何の気なしに発したその言葉に、リデルは目を瞬かせた。
 同じ学校と語る彼女を、校内で見かけたことはない。リデルたちが座る唯一の教室をいくら思い返しても、彼女の姿をみとめたことはない。信じられないとはっきり書かれた顔を見て、少女は心底愉快そうに笑い声を上げた。

「えー? そんなびっくりする? その制服、アナガリスでしょ。アタシ、そこの一年生なんだけど」
「えっ、お、同じ歳……?」

 再び声が漏れる。確かに彼女は大人と言うには幼いけれど、同じ年代というにはやけに大人びていた。ハインリッヒやマグレヴァーにも度々感じる不思議なこの感覚はなんなのだろう、なんてことをぼんやり考える。けれどそんな雑念は、少女の声にかき消された。

「おんなじ学年なら、そうなんじゃない? アタシ、マリーゴールドって言うの。君は?」
「あ、えっと。リデル、です。リデル・ネーヴァルレンド……」
「へえ……リデルくんってなんか……」

 マリーゴールドと名乗った彼女は、興味深そうにリデルを見下ろす。そしてふと、マリーゴールドの手が頭の上に乗った。頭を撫でるように動くその手はまるで、なにかを確かめているようだ。それだけでも心臓が止まりそうだというのに、彼女が放った言葉はリデルを停止させるには十分な威力を持っていた。

「ちっちゃいね?」

 リデルは別に、気にしていない。自分の身長は。体躯に関することに特にこだわりはない。だから、自分の身長がどうとか、誰かより低いからどうとかそういうことも考えたことはなかったのだけれど。
 ただ、マリーゴールドの言葉に一片も悪気なんてものが見受けられず、むしろ慈しみのようなものすら感じられたから。どう返すのが正解なのかがわからず、思考回路が停止してしまう。

「あはは。アタシ好きだよ、ちっちゃいの」

 そう笑いながらぱっと手を離されて、リデルは思わず息をついた。ちっちゃいのが好きと言われても、返事として適切な言葉がなにも思いつかない。黙り込んだ様子を気にすることなく、マリーゴールドは「そうだ」と言葉を続けた。

「リデルくんって学校行ってるんだよね? どう? 楽しい?」

 まるで他人事のような言葉がなにを求めているのかがわからず、リデルはぱちぱちとまばたきを繰り返した。楽しいかどうかで聞かれれば楽しくはあるのだけれど、それは自身の社会経験のなさから来るものであることはわかっていた。そして、いわゆる交流が希薄な教室は、端から見ればそう愉快な場所ではないということも。

「アタシね、最初やりたいこともあったからサボったの。そしたらさー、あはは、段々行くの面倒になっちゃった」

 悪びれもせず笑う彼女の言葉は、リデルにはいまいち理解しきれないものだった。嫌いだから、やりたいことがあるから、そしたら面倒になって。そんな理由で、毎日行くべきとされているものからエスケープしていいのだろうか。

「でも、そろそろ行ってみようかなーって。ね、学校楽しい?」
「……どうだろう。僕は楽しいけど、たぶん……」
「ふーん。じゃあ行こっかな」

 たぶん、他の人はそんなに楽しくはないかも。そんな言葉を繋げようとしていたのに、マリーゴールドはそれを待つことなく即決した。戸惑っているリデルを見透かしたように、彼女は微笑む。その笑顔は悪戯好きの子供のようだ。

「それより、いい子はそろそろおうちに帰る時間じゃない? もう真っ暗だよ」

 その言葉にはっとする。そもそも自分は道に迷っていたのだった、ということをようやく思い出した。オルゴールの音に不思議と惹かれてしまって、自分の状況はすっかり意識の外に行っていた。人がいるなら道を聞けるかもしれないなんて言い訳を立てたことをようやく思い出す。

「あ、確かに……あの、少し迷っていて。もし道を知ってたら、教えてほしいんだ」
「そうなの? いいよ、帰してあげちゃう。家どこ?」
「ありがとう。家っていうか、寮に住んでて。学校の近くの……」

 知っている道から寮までの道筋を説明する。どうやらぴんと来ていない様子で考え込んでいる様子に、「学校近くまで行ける道を教えてもらえれば」と添えると、彼女はゆっくり首を横に振った。

「場所はわかるんだけど……あれ寮だったんだ。じゃーあ……」

 マリーゴールドの指先が空中になにかを描く。リデルが口を開こうとするより先に、全身が浮遊感と随分禍々しい闇に包まれる。制服の裾から生あたたかい風が入り込み、ネクタイがふわりと宙に舞う。引きつった悲鳴が飛び出かけるのと、マリーゴールドの軽い「またねー」の声が重なった。
 一瞬の後、地に足がついた感覚におそるおそる目を開けると――そこには、見慣れた寮があったのだった。

 
 ◆


「本当なんだよ。……それで、気付いたら帰ってきてて……」

 昨夜を含め何度目かわからない説明に、マグレヴァーはあからさまに眉をひそめた。そして、何度向けられたかわからない「バカじゃねえの」なんて言葉をつぶやかれて、リデルはすっかり元気を失っていた。

「そんなん普通に考えてありえねえだろ。何度も言わせんな」
「で、でも、本当に……」

 同じようなやり取りを何度も繰り返しながら、リデルも次第に自信を失っていた。
 道に迷った先で出会った不思議な少女の指の一振りで、荷物共々寮の前に戻っていたなんて話を聞かされれば信じるかと言われれば答えは否だ。まるで魔法のようだと思い返しては、失われたものだということを思い出して。幻だったにしては、昨夜の夜風も漂っていた甘い香りもオルゴールの音も、まだちゃんと覚えている。
 釈然としていない様子のリデルを見て、マグレヴァーは面倒くさそうに口を開いた。昨夜帰ってきてからこの瞬間まで、長々と同じ話をされ続けた彼の「この話を終わらせたい」という気持ちがありありと読み取れる表情で。

「幽霊でも見たんじゃねえの?」

 幽霊なんてという思いもありつつも、肯定したくなる気持ちも芽生えていた。それまで目すら開かなかった死体が、次の瞬間にはうめき声をあげながら動き回っていた様子を目の当たりにしていた身としては、幽霊なんていないと言い切ることはできない。それに、マリーゴールドはとても不思議な少女だったから。
 そうかもしれないと曖昧に相槌を打とうとしたとき、教室内に盛大に物を取り落とした音が響いた。

「…………」

 その音の方へ目を向ければ、壊れかけの機械のように鈍い動きでこちらを振り返るラファーユと目が合った。教室内の注目も、前の席を占領しているターリアのしらけた視線も気にする余裕がない様子の彼の顔色は真っ青で、まさに幽霊のようだ。

「……ゆう、れい……」

 どうやらこちらの話に反応した様子のラファーユの声は震えていた。既に幽霊と遭遇でもしたかのような怯えようだ。

「……い、いないよね!? 幽霊とか……」
「しらない」

 声をかけられたターリアは冷たくそう切り捨てる。恐怖にとどめを刺されたのか、ぴしりと固まって動かなくなった彼を気にする様子もなく、ターリアは無表情のまま目を逸らした。

「てかそれ、ユーレイじゃないと思うけど。黒髪の女子でしょ? 背高くて、ゴスロリの」

 自身の爪に視線をやったまま、言葉を投げてきたターリアに小さく頷く。それからこちらを見ようともしない彼女に気が付いて、リデルは慌てて「うん」と声を出した。

「あたしその人知ってるよ。なんか、魔法の真似事みたいなのが趣味な変なヤツ」
「魔術、ね?」
「出た」

 いつの間に現れたのか、ターリアの背後から昨夜聞いた声がした。
 太陽に照らされたこの場所でも、彼女の纏う不思議な雰囲気は健在だった。楽しそうな笑みを浮かべて、背後からターリアを絡めとるように抱きしめる。うんざりしたような「近いんだけど」という抗議の声をものともせず、マリーゴールドは微笑んだ。

「あはは、おはよ。リデルくん」
「……おはよう……」

 目を細める彼女の姿はやはり大人っぽさを感じさせる。ふわふわとした長い黒髪をワンサイドアップにした彼女の服装は、およそ制服とはかけ離れたものだった。昨夜見たようなものに似た服で――これがゴスロリ、というものなのか、なんてことをリデルはぼんやり考えた。袖口はひらひらと広がり、スカートをパニエが膨らませている。黒が基調のコーディネートも、その中で差し色として入れられている赤色も、マリーゴールドによく似合っていた。

「で? これが幽霊女かよ」

 突然現れた他人に警戒しているのか、マグレヴァーが半ば身を引きながらリデルに声をかけた。

「えー? アタシ幽霊ってことになってるの?」
「いや、ごめん、えっと……」
「別にいいけどねー、あはは、幽霊かあ……。会ってみたいなー」

 どこか遠くを見ているかのようなマリーゴールドに体重をかけられて、ターリアが「ぐえ」と声をあげる。不満げにマリーゴールドを見上げる彼女の瞳は、これまで他者に向けられていた鋭く敵意のあるものとは少しだけ異なっていた。不満げに眉をひそめていることに変わりはないけれど。

「ちょっと、いーかげん離れて」
「えー? いいでしょ? アタシたちの仲じゃん」
「そんな仲じゃないから離れてっつってんの」

 長い袖に隠れた手に鬱陶しそうに払われてもまったく意に介していないようで、マリーゴールドは相変わらず猫のように微笑んでいる。そんな様子に振り払うことを諦めた様子のターリアが黙り込んだのを見ると、昨夜と変わらないどこか艶やかな声が空気を震わせた。

「で、アタシの話してたんでしょ? アタシがやってるのは魔法の真似事・・・・・・じゃないよ、ちゃんとした魔術なんだから」
「魔術……?」

 聞きなれない言葉に、リデルはついおうむ返しにそれを繰り返してしまう。
 魔法ならば知っている。とはいっても、父の扱っていたそれに限るし、リデルには扱えなかったものだから知識としてに限るけれど、魔法を使う姿ならずっと見ていたのだ。それが街に出た途端、魔法は失われたものだなんて言われたときの困惑は、まだ新しい。いまだ整理がついてはいない脳内の引き出しに、今度は耳慣れない「魔術」が現れた。

「……魔法の話? 僕にも聞かせてもらえないかな」

 混乱してきた頭の中に、落ち着いた涼やかな声が清涼剤のように降りて来る。振り返ると、ハインリッヒとシャーロットの姿があった。随分機嫌がいい様子のシャーロットは、「ごきげんよう」をとびきりの笑顔で振りまいた。それを見たマリーゴールドの瞳に、少し怪しい光が宿ったようにリデルには思えた。それは一瞬でなりを潜め、彼女は二人の方へ歩み寄っていく。

「はじめまして、だね。アタシはマリーゴールド・ルメース。ずーっとサボってたけど、一応君たちとは同級生なの。よろしくね」
「ええ、はじめまして! わたしはシャーロットと言います。それから、こちらが……」
「ハインリッヒだ。……先ほどは会話に割り込んで、失礼だったね。ごめん」
「いいよそんなの。気にしないで」

 にこやかに微笑んだマリーゴールドに、ハインリッヒも同じような笑みを返した。自分の席に向かう彼に「それで?」と声をかけながら、マリーゴールドはふわりと机に座る。その動きは重力など知らないかのような、浮遊としか言いようのない動きだった。これも、「魔術」の力なのだろうか。

「なんで魔法のことなんか知りたいの?」
「何故もなにも、知りたいものは知りたいんだ。僕には到底想像もつかない不思議な力……それが人の理をどこまで超えることができていたのか、とか。科学の発展により不要になったはずの魔法を象ってまで、魔術が生まれたのはなぜか、とか」

 椅子に腰かけたハインリッヒは、足を組んでそう微笑んだ。いつも静かで理知的な彼らしくなく、その言葉にはどこか熱が入っているように見える。

「なんか難しいことが好きなんだね? アタシ、歴史とかにはあんまり興味ないから力にはなれないと思うけど、それでもいいならいいよー」
「……こういった方面はさっぱりだから、ありがたいよ。よければ教えてもらえないかな」

 やり取りを聞きながら、シャーロットは少し不思議そうにハインリッヒを見つめていた。大きな瞳には、いつもの明るさとは少しだけ異なった色が宿っている。

「なあに? 君も興味あるの?」

 その視線に気が付いたマリーゴールドに声を掛けられ、はっとした様子の彼女はゆるやかに首をかしげる。丁寧に結われたリボンが、そっと揺れた。

「そうね、少しだけ。……魔法は……今のわたしたちには、わからないことだらけですもの。魔術と言ったかしら? そんな素敵なもののお話も初めて聞いたものだから、おどろいてしまって」
「あはは、それなら君にも色々教えてあげよっか」
「まあ、ありがとう。せっかくのお誘いだけれど、今はご遠慮させていただけるかしら。今は少しだけ慌ただしくしていて……いつかゆっくり教えてくださる?」

 少しだけ含みのある言い方だったけれど、マリーゴールドは気に留めた様子もなく微笑んだ。

「いつでもいいよ、シャーロット。アタシ、君と仲良くなりたいし?」
「ふふ、うれしいわ。ありがとう。それでは落ち着いたときに、あなたのお時間をいただけるかしら」

 そう言って穏やかに笑い合って。マリーゴールドの赤い瞳が、ハインリッヒの方へ再び向けられた。昨夜リデルを一瞬のうちに寮へと帰した指先が、自身の柔らかな黒髪を梳く。

「アタシの知ってることでいいなら、いつでも聞かせてあげるけど? 今日暇?」
「君の予定に合わせるよ。今日でも大丈夫なら、頼めるかな」

 柔らかく目尻を下げたハインリッヒに、赤い瞳が楽しそうに揺れる。さらに口を開こうとしたとき、教室の扉が開く音がした。そちらに目をやると、どこか疲れた様子のリードが入ってくる。
 その姿に、ふとリデルは昨日のことを思い出す。マリーゴールドとの出来事が随分衝撃的で少し薄れていたけれど、昨日はリードにお世話になったのだ。彼のおかげでいつもと変わらずコーヒーが淹れられて、今朝のマグレヴァーの機嫌が損なわれることはなかった。ひいては、寮の平和はリードのおかげで保たれたと言っても過言ではない。もう一度お礼を言っておいた方がいいのかもなんて考えながら、どう話しかけるべきかとそわそわするリデルよりも先にマリーゴールドが声をかけた。

「先生おはよー」

 軽い声に、相変わらず近寄りがたい不機嫌な視線が向けられる。特に理由なく学校を休み続けた彼女に対し、歓迎するでも咎めるでもなく、リードは小さく息をついた。

「ああ……なんだ、来たのか」
「えー? なにそれ? なんかその言い方ひどいなー。先生だって、アタシが学校いる方が嬉しいでしょ? サボってるよりさ」
「それはどちらでも構わないが。だが……初日から休んだお前には渡すものが山ほどある。俺が管理するものが少しでも減るのだから、いる方がありがたいかもしれんな。後で職員室に来い」
「はーい」

 リードの冷たい物言いにも動じず、マリーゴールドは楽しそうに笑った。ハインリッヒに向けて「じゃ、そういうことで」と微笑んだ彼女は、ずっと空席だった彼女のための席に向かう途中、ふとリデルの肩に手を置いた。

「そうだ、リデルくんも来てね」
「えっ」

 その言葉の真意を問うよりも先に、ぱちりとウインクをしてマリーゴールドは歩いていく。学校には似合わない高いヒールが鳴っていた。
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