第1章 ちいさな箱に人生を詰めて

05 A skeleton in the closet.


 ごきげんよう、星が綺麗な夜ね。
 この夢の世界では、現実の星を見ることは叶わないのだけれど……あなたの見た世界を、わたしも見ているの。夜空に心を寄せる余裕がある夜なんて、いつぶりかしら。
 今夜も、わたしのお話に付き合ってくださいましね。
 事の始まりは、そうね……きっと、わたしが生を受けたときには、既に。生まれつき体が弱かったわたしは、家族とは離され使用人も近寄ろうとはしませんでした。そんな幼少期を過ごしたわたしが、病も立場も気にせず関わってくれた彼に想いを寄せることは、そう不思議なことではないと思っていただけるのではないかしら。
 やがて病状が悪化し死を待つのみとなったわたしは、少数の使用人と共に田舎の静かな邸宅に移されました。そこでもわたしの傍にいてくれたのは、彼だけでした。
 そうそう、お部屋の横の窓の外には、立派な木が植えてあって……あなたもお花はお好きでしょう? ……あのかわいらしいお花のお名前はなんと言ったかしら。もう、時が経つって嫌ね。とにかく、その木は春夏秋冬いつも違うお顔でわたしに挨拶してくれたのよ。
 それにね、彼がよくお花を持ってきてくれたの。退屈だろうからって。……ええ、覚えているわ。赤い薔薇……ドレスで着飾ったようなあの姿。すべてが色褪せたあのお部屋で、薔薇の花だけはずっと綺麗だった。お部屋で一人になると、よく思っていたものだわ。これだけが、彼とわたしの繋がりなのだと。伝えられない、叶わない想いを、あの薔薇に託して、わたしは……死んだのよ。


 ◆

 
「……あれ?」

 それに気がついたのは、ある朝だった。
 現代の一般家庭に普及しているものと比べると、何世代か過去のものが揃えられているキッチンで、リデルは眉を顰める。その手元ではかちかちと軽い音が鳴り、いつもならばすぐに反応するはずの文明の利器はすっかり黙り込んでいた。

「おい、なにしてんだよ」

 しばらくそこに座り込んで故障を直す術を探していると、頭の上から不機嫌な声が降ってきた。邪魔だと言いたげな色違いの瞳は、寝不足や朝の気怠さも手伝ってかいつもより鋭かった。

「ごめん。……火がつかなくて」
「は?」

 キッチンの不具合を伝えると、マグレヴァーは苛立ったような声を上げる。怒りの沸点がとても低いマグレヴァーだけれど、今この状況に限ってはリデルにもその苛立ちが理解できた。ただでさえなにかと慌ただしい朝の時間に起きたトラブルである。しかも料理には欠かせない火が動かないとなると、その怒りも最もだ。

「……どうしようか……」
「どうしようもなにも、直せねえんだろ」
「う、うん」
「なら無理だろ。お前、今日学校で教師に言っとけよ。壊れたって」

 マグレヴァーはそう言い捨てると、さっさとキッチンから出ていった。去っていく彼に伝えたかったのは「わかった」なのか「待って」なのかわからず、その両方が中途半端に混ざった不思議な音と伸ばしかけた手だけが残される。
 彼の言っていることは最もだ。この時代に置き去られたかのような寮には、本来いるべき管理人はいない。そして校内でリード以外の大人を見かけたことはない。なんとも摩訶不思議なことだけれど、大きな校舎に響く足音は八人分だけだ。だから、学校やそれに付随する場所で起きた問題は、リードに伝えるのが正しい――のだろう。

「うーん……」

 リデルは1人頭を抱えた。
 それが正しいことはわかっている。けれど彼はどうにも、リードを恐れている。そしてその理由は間違いなく、忘れもしない初対面の日に見たあの目。燃え上がる炎を映していた瞳の暗さが、忘れられないからだ。

 
 ――とはいえ、戦々恐々としている場合ではない。
 火が使えないと困る、自分たちでは解決できないなら大人を頼るしかない、そしてマグレヴァーはなにもしない。この3点が事実としてある以上、リデルはあの先生の元へ赴かなければならないのだ。
 校舎の一階、東側に位置する部屋。かつては多くの先生で賑わっていたであろう職員室の前で、リデルは小さく深呼吸をした。作法に則り数回のノックをして、「すみません」と声をかける。分厚く重厚な扉の向こうに、その震えた声が聞こえたかはわからないけれど。

「……あ、の。先生…………」

 当たり前のようにそこにいるのだと思っていた大人へ向けて投げたはずの声は、次第に消えていった。確かにそこに「大人」はいた。けれど、その切れ長の瞳も柔らかい色合いの髪の毛も、仕立ての良さそうなスーツもなにもかも、初めて見る知らない人だ。積み上げられた書類を気に留める様子もなく、彼は椅子に腰かけている。年は二十代後半だろうか、どこか優雅さを感じさせる彼のミントグリーンの瞳がリデルを射抜いた。

「……えっ、あの……」

 誰、と言いかけて、どうにか喉のところで声をおさめた。多少慣れてきたとはいえ、これまでの生活が生活なものだから、知らない人に対する警戒心を隠すことはできなかった。相手も人が入って来るとは思っていなかったのか、一瞬おどろいた様子だったけれど、その表情はすぐに彼の纏う柔和な雰囲気に隠れてしまう。

「ああ、失礼。君はこの学校の生徒だね?」
「は、はい……」
「そう怯えないでくれたまえ。私は君たちの先生の友人でね、彼に用があって少しお邪魔したんだ」

 彼の優しい声色は、ゆるやかにリデルの心を溶かしていった。少しだけ警戒心を解いたリデルの内心を察したのか、男は軽く微笑んだ。足を組み背もたれに体を預ける姿はとても上品だったけれど、どことなく近寄りがたさを感じさせる。

「自己紹介が遅れたね。私はミカエル・キャルスパークというんだ。君の名前を教えてくれるかな」
「は、はい。えっと、リデル・ネーヴァルレンド……です」
「……そうか。それでは、君が……」

 ミカエルの瞳がすっと細められた。向けられた視線になぜだか背筋が伸びる。リデルの全身を緊張が走り抜けていったのと同時に、なにかを確かめるかのような雰囲気はなりを潜め、ミカエルは美しく笑った。

「会えて嬉しいよ。姪からよく君の名前を聞いていてね、いつかゆっくり話をしたいと思っていたんだ」

 ――姪。ということはおそらく……というより間違いなく、目の前の彼はクラスメイトの叔父ということだ。
 誰の親戚なんだろう、と考える。机を並べる三人の女子生徒を思い浮かべたけれど、容姿から連想することはできなかった。異性で年齢も上なのだから当たり前なのかもしれないけれど、皆彼とは違った雰囲気の少女たちだ。ただ、この優雅でゆったりとした、余裕と気品を感じさせる動作には既視感がある。いつも澄み切った幸福に包まれ、優しく上品に微笑んで赤いリボンを揺らしている、そんなあの子。そのもしかしてを口に出そうとしたときだった。

「叔父様……!」

 細くかわいらしい声の持ち主である彼女にしては珍しい、スタッカートを纏った声色と共に扉が開いた。
 大きな瞳に数えきれないほどの光を散りばめ、頬を染めたシャーロットが赤い靴を踊らせて駆け出した。そんな彼女を迎えようとミカエルが立ち上がるより先に、シャーロットは跳ねるように彼の元へ飛び込んでいく。
 幼さすら感じさせるはしゃぎ方に思わず呆然としていると、扉に体を預けているリードと目が合った。その視線は誰が見てもわかる呆れを多分に含んでいる。その感情が意味するところはリデルにはわからなかったけれど、そろそろと無表情な教師のそばへ移動した。なぜだかとても居心地が悪かったので。そんなリデルをちらりと見やると、リードはため息をつきながら煙草に火をつけた。

「まさか学校でお会いできるだなんて思っていませんでしたわ! ……教えてくだされば……もう少し、準備をいたしましたのに」

 少しだけ拗ねるような口調でそう言ったシャーロットは、一転してぱっと表情を明るくした。隣の椅子にそっと腰掛けて、今度は甘えるように距離を詰めた。

「叔父様、お時間がおありなら、放課後はお茶をしてくださいませんか? ……そうだわ! 新作のマカロンを買ったのですけれど、叔父様に召し上がっていただきたいのです。叔父様がいらしたら、お父様もきっと喜びますわ。それに……」

 シャーロットはそこでふと言葉を途切れさせる。少しだけ言いにくそうに視線を下げた彼女だったけれど、「話してごらん」という優しい声に背中を押されたのか、再び顔を上げた。

「…………叔父様がお忙しいのは、もちろんわかっていますけれど……最近は遊びに来てくださっても、お帰りが早いですから。わたし……寂しくて。聞いていただきたいことも、たくさんありますの」
「そうか……そうだね。もし都合がいいようなら、今日伺わせてもらおうかな」

 その言葉に、シャーロットは花が咲いたかのような笑顔を浮かべた。さらに口を開こうとする彼女は、見たことのないような幼い表情をしていて。リードが咎めるような咳払いをしなければ、リデルは我にかえることもなくぼんやりと彼女を眺めていただろう。

「シャーロット、続きはまた後で聞かせてくれたまえ。楽しい時間には、紅茶とお菓子が必要だ。そうだろう?」
「はい、叔父様! それではわたしは失礼しますね」

 踊るような足取りでくるりと方向転換したシャーロットは、そのままスキップで歩いていく。リデルとリードに軽く頭を下げると、名残惜しそうに振り返って――そこで、ぴしゃりと扉が閉められた。見上げれば、うんざりだとでも言いたげなリードがちょうど扉から手を離すところだった。

「……なんなんだ、あれは」
「はは、可愛いだろう?」
「…………」

 軽いウインクに、リードはため息で答えた。彼の定位置である散らかり放題の机につくと、「それで」とリデルに視線を投げた。

「お前は何の用だ?」
「あ、はい……あの、寮のことで、少し。すみません、誰に聞けばいいのかわからなくて」

 所在なさげに手遊びをしながら、リデルは朝の出来事を説明する。簡単に今朝起きた不具合を伝えると、リードは眉間の皺を深めた。

「……そうか。面倒だな」
「あ、あの、すみません……」
「君が謝ることではないよ、リデルくん」

 リードの言葉に咄嗟に返した謝罪を拾ったのは、ミカエルだった。特に学校の関係者ではないらしい彼は、リデルよりもこの場のこともリードのこともわかっているように見える。

「機械の不具合は仕方がないことさ。そうだろう、先生?」
「……まあ、大方経年劣化だろうからな」

 そう言われて、キッチンの姿を思い出す。数世代前の家具や電子機器が並んでいる寮のことだから、ちょうど今が壊れる時期だったと言われても納得できる話だ。それにしても、予兆すら見せずいきなり壊れてしまうものなのだろうか。

「わかった。一応上に話は通すが……」

 リードが逸らした視線の先にあるのは書類の山。色々と記入されているものもあるが、真っ白のものもあった。

「……いらん仕事を作ることだけが得意な連中だからな。しばらく使えないと思っていろ」
「は、はい……」

 火が使えないとなると色々と困るのだけれど、そんな風に口を挟むことは出来ない。リデルにとっての目の前の「先生」は、いまだにおそろしい放火犯であった。大人しく頷きながら、マグレヴァーは怒るだろうなあ、なんてことを考える。彼はお湯を注いで完成するインスタント商品を好んでいたから、好物を封じられればそれはそれは不機嫌になるだろう。

「そうは言っても、食事の用意だってあるだろう? 今日中は難しいとしても、なにか代わりになるものは必要ではないかな」
「……それは……。……おい、いつまで居座る気だ」
「おやおや、友人に随分な言い方じゃないか」
「友人ではないと言っているだろう。さっさと帰れ。用事は終わっただろうが」

 虫でも追い払うような仕草を向けられても、ミカエルはにこやかに笑っている。なんだかすごい人だな、とリデルはぼんやり考えていた。

「あなたの仕事の邪魔をすることは本意ではないし、そろそろお暇しようかな。また来るよ」
「来るな」
「はは。……ああ、リデルくん」

 リードからの厳しい言葉を意に介さずに躱したミカエルは、ふとリデルへ視線を投げた。シャーロットとは似ていない涼しげな大人の瞳に見つめられると、なぜか緊張が全身を支配する。

「いつもシャーロットと仲良くしてくれてありがとう。これからも、あの子をよろしく頼むよ」
「は、はい……」

 リデルは跳ねる心臓を抑えて頷いた。シャーロットから一体なにが伝わっているのかはわからない。どうやら彼女と近しい存在であるらしいミカエルの気を悪くするようなことがなければいいのだけれど。視線を泳がせるリデルに微笑むと、ミカエルはリードに軽い挨拶をして去って行った。

「行ったか。まったく……」
「先生。あの、ミカエルさん……って……」
「……俺は大してあの男のことは知らん。仕事上で多少付き合いがあるだけだからな」

 おずおずと口を開いたリデルの疑問を、リードは端的に切り捨てた。

「そう、なんですか……。シャーロットの、親戚の方、なんですよね?」
「ああ。父方の叔父だったか」
「素敵ですね。親戚同士、あんな風に一緒に過ごせて」
「……まあ、悪いよりはましだろうな」

 煙草の煙と一緒に吐き捨てたリードの言葉に、曖昧に笑うことしかできなかった。シャーロットのあんなに楽しそうな姿も甘えるような言動も初めて見たものだった。リデルが知らないだけで親戚というものはああいうものなのかもしれない、と一瞬思ったけれど、リードの態度を見る限りそれはなさそうだ。理由は知らないが、シャーロットとミカエルは特別仲がいいらしい。
 そこに羨望が浮かばないのかと言われれば、それは――。

「おい。寮の件に戻るぞ」

 波を立て始めた思考を、リードの低い声が引き戻す。それに返事をして、リデルは姿勢を正した。


 ◆


 それで、どうしてこうなっているんだろう。
 リデルの頭の中は、怯えと疑問で埋まっていた。普段は一人で訪れるばかりの賑わう店々の間を、今日は黙って歩いていく。真新しいスクールバッグの持ち手を縋るように握りしめて、リードの後を追う。温もりを感じる明るいはずのマーケットは、共にいる人が違うだけでこんなにも暗く感じるものなのだろうか。後ろを振り返ることもなく前を歩くリードの背中を見ながら、学校で端的に告げられた言葉を思い出していた。
 ――今から代替品を買いに行く。来い。
 本当にそれだけ言って、伝わっただろうと言いたげなリードを呼び止めて聞いた話によれば。応急処置として使えるものを買ってやる、とのことだった。寮に備え付けられたキッチンを個人の一存ですぐどうこうすることは不可能だけれど、さすがに色々と不便だろうから、と。この学校の運営をしているはずの上層部の人々は、この程度の問題に割くお金も手間も惜しむというのがリードの見立てらしい。それを聞いて、いったいこの学校はなんなんだろう、とリデルは思わずにはいられなかった。とはいえ、リードの言う通り……今日明日で備え付けられた設備を直せるとは考えにくい。その日のうちに代わりとなる手段を手に入れられるのであればありがたい話だ。

「あの、先生……」

 思わず震えてしまう声はか細いものだったけれど、リードは喧騒からその声を拾ったようだ。振り向き立ち止まった彼の姿に、少し意外だなんて感想がリデルの頭の中に浮かんで消えた。

「なんだ」
「……あの、ありがとうございます」
「礼を言われることではない。不本意だが、これも仕事の一環なのでな……」

 ただの教師が、管理にも関わっていない寮のことにまで手を回すことが常識の範囲外であろうことは、リデルにもなんとなく予想がついた。街の大きさの割に少ない生徒数に、唯一の大人。この学校の状況について疑問は深まるばかりだ。

「寮にいるのはお前たち二人だけなのだから、そう立派なものはいらないだろう。小さなものなら売っている店に心当たりがある。お前も多少は料理をするだろうし、選ぶといい」

 そう言うと、もう話すことはないと言いたげにリードは背を向けた。慌てて足を動かしながら、早足で進んでいく彼に声をかけた。

「えっと、先生。お金って……その……」
「……俺の金だ。お前たちの使い方が悪いわけではないだろうから、警告する必要もないだろうが……一応言っておく。次は壊すなよ」

 一瞬向けられた表情は鋭いもので、リデルは小さく頷くことしかできなかった。リードが言っていた通り、今回の故障は古びたキッチンの寿命が来ただけだろう。どこもかしこも古ぼけた寮の型落ち品なんて、いつ壊れても仕方がない。リデルだって、そして彼が見ていた範囲のマグレヴァーだって、そう乱暴には扱っていないのだから。だから壊すことはない、はずだ。
 その怯えたように首肯する様子に息をつき、再び歩き出すリードを追う。今日に限っては、人々の喧騒も目を引く店先の品々もどこか他人事のようだ。そんなぼんやりとしたリデルの思考を、甘い香りが遮る。
 甘くてどこか香ばしい香りを目で追うと、明るい雰囲気の小さな店が目に入った。ポップな雰囲気が目を引くその店の看板には、クレープの写真が飾られている。何度も通っているはずの道なのに、今まで気に留めていなかったのが不思議なくらい、リデルの心はその店に奪われていた。もちろん今までクレープなんて食べたことはなく、ただ知識としてはなぜかなんとなく知っているだけのものだ。それなのに。歩みが遅くなったことを感じ取ったのだろうか、リードの足が止まった。リデルの視線の先を一瞥し、「クレープか」と呟く。

「――お前は昔からああいったものが…………」
「先生?」

 少しだけ柔らかいリードの声色に、リデルは思わず彼を見上げた。
 リードはすぐ、口を滑らせたとでも言いたげに厳しい表情で黙り込んでしまう。かわいらしいその店舗からは、クレープの甘ったるい香りがここまで漂ってきている。周囲の飲食店からの様々な香りと混ざってなお、その香りはなぜか胸を躍らせた。街中の他のものと同じように、彼にとっては生まれて初めて見たものであるはずなのに、その味を知っているかのような不思議なときめきが体を支配する。

「……いや」

 眉を顰めてその様子を眺めていたリードは、小さく息をついてから口を開く。

「ガキはあの類のものが好きだろう。お前もそうではないのか」
「好きかは……食べたことないから、わからないですけど……おいしそうですね」

 素直な気持ちを乗せた返答は彼には不満なものだったのか、返ってきたのは重たい沈黙だけだった。それがどうしようもなく気まずくて、どうにか場を持たせることができる会話を探そうとして――手当たり次第に探した話題の中で、どうにか掴めたものを口にする。

「せ、先生は……好きですか。クレープとか」
「ああいう甘いものは口に合わん。歳を取るとな」
「そうですか……あの、じゃあ、子供の頃とかは……」
「嫌いだったな」

 必死に探した話題もすぐに終わらせられ、形容しようのない引きつった笑みとまとわりつくような後悔だけが残る。
 学校にいる間は、こうして会話をすることなど滅多にない。最低限の授業と連絡事項さえ済ませてしまえば、この先生は生徒と関わるつもりはないようだし――なにより、相手が先生にしろ級友にしろ、教室は仲良くおしゃべりをするような雰囲気ではない。相変わらず、お互いが見えない壁を作っているかのような環境で自分から話しかけにいけるほど、リデルは社交的ではなかった。
 人付き合いに慣れているとはいえないリデルにとって、その空気はありがたいものではあったのだけれど、こうして誰かと二人きりになったときは話は別だ。冷たい大人との沈黙を重荷に思わないほど、リデルの肝は据わっていない。

「……そ、うですか、それじゃあ、えっと……」
「息子が好きだった」
「えっ」

 混乱してきたリデルの思考を遮ったのは、静かな声だった。まさか向こうから話しかけられると思っていなかった困惑の声を置いて、リードは過去を思い出すかのような口調で続ける。

「……今は……どうだか知らないが。あの手の店のものを買わされたのはもちろん、家で作れと強請られて……面倒なことこの上なかった」

 そう語る彼の心は、ここではないどこかにあるように思えた。立ち止まった二人の横を、幼い子供が走っていく。無邪気なその声は、自身の後ろを歩いている親に向けられているものだ。勝手に走り出していったのであろう我が子を追いかけるには荷物を抱えすぎている父親は、心配そうにしながらも小さな姿を温かく見守っている。
 自分にはなかったものだ、と。リデルは街に来てから何度目かわからない憧憬を抱く。リードには、この光景はどう映っているのだろうか。

「……先生、お子さんいるんですか?」
「ああ。お前と同じ十六歳だ」

 淡々とした話し方はいつも通りだったけれど、その瞳はかすかに揺れていた。
 リデルと同じ歳なのであれば、学校に通っているはずの年齢だ。けれど周辺で唯一の学校であるアナガリス魔法学園に、それらしき姿はない。そもそも、家族がいるという気配すらリードは見せなかった。どんな生活をしているのかがまったく見えない人ではあるのだけれど。常に人間味を感じさせなかったリードが見せた家族の存在が信じられない、と言うのが素直な感想だった。これまで口にしなかったのだから、あまり深掘りして聞くものではないとわかってはいるけれど、どうしても気になってしまう。その興味を言葉にするより前に、リードはため息をついた。

「……無駄話をしすぎたな。行くぞ」

 吐き捨てるようなその言い方は、リデルにこの話をしたことも――ふと浮上した家庭の一幕の記憶も、疎んでいるようだった。
6/9ページ
スキ