第1章 ちいさな箱に人生を詰めて

04 A Match Made in Heaven.


 ――鮮烈でした。
 あの日々のことは、今でも覚えていますわ。両親も兄たちも、あの手入れされていないお屋敷でわたしが人知れず息を引き取ることを望んでいるのだと、誰もがわかっていました。だからこそ、わたしとの必要以上の交流を避けていたのでしょう。……寂しくはありましたが、恨んでなどおりません。けれど、その中で彼だけは……。
 わたしにはわかりました。これは、わたしのような脆い体では耐えきれない、いつか熾烈に弾けて終わっていく恋なのだと。外に出ることを禁じられていた体。どう誤魔化したって痛む内臓。それを受け入れられない心。そんなわたしが、恋の激しさにだなんて到底耐えられるわけがないのだと。それでも、その恋だけがわたしの心臓を動かしたのです。ええ、苦しいばかりの人生でしたけれど、わたしは幸せでした。
 誰かを愛すること、恋に落ちることの喜びに勝るものはないわ。あなたもそう思うでしょう?
 ……恋を知らない? そんなはずはないわ。あなたはわたしですもの。わたしの恋は、今もあなたに根を張っていますわ。あなたが気が付いていないだけ。ふふ。わたしが残した蕾が開く日を、楽しみにしていますね。
 ……まあ、もう朝ね。いつの時代も、思案に耽る日の夜明けは早いものだわ。名残惜しいですが、亡霊は帰るといたしましょう。
 またすぐに、お会いしましょうね。


 ◆


 シャーロット=キャロル=カーレンは特別な少女だ。この街で一番と言い切って差し支えのない裕福な家庭の、お人形のようなかわいらしい女の子。小さな細い体に詰め込まれているのは、夢と愛とお砂糖と綿菓子と、それから、致死量の魔力。
 魔法は旧時代の遺物だと、誰もが言う。
 遠くの誰かとのお喋りは片手に納まる機器で済むのだし、一つボタンを押してしまえば火だって起こせて、移動なんてお金を対価に座っているだけでいい。そんな世界でわざわざ魔法だなんてひと手間は必要ないのだと、数世紀前の賢人は気が付いた。そのせいかそのおかげか、魔法は次第に廃れていって、今では物語の中にしか、その姿を見つけることはできない。
 けれど、魔法はなくなったわけではないのだ。
 長い間、それこそ気も遠くなるような昔から傍にいた魔法を、体内に渦巻く魔力を、人間は失ってなどいない。誰しも魔力を持っているけれど、誰も魔法を使うことができないのは、魔力が少し眠っているだけ。人間がその眠りの部屋の鍵を失くしてしまっただけ。だから、あなたの体に魔力が存在していることはなんらおかしいことではない。ただほんの少し人よりも含有しているそれが多くて、ほんの少し、あなたの体と合わないだけ。シャーロットは、医師からそう聞いた。
 本来人間が耐えきれる量ではなく、死に至るはずの魔力を抱えて、少女は今日も息をしている。確かに最近までは寝たきりの生活を送っていたけれど、それでも少女は死とはほど遠く。今では学校に通えるようになっているのだから、そう悲観することでもない。

「今日もいい天気ね。ごきげんよう、小鳥さん」

 レースカーテンの向こう、柔らかな光が差し込む窓辺に毎朝訪れる小夜鳴鳥は、ガラス越しのご挨拶に首を傾げた。この世のものとは思えないほど綺麗で美しいこの小鳥は、シャーロットが学校に通うようになってからいつも彼女に会いに来た。彼女がガラス越しに撫ぜてやるとすぐに飛び去っていくのだけれど、翌朝になればまた同じ場所で彼女を待っている。今朝も飛び去って行った小鳥を見送ると、シャーロットは再びベッドに腰かけた。
 学校に通うようになってから。
 そんな前置きが必要となる変化は、少女の人生に多々存在していた。先ほどの小鳥のこと、友達ができたこと、かわいい靴をおろせたこと、その他諸々。その中でも、彼女の心に引っかかっているものといえば、少し前から見るようになった不思議な夢だった。自分によく似た少女が語る、自分によく似た少女と知らない少年が暮らすとある古びた洋館と、そこで揺蕩う少女の恋の話。

「……けれど、あの人は……」

 身支度を整える前の、リボンも熱も通されてない自身の髪をそっと梳きながら、シャーロットはつぶやいた。
 あの少年は、知らない人のはずだった。目が覚めるまでは。
 あの日、入学前の何気ないお散歩の一ページ。ふと眠気に襲われたシャーロットは、ふらりと入った公園のベンチで眠りに落ちて、そして、目が覚めたとき彼女を見ていた赤い瞳は、確かに――。

「…………そんなこと、あるのかしら」

 夢は現実の記憶を整理するものだから、知り合いが出てきても不思議ではないというけれど。シャーロットが彼と初めて会ったのは、あの夢から覚めたあとだ。夢の中ではぼやけていた輪郭がそのあとすぐ現実で形を得るだなんて、偶然にしては、だなんて。
 ベッドに倒れ込んだシャーロットを、柔らかなマットレスが受け止める。彼女にはめずらしくため息を一つ。そして脳裏に浮かびかけた光景を遮ったのは、使用人の声だった。それに返事をすると部屋に入ってきた彼女と朝の挨拶を交わして、少女の一日は始まるのだ。

 
 授業の合間の昼休み。今日の和やかな天気ならば、日傘を持たなくても外に出られるだろうと判断して、シャーロットは一人花壇に腰掛けていた。
 花を好む母親の影響でたくさんの花々が飾られる屋敷で毎日を過ごしているシャーロットは、美しくかぐわしい花々が好きだった。学校の――それも、花壇を整える人を用意する余裕なんてないこの場所の花々は、庭師がついている彼女の家の庭園には見劣りするけれど。それでも、この素朴に咲く花も、シャーロットのお気に入りだ。まるでなにかに導かれるように、そっと目を閉じかけたときだった。

「……シャーロット」

 花の隙間を縫うように、控えめな声がして。目を開くと、リデルと……その数歩後ろに、まるでこれから争いごとにでも挑むような目をしたマグレヴァーが立っていた。

「ごめん、ちょっといいかな」
「ええ、もちろん」

 なにか話だろうかと首をかしげると、リデルは「僕じゃないんだけど」と少しだけ困ったように微笑んだ。その言葉にさらに疑問を深めていると、リデルは背後に向かって少しだけ――本当に少しだけだけれど、気安い声をかけた。

「……マグレヴァー、ほら」

 その言葉に、名前を呼ばれた彼は長い前髪の隙間から睨みつけてきた。鋭い視線はあの路地裏で向けられたものとなんら変わらず、微かに足が下がってしまう。それを感じ取ったのかマグレヴァーは小さく舌打ちをして、それから、「手」と短く言い放った。

「……え、ええと。ごめんなさい、どういう意味かしら……」
「手。出せ」

 慌てて揃えて出した両手の上に、なにかを握っているマグレヴァーの大きな手が差し出される。痛々しく貼られた絆創膏と、隠しきれていない傷跡から目をそらすようにマグレヴァーを見上げると、彼はまた舌打ちをした。
 そして、躊躇うように開かれたマグレヴァーの手から落とされたものは、見慣れたレースと刺繍が施されたハンカチだった。

「……まあ。わたしすっかり、なくしてしまったものだと思っていたわ。ありがとう、マグレヴァー」

 その言葉は半分嘘で、半分本当だった。
 暗い路地裏で赤黒い色を纏うマグレヴァーに、このハンカチを差し出したことは記憶に新しい。そして、それを跳ね除けられたことも。
 ――生まれて初めてだった。人からあんな風に怒られ、敵意を向けられたのは。あの瞬間、シャーロットの中に存在していたお行儀のいい思考はすべて吹き飛び、そのあとはしばらく驚愕だけが残っていた。それはリデルと別れたあとも、家に帰ってからも同じだった。そのせいで、両親や使用人、そしてハインリッヒには心配をかけてしまったことも思い出しながら、シャーロットはマグレヴァーを見上げた。

「…………俺は」

 あのとき地面に落とされて多少なりとも汚れていたはずのハンカチは、元の白さを取り戻していた。大きな手に雑に握られていたせいか、少しだけ皺が目立っていたけれど。

「お前に謝るつもりはねえから」
「ちょ……!? マグレヴァー!?」

 冷たく放たれた言葉に、リデルが目を見開いてマグレヴァーを見た。予想外だとでもいいたげに赤い瞳をぱちぱちさせるリデルの様子を見るに、彼はなにか言い含めていたのかもしれない、なんてことをシャーロットは考えていた。口を挟もうとするリデルに気がついているのかいないのか、マグレヴァーはさらに言い募った。

「お前みてえな正しく生きてる奴が俺は嫌いだ。大人や権力に頼る方法を知ってるような真っ当な奴が、なによりも」

 初めてのことばかりだわ、とシャーロットは考えた。
 両親を始めとした大人に、権力と能力と矜持を持った公的な大人。なにかあったらそんな人たちを頼りなさいと彼女は言われていたものだから、そんなシャーロットの当たり前を嫌悪している人がいるだなんて思ったこともなかった。つい視線を下げたシャーロットを見下ろして、マグレヴァーは「ただ」と続ける。

「…………ただ……あんときは、八つ当たりだった。お前に怒鳴っても、なんの意味もねえのに」

 歯切れ悪く告げられたかと思えば、ふいと顔を逸らされる。その横顔を見上げていると、リデルが「謝りなよ、そこまで言えるなら……」というぼやきに似た苦言がつぶやかれた。それに素早く反応したマグレヴァーに睨みつけられた彼だったけれど、案外動じずに呆れたように笑っている。再び舌打ちをして、長い前髪の隙間から覗く色違いの瞳が再びシャーロットを見下ろした。

「マグレヴァー、わたし……」
「……んだよ」

 咄嗟に絞り出されたか細い声に、不機嫌そうな返事が返ってきた。シャーロットはささくれ一つもない細い指で、そっとハンカチを撫でた。

「わたしが……その、あなたのことも考えずに、自分の考えを押し付けてしまったのよね。わたしにとっては最善の選択でも、それがあなたにとってもそうとは限らないって……そう、思ったの。……ごめんなさい」

 それはあの日からずっと、頭の片隅に残り続けていたことだ。シャーロットにとって大人とはいつだって正しくて、自分を守ってくれる信用できる存在だった。大人に追い詰められるだなんて考えたこともなかったし、大人に薦められるやり方こそが最善なのだと思っていた。――けれどどうやらその限りではないらしいと、知ることになったのだけれど。寝たきりの少女には広すぎるあの部屋で培われただけの常識は、どうやら穴だらけのようだと十六にしてようやく理解したのだ。
 しおらしく俯いたシャーロットを変なものでも見るように見下ろしていたマグレヴァーは、やがて小さくため息をついた。その表情は憎々しげだったけれど、声色は違って。

「いかにもいい子って感じだな」
「……ちょっと……」

 そんな言い方、と咎めるようなリデルの声を無視して、長い前髪の向こうの瞳が細められる。

「……とにかく! 返したからな」

 一瞬怯んだ彼女に、捨て台詞のようにそう言い残すとマグレヴァーは去っていく。呆気に取られるシャーロットとは対照的に、それを仕方がないなとでも言いたげにリデルは見送っていた。遠くで乱暴に扉が開いて閉まる音がしたかと思えば、再び静寂が訪れる。いまだ目を瞬かせるシャーロットに、「ごめん」という声が届いた。

「その……謝った方がいいって、言ったんだけど」
「いいえ、いいの。わたしがあのとき、怒らせてしまったから……もしかしたら……もうわたしとはお話してくれないのかもと思っていたのだけれど……」

 彼が去っていった方に目を向けるシャーロットは、どう声をかけようかと戸惑っている様子の沈黙を感じ取った。一度目を伏せて、リデルを安心させるように微笑むと、手の中のハンカチをそっと撫でる。

「あなたにも迷惑をかけてしまったでしょう? 謝りたかったし、お礼も伝えたかったの」
「そんな、僕はなにも……! そ、それより、ハンカチ大丈夫かな。結構汚れていたから、その……洗ったんだけど……元通りにはなってない気がして……」
「そんなこと気になさらないで。あなたが洗ってくださったの? ありがとう」

 真っ白で汚れを知らない繊細なレースは、落とす前となにも変わっていなかった。そう伝えると、どこか不安そうだったリデルはようやく笑顔を見せた。同じように微笑んで、ハンカチをポケットにしまった。
 ふと蝶々が飛んでくる。桃色にも赤色にも見えるめずらしい色合いの蝶々は、ダンスに誘うように二人の周りで踊っていて。シャーロットがそっと手を差し出すと、大人しく指先にとまった。ひらりと揺れる羽を眺めていると、「……あのさ」と声をかけられた。空気を震わせたその音に反応したのか蝶々は飛んでいって、シャーロットはリデルへと視線を戻した。

「……シャーロットは、えっと……どうして……」
「――リデル?」
「どうして、あのとき……僕を信じるって言ってくれたの?」

 あのとき、とは、つい先日の路地裏の出来事だろうと確かめなくてもわかった。すぐ答えることができないシャーロットの耳に、様子を伺うかのような控えめな声が続けて入ってきた。

「大人に言ったほうがいいって……シャーロットの言っていることは間違ってなかったし、それに……ごめん、こういう言い方……よくないかも知れないんだけど、わからないんだ。僕たちは会ったばかりで、……あんな風に言い切ってもらえるくらい信用される理由なんて、なにもないし……」

 そう聞かれて思案する。
 シャーロットはいい子だ。大人に愛されて守られている箱入りのお嬢様。そんな彼女だから、自分や周りの身になにかがあったときは、大人に助けを求めるものなのだと思っていた。今だってそうだ。それでも、あのときリデルを信じた理由と言われると――。

「なぜって……そうね。わたしはあなたのことが好きだから。それでは理由にならないかしら」
「…………えっ、えっと……」

 ぴしりと固まるリデルに、シャーロットは柔らかく微笑んだ。

「理由というとうまく答えられないのだけれど……本当よ。自分でも不思議なくらいなの。会ったばかりとは思えないくらい、わたしはあなたのことを……」

 なぜなのだろうと考えて、ふと口をつぐんだ。
 シャーロットはみんなのことが好きだ。家族に親戚に飼い猫から始まって、この街に生きる人々もなにもかも。まだ仲がいいとは決して言えないクラスメイトたちのことだってもちろん好きだけれど、その中でも目の前の彼はなぜか別だった。周囲に向ける好きとは別のなにかが、ずっとシャーロットの胸中にはあった。その答えには、文字の中でしか知らない感情をつい予想してしまうけれど――頭の中の冷静な部分が、そんな甘い気持ちはまだ早いと主張する。そんなことはわかっているけれど、それでも、霧のように体を包んで、視界をヴェールのように遮ってくる不思議な感覚がずっと、彼女の中にあった。
 こんなことは初めてだ。こんな風に誰かに好意を向けることなんて。積み上げられた絆とも、結われた愛ともきっと違うこれに理由をつけるとするならば、そう。

「……運命、なのかしら。ふふっ」

 そういたずらっぽく微笑んだシャーロットの丁寧に巻かれた髪を、春風が揺らした。

 
 ◆


「リデル、そんなに緊張しないで。もう少し肩の力を抜いてくださると嬉しいわ」

 シャーロットはふわりと微笑んだ。その指先は、繊細な意匠が施されたティーカップを優雅に持ち上げている。
 緊張しないでと言われても、と曖昧に笑い返すことしかできない。
 慣れた様子で注文をするシャーロットを前にして、リデルは小さく固まっていた。もし普通の子どもとして街で暮らしていたとしても、足を踏み入れることなどないであろうティールーム。カトラリーも家具もテーブルクロスも、天井を飾るシャンデリアまで、なにもかもが自分には見合わないと萎縮せずにはいられない空間にいる理由は、昼休みに遡る。「そうだわ」と手を合わせたシャーロットが、花のような笑顔で言ったのだ。

「よろしければ、放課後お時間をいただけない? 一緒にお茶でもいかがかしら。あなたと……マグレヴァーも、ぜひ」

 教室に戻ってマグレヴァーにその話をした途端、あからさまに嫌そうな顔をされ舌打ちをされ終わったのだけれど、シャーロットは特にめげている様子もなくにこにこしていた。どうやら行く気がない様子のマグレヴァーのことは置いておき、彼女は期待したような瞳でリデルを見つめてきた。今日は特にやらなければいけないことはないし、それに、「放課後のお茶」という響きにすっかり魅了されたリデルは二つ返事で頷いたのだ。頭の中はその言葉と、いわゆる普通の学生が行うであろうことへの想像だけが担っていたものだから、リデルはすっかり忘れていた。
 シャーロットはどうやら、常識に疎いリデルでもなんとなく感じ取れる程度には住む世界が違うのだと。有り体にいえば、飛び抜けたお金持ちなのだ、ということを。

「ここはね、お気に入りのティールームなの」

 ティーカップを置いた彼女の言う通り、シャーロットはこの場を随分気に入っていることはその幸せそうな表情からも見てとれた。そして、店舗の方からも「特別なお客様」として扱われているであろうことも。
 シャーロットの話や周囲の雑談、目の前の紅茶の味に食器。すべての情報を受け止めきれず、頭の中が混線状態のリデルの食べものの趣味を確認しつつ注文を済ませ、シャーロットは口を開いた。

「こうしてお外に出られるようになったのも、最近のことだから……ここしか知らないのだけれど。ねえ、リデルはこの街に来たばかりなのよね」
「うん。学校をきっかけに……っていう感じ……かな……?」

 本当のことを言うわけにもいかず、リデルは言葉尻を濁して誤魔化した。それに気付いているのかいないのか、シャーロットはぱあっと顔を明るくする。

「そうなのね! わたし、あまり外に出たことがないの。この街の、家と学校までの道しか知らなくて……。リデル、街の外はどのような場所なのかしら。あなたはどんな生活をしていらしたの?」

 ときめきと好奇心が隠せていない様子の彼女に対して、言葉が出てこなくなってしまう。
 どんな場所、どんな生活。それに正しく答えるのであれば、森の中にある外界から隔絶された一軒家で、父親の実験の巻き添えを喰らう日々だったとしか言いようがない。楽しい生活ではなかったことだけが確かだ。リデルは唯一の肉親であるはずの父親のことをなにも知らないし、あの生ける屍のこともなにもわからないままで。父親は行方不明で、実家は燃やされて。記憶の彼方に曖昧に溶けている始まりから、突然訪れた終わりまで、いい思い出の方が少ない。

「……そう、だね……えっと、どんなって言われると……難しいんだけど。あまり人と関わらない場所で、父と二人暮らしで……僕はあまり詳しくないけど、色々研究とかをしていたみたいで、それの手伝いとか……を、していたんだけど」

 口に出してみると、なんとも色のない生活だ。もっと違う生き方があるらしいとなぜか知っていながらも、当たり前を受け入れていたあの頃も、同じように毎日を薄暗く感じていたものだけれど――今こうして自身に光が降りそそぐようになってからは、過去の記憶はじわりじわりとリデルを蝕んでいる。

「ごめん、あまり外に出たことがないのは僕も同じで……」
「あなたが謝ることではないわ。ごめんなさい、わたしったらこういうところがよくないのね」
「そんなこと……!」

 態度には出さないように努めているものの、シャーロットは随分と意気消沈したようだった。そんな風に思わないでほしいと伝えたくても、咄嗟に言葉が出てこない。
 楽しい話はおろかなにも話すことができないのは、父親に教えられた言葉が頭の中にこびりついているからだ。
 ――ネクロマンサーは昔から、その冒涜的とも取れる力のせいで人間とは相容れないものなのだと。だから自分たちは人と暮らすべきではない、誰にも自分たちの真実を漏らしてはいけないと、父親は何度も言っていた。そもそも魔法は文献にしか残っていないものだから、父親がネクロマンサーでそのせいで森の奥に、なんて言い出しても信じられないだろうけれど。魔法も魔力も、人々の間ではもうおとぎ話らしい。それはきっと、目の前の少女にとってもそうだろう。随分と下手な誤魔化しと捉えられたらまだいい方だ。

「……話しにくいことが多いんだ。けど別に、全部が嫌だったわけではないから……色々整理がついたら、聞いてくれないかな」
「ええ、もちろん! わたしでよろしければ、ぜひ」

 シャーロットは表情を明るくしてそう言った。まだ知り合って短いけれど、彼女のこういう素直なところは時折眩しい。なんとなく目を逸らしたくなって、適当な話題を探そうとしていたときだった。お待たせいたしました、と落ち着いた声がしてスイーツが運ばれてくる。
 料理はあまり得意ではない父親の作る、おおよその栄養面しか考えていない料理を食べてきたリデルにとって、スイーツとは未知のものだった。店員への礼もそこそこに、リデルは生地とクレープが何層も重なっているそれを物珍しそうに眺める姿にシャーロットは微笑んだ。

「ミルクレープよ。好き嫌いはないというお話だったけれど、もし苦手なお味だったら教えてちょうだいね」
「うん、ありがとう」

 おそるおそるフォークを通して、思っていたより柔らかいそれを口に運ぶ。

「……!」

 知らない味に知らない食感。口の中に広がる優しい甘さを形容することはできなかった。けれど、見開かれたリデルの瞳の輝きから、シャーロットは感想を受け取ったようだった。おいしいでしょう、と花が綻ぶように微笑んだ彼女に頷いて、リデルはもう一口を切り取った。店内に流れているクラシック音楽に沈黙を任せていると、ついつい食べることに夢中になってしまって。自分の皿が空になりかけた頃に、まるで我にかえったかのようにシャーロットの様子が目に入った。
 普段の所作からの予想通りと言うべきか、彼女は優雅にミルクレープを口に運ぶ。その姿を見ていると夢中になっていた自分を少しだけ恥じるのと同時に、微かな違和感が芽生えた。一口食べてまた食器を動かして、目を伏せて、上品に一口。思わず見惚れてしまうような優雅な姿だ。そんな彼女を見つめていたせいだろうか、シャーロットは顔を上げて恥ずかしそうに頬を染めた。

「ごめんなさい、お待たせして」
「あ、ううん、こちらこそごめん。僕が夢中になっちゃっただけだし。……おいしいね、こんなに甘くておいしいの初めてだよ」
「まあ、気に入ってくださったのね。嬉しいわ」

 そう話す姿は、いつもの彼女となにも変わりはない。だけど、と顔を曇らせたリデルを心配するように小首を傾げるシャーロット。突然こんなことを聞いたらそれこそ迷惑なのかもしれない、と警鐘がなっているけれど、それでも、聞かずにはいられなかった。

「勘違いだったらごめん。……その、少し疲れてたり……しない?」
「……まあ。そう言われたのは初めてだわ」

 シャーロットは目を丸くすると、小さく笑った。まだ半分ほど残っているミルクレープを前に、そっとフォークを置く。ごちそうさまではない小休止だ。

「心配してくださってありがとう、リデル。決して疲れているわけではないの。今日は体調もいいし……あなたとのお食事の席だもの。とっても楽しいわ。ただ、そう見えてしまったのなら、そうね……」

 彼女にしては珍しく、迷うように言葉を曖昧に濁していく。言いたくないことならと口を開きかけたリデルより先に、シャーロットは覚悟を決めたように顔を上げた。

「わたし……お食事が苦手なの」

 そして彼女はそっと、秘密を打ち明けるように囁いた。

「アレルギーだったりで、色々と食べられないものが多い影響もあるのだけれど……食べることが、あまり得意ではなくて」

 それはどうやら、食卓につくことすら苦痛だと言うらしい。
 リデルにはあまり想像のつかない話だった。食べること自体への感情はともかくとして、家の食卓は――リデルを顧みない父親と唯一、向かいあえる時間だったから。特に会話はなく、自分が食べるついでとでも言いたげな態度を彼は隠そうともしなかったけれど。それでも、あの瞬間だけがリデルを支えていたことは確かだ。暗い毎日の中で、食事の時間だけが人との繋がりという温もりを手繰り寄せる細い糸だったのだ。

「お医者様にも少しでも食べるようにと言われているし、最低限の栄養は摂るようにしているのだけれど、どうしても辛かったわ。少し前のわたしなら、こうしてお茶をすることなんて信じられないくらい。食べることが苦手で、食べられないものばかりで。わたしがそんなことばかり言うものだから、両親は無理をして食べなくてもいいと言ってくれて……食卓に座ることもなくなったら、余計に足が遠のいてしまって」

 過去を思い出すように、シャーロットは視線を逸らした。珍しく所在なさげに組まれた指は、ほっそりとしていて不健康だ。

「――けれど、ね。わたしに、誰かとのお食事の温かさを教えてくださった方がいたの。その方のおかげで、こうした余暇のお喋りと一緒のお茶なら、楽しめるようになったのよ。とは言っても、元々食べることを避けていたものだから、少し……その、疲れやすくて……。表に出さないように気をつけているのだけれど、ごめんなさい」
「いや、そんな、謝らないで。僕がじっと見ていたのがよくないし……体調が悪いとかではないならよかったよ。ゆっくり食べて」
「……ええ、ありがとう」

 シャーロットは顔を綻ばせて笑うと、再びフォークを手に取った。
 香り高い紅茶と美しく整えられた店内と、バックグラウンドミュージックに客の話し声。そのすべてに張り詰めていたリデルの肩の力は、気がついたら緩んでいた。
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