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マスターちゃんとホクサイくん

【ザッハーのトルテ】



「マスター! ボクちゃんだよ〜!!」
執務室のドアを開け放つと、マスターは判子の達人になっていた。指サックを装着した親指で大量の紙束を一枚一枚捲り、右手に握った判子をバンバンとリズミカルに押している。
「ノックくらいしなさい」いつも通りに注意されるが、マスターの押印マシーンのスイッチは切れない。「何の用?」
「ボクちゃんお腹空いた〜、甘いもの食べたい! おやつにしようよ〜。キミも判子の達人疲れたでしょ? 休憩休憩〜!」
彼女の執務机の周りをぐるぐると歩き回りながら、ねえねえ〜と呼びかける。すると、紙束を捲り押印を続けていた彼女の手元が、突然ぴたりと静止した。
黒い瞳が、無言でボクを睨み上げる。
あれ、何かまずいことを言ったかな、と思ったのも束の間。彼女は右手の判子を置き、左手で受話器を持ち上げる。慣れた手つきで厨房直通の内線番号をプッシュして、パティシエを呼び出していた。厨房に直通する内線は、この執務室からのみかけられる秘密の番号だ。
「今、ホクサイが部屋に来ているの」名乗りもせずに、彼女は突然喋り始めた。もっとも、厨房に引かれた回線などこの直通電話しかないので、相手が彼女だと分かりきってはいるのだろうが。
「何か甘いものと、コーヒー。……ああ、別に青くしなくて結構よ。時間がかかるでしょう?」
「ボクちゃん青い方が良いな〜」
「本人は青い方が良いとか言っているけれど、気にしないで。出来合いのもので構わないわ。そうね……ザッハーのトルテを持ってきてくれる? デメルじゃない方」
二言三言話してから、よろしく、と彼女は内線を切る。
「ありがとマスタ〜! ザッハトルテかぁ、青いといいなぁ」
「青くないわよ」そう早口で告げた彼女は、じっとりと嫌な視線を、ボクに向ける。「ホクサイ。解剖してきたの?」
「そうだよ〜。何で分かったの?」
「ホルマリン臭い」
「え〜、そう?」袖を引っ張って確かめるが、何も臭わない。「シャワーなら浴びてきたよ」
「でも臭うのよ」彼女はひどい顰めっ面だ。
ホルマリンは、強い刺激臭がする。目や鼻が滲みるような強烈な臭いだ。解剖を行う献体は防腐のためにホルマリン浸けにされるから、解剖室は刺激臭で充満する。おまけに、遺体は死臭も放っている。解剖あがりのボクの身体に滲みついてしまった臭いは、ホルマリンと死臭の半々、といったところか。
マスターはホルマリンの臭いよりも、死臭に敏感なのだと思う。薔薇の傷を負った彼女は、常人よりも死に近い。だからきっと、死の匂いを嗅ぎ分けることが得意なのだ。
「マスターもボクちゃんの解剖を見学しに来ればいいのに〜。そしたらこの臭いにも慣れるよ」
「貴方の解剖教室を? 馬鹿言わないで」ご飯が食べられなくなりそう、と彼女は言った。
それは違う、とボクは思う。解剖に従事した後は、いつもの数倍お腹が空く。食べられなくなるどころか、むしろいつも以上に食べたくなるのだ。それだけ気力と体力を消耗する繊細な作業なのだから。
机上の電話が鳴り響く。厨房からの直電だ。
「はい」彼女は受話器を取り上げる。「もう出来たの? ……ちょっと待って。ホイップはいる?」
受話器を持ったまま尋ねる彼女に、「Ja〜!」と元気な返事をした。できるだけ甘い方がいい。
「聞こえた? ホイップつきでお願いするわ。コーヒーは酸味の少ないブレンドを。ええ、執務室まで」待ってるわ、と電話を切る。
「ホイップは青いかな?」
「青くないわよ」彼女は早口で告げる。空気を循環させるみたいに、鼻先でぱたぱたと片手を振って、呟いた。
「ああ、嫌なニオイ」



召使いが運んできたザッハトルテとコーヒーを、ソファーの前の机に並べる。
数時間前、皮下脂肪に塗れたメスを握っていたボクの右手は、フォークを握る。
チョコレートに浸けられたスポンジは、デザートフォークの櫛状の突起をするすると受け入れる。笑ってしまうほどの滑らかさ。その柔さは、ホルマリン浸けの遺体とは大違い。
トルテのひとかけらをホイップにつけて、口に運ぶ。
「疲れた脳には糖分が最高だね〜」
コーティングのチョコレート。挟まれたアプリコットジャム。そして新鮮なホイップクリーム。糖分のオンパレードだ。くどいほどの甘さが、脳に活力を与えてくれる。
「でも、これは失敗」彼女は眉を顰めながら、ブラックコーヒーを啜っている。「ザッハーのトルテにホイップは、甘すぎるわね……」
「そう?」
マスターが要らないなら頂戴、と彼女のお皿にフォークを向ける。
「全部あげるわ」半分も食べていないそれを、彼女は惜しげも無くボクに差し出した。「甘すぎて、気持ち悪い。腐った果実みたい」
腐敗は、発酵と同じ。
人の死臭は脂肪が酸化した匂い。
鼻から吸い込むと、濃厚なアミノ酸の旨みが、咽や口腔内に広がる。
ザッハトルテの甘さも、これに似ている。
どちらもまとわりつくようにしつこい。
トルテに挟まれた濃厚なジャムは、掘っても掘っても出てくる脂肪を想起させる。
人を解剖するように、ザッハトルテをフォークで解体する作業が、今は楽しい。





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